学友と勿忘草の話

 大学が始まり、怒涛の勢いで時間は流れた。


 早起きも、それまでとはまるで違う様子の講義も、一から文法を叩き込まねばならない独逸ドイツ語も、広すぎる図書館も、先生の研究室の手伝いも、先生が気紛れに提示する文献との戦いも、慣れたとは言わないものの、少しずつそういうものなのだと飲み込みつつあった、五月のそんな頃のことであった。

 私、境涼太郎はいつものように研究室に積まれた本の山やら、標本の瓶やら、様々な物の詰まった大きく立派な棚の硝子戸やらを羽箒で丁寧に掃除していた。


 別段頼まれた作業ではないが、初めて訪れた時には散らかしと埃がどうにも酷い有様になっており、これは誰かが犠牲にならねば改善しない、そして今まで誰もその役を買って出なかった以上、私がやる他にないのだろうと覚悟して申し出た役目である。とは言え、することがあるというのはそれほど嫌なものではない。無為に時間を過ごすよりは、労働と、それに伴う何がしかの(有形であれ無形であれ)喜びを私は重んじる。


 戸の開く音がして、吉野恵三先生が顔を出した。私と、奥で読書中の助手、平坂さんを交互に見る。平坂さんは留学経験もある優秀な研究者ということだが、あの埃を看過していた以上、生活者としては下の下であると現在のところ判断している。


「おお、お疲れ様。涼太郎君もなかなかまめだね。それとも余程掃除が好きなのか」

「先生よりは掃除好きの自信はありますね」


 自宅の書斎も無防備に書籍が積み上がっていることはよく知っている。お嬢さんなどはよく「地震が来たら埋もれてしまってよ。私、お父様を探して瓦礫でなくて本の山を掘り返すのなんて嫌よ」などと小言を言っているほどだ。


「労働などはね、君。希望者が行うのが一番なんだよ」

「はあ」


 私とて希望しているというわけではないのですが、という思いを込めて呟いたが、そういう含意を読み取ってくれる先生ではなかった。


「ところで、君、どうだね。学科の方は」

「今夜は、独逸語の作文で徹夜の予定です」

「語学が苦手か。なあに、実際文献に触れる羽目になれば死ぬ気で覚えるさ」


 付け焼き刃の死ぬ気にはあまりなりたくないので、それまでにはどうにか基礎文法は物にしようと私は心に誓った。


「まあ、それは良い。涼太郎君は真面目だし、繊細に見えて案外と図太さもある。そう途中で折れる方でも無かろうよ」

「折れる?」

「進度について行けなくなる、自己管理に難が生じる、他の物事に目移りしてしまう、悪い友人に影響される……。そんな風に、勉学に身が入らなくなってしまう学生というのは案外に多くてね。特に五月くらいにはよく気をつけないとならない」

「成る程」


 少々引っかかるが、図太いと言うのも褒め言葉なのだろう。恐らくは。


「ただ、君に関して心配なのは、だ。反対にこんな昼日中から研究室に入り浸っていることだよ」

「え?」

「僕は君の口から友人の話を聞いたことが一度も無いぞ、涼太郎君。青春はどうした。全体君は遊びに行くということをしたことがあるのかね」

「友人は、まあ、特には居ませんが。遊びには行っていますよ。釣り堀だとか……」

「もう少し若い遊びをし給えよ」


 先生は眉尻を下げる。余計なお世話です先生、とは流石に言えない。図太いとは言われても、世話になっている相手を前に礼儀をやすやすと踏み躙れる程には、私はやけを起こしてはいない。


「そういう訳だ。掃除はいいから、君、今から食堂でも講堂でも行って、友人を作って来なさい。来週までの宿題!」


 私は中途半端に口を開け、羽箒をだらりと下げた。平坂さんがくつくつと笑っている声が聞こえる。


 思い返すに、これからちょくちょくと先生から投げられる羽目になる難問の、これが最初の一題だったように思う。


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 大体、若い遊びとは何だろう。私はそこから考える必要があった。私の出身は北の山あいの町で、大体が読書をするか、或いは野山で過ごすか、さもなくば家の年寄りと将棋や囲碁でも対局するか、という程度の娯楽で満足をしていた。


 東京には数限りない歓楽があるとは聞いていたが、案内してくれる相手も居なければそこまで辿り着けるはずも無い。お嬢さんはいかにも若いし、趣味も違うだろう。おときさんと先生は年かさ過ぎ、平坂さんとはそれほど親しくはないし、私と同じ型でかなり浮世離れした人だ。結果。


(友人、か)


 確かに、先生が想定する健全な学生生活を行うためには、同輩の友人の存在が不可欠なのかもしれない。

 だが……。私はため息をつく。


 友人とは、どうやって作るのだろう?


----


 母屋でそんなことを相談すると、畳に座ったお嬢さん、吉野弥生さんは腹を抱えて笑い出した。


「いや、冗談事ではないのですよ」

「わかってます。わかっているけど、涼太郎さんは時々本当に面白いから」


 冗談事ではないと言っているのに。私は首を振った。お嬢さんは見ての通りに明朗闊達で、お喋りも達者、行動力もあり、見た目もなかなかの可愛らしさ、という方だ。友人がいないという悩みなど、あまり縁がないのだろう。

 そもそも、四つも下の女学生にこのような内々の悩みを相談することそのものが何と言うか、情けなさの極致という思いもある。私は何をやっているのだろう。


「しかし、先生の宿題ですから、しっかりと取り組まないと」


 お嬢さんの笑いがまた復活してしまった。今日は何を言っても駄目な日という気がする。


「もう。お父様はね、涼太郎さんが真面目だから揶揄からかってらっしゃるのよ。無理にそんなことしなくたって、きっと怒ったりはしなくてよ」


 ふう、と息を吐いて、目尻を指で拭う。


「でも、お友達がいないよりは居た方が楽しいのは確かよね」

「楽しい、ですか」


 私にはある時期を境に少し奇妙な物の見えるようになった目があり、そのお陰もあって周囲に人が居た試しがない。よって、それほどの楽しさを感じたことがないのだが。


「大丈夫よ。涼太郎さんはいい方だし、頭もよろしいもの。きっと大学でいいお友達が出来るわ」

「そう願います」


 お嬢さんはにこりと微笑んだ。


「大体、私とはもうお友達よ」

「は」


 どっと汗が噴き出すような心持ちがした。顔が赤くなったような気もするが、お嬢さんは特に不思議そうな顔はしていないのだから、表には出ていないのだろう。私は私の鉄面皮に、今回は密かに感謝した。


「そう……そうですね」

「そうよ。だから、頑張って。涼太郎さん」


 頑張ろう。ああ、頑張ろう。とても頑張ろう。

 兎に角、そう思った。


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 結論から言うと、私は頑張れなかった。


 否、努力はした。講義の後に話す機会があった相手には出来得る限り親切にしたつもりではあるし、同郷の人間の誘いにも顔を出した。何か都合の良い偶然が起きたりはしないかと、校舎や古書店や下宿街のあたりをうろうろと逍遥したりもした。


 だが、知り合いの数は増えても友人となると難しい。挨拶をして言葉を交わす程の相手はあっても、肩を並べて遊びに行くような親しい人となると、なかなか。それとも、こういった関係を積み上げていかねば友人というものは出来ないものだろうか。となると、先生の宿題の期限には到底間に合わないかもしれない。否、あれが揶揄いの類であることはわかっているが、しかし。


 ああ。私は自分のどうしようもない不器用さを呪いながら、学校の近所の店で蕎麦を啜っていた。


 ふと、騒がしい声がして、どやどや暖簾をくぐり、数人の男が入店してきた。学生風なのと、そうでないのと、入り混じっている。


 よく見ずとも、中のひとり、一際背の高く彫りの深い、詰襟を着た学生は顔を知っていた。独逸語の教室が同じで、一度も話したことはないが、明らかに目立つ男だ。まだ五月というのに休みがちで、おまけに出たと思ったら音読時の発音がやたらと流暢、背高の癖に前に座ってやたらと教師に質問を投げかける、というので妙に印象に残っていた。見た目からして西洋の血が混じっているのだろう。名は確か、奥村直哉。


 彼らは窓際の席に陣取ると、大声で話し始めた。それがまあ、女がどうしたの酒と博打がどうしたの、実に不品行な上、聞いていて不快な言葉の調子の博覧会のよう。おまけにやたらと声が大きい。この店の蕎麦は割合に好きであったが、これでは味も楽しめない。店の者も困っているのではないだろうか。

 私がさっさと店を出ようと、急いで蕎麦を啜り、さて蕎麦湯は飲もうかどうかと少し考えていた時だった。


「境じゃないか」


 張りのある声が響いた。私は嫌な顔をしてそちらを見る。奥村がやけに晴れやかな顔でそこに立っていた。


「境だろう? 独逸語の。こないだ作文が褒められていた」

「奥村君、か」


 何せ先ほどから彼らの心証は最悪だ。お前に呼び捨てにされる筋合いはないぞ、との気持ちを込めそう呼んだのだが、相手はからからと笑う。


「止せよ、君付けなんて。丁度良かった。同級の奴に会ったら頼みたいことがあったんだ。俺は明日は休むから、ノートを後で見せてくれないか」

「ええ?」

「構わんだろ? 代わりに、そうだな。昼飯でも奢るよ。な。頼んだ」


 ばし、と背中を叩かれ、良かろうとも巫山戯ふざけるなとも答える前に、奥村はまた席に戻ってしまった。


 何だよノートって。お前は真面目だよなあ、学士様を目指すんだろ、などとまたぞろ大声が聞こえる。


 何が真面目だ。


 私は腹の中が煮えくり返るのを感じた。あんな不埒な人間に何故私が必死で取った記録を渡さねばならないのか。どうせ休みの理由も街でサボタージュといったところだろう。だが、私には面と向かってあの団体を怒鳴りつける勇気もない。結果、次に奥村に声を掛けられたら断固として断るぞ、とだけ心に決め、店を後にし……そして、彼女と出会った。


 痩せ気味で長い髪をお下げにし、地味な縞の着物を着た娘だった。お嬢さんよりは少しばかり年かさだろうか。顔に少し雀斑そばかすが散っている。血色があまり良くないせいか、何とは無しに幸の薄そうな雰囲気を漂わせたその娘は、蕎麦屋の出入り口の外でちらちらと中を気にして立っていた。中に用事だろうか。だとすれば、今はあまり女性にとって気持ちのいい店内とは言えないな。そんなことを思いながら、目が合ったので軽く会釈をする。向こうもぱっと丁寧に頭を下げた。


「あのう、奥村は……」


 おずおずといった様子で娘は声を掛けて来た。が、語尾があやふやなまままた俯いてしまう。


「いいえ、いいえ。何でもありません。失礼しました」

「奥村直哉なら、中にいたようですが」

「あの、いいえ、いいのです。有難うございます」


 袖で顔を隠すようにして、娘は早足に去ってしまった。その様子をぼんやりと目で追い、何か不審を感じ、そしてはたと気づく。


 娘の足下には、影が無かった。


 昼日中から、背中がぞくりとするようだった。近頃は時折離れで見かけるあの少年以外はそれ程おかしな物は見ないでいたから、不意打ちを食らった気がした。


 あれも、死んだ人間か。それも、奥村に所縁の。

 ちらりと店を見る。例の団体のゲラゲラと笑う声は、戸越しにもよく響いて聞こえた。

 伝えてやる必要もあるまい。私はさっさと歩き出そうとし、そして娘が何かを落としていったことに気づく。


 小さな花が数輪、宝石のように青く地面に転がっていた。


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「あら、綺麗な勿忘草わすれなぐさ


 机の上に置いた花を、お嬢さんは直ぐに見つけ、感嘆された。学校帰りで黒のセーラー服姿も清々しい。


「そう言う名前ですか」

「私知っていてよ。昔恋人のためにこの花を摘もうとして、川に落ちた可哀想な男の方がいらしたのですって」


 私を忘れないで。溺れながらそう恋人に叫んだ、祈りのような名なのだと教えて頂いた。成る程、お嬢さんのような少女の好みそうなロマンチックな逸話だ。


「涼太郎さんは、どうしてまたお花なぞ持ってきたの?」


 ここで、あなたに差し上げる為ですよ、などと気障なことをすらすらと言えるようであれば私の人付き合いも少しは改善されようものだが、生憎そんなことをサッと思いつくようには出来ていない。お嬢さんも、私がそんな気の利いた人間だとは端から期待していないであろう。


「死者らしき人が、落としていきました」

「何か出たの!?」


 お嬢さんは好奇心で全身を一杯にして尋ねられる。私は手短に、先ほどの話をしてみせた。


「まあ、じゃあ、それは恋愛譚なのじゃないかしら。それとも復讐譚?」


 お嬢さんの想像力及び頭の回転の速さときたら驚くほどで、直ぐにあり得そうな物語を拵えてしまう。


「復讐譚ですか」

「そうよ。ずね、その奥村さんと勿忘草の君は恋人か、婚約者同士だったのね。そして、君が亡くなられると、奥村さんは生活が荒れて、悪い方とつるむようになって、そして他の、あまり良くない女の方とねんごろになってしまうの」

「はあ」

「勿忘草の君は、裏切られたと思ってその恨みでこの世に甦り、奥村さんへの復讐を果たさんとする。『私を忘れることなかれ愛しき君よ』。そういう筋書きよ」

「陰惨だな」

「でも、それだと少し可哀想ね。そうだわ、こう、首を締め上げる時になって切々と奥村さんは言うのよね。『心得違いこそ起こしたが、常に胸に在るのは君の面影のみ。君の手に掛かり息絶えるのであれば悔いは無いのだ』そうして二人は天国で」

「お嬢さん、お嬢さん」


 私は呼びかける。お嬢さんは小説と観劇がお好きで、どうも熱が入るとのめり込みすぎの気が在る。


だ奥村は生きています」

「まあ」


 お嬢さんは黒い目をぱちくりとする。


「嫌だ、お話が作れると思ったらつい。知らない方と思って失礼なことをしちゃった」

「なかなかの大ロマンスでしたが、少しばかり早計でしたね」

「そうよねえ。ううん、流石にやり過ぎだわね」


 お嬢さんは腰を下ろし、おときさんが持ってきてくれたどら焼きをもぐもぐと口にする。


「でも、実際幽霊が追い掛けているのでしょう。奥村さんは危なくは無いのかしら」

「……まあ、そうですが」


 そうとは言え、第一の印象が最悪な相手に対してそれ程に心を配ってやるというのはどうも気が進まない。だが、あの場に居合わせなかったお嬢さんにその辺りの機微を察しろというのも無理な話だ。


「次に会った時、それとなく聞いてみようかと思いますよ」

「それが良いわ! 涼太郎さんは矢っ張り親切ね」


 止めて下さい。そんなことは無い。無いのです。お嬢さん。

 私は少しばかり項垂れた。


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 だが、『勿忘草の君』との再会は思っていたよりも早く起こることとなった。その日の夜中だ。翌日の予習が漸く終わって伸びをしたところで、ふとこつり、と縁側に何かがぶつかる音がした。私は少し嫌な予感を覚えながらそっと障子を開ける。すると、月明かりに照らされ、しんと静まり返った庭先にじっとあの娘が立っていたのだ。


 足下は初夏の勢いに伸びた草であるから、影の有る無しは判然としないが、ぼんやりと闇の中に立つその様子は、確かに幽冥の境を乗り越えた果ての者、という、どこかぞっとさせる様子があった。娘はお辞儀をすると、さくさくと草を踏んでこちらに歩み寄ってきた。


「夜分遅くに失礼致します。あの、あなたが昼間私をご覧になられていたので、藁をも縋る思いでこちらに参りました」


 丁寧な挨拶だ。怨霊の類とはとても思えなかった。


「奥村直哉をご存知ですね」

「まあ、はい」

「こちらの物を渡して欲しいのです。お願いはそれだけです。どうか」


 手を差し出された。私は覚悟してそれを受け取る。どうやら縁は巡り巡ってしまったらしい。ここまで来たら、無理に逃れようとする方が拗れる。


「有難うございます。どうか、くれぐれも宜しくお願いします」

「あなたは、奥村とは、どのような」


 娘は頷いた。


「私、奥村芳佳よしかと申します。直哉の、妹です」


 ごう、と一際強く風が吹いた。思わず目を閉じ、また開くと、『勿忘草の君』改め奥村の妹はもう何処にも居なかった。


 握った手をゆっくりと開く。小さなネクタイピンが手のひらの中に在った。勿忘草のような色の土耳古トルコ石……模造のようだが、兎に角空色の石が嵌った銀のピンだった。


 翌朝庭を見ると、そこには幾輪もの青い花が散っていた。私はお嬢さんが騒がぬうちにと、それをそそくさと片付けた。


----


 その日、宣言通りに奥村は講義には出なかった。私はいつも通りにノートを取り、熱意を込めて聴講した。ただ、講義を聴きながら、少しだけ先生の言葉を思い出した。


『進度について行けなくなる、自己管理に難が生じる、他の物事に目移りしてしまう、悪い友人に影響される……。そんな風に、勉学に身が入らなくなってしまう学生というのは案外に多くてね』


 あの柄の悪い連中の中に居る奥村を思い浮かべた。奴も、そんな岐路に立って居るのだろうか。だとしたらその場合、ノートを見せてやることは、彼を勉学の道に戻すのと、付け上がらせて余計に不味い状況を招くのと、どちらの効果がより強いと言えるだろうか。


 私にはわからなかった。未だに奥村に対してはもやもやとした感情が残っていたが、だが、芳佳嬢の表情は実に真摯で、あんな顔をして想われる兄がそんなに悪い人間だろうか、という思いもあった。

 私は、彼に話を聞かねばならない。「brauchen必要」と板書を写し取り、そう心に思った。


----


 その日は、自然科学の講義で小論文を執筆する必要があり、私は遅くまで図書館に籠っていた。守衛に肩を叩かれ、しょぼついた目を窓に向けると、外はもう薄暗い。慌てて資料を借りると、学内の鬱蒼とした木々の下を駆け出した。先生には遅くなる旨を伝えてはあるが、まさか閉館時間までかかるとは思わなかった。腹がぐうと鳴る。早く帰っておときさんの美味い料理が食べたい。

 そうして、門のあたりまで来たところで、ぼんやりとした人影が見えた。

 奥村芳佳嬢だった。


 彼女はすっとガス灯に薄く照らされた道を指差した。意味はすぐにわかった。


「……明後日、また独逸語の講義が在ります。その時ではいけませんか」

「今、お願いしたいのです」


 どこか厳しい顔と口調で、彼女は言う。


「お願いします。兄を、助けて下さい。私には出来ない。この世の方でないと」

「努力しますが、しかし……」

「お願いします」


 深々と、彼女は頭を下げた。私は、頷かざるを得なかった。それからまた、彼女にここまでさせる奥村に対してむらむらと怒りが湧き上がってきた。何様だ。あいつは。


 そして芳佳嬢は、ぱたぱたと小走りに駆け出した。私はそれを追いかける。門を離れ、やがて道は湯島へと差し掛かる。天神前を通り過ぎ、艶やかな光の溢れる花街へ。私も、初めて訪れる街だ。


 華やかではあるが、どこか猥雑で酒の匂いがする街の空気にそぐわぬ、清純な様子の芳佳嬢は、一軒の小汚い居酒屋の前で立ち止まり、またすっと指を差した。この中に奴は居るらしい。中では何だか男女の歓声が上がり、宴たけなわといった様子。そっと戸を開け様子を見ると、居た。例の柄の悪い奴らと、それから奥村が、酒に顔を赤くして、芸者らしき女性と騒ぎ呑んで居る。私は顔を顰め、そして酒精と白粉臭い空気を吸い込み、思い切って戸を開けた。


「いらっしゃいまし、おひとり様で……」


 店主が辞儀をする前を通り過ぎる。つかつかと中央の席に向かう。やがて彼らは何事かとこちらを見遣った。


「……境?」


 私は、だらしなく着崩れた喪服姿の奥村を見下ろすと、握っていたあのネクタイピンを卓に叩きつけるように置いた。


「芳佳嬢からの届け物だ。確かに渡した」


 しん、と店中が静まり返る。私は踵を返すと、そのまま店を後にした。宴の勢いも盛り下がったろうが、知ったことではない。怒りの方が恥ずかしさを上回っていた。芳佳嬢はもう姿を消していた。花街にも興味は無い。そのまま元来た方角へと引き返し、先生のお宅へと帰ろうと……。


「境!」


 ばたばたと縺れるような足音と共に、奥村が走り寄ってきた。


「おい、待て、これは一体何だ!」

「知らん。私は頼まれただけなんだ」


 急いだが、悔しいことに脚の長さが違う。直ぐに追いつかれ、肩を掴まれた。


「何故芳佳を知ってる」

「昨日、偶々たまたま知り合った」

「偶々って、お前、芳佳は!」


 奥村は顔を歪めた。今にも泣き出しそうな顔だった。


「二ヶ月も前に、死んでいるんだ。水の事故で!」


 私は頷いた。


「説明をするのも面倒だが、私には、その、そういう物が見えることが在る。そういう目が在る」

「本当に、会ったのか。いや、わかる。会った筈だ。これは芳佳が俺に……いや」


 奥村はまくし立ててから、少し息を整えた。


「なあ、どこかに入って話そう。俺はもう頭がどうにかなってしまいそうだ」

「…………」


 奥村の目が、時折光の加減で勿忘草のような色の光を宿すことに、私はその時気付いた。その真摯な光は、彼の妹が私を見つめた時の目とよく似ていた。私は首を縦に振った。

 そうして、出来る限り客の居ない、静かな居酒屋の片隅に、私達は席を構えた。


「……芳佳は、俺の、母親違いの妹なんだ」


 杯を傾けながら、奥村は、目を伏せた。


「道理で似ていないと」

「俺のお袋は混血で……まあ、見りゃあわかるだろう」


 それから、彼は堰を切ったように語り出した。彼と、妹の物語を。


----


 芳佳とは普段からそれほど仲が良かった訳じゃあ無い。悪くも無かったが、まあ、時々揶揄ってやっては怒られるような、普通の兄妹だったと思うよ。


 ただ、俺が大学に進むことが決まった時には、やけにはしゃいでいたな、あいつ。親父が法律家で、俺も法学をやって、後々跡を継ぐっていうことが嬉しかったのかもわからん。まあ、少し複雑な家だったから、もしかしたらいずれ俺が出て行くと思っていたのかも知れない。


「法廷では、兄様も父様のように、スーツにネクタイを締められますか」


 なんて言って、言葉が硬いんだ、あいつは。

「そしたら何だか不思議な感じですね」だと。何が不思議なことがある、欧米の服なんだから、俺が似合わない訳が無いだろう、と言ってやったら、こうだ。


「なら、私が何か兄様に贈り物をします。スーツに合う物」


 気が早いんだよ。あいつは万事そうなんだ。子供の頃から、遠足の準備を二日前にはやってたって具合だぜ。俺がスーツを着るのは卒業してからだと言っているのに、「それまで持っていればいいの」とか何とか……。


 貰えなかったんだ。その贈り物は。友達と、暖かくなってきたからと山に遊びに行って、足を滑らせた。川はまだ冷たくて、深くて、流れも速くて、だから、どこにも見つからなかった。靴だけが途中の石に引っかかっていた。


 何日も経って、もう駄目だろうと皆が諦めて、それで俺は、芳佳の部屋を探した。あいつは準備が良いから、贈り物があるなら絶対に机の引き出し辺りに用意してる筈なんだ。だが、無かった。

 考えられるのはひとつ、あいつ、山遊びの荷物に贈り物を詰めて行ったんだよ。どういう心算つもりか知らんが。それで、どこかに行っちまった。芳佳があの世に持って行った筈の贈り物が、きっとお前が届けてくれたこいつだよ。間違いない。


 ……今日は、あいつの月命日だったんだ。だから講義も休んで、この格好で、それで、だんだん辛くなってきてな。連れとこうして飲みに出て……。


 ……芳佳。


----


 怒涛の如き奥村の話は、ようやく一区切りが付いた。とはいえ、流石に私も神妙な気持ちで耳を傾けていた。多分、この兄妹は自分たちが思っていたよりもずっと、絆が深いふたりだったのだろう。


「奥村。芳佳さんは今日、お前を心配して私をここに寄越したようだった」

「……心配か。そうだよなあ」


 卓に突っ伏しながらも、しっかりした声が返ってくる。


「俺だってわかってるんだよ。あいつらとつるんだって碌なことが無い。だが、何だか折れちまってな。あんなに喜んでくれた芳佳がもう居ないのに、俺が勉学に励む意味とは何だ?」

「芳佳さんは居る」


 奥村は頭を上げた。


「私が思うに、この世とあの世は、母屋と離れのような物だ。間は渡り廊下で繋がって居て、そこを私たちはゆっくりと歩いている。走り抜ける者も居る。そして、時々、逆に歩いて行く者とすれ違う。そう言うこともある。今回がそれだ」

「幽霊ってことか」

「そう呼んでも良い。居る場所が変わるだけだ。皆同じ家に居る。そのうちまた会えたり、会えなかったりするだろう」


 私は頭を振った。何だか今日は喋り過ぎている。そして気がつくと白い銚子が卓に幾つも並んでいて、これが原因かと思いつく。


「芳佳さんは、去る時いつも、勿忘草の花を残していった」


 私を忘れないで。それは、見た目よりもずっと心弱い兄への何よりの祈りでも、励ましでもあったろう。私を忘れないで。子供の頃からずっと一緒だった私を。あなたの進む道に誰よりも喜んだ私を。


 奥村は、いつの間にかぼろぼろと涙を溢していた。情けない奴だと思うが、まあ、場合が場合だ。見て見ぬ振りをしてやる。


「忘れる訳が無い」


 ゆらゆらとする視界の中、一瞬、窓の向こうに芳佳嬢の笑顔とあの丁寧なお辞儀を見たような気がした。


「忘れる訳が無いだろう」


 号泣する奥村の声を子守唄に、私はゆっくりと浅い眠りに落ちていった。


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「大変ご心配をお掛けしました」


 翌日、がんがんと酷い頭痛に襲われながら、私は深く頭を下げた。先生が苦笑する。横のお嬢さんはずっとおかんむりだ。


「何、まあ、男子のことだ。そう危ない目に遭っては居ないと思ったが、どこかしらで電話くらいしなさい」

「そうよ! 私は心配してよ」


 また頭を下げる。正直なところ、二日酔いにこの姿勢は気分が悪くなるのだが、今回ばかりは私が悪い。目の前の事象にかまけ過ぎた。


「しかし、あの涼太郎君が珍しいね。一体何をしてこんなことになったんだい」

「いえ、その」


 説明を一からしては長くなる。芳佳嬢の話も蛇足だろう。どう言えば端的に表現が可能か……。

 私は閃いた。


「その、新しい友人と話していた結果、相談になり、その勢いで飲み明かして居りました」

「おや」

「まあ」


 先生とお嬢さんが、揃って目を丸くする。

 嘘は吐いては居ない。次にノートを貸してやる約束をした。それから、今度寄席にでも行こうなどとも話した。こちらの勝手な思い込みかもしれないが、これは、友人と言う物では在るまいか。

 私は、少しばかりむず痒い気分になりながら顔を上げた。


「……宿題は、どうやら達成出来たようです。先生」

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