大正幽歩廊

佐々木匙

百花譚

先生のお宅と侘助椿の話

 これから、お世話になる予定の先生のお宅に、十六歳になるお嬢さんがいらっしゃると知ったのは、まさに上京したその日、発着場でお二人の出迎えを受けたその時だった。


 先に拝見していた写真と同じく、口髭を蓄えた少し髪の薄い先生が手を振る横に、ひよこの羽毛のような柔らかい黄色のワンピースを着た澄まし顔の細身な少女が立っていた。初めは他の誰かを迎えに来た別口の人だと思い込んでいた。だから、先生が彼女に話しかけ、私と引率の叔父の方を指差した時には心臓が跳ねたものだ。

 断髪で、何でもないように洋装を着こなしたあどけない少女は、田舎から長く列車に揺られてようやく都会に上ってきたばかりの、よれた着物姿の私の目には、ひどく美しく垢抜けて見えた。

 言ってしまえば、その瞬間にお嬢さんは私の中の憧れの東京そのものとなったのである。


「境涼太郎君だね。ずいぶん揺られたろう。気分は大丈夫かね」


 先生、大帝大生物学助教授の吉野恵三先生は、両腕を広げ、気さくな口調でそう話しかけてくださった。私は大丈夫ですと手短に答えた。実際、列車の揺れはさほど辛くはなかった。あまり話の弾まない、そのわりにやたらに話しかけてくる叔父との時間がなかなかに苦痛だったのと、それから、もうひとつ別の理由……そこらをずるずると歩いている、私にしか見えぬ轢死体の姿のせいで少しばかり気分は悪かったけれど。


「ともかく、荷物も重かろう。その辺りで昼でも食べて、それから都電で家に向かうとしようじゃないか」


 先生は少し早口で喋り、勝手に話を進める癖があり、それはこの初対面の時からまるで変わらない。今では慣れたものだが、この時はよくわからないままに木偶のように頷き、先生がくるりと踵を返したのを慌てて追いかけようとした。


「おっと、紹介を忘れていたよ。すまんすまん、うちの娘の弥生だ。どうも駅に来たがって、仕方ないから連れてきた」

「吉野弥生です」


 お嬢さんは、ぺこりと礼儀正しくお辞儀をした。どこかお転婆な風情があったのは、頭を上げる様子が起き上がり小法師のように勢いが良かったせいだろうか。

 お嬢さんは屈託なくにこりと笑った。


「よろしくお願いします」

「境涼太郎です。どうも……」


 後から知った話だが、この時の返事が少々ぶっきらぼうだったのと、昼食の間ほとんど喋らなかったことのせいで、お嬢さんはしばらく私をごく冷静な孤高の人間だと勘違いしていたらしい(「だって、眼鏡を掛けた方ってみんな頭が良さそうでつんとして見えるんですもの」だそうだ)。実際は普通の田舎者が、大きな駅舎やらごった返す人混みやら、先の轢死体、ふわふわと飛び交う火の玉、(これも私にしか見えない)、そこに現れた先生とお嬢さんやらに圧倒され、へどもどしていただけだったのだが。


「先生、それでは涼太郎をよろしくお願いします。少し変わった甥ですが、まあよく働きよく学ぶ人間なのは確かですので」


 昼食後、叔父は先生の家の玄関先で別れた。別れること自体にはそれほど未練はなかったが、これからひとりなのかと思うと心細さはあった。生まれて初めて食べたオムライスの味を反芻しながら、私は意を決して吉野家の敷居を跨いだ。


「お邪魔いたします」


 先に靴を脱いでいたお嬢さんがくるりとこちらに向き直り、いらっしゃい、と明るく言ってくれたことが、何より有難かった。


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「君の部屋は、こちらだよ」


 先生が指差したのは、母屋から伸びる渡り廊下を通った先の、小さな離れだった。私は少しほっとする。やはり、うら若いかわいらしいお嬢さんとひとつ屋根の下というのは少し……良くない、と思う。いや、私としては田舎者なりに紳士らしく振舞うつもりはあるのだが、あるのだが、何らかの望まぬ事故があってからでは遅いのだ。


「長く使っていなかったんだが、これを機に片付けた。好きに使いなさい」

「有難うございます」

「本当は私の秘密基地にしたかったのに」


 お嬢さんがふざけた様子で膨れてみせる。


「でも、涼太郎さんに譲ってあげる。押し入れにはきっと古い面白いものが沢山あってよ。お着物だとか、それから……」

「弥生、まずは涼太郎君に荷物を置かせてあげなさい」


 先生が遮る。お嬢さんははあい、とつまらなそうに返事をした。私は頭を下げると、お手伝いの初老の婦人に連れられて離れへと向かった。

 婦人はおときさん、という。小柄で柔和そうな声音の人だった。この人の料理のおかげで生来やや虚弱だった私が、夕飯では白米を必ずお代わりするほどになるのだが、それはまあ後の話だ。


「先生もおっしゃってましたけども、中はお好きに使っていただいて結構ですよ。生き物と音楽は言ってもらわないと困りますけれど」

「生憎、犬は大の苦手で。楽器や詩吟の心得はないですね」

「なら安心」


 おときさんはくつくつ笑うと、鍵を開けた。キイ、と少し軋む音がした。足を踏み入れる。静かだ。母屋の音もほとんど聞こえない。今更だが、都内にこれだけの家を構え、書生も置ける吉野家の資産について少し考える。我が家も勉強だけが取り柄の次男を東京の大学にやれる程度には余裕があったわけであるが、しかし……。

 その時、ぴん、と何かに、腕あたりに結ばれた糸を引っ張られるような気持ちがした。


「こちらとこちらの二間がありますから。要り用な物があればおっしゃってくださいね。厠もあります」


 寝床と、あとは勉強部屋といったところだろうか。少し年季の入った文机が用意してあった。だが、私は未だ続く妙な感覚の方に気を取られている。


 何かが、こちらを見ている。


 振り返る。後ろには誰もいない。だが、確かに誰かがいた。残り香のような気配だけが、そこに漂っていた。


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 我が家に、父が教鞭を取る大学で学ぶという学生さんが訪れたのは、四月に入ってすぐのことでした。どんな方かしら、毎日顔を合わせるのだから、仲良くできると嬉しいのだけれど、そんなことを思って私は父にねだり、上野駅まで迎えに行ったのです。

 遠くから列車に揺られてきた学生さん、境涼太郎さんとおっしゃる方は、眼鏡に袴姿のいかにも書生さんといった格好。口数が少なくて、俯きがちの方でした。前髪を少し長くしていて、もうちょっとさっぱりさせたらだいぶ男振りが上がるのではないかしら、などと勝手なことを思ったものです。


 我が家に着いた後も涼太郎さんは、疲れていたのでしょう。夕飯を食べて暫くすると、すぐに割り当てられた離れに戻ってしまいました。それでも父はなんだか涼太郎さんが気に入った様子で、骨のありそうな学生だよ、などと言っておりました。骨のない学生とはどのようなものでしょう。私は蛸の親戚を想像して、ひとりで可笑しく思ったりなどしていました。涼太郎さんのことはまだよくわからないけれど、これから仲良くなればいいのだと、そう思っておりました。


 私と涼太郎さんにとって、大きな出来事が起こったのは、その次の日のことでした。


 朝、おときさんが呼びに行った時、涼太郎さんは既にぱちりと目を覚まして、しっかりと着替えていたのだと言います。


「弥生さんも少しはお見習いになってくださいな」


 おときさんは優しい方ですが、子供の頃から面倒を見ている私に対しては、少しばかり冗談で意地悪なことを言ったりもします。

 実際、私はその日、おときさんが呼びに来てからしばらく、新しい住人のことも忘れてお布団の中で微睡んでいたのですから、それは言われても仕方がないのかもしれませんね。


 ともあれ、私が普段のお着物に着替えて茶の間に出てきた時には、涼太郎さんは少し緊張した面持ちで礼儀正しく下座についていらっしゃいました。


「お早うございます。……お嬢さん」


 少し迷ってから、私のことをそう呼ばれました。お嬢さん。いい響きです。なんだか、いいところの方になったよう。私も笑って返しました。


「お早うございます」

「あの、何かお手伝いすることはありませんか?」

「さっきからどうも気にされてるんですよ、涼太郎さんは」


 おときさんが、お盆にご飯とお味噌汁、それと鮭の切り身を乗せて顔を出します。


「力仕事の時はお呼びしますから」

「そうよ! 今日明日くらいまでは涼太郎さんはお客様なんだから、ゆっくりしていてもらわなくっちゃ」

「はあ」


 あら、と私は気付きました。涼太郎さんの目の下には少し隈が出来ているようです。やはり慣れない寝床で落ち着かなかったのかしら。私もお茶を運びながら思いました。早く家に親しんでくれるといいのに、と。


「先生はお早いんでしたね」

「そうよ! お休みだっていうのに、調べ物があるんだってもう出て行っちゃった。そのうち涼太郎さんもきっと連れて行かれてよ。覚悟してね」


 入学式はあと二日ほど、講義が始まるのはさらに先というのに、父はいつでも忙しげにしている人です。

 涼太郎さんは初めて、薄く笑いました。


「それは、楽しみです」


 ああ、この人も父と同じ類の方だ。私はそう思いながら、塩の効いた鮭を口に運んだのでした。


 朝食は、静かに進みました。一応まだ勝手知らぬ仲の方ですから、精一杯の慎みを見せたわけですが、内心ではもう涼太郎さんに聞きたいこと話したいことがたくさん、ぐるぐると渦を巻いておりました。涼太郎さんは涼太郎さんで、なんだか時折こちらを物言いたげな目で見るのです。それが気になって気になって気になって、いつもはほんのちょっとだけしてしまうお代わりも、その日はなしになりました。


「あら、弥生さん、もうよろしいのですか?」


 ……おときさん、余計なことは言わなくて良いのよ。私は少し顔を赤くして食器を片付け、涼太郎さんもそれに続き……もう一度腰を下ろした時、涼太郎さんが思い切ったようにこう切り出してきたのです。


「お嬢さん、あの、あちらの離れには、何か曰くがあったりはしませんか?」


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「……曰く?」


 お嬢さんは目をぱちくりとさせた。ああ、やはり妙なことを言っているだろうか。


「そうです。ええと、何か不審事があっただとか」


 順を追って話そう。

 私は昨晩、視線を感じながらも荷物を解き、有難いくらいに柔らかい布団を敷いて眠りについた。つこうとした。その途端、耳元で何か恐ろしい声を聞いた。目を開けるとそこには何かぼんやりとした影のようなものが見えたのだ。


 初めは、部屋の中の物の見間違えかと思った。次に、強盗の類を疑った。だが、どう見てもそれは生きた人には見えず、何よりこちらに危害を加えてくる様子はない。それでいて、なんとも恐ろしい空気を身にまとっており……微かに低い唸り声がした。


 先生には恐らく家人が伝えているかと思うが、私にはひとつ、妙な癖があった。癖、というよりは、目がおかしいのだ。勉強のし過ぎで頭が参ったのだ、と兄などには言われるのだが、ともかくある一時から急に、私の目には他の者には見えないような物が映るようになった。眼鏡と前髪で多少誤魔化してはいるけれど、どうも東京に来てからもこの目はおかしなものばかり見て取る。上野駅の人混み、あの中には何人死者が混じっていたことだろう。


 他の人間にはまるで見えないものであるから、当然私はいつもおかしなことを言い出す奴、という扱いになる。ここでも、きっとそうなのだろう。私は諦念とともに言葉を細く吐き出した。


「……昨日、その、不審な影が私の寝床に現れました。もしかすると、死者の類が……」


 何と言えばいいのか。化けて出たとでも? 私の物思いをよそに、お嬢さんはぽつりと呟いた。


「……ええと、幽霊、か何か? それは、もしかすると」


 その時。悲鳴とともに大きな音が台所から響いた。


「おときさん!?」


 お嬢さんがぱっと身を翻す。私もそれに続いた。


「ああ、すみません、私は大丈夫なんですけど、吊り棚が」


 おときさんの足元には、壁に吊られていたと思しき木の棚と、上に乗せられていた箱の類が無残に横たわっていた。


「釘が古くなっていたのかしら。危ないわねえ」


 お嬢さんはぽっかりと空間の空いた壁を見る。私は一歩進み出た。


「あの、直しましょうか」

「あら……」


 おときさんは少しだけ逡巡するが、自分の手には負えないと判断したのだろう。申し訳なさそうに頷いた。


「昨日の今日で恐縮ですけれども、お願いします」

「こういう時のために置いてもらうわけですから」


 私は袖をまくった。やることがあるというのは、良いことだ。遠慮をせずに済む。


「私も、私もお手伝いしたいわ」

「弥生さんは、お友達となんだかお約束がおありではありませんでしたっけ」


 さっ、とお嬢さんの顔色が変わった。壁の振り子時計を見る。


「いけない! 遅れるところだったわ!」


 ぱたぱたと足音を立てて部屋へと駆けていく。このお嬢さんにはどうやらそそっかしくて、大雑把なところがあるようだった。少し遠くから声だけが響いた。


「涼太郎さん! 幽霊の話は後で聞かせてね、きっと、きっとよ!」


 はい、と答えたものの、お嬢さんの耳には届いたろうか


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 迷った。


 棚を直したついでに台所を少し片付けて、ついでに調味料などを少し買いに行くことになった、のはいいのだが、何分、初めての街に初めての道、勝手もわからぬ東京の通りだ。ずいぶん小綺麗に整えられた家や庭、それでもあちこちに茂る、故郷とは少し違う様相の緑をきょろきょろと見ていたら、いつの間にか先生のお宅がわからなくなっていた。急ぎの買い物ではないのだから、どこかで道を聞けば良いだろうか、と考えあぐねていた時のことだ。


 急き立てるような勢いで吠える犬がいた。瀟洒な洋館、開いた門の陰で、種類は知らないが洋犬が、むやみな勢いで私に対して吠え猛っている。

 うわ、と思わず声に出ていた。手持ちの紙袋から瓶が落ちかけ、支える。腰が引けているのを感じる。襲いかかってきたとして、逃げられるだろうか。私は、じりじりと後ろに下がる。これだから犬というやつは……。


「涼太郎さん?」

「こら、三郎! 吠えるんじゃありません!」


 少女の声がふたつ、聞こえた。ひとつは聞き覚えのある声で、私の名を呼び、もうひとつは犬を叱っている。

 よく見れば犬の首にはしっかりと鎖が繋いであり、飛びかかられる心配などはなかったわけだ。故郷では大概放し飼いされていたもので、意味もなく動揺してしまった。私は汗を拭った。


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 私はその時、ずいぶん驚きました。遊びに行った先の犬の三郎が、妙に吠えているからと様子を見てみれば、なんと吠えられているのは涼太郎さんだったのですから。

 お名前通りいつも涼しい顔をしている方なのですけど、その時はいつになく焦った様子で、何というか……予想外にかわいらしかった、という印象でした。荷物を抱えてらっしゃいましたから、お買い物帰りなのでしょう。


「使いに出たら、迷ってしまって。難儀していました」

「そういうこと。お迎えにでもいらしたのかと思ったわ。私もそろそろ帰りましょうと思ってたの」


 お友達の敦子さんには先ほどたっぷり涼太郎さんのお話をしていましたから、あら、この方がそうなの、という顔で興味深げに見ております。


「それじゃあ、私、涼太郎さんをお送りしていこうと思うわ」

「そうね。この辺りは似たお宅が多いから、また迷って吠えられないようにしないといけないわね」


 敦子さんがクスクス笑うと、涼太郎さんは少し小さくなります。やっぱり、どこかかわいらしい。男の方にこんなことを思うのは、おかしいかしら? ともあれ、私は三郎の頭を撫でてやってから門を出ました。


「行きましょう、涼太郎さん」

「はい」


 敦子さんは小さく手を振って、私たちを見送ってくれました。私たちはふたり、昼下がりの街をのんびりと歩き出しました。


「涼太郎さんは、犬が恐ろしくて?」

「……駄目ですね、昔噛まれて、まだ少し傷が残ってます」

「それは無事で何よりだったわ。三郎も知らない方に滅法吠えるものだから。馴れるといい子なのだけど」

「吠えられるともういけない。竦んでしまいます」


 私はくすりと笑っては、失礼だったかしらと強いて真顔になりました。涼太郎さんは眉を下げます。


「本当に困るんですよ」


 私は真顔を保とうとして……駄目です。どうしても笑ってしまいます。多分、御本人にとっては笑い事ではないのでしょうね。私が、どうしてもお注射に怖がってしまうのと同じで。でも、真面目そうな涼太郎さんが困ってらっしゃるのは何とも言えずに面白かった。


「ごめんなさいね、ふふ、でも、何だか……そういうお話を聞けて嬉しいわ」

「そういうものですか」

「だって、仲良しの感じがするでしょう。これからお家で一緒に暮らすんだもの、私、涼太郎さんのお話が沢山聞きたいわ」

「……それほど、話すこともないかと思いますが……」

「幽霊のお話も?」


 昼の明るい陽に照らされているはずの涼太郎さんのお顔が、ふとなんだか不思議な影を帯びたようになりました。私には見えない、どこか遠くを見ているような。


「涼太郎さんは幽霊をご覧になれるの?」

「幽霊、というか、それも含めた、なんだかよくわからないものを、時々。とても面倒です」

「面倒なの?」

「そうですよ。人に見えない余計な物がちらつくなんて、邪魔でしかないですから」


 ひと時、霊視だとか、そういうものが流行って、私の周りにも霊感があると熱っぽく主張する生徒が何人か現れて、そのうちまた波が引くようにそんな話がなくなった、というような出来事がありました。私だって、ちょっと見た夢を予知夢ではないかとか、そんなことを考えたことがあるくらい。

 でも、なんだか涼太郎さんの言葉にはそういった話とは違う空気がありました。目が悪くて黒板が見えないとか、足が遅くて走り比べではすぐ負けてしまうとか、そんなくらいの実感のこもった悩み。

 だから私は、すごいわ、と囃すのも、大変ね、と寄り添うふりをするのもなんだか違う気がして、何を言っていいのかわからずにじっと黙ってしまいました。


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 お嬢さんが黙ってしまったので、しまった、やはりこの話は鬼門であったかと思う。慌てて取り繕おうにも、何を言ったらいいのか皆目見当がつかない。私の人付き合いの能力は、十になるからならぬかの頃に成長を止めているのだ。


「うちに、幽霊がいるかもしれないのね」

「その類、でしょうね。少なくとも生きた普通の人間ではありませんでした。酷い唸り声を上げていた」

「……心当たりはあるのよ。ただ、あまり信じたくはないわ」


 道端の石垣の前で立ち止まったお嬢さんは、じっとこちらの目を、試すように見てきた。


「私が生まれたのはね、あの離れでなの。お母様はその時に苦しんで亡くなったそうよ。それから、私の双子の弟も。臍の緒が首に巻きついて、窒息してしまったのですって。それから、お父様はあの離れをずっと閉め切ってしまっていたわ」


 あ、と私は頭の中が白く染まったような感覚を覚えた。踏み込み過ぎた。


「信じたくないというのは、涼太郎さんのその目の話ではなくてよ。私のお母様か弟が、そんな風に人を脅かすみたいな現れ方をしているというのが、あまり……考えると少し苦しくなるわ」

「すみません」


 私は謝罪するが、何を言うべきか詰まる。いつもそうだ、言葉が足りない。不審な死者だかなんだかが、相手にここまで近しい人間だったということを、考えから外していた。

 私は、こういうところが本当に駄目だと思う。


「いいえ。話してくださったのは嬉しいの。本当よ」


 だが、お嬢さんはこんなことを言ってくれる。そして。


「私もその幽霊に会えるかしら?」

「え?」

「だって、一度も顔を合わせたことがない家族かもしれないのでしょ? どんな風になっていたって会いたいわ」

「……難しいとは思います。危険があるかもしれません。ただ、私はあの部屋でこれからずっと寝泊まりするのは辛い」


 とはいえ、母屋に移るのもそれはそれで問題があるであろうし。何かしらの変化を起こす必要はあった。


「お嬢さんに来ていただいて、何か状況が改善されないか、試してみることは出来ると思います。お願いしても構わないでしょうか?」


 勿論よ、お嬢さんは真剣味と好奇心の入り混じった顔で目を細めた。見覚えのある門構えと、吉野の表札が目に入る。いつの間にか、先生のお宅に戻ってきたものらしい。


 ……道を覚えるのを忘れたな、と思った。


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 離れにふたりきり、というのはやはり良くないだろうと涼太郎さんが主張されましたから、廊下のところでおときさんに待っていてもらいました。これで涼太郎さんが突然狼藉を働こうとも、幽霊が私たちを襲おうとも、何かあれば助けに入ってもらえるという算段です。

 とはいえ最近少し腰を悪くしているおときさんですから、それほど頼りにはならない気がいたしますが、まあ、形式というものは大事ですから。


「よろしいですか」


 涼太郎さんが、鍵を開けた離れの引き戸に手を掛けます。私はずっと住んでいたお家でこんな冒険が起こるとは思ってもみませんでしたから、うんとどきどきしながら、ええ、と答えました。


 がらり、と音を立てて戸が開きます。そうして、私たちは短い廊下をゆっくりと歩いていきました。おときさんがこの間、長い間放っておかれていたここを掃除した時には、何かあったとは何も言っていませんでしたが……。


「居ます。この襖の向こうに」

「どんな感じでいて?」

「わかりません。じっと動かないでいるようだ。取り立てて怒っているような雰囲気ではありませんが……」


 がたん。その時、襖が中から何かにぶつかられたように揺れました。びく、と涼太郎さんが身体を強張らせました。


「……これは」


 私はなんだかもうぞわぞわと怖くなってきて、本当は涼太郎さんの袖の端など掴みたいところだったのですけれど、会って二日の、しかも男の方にそんなことをするのはいかにもはしたない、とまだしゃんとしていた良心が叱ってきましたから、代わりに自分の手を固く握り締めました。


「……お嬢さん。お気持ちを確かにして聞いていただきたいのですが」

「ななな、何かしら。少しも怖くなんてなくてよ」


 本当は小さく震えておりましたけれど、とにかく私は虚勢を張りました。


「あの幽霊の正体は……」


 どん、とその時、襖が押されて外れ、こちらに倒れてきました。涼太郎さんが私を庇うように立ち、そして、見えない何かにぶつかられたように仰向けに倒れました。

 私はもう涙目でしたけれど、それでも叫びました。


「だ、駄目! 涼太郎さんに何かしたら、酷くてよ!」

「……お嬢さん」


 涼太郎さんが掠れた声で呼びかけます。


「大丈夫、大丈夫です……。落ち着いてください」

「涼太郎さん!?」

「ただ、その、『こいつ』をどうにかしていただけると有り難い」


 のそり、と涼太郎さんは上半身を起こします。なんだか、うんざりしたような、困ったような、そんな顔で。


「こいつ?」

「はい。……この、犬を。その、舐めてくるので。顔を」


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「犬」


 お嬢さんはぽかんとした顔のままで、廊下に立ち竦んでいた。それはそうだろう。御自分の近い家族が理性を失った幽霊と化していることを覚悟されていたのが、犬である。私もなんというか、非常に気まずく、恥ずかしいところではあったのだが、ともあれべろべろとこちらを舐める生温かい舌を引き剥がそうとじたばたとしていた。端から見ると、実に奇妙な光景だったろう。


「人の幽霊ではありません。犬です。大きめの柴で、よく人に馴れていて……」

「……そこにいるのね」


 おっかなびっくりといった様子で、お嬢さんはこちらに近づいてきた。


「お座り」


 犬は、電撃的な速度でその場にしゃがみ込んだ。よく躾けられているようだった。勝手に人の顔を舐めないようにもして貰いたかったが、それはさて置き。解放された私はいそいそと立ち上がる。


「お嬢さん……」

「お前なの。侘助」


 柴犬は、お嬢さんの耳には聞こえぬ声で、甘えるように鳴いた。


「ここね」


 お嬢さんはしゃがみ込む。まるではっきりと見えているかのように、侘助と呼ばれた犬の頭を撫でた。


「おわかりですか」

「何となくわかるわ。不思議ね。見えない、聞こえない、けど、感じるのね」


 侘助の鼻面に頬を寄せると、お嬢さんはぎゅっと何かを噛み締めるような笑顔になった。


「あの子だわ」


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 吉野家に柴の子犬が貰われてきたのは、ちょうど十年前の今頃だったという。


「庭の侘助椿が満開でね。紅い花を不思議そうな顔で見ていたのよ。だから、侘助と名前を付けたの」


 お嬢さんは縁側に腰掛け、ゆっくりと思い出を語ってくれた。なるほど、今も慎ましやかな開き方の椿が、競うように咲いている。当の侘助は、お嬢さんの横に腰掛けて幸せそうにしている。


「とても懐こい子で、でも番犬としては優秀だったのよ。侘助がいた時は、一度も泥棒に入られたことなんてなかったんだから」


 それで、昨晩は私にずっと唸っていたのか、と思い当たった。一声吠えてさえくれればすぐ犬だとわかったものを。お嬢さんと一緒に現れたことで、不審を解いたのだろう。


「それがね、去年、それまでとても元気だったのに、突然ころりと死んでしまって」


 細い指が、茶色い背中を撫でる。先生が朝起きて庭に出ると、離れの近くで眠るように倒れていたのだという。

 侘助、なんて名前が良くなかったのかしら。お嬢さんは呟いた。八分咲きでほとりと潔く落ちてしまう花だ。名前そのものに力はなくとも、人の心が名と物を結びつけた時、そこには何かが生まれる。祝福か、或いは、呪いか。


「寿命でしょう。名前はきっと関係ない」

「そうだといいけれど」

「その犬は自分の名前を知っていますよ。呼んであげるといい」


 侘助。幼い声が呼んだ名に、犬は小さく吠え声を上げた。


「私には犬の心などわかりませんが、嬉しそうに見えますね」

「本当?」

「尻尾をぶんぶんと振っています」

「それなら、きっとそうね」


 そこではた、とお嬢さんは何かに気づいたように私を見た。


「でも、幽霊になっているということは、何か未練だとか、恨みがあるということではなくて?」

「それが、そうとも限らないようですよ」


 私が知る限りでは、死者の在り方は実に様々だ。だが、怪談にあるように恨みがましく人に祟るような幽霊というのは、見たところそう多くはない。


「私の故郷には、子供達に混じってただ遊ぶだけの霊や、死んだ後もずっと生前と同じように銭湯の番台に腰掛けているだけの老婆がおりました」

「……そういうものなの?」

「どうもそうのようです。悪霊なんてものはなかなか生まれないらしいし、幽霊になる条件などというのも、よくわからない。もちろん、私に見えないような種類の霊も沢山居るのかもしれませんが……」


 まあ、酷い死に方をした者の霊は見るだけでも嫌になるような姿をしていたりもするのだが、それをわざわざお嬢さんに伝えることはなかろう。


「私は、どうもその辺りがずっと気に掛かって……生き物の死について調べるために、先生に師事することに決めたのです」


 高名な生物学者に、故郷の伝手があったことは何よりの幸いだった。お嬢さんは目を細めて、胡散臭いにも程がある私の話を聞いて下さった。


「なら、それはとても良いことだわ。お陰で私は侘助にまた会えたのだもの。有り難う、涼太郎さん」


 それは、こちらが言うことですよ、お嬢さん。そうして礼を言って貰えることというのは、なんと有り難いことだろう。そう思った。


「ただいま」


 母屋の方で、先生の声がした。私たちは目配せをし合い、しいっ、と指を立てる仕草をした。侘助のことは内緒にしておこう、という一瞬で出来上がった、暗黙の約束だった。

 そしてお嬢さんはぱたぱたと庭を走って玄関に向かう。侘助はお嬢さんを追いかけていく。あの様子ならば、夜に離れに現れることはないだろう。ようやくゆっくり眠れそうだ。私は目を伏せた。


 視界の端、縁側の上に、黒足袋を履いた足が目に入った。


 ゆっくりと、顔を上げる。黒無地の着物を着た、小柄な、顔立ちの整った少年が私の横に立っていた。彼は声を出さずに指を立て、しいっ、という仕草をする。その様子と黒い目は、お嬢さんによく似ていた。そして、首には紅い色の縄がぐるぐると巻きつき、端を蝶結びに結んでおり……。


『それから、私の双子の弟も』

『臍の緒が首に巻きついて、窒息してしまったのですって』


 瞬きをすると、少年の姿はもうどこにもなかった。


 ……彼のことはお嬢さんたちの心の平穏のためには暫く黙っておくとして。今後も、どうやら心置きない生活とはいかないようだ。


 私の東京での暮らしの始まりは、おおよそこのような調子のものであった。

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