新しい春とホール・ラザニア

 森田先輩の袴姿はとても凛々しくて、眩しさに思わずまばたきをしました。熟柿のような深い橙色の中振袖に、限りなく暗い緑の袴。間に細く覗く半幅帯の明るい山吹色。ぱっちりと長いまつ毛に鮮やかな口紅は、別人めいてうつります。けれどマイペースはいつもの通り。私たち後輩の視線にはみじんも揺らがずブーツを鳴らしてプラタナス食堂へ入ってしまいました。


 いつかのように予約のプレートの置かれたテーブルにつきます。昭島先輩はスーツのままで、和装の部員たちの中では少しばかり浮いて見えました。注文は先に通してあるのかメニューは用意されていません。森田先輩はどこからか取り出した猫柄の腰紐で手早くたすき掛けをしました。こういった動きの自然さは、たぶん当面は誰もかなわないものと思います。


「謝恩会まで間があって良かったわ。こうしてみんなでご飯を食べられるのも最後だし」

「そんなこと言わずにたまに遊びにきてくださいよ。この部を作ったのは先輩方なんですから」


 瑞季先輩は少し困ったように言います。何だかんだ学内にいて、頼りにしていた上級生がいなくなってしまうのはやっぱり、私も不安です。


「卒業したら、あんまり口を出すのもね。もし良ければ学校の外で会いましょう? みんなが大事な後輩だってことはずっと変わらないもの。大丈夫、みんなならきっとうまくやれるわ」


 最後、微笑みかけるとき、テーブルを一周見渡しました。ひとりひとりの顔を確かめるように。不思議と、急に遠くなってしまった感じがして涙がにじみます。ごまかしてうつむいているうちに、お料理が運ばれてきました。


 大きな陶製の円形の器に、まだふつふつと沸いているきつね色に焼けたラザニア。カラフルなタイルの鍋敷きの上へそっと下ろされます。


「さて、いただきましょうか」


 浮き立つ声も懐かしく、森田先輩の手でナイフが入れられます。表面にふりかけられた粉チーズの焦げ目がさくりと音をたてました。ほわほわと湯気が上ります。取り皿はつるりとした白の薄い陶器で、パスタの薄黄色、ベシャメルソースの白、ミートソースの赤茶色の地層が引き立ちます。全員に行きわたったところでフォークを手にします。柄に槌のあとの残る銀のフォークです。


「いただきます」


 いつものように声をそろえて。そっとフォークを立てれば、シート状のパスタはぷつりと小気味よい抵抗をもって切れます。あいだからソースが出てしまうのはご愛敬でしょう。まぎれるように挟み込まれたチーズがとろりと糸を引きます。熱々ですから、存分に息を吹きかけてから口に入れます。それでも、焼きたてのラザニアは舌には熱すぎるくらいでした。


 やけどしかけた舌でも、溶けだす旨味はちゃんとわかります。ベシャメルソースのミルク分、バターの香りがふわりと包んで、ミートソースはトマトとお肉の味がしっかりと濃く。チーズは隠し味のように後ろからそっと支えているよう。パスタはもちもちとして、噛めば仄かに甘く感じます。最後に表面の香ばしさが鼻に抜けました。


 要素なんてそんなに多くないのに、いえ、だからこそでしょうか。フォークを動かす手は止まらなくて、次々と口に運びたくなってしまいます。とろり、もちもち、かりっ。塩気と甘さと香ばしさ。


 食べ終わってしまえばあっという間で、空っぽのお皿といっぱいになったお腹だけが経った時間を教えてくれます。森田先輩は口紅でなく色づいた唇をそっとハンカチで拭って、たすきを外しました。


「森田先輩、昭島先輩、卒業おめでとうございます」


 私と瑞季先輩がそれぞれ、花束を差しだします。二人は柔らかな表情でもって受け取ると、ありがとう、と歯を見せました。森田先輩が私にそっと耳打ちします。


「頑張らなくていいから、楽しんでね。一年なんてあっという間よ」


 春から、私も部長をつとめることになります。そうは言っても頑張ってしまうのかもしれませんが、ふっと肩が軽くなった気がしました。先輩のようにはなれなくても、先輩のように楽しげであれたなら。きっと先輩にも悩みや不安はあったはずで、だからこそ私も、後輩たちの前では快活でありたいと思います。

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プラタナス食堂 夏野けい/笹原千波 @ginkgoBiloba

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