第3話 壊れる世界と死神の黒猫 ① 0日目

 少女の泣き声が病室に反響する。


「う、うぅ、うぁ、あぁぁぁぁ……オリオン……オリオン!嫌だ、嫌よ、イヤ……っ!きっと、私が約束を破ろうとしたから……っ、私のせいだ……だから、オリオンは……」


 ステラはエメラルド色の瞳を揺らして、赤髪の少年を瞳に映す。震える自分の肩を抱き締めても、次々にあふれる涙を止められずにいた。


「私が悪いんだ……。きっと、オリオンが死んでしまったのは約束を破ろうした私のせい。私が死ねば良かった……。私なんて、オリオンにも、シリウスにも好きになってもらう資格なんて無い……っ!」


 ステラは自分を蔑み、乾いた嘲笑を浮かべた。

 彼女の瞳が暗く淀んでいく。いつもの強気なステラからは想像できないほど、今の彼女を弱く脆い存在なのだと感じた。触れてしまえば壊れてしまいそうな心を、ステラ自身が責め続ける。


 嗚咽が笑い声へ変わっていく。

 濁った光を宿した瞳がくしゃりと歪んだ。


「ァハ、私、なんて滑稽なの。アハ、アハハ、ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ――――」


 立ち上がり、突然大声で笑い出したステラ。


 その姿に、シリウスは唖然として固まる。笑うというよりも、嗤うと表現した方が正しい気がする気味の悪い嗤い声。自暴自棄になったステラの悲しい声が周囲に響き渡る。


 普段の彼女とは違う、明らかに異常な精神状態。


 シリウスは恐怖を抱いた。

 それは、異常な精神状態彼女自身へでは無く、大切な何が音を立てて崩れていく事への恐怖だ。


 ――――ステラは泣きながら嗤い続ける。


 我に戻ったシリウスは、彼女を抱き締めて拘束した。

 ステラを前に泣くことも許されず、唇を固く結んだまま泣きたい自分を必死に殺しながら。


「離してシリウスっ!離しなさいっ!ねぇ、オリオンッ、起きなさいよ!勝手に私の前からいなくなるなんて許さないっ!死ぬなんて、私を置いていなくなるなんて許さないんだから!約束……したでしょ?ねぇ……こんなの、嫌だ、よ」


 少女の力とは思えぬ馬鹿力。

 さっきまで笑っていたステラはまた泣き叫ぶ。


 シリウスは、一人では抑えきれないステラを抱きしめたまま床に押し倒して叫ぶ。このままでは、ステラが遠くに行ってしまう気がしたから必死にしがみついた。


「ステラちゃん、駄目だよ!オリオンは……ぐっ……もう死んだんだ!オリオンはステラちゃんのそんな姿を望んでない!もう……もう、オリオンは戻ってこないんだ!」


 シリウスの言葉にステラはビクッと反応を示して、暴れていた動きを止めた。


 わなわなと瞳を震わせて、シリウスの言葉を小さな声で繰り返し呟くステラ。天井を仰いだ視線はどこも見ておらず、目尻から涙が静かに流れ落ちる。


 そしてまた彼女は叫び、嗤いだす。


「オリオンは死んだ……。もう、オリオンは戻ってこない……!?――――っ!!あぁ、いや、嫌、嫌ぁ、イャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――フフフフ、アハ、ハハハ……」


 ――――気持ち悪い。

 狂気にステラの心が殺され、壊れていく。

 耳に木霊するステラの嗤い声がこびりついて離れない。


 オリオンは、両手で耳を塞いでうずくまった。

 宙に浮かぶオリオンの魂は、寝台に横たわる自分の死体から遠くに離れる事が出来ない。


 だから、逃げ出すことも出来ずにその場でステラの言葉を聞く。彼女の声を聞いてしまえば、瞳を閉ざすことなんて出来るはずがなかった。


 ――――気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い!


 嫌だ。止めてくれ。死にたい。死んでいるんだけど。

 狂いそうだ。見たくない、こんな世界。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。


 大切な世界が壊れていく。

 大切だった世界は音を立てて崩れていく。


 ステラの気が触れ、シリウスが悲しんでる。

 なのに、何も出来ずに傍観するしかない。


 これが約束を破った事への罰なのだとしたら、なんて残酷な仕打ちなのだろう。


「止めてくれよっ!こんなの見たくない。ステラ、ステラ、ステラぁあ!お願いだから……止めてくれよ。こんな残酷な世界を俺に見せないでくれ……」


 狂ったように……部屋の中で叫び暴れるステラ。


 押さえつけられても、ステラはステラ自身を罰するように、自分に爪を立てて首の肉が抉れる程の深い傷を残していく。

 喉元に血の滲む直線の爪跡を刻み、黄色い髪を乱す。


 そんな彼女を必死にシリウスが抱き締め続ける。


 騒ぎを聞き付けた両親達や医者が駆けつける。暴れるステラの自傷行為を止めさせようと、腕に、足に、大人一人が一本ずつ押さえ付けた。だが、ステラはそれでも腹部を捩り上下左右に暴れさせて抵抗を続ける。


 呆然と立ち尽くし、オリオンは病室の外にステラが運ばれるの様子を眺める事しか出来なかった。


「――――っ、くそ。くそっ!」


 ……何も、出来なかった。


 ステラ達に自分がここにいることを伝えようと必死に試みたが、オリオンの手はステラをすり抜けて触れる事も出来ず、二人に語りかけても言葉が届くことは無い。


 涙を流していないのに、泣いているような表情を歪めるシリウス。最後にオリオンの方へと振り返る。

 そして拳を握り締めると、ステラを追いかけて病室を後にした。


 今、病室に残るのはオリオン一人だ。

 さっきまでの騒ぎが嘘のように静寂が流れる。


 幽体、もしくは魂と呼ばれる存在。

 半透明の体をふわりと天井近くで浮かばせて、オリオンは自分の死体を見詰めながら大切な友人達の名前を呟いた。


「ステラ、シリウス……」


 自分の『死』が、最も大切にしてきた世界を壊した。

 自分が、大切な二人の心を殺した。


 『許さない』……そう叫んだステラの言葉が耳に残っている。シリウスの悲しい瞳が、部屋を立ち去った今もオリオンの胸を締め付ける。


 忸怩たる思いで、ステラが壊れていく様を見守るだけしか出来ない自分の醜態。

 胸糞悪い後悔だけが心を満たしていた。


 ――――チリン、チリリン。


 ふと、澄んだ鈴の音色が耳へと届く。


 まさか、こんな状態の自分に訪問者が現れるなんて予想もしておらず、俯いた顔を起こして小さな来訪者へ視線を送る。


「ニャーオ」


「……何だよ、お前も……助からなかったのか」


 緑色の首輪を着けた細身の黒猫は、確かにあの時オリオンが助けようとした黒猫だった。


 魂のオリオンを訪ねて来たということは、同じ境遇の仲間という事だ。

 つまり、この猫も死んでしまったのだろう。

 憂鬱な心が更に沈みこんだ。


「はぁ~~、……要するに俺は無駄死にしたって訳だ」


 オリオンは、溜息とともに乾いた声を漏らす。


 猫の命一つ救うことさえできず、命を落とした。

 その事実を知り、自分の無能さに嘲笑を浮かべる。


 オリオンの言葉に黒猫は首を傾け、口を開いた。


「――――いや、確かに少年は私を助けてくれたよ」


「……は?」


 黒猫のハスキーな人の声に自分の耳を疑う。

 一度は正面に戻した視線を黒猫に戻して、二度見する。


「そんなに熱烈な視線を向けられると照れてしまうよ、少年。一応私はメスだからね。さっき言った通り、私は君にお礼を伝えに来たんだ」


「……ぁ?」


 幻聴かと思った声の主は、現実だと念を押すように来訪の理由を説明する。


 ただでさえ鈍くなっていた思考が凍りつき、口を金魚のようにパクパクさせながら言葉を失う。

 そして、驚き絶叫した。


「なっ、――――猫がっ、猫が喋ったぁあにゃ!?」


「……少年、少し落ち着きたまえ」


 赤髪の少年の額に、ぽふっと黒猫の柔らかな肉球が押し当てられる。


「――――ぐおっぶらばぁ!?」


 普通なら威力の無いはずのネコパンチ

 あまりの威力に、意味不明の叫び声を上げオリオンが仰け反る。

 緩慢な動作からは予想もできない、首が吹き飛ぶかと思うほどの凶悪な威力だ。


 加えて、まるで黒猫との接触を拒絶するように、触れた合った瞬間、二人の間に紫電がバチリと走った。


「痛ってぇ!プロボクサー並みのねこパンチとか笑えねぇての!?」


 触れられた箇所を中心にまだ痺れが残っている。


「軽く小突いたつもりだったのだが、力加減を間違えたようだ。少年と私では魂の格が違うからね。恩人に非礼を働いた事を詫びさせてくれ。確か、君たちの言葉ではメンゴメンゴ、テヘペロ……でよかったか?」


「侘びが軽ぃな!?死ぬかと思ったわ!」


「君は、既に死んでいるのだけれどね」


 だが、苛烈な目覚めの猫パンチのお陰でオリオンの頭が再稼働を始める。

 目の前で起こり続ける不可解な現象を理解しようと。


「あ、そうか。じゃあ大丈夫……ってそういう問題じゃねぇよ!……とにかく意味が分からねぇ。この状況も、お前も、全部だ。お前、一体何者なんだよ!?」


 目の前で、黒猫の長い二股の尾が別々に揺れ動く。

 置かれた状況に早くも順応するオリオンを見て嬉しそうに笑う。


「やはり少年、君を選んで正解だったよ。君は面白い」


「俺を……選ぶ?悪ぃけど意味が分かんねぇ」


「私は君の行いを見ていた。考えての事では無いのだろうが、黒猫を助けた己の命を省みない自己犠牲は尊い物だ。君は私の物語の主人公足り得る。そう思ったのだよ」


「……ハァ?何だよ物語の主人公って?」


 黒猫から説明のを聞いて、更に混乱し、怪訝な表情を浮かべるオリオン。


 その反応を楽しむように、クスクスと笑った黒猫は、呑気に顎が外れそうなほど大きく口を開いて欠伸をして見せた。

 すぐに質問に答えない黒猫に苛立ちが募る。


「おい、聞いている、の……か!?」


 ところが、欠伸をしていた口が閉じられると雰囲気が一変する。


 黒猫はオリオンへ眼光鋭い獣の瞳を向けた。

 許可が無ければ喋る事さえ禁じられているような錯覚に襲われる。


 一瞬で呼吸をするのも苦しく感じるほど重々しい雰囲気が周囲を支配した。


「――――私は、死神だ」


 死神と名乗った黒猫は、オリオンの反応を満足そうに眺めて鋭い瞳を細めていく。

 そして、意地の悪い笑みニヤァと浮かべると、ハスキーな声音で黒猫は語り始めた。


 

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