こちらは、俳句とエッセイの両方が丹念につづられた、俳句×エッセイ作品です。
俳句を詠むには、季節の細やかな変化に気づけなければならない。
同時に、エッセイのアイディアもまた、身の回りの日常の中に多く転がっているものです。
そのほとんどは、意識はしてもすぐに忘れてしまうのかもしれませんが、俳句を詠むことで丁寧に書きとめていくことができる。この作品を読むとそんな気がしてきます。
本作品に触れる方は、このボリュームに驚かれるかもしれません。
これだけ多くの俳句を詠まれるのも、私からすれば「凄い」の一言ですが、その一句一句に添えられたエッセイもまた、日々の多くの気づきから得られた、文字数・密度共に濃厚な文章。一ページごとに、作者からの語りかけをじっくりと味わい、自分ならではの答えを探してみたくなります。
どれもが、日々慌ただしく目の前のノルマをこなすだけでは気づくことができない、もとは小さな種だったものたち。
こうして作品にすることで、小さな俳句とエッセイが、世界中へと広がりを見せていくのです。
身の回りの小さな気づきが、広大な世界へ、宇宙へと繋がっていくのを感じます。
ぜひ、本作品でその広がりを体験してみてください。
これは言葉での創作活動をされている方にはぜひ触れていただきたい、素晴らしい作品です✨
現代のエッセンスを絶妙に取り入れた美しい俳句。
言葉選びのセンスと、その短い十七文字から鮮やかな情景が匂い立つように感じられます。
そんな素晴らしい俳句に続くのは、その句にまつわる事象や感情について作者様が思いのままに綴るエッセイ。
こちらでもまた作者様ならではの繊細で豊かな感性が余すところなく発揮され、普段何気なく過ごしている日常や、何気ない風景、人の心のありようなど、様々なことについて考える機会を与えてもらえます。
物語や詩を綴るには、様々なものごとにアンテナを張り、様々なことを感じ、それを言葉で表現する鍛錬が必要だと思います。
本作品は純粋にその秀逸さを楽しむだけでなく、そんな書き手としての感性を磨く鍛錬になる、絶好のテキストだと思います(^^)
キャッチに書かせて頂いた事は 単に私だけの思いかもしれません。
普段過ごしていて、常々 肌呼吸を考えておられる方は、そう居ないと思います。だけど 肌は確かに呼吸をしていて、それが無ければ 人が人の形として成り立たないはずなんです。にも関わらず それに思いを馳せる人は、その方面に携わる人くらいかと。
日々 当たり前になっている、空気がある事・吸える事・感覚がある事・考えれる事・心が動く事、色々な事柄で 自分が成り立っている事。それを 肌で感じた感触そのままで伝わってきます。
生きていく上で 何が大切なのか、1つ1つが当然ではない事を、分かり良い 優しい語りで、且つ 深く考察させてもらえます。
レビューの冒頭に書くのは 憚る気がしたので、ここで書かせて頂きますが。作品を読ませて頂いて とてもヌーディな感じを覚えました。ヌーディという表現が 適切かどうか、あまり自信ないですけれども。「素肌を感じる」と思ったんです。一糸纏わぬ躰で 気を感じている様な、そんな感じがしました。
それ位 研ぎ澄まされた敏感な感覚の方なのだなと…
それと 季語の説明が、物凄く勉強になります。
俳句を主題に、心に湧き出る思いを綴ったエッセイ。
実はまだ七つしか拝読しておりません。ではなぜこんな中途半端な時点でレビューを書くのか。それは、もっと多くのかたに少しでも早く読んでいただきたいと痛切に感じたからなのです。
使われる言葉、表現、感情描写など、たんに連ねた文章ではないのです。
ひとつひとつは、とても短いのですが、内容はとても濃厚です。しかも胸を打ちます。
凄まじいほどの衝撃を、わずか七つのお話から私は受けました。
現在進行形で、じっくりと噛みしめながら拝読中であります。こんな素晴らしいエッセイがここにあるんですよ! と声を大にして訴えたいのです。
もっともっと多くのかたに読んでいただきたい、その思いからレビューいたしました。
言葉を紡ぐとは、どういうことなのか。人の心を動かす言葉とは何なんだ。今作ではそれを惜しげもなく披露してくれています。
もう一度言わせていただきます。この「掬いあげるもの」は絶対に読んでいただきたい!
流れに両手を浸し、そっと掬い上げる。
俺達の世界は常に動いてる。流れている。
目に見えるものも、見えないものも。
忙しそうにしている皆が流れを掴もうと必死に生きているけど、その手に捉えられるものなんて多くはないんだ。
両手を振り回し、もがき続ける人が多い中、作者は流れを捉えるのではなく掬い上げる事を選択したみたいだ。
きっと気が付いたんだろうな。掴めないようなものだって、そっと掬えば手の中に入れられる事に。前に後ろに流れ去ってしまうものも、優しく掬えば、いっときだけ留めておけることに。
でも、掬っただけではすぐに零れていってしまう。それは自然な事で、流れをずっと自分の側に置く事はできないんだ。誰にも、さ。
だから作者は、真っ白な紙に掬った流れを染みこませていく。
紙に映し出されるのは、五感を刺激するけどはっきりと名前の付けられない色たちだ。
淡い色があれば、深い色もある。優しい色、激しい色、燃えるような色。複雑に波を打つ世界の中で琴線に触れた流れの色。
多分、俳句って答えを持たない句なんだと思う。読んだ時に感じた感覚が、そのまま答えになるんじゃ無いかな。俳句はよくわからないって人もいると思うけど、それでいいんじゃないかな、きっと。意味を正確にわからなくても、色や匂いみたいな雰囲気は感じられると思う。それがそのまま正解になるんだ。
誰かに句の意味を聞いてしまうのはもったいないから、句から思い浮かんだ感情、感覚を大事にしてみて欲しい。正しい、間違ってるとかは気にしないでさ。
色紙はしっかりと染まっているから、必ず五感に触れるはずだ。自然体で雰囲気を感じられるようになると、一気に面白くなるぞ。
流れがこぼれ落ちていって、色だけが残った紙に、作者は言葉を乗せていく。
ほんとうに素直な気持ちが表れているから、読んでいて安らげるんだよな。妙に考えたりする必要は無いし、抵抗無く心に染みこんでくる感じで。作者の心の柔らかさに要因があるんだろうな。
そして、その時々の言葉を乗せても、色紙を破る事も滲ませる事もなく、当たり前のように同化させてるのが凄い。多分、作者が流れを掬うときに、素手で掬っているからなんじゃないかって思ってる。
バケツとかで掬えば早いだろうに、作者は必ず素手を流れに浸すんだ。流れの温度、速さ、向き、そんな感覚全てに直接触れる尊さを大切にしている。肌で感じているから、その時の感覚を自分のものに扱えて、染めた色を邪魔しないよう綴る事ができる。
もちろん素手だから掬えないときもあると思う。
時間の流れが速すぎて指の間からすり抜けてしまったり、世間の冷たすぎる流れに指がかじかんで動かせなくなったり。
それでもきっと、作者は手で掬おうとするんだろう。
時折見せる強い色が、そんな事を思わせるんだ。
ふっとどこかで触れ合えた色。
名称のない色で染めた小さな紙に、素直な言葉を乗せたような作品。
この先もたくさん綴られていくんだろうな。
じゃあさ、この作品はどこに行き着くと思う?
俺は四季になると思ってる。
この果てしなく高い空よりもっと大きくて、あおいあおい四季だ。
魅力的な色で染められた、作者だけの四季。
きっとその色は、描写できない色模様なんだろう。
だから俺は描写する事を諦めて、素直に、こう声をかけるんだ。
「いい色じゃん!」
って。
ここにはみんなが忘れていった色が置いてあるかも。
いつかどこかに置いてきてしまった色を掬い上げる、そんな読み方もいいかもしれないな。
一話ずつ、ゆっくりと読んでいきたい作品だ。
深麓
aoiaoiさんが 紡ぐ 移りゆく 四季折々の世界。
俳句はまるで 短編の題のように、後の文章を牽引している。
季語というのは、季節に沿って 意味をもたらし
人のこころを誘導する キーワードなのだと想う。
彼女の文章を読んでいると、ひとつひとつの言葉に
自分の中の 自然への想いが 呼び起され 集結し
蝶のように 飛び立っていくように 感じる。
日々の積み重ね、小さな想いの詰まった 文字たちは
身体を吹き抜けていく 季節の風に似て、心地いい。
1冊の本にして、活字にして、ぱらぱらめくれる本にして
手許に置いておけたら 素敵だろうな。
きっと年月が経って 端が少し 茶色に日焼けしても
それさえも 似合ってしまうような 傍らの本として。
そして「掬い上げるもの」という題が たまらなく好きだ。