第6話 小さなすれ違い 前編

 ──裏返った靴下に、同じ色形の下着が数枚、くたびれて首元に汚れが目立つシャツが一緒になって洗濯機の傍に散乱している。ほとんどの衣類が白と黒のコントラストで統一されており、その変わり映えしない景色を見ているだけで安心してしまう。軽い溜息を付きながら、男は溜まった洗濯物を洗濯機の中に放り込み始めた。


「白は白、黒は黒っと」


 色が混ざらないよう衣類を分別した男は、アルカリ性の洗剤を目分量でさっと洗濯機に流し込む。男は週末にしか洗濯しないせいか、この作業をするたびにふと思い出してしまうことがあった──。



──あれは、2人が一緒に暮らしていた頃。


「ちょっと! なんでこの洗剤使ったの! お気に入りのセーター縮んじゃったじゃない!」


 大きな声で甲高くわめいている女性の手には、子供用サイズのセーターを両手いっぱいに広げて男に見せつけていた。髪は耳を隠す程度の長さ、表情は少し幼さが残るが目に力のあるはっきりした表情をしている。


「悪かったって、知らなかったんだから許してくれよ」


「なんで勝手に洗濯しちゃったのよ! いつも私がやってたんだから任せてくれればいいじゃない!」


「いつも任せてたから悪いと思ってやったんだよ・・・」


 語尾になるほど声のトーンが落ちていく男の態度に、女の怒りはさらに膨れ上がる。


「何? 何か言いたい事があるならはっきり言ってよ。言ってくれなきゃわかんないよ」


「別に、何もないから」


 鈍い空気が2人を包み込み、次の言葉が中々出てこなかった。どちらが先に話し出すか耐久しているかのような重苦しい空気を先に壊したのは、女のほうだった。


「あなたとなら、幸せになれると思ってたのに・・・」


 彼女の言葉に対して答えることが出来なかった。答えは持っていたが、その答えを伝えれば2人の関係が終わってしまうことを知っていたからだ。幸せに対する答えを俺が見つけたのは、2人が出会って間もない頃まで遡ことになる──。




──2人は同じ大学のドイツ語の小クラスで知り合いになった。数ある語学の中でドイツ語を選んだ理由は「物珍しいから」といった具合で、卒業必須単位のために語学を取得しただけであった。年始の学力テストによってクラスが割り振られたため、数少ない仲の良かった友人達と離れる事となり、語学の講義だけは真面目に取り組むしかなかった。そのため、語学の講義だけはゼミのような新鮮な感じがしていた。もちろん、悪い意味での新鮮さだ。


「佐藤さん佐藤さん、Ich liebe dich. って愛してるって意味だってさ。」


「くだらない事言ってないで単語書き出してください中津川さん。ドイツ語で発表とかキツいんですから・・・」


「わっかんないかなー。こういう単語を覚えていくのが成長の早道なんですよ」


「俺は物覚えが悪いから無駄な単語覚えてる余裕がないんです」


 隣から口を出してくる女は、同じドイツ語のクラスになった女だ。1回生での英語の成績が中途半端に良かったためか、学力テストが響いているのか、やる気に満ち溢れた講師のクラスに割り振られたせいで、語学は課題が大変だった。わざと答えを間違えたり、白紙回答にしたりと上手くサボっておくんだったと後悔したが、今となっては手遅れだ。社会に出てから似たような割振りテストがあれば絶対に間違えてやると誓いながら、苦手なドイツ語と睨めっこが続いている。今取り組んでいるドイツ語の課題とは、2人ペアでパワーポイントで資料を作成してドイツ語で発表というものだ。この難題を毎週のように突き付けてくれる熱意ある講師のおかげで、俺の昼休みは発表に向けての資料作成に潰されることとなった。


「佐藤さんって彼女とか居ないんですか?」


「居ませんよ、見りゃ分かるでしょ」


 お世辞にも格好が良いと言えない容姿であることはちゃんと自覚している。だからこそ、この台詞を言われると無駄に腹が立ってしまう。


「みんな付き合ってる子ばっかりなのに、なんで付き合わないんですか?」


「・・・嫌味ですか?そりゃ容姿に自信があったら僕だって付き合いたいですよ」


「えー、容姿なんてそんなに関係ないもんですよ? 一緒に居て楽しいかどうかじゃないですか」


「それは容姿に自信がある人が言うセリフです。それより資料早く作っちゃいましょう」


 大学に入ってからは色恋沙汰の話題が絶えない。恋愛や下ネタや飲み会といった内容はステータスとされ、誰がどれだけ上手く扱えるかを競い合っている感じだ。もちろん、俺はその枠からはみ出した存在であり、どれも扱いきれない能無しだ。


「じゃあ今度飲み会いきましょうよ。あ、もしかしてお酒飲めないって人です?」


「1杯目で潰れちゃうんで。誘ってもらえるのはうれしいですけど、遠慮しときます」


「その潰れる姿が見たいんじゃないですか! 行きましょうよ飲み会!」


「そういうの言うのって嫌われるんじゃないんですか?」


「打算的な友情よりは本音でぶつかるほうが仲良くなれるんですよ?」


「そんなもんですかね」


「そんなもんです!」


 滅茶苦茶な言い分だったが、屈託のない表情と話し方で言われると悪い気はしない。飲み会に参加することなんて、新歓と数少ない友人との宅飲み以外はほぼ無かったということもあり、社会的経験値をあげたいという思いも加わり心は揺らいでいた。


「飲み会参加しておかないとゼミ選びで絶対後悔しちゃいますよ! 飲み会は情報の宝石箱なんですから! ほら、うちの大学結構落差が酷いって有名じゃないですか。」


「ゼミは講師で決めてるんで、面接までの段取りとかは確かに分からないですけど、なんとかなりますよきっと」


「そんな態度じゃゼミでも浮いちゃいますよ? 今のうちに練習と思って参加しましょうよ飲み会!」


「・・じゃあ参加しますよ。持ち物は体一つと参加費でいいんですよね。後、本当に飲めないんで始めの1杯だけしか飲みませんよ」


 絶対に断れると思っていたのか、不意を突かれた返答にきょとんとしたマヌケ面を見せてくれていたが、少し驚いていた後その表情はすぐに明るい声色と共に変わった。


「え、良いんですか? やったー! じゃあドイツ語のクラスで集めておきますね! 日付決まったら連絡しますね佐藤さん!」


「その前に課題やらないと楽しい飲み会も御通夜になっちゃうんで、早く終わらせましょう」


「そうですねー、楽しみですね飲み会ー」


「中津川さん、ちゃんと話聞いてるんですか・・・」


「お店どこにしようかなー。やっぱり座敷がいいよね。佐藤さんもそう思いません?」


「・・・座敷のほうがいいですね」


「やっぱりそうですよね!掘り炬燵だとのんびりできて良いんですよ分かってますね!」


 両手の指先をパタパタと重ね合わせながら鼻歌を歌っている彼女の表情は、見ている分には心地よかった。

 

 結局、昼休み中に課題が終わることなく家に持ち帰ることとなった。帰宅してからはすぐに語学用の資料作りに取り掛かったが、作業中昼間の出来事を何度か思い出してしまっていた自分が居た。飲み会の席で潰れる姿が見たいなんて、そんなに気になるものなのだろうか。そんな事考えたこともなかった。誰かに注目するよりも場の空気に注意を払うので精一杯で、誰かを気にする余裕すらなかったからだろうか。なんとなく次の飲み会が楽しみに思えている自分が、少し照れ臭かった。



続きます。


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