第5話 仕事のやり方
「先輩、お疲れ様です」
「おっ、気が利くじゃんサンキュー」
先に帰社していた先輩へ手渡された缶コーヒーはよく冷えており、クーラーがあまり効いていない生ぬるい暑さの応接間に居る2人にとっては、体も心も潤してくれた。先輩の手元には、何度も書き込まれては訂正が繰り返され、使用者にしか解読不可能な保存状態悪いの資料が広げられており、空き部屋となっている応接間で2人は会議を始めた。
「僕の方なんですけど、今継続中のAJI-SAI用の処理液サンプルは貰ってきました。かなり怒ってらっしゃったので、早めに対応しないとしこりが残りそうです」
「そこの人は何時も怒ってるからほっといていいよ、優先すべきはこっちだ」
そういいながら差し出された資料は、何がなんやらさっぱりわからない専門用語の文字列で溢れかえっていた。普通の人が見れば頭に疑問符を浮かべるところだが、この付き合いを3年続けている私にとっては何も問題はなかった。
「先輩はシーケンス制御を調整するとして、僕はその動作確認でいいですよね?」
「後この優先するMT社にメール一報入れといて。俺の名義とアドレス使っていいから」
「わかりました。送信後は社内用メールで転送しておきますね」
入社1年目の頃の私は、先輩の仕事のやり方に不満を漏らし、大きなケンカをしたことがある。なんで自分が先輩のメールを送ったり管理したりしなきゃいけないんだと、なんで自分が先輩のミスを先輩と一緒に謝罪しにいかなきゃならないのかと。そして、何故先輩のミスが自分のミスとして伝えられているのかと。
不満は日に日に募り、それが爆発したのが入社して丁度2年目の夏の頃、今から1年前だ──。
──1年前。
「なんで僕が先輩のミス請け負わなきゃならないんですか! おかしいでしょ!」
「じゃあお前には仕事一切降らないから、勝手にしてろ!」
「そんなの理不尽ですよ! 間違ってる! パワハラじゃないですか!」
「知ったことか、お前に教えてる時間なんてねーんだよ」
こんなやり取りを数日かけて続けていた。始めは言葉遣いにも気を付けていたが、最終的にはもう暴言による罵り合いになっていた。
「いい加減うんざりだ! もうあんたの尻拭いはごめんだ!」
怒りに任せて放った言葉は、タイミングが悪かったのか先輩のスイッチに触れてしまったのか、
「・・じゃあお前に案件任せるわ。月曜の朝礼で報告しておくからな」
冷静な声で告げられたその一言は、あまりにも大きな意味を持っていた。その後の展開はあまり記憶に残っていない。物の半年が一瞬で過ぎ去ってしまったのだ。初めて任された案件、初めての責任、初めての取引方法、社内との連携、社外への接待、トラブル対応。必要な技術が何一つ無い事に絶望し、帰宅時間は日に日に遅くなっていった。完全に衰弱しきっていた私は、当たり前のように倒れこんだ。
数日間の入院中、見舞いに来てくれたのは家族ぐらいだったが、退院日の1日前に先輩が見舞いにやってきた。何をもってきて良いのか分からなかったからなのか、わかりやすいフルーツの盛り合わせを携えて無表情のまま付近にあった椅子に腰を下ろす。そして不愛想な表情のまま、落ち着いた低い声で語り始めた。
「社会に出てからはな、自分の仕事の範囲を理解することから始めるもんなんだよ。自分の仕事がどこからどこまでなのかが分からないと全部やらされちまう。どこまでを拒否していいのかが分からないとお前みたいになるんだよ。だから技術なんてのは二の次でいいんだ」
僕は、ただただ無言で聞き入っていた。
「俺は俺なりに先輩という仕事はやってる。それを説明する義理もないし分かってもらいたいとも思ってない。ただ、お前がちゃんとぶつかって来たから俺もぶつかって理由を教えてやった、それだけだ」
「・・・ほかの人にも、同じように教えていたんですか?」
「すぐに辞めていったよ、2年で6人ぐらいは変わってる。じゃあな」
その2日後、僕は会社へ復帰したところ、先輩が案件を引き継ぎ対応してくれてい事を知った。それが先輩なりの責任の取り方だったんだと思う。
──応接間の会議室。
「───先日の訪問先での報告は以上です。あと先週連絡いただいていたY大学の教授が共同開発したいと持ち掛けてた件ですが、資金提供先が決まったので挨拶に行きたいから誰か同行してほしいとのことです」
「お前確か大卒でしょ? 連絡も取ってるし相手もお前が行くほうがわかりやすいでしょ、行って来いよ」
「・・僕一般の文系卒なんで工業系のゼミが何してるのかはよくわからないですよ。僕の卒論地域コミュニティの商店街復興の可能性とかそんなんです」
「俺は高卒だしそういうの全く分からないからお前に任せるって言ってんの。バカにしてんの? お前回路組めないくせにさ?」
「馬鹿になんてしてませんよ、僕も勝手がわからないので時間かかりそうですけど、やってみますね」
「おう、頑張って来いよ」
「はい、それじゃ、報告は以上です」
「了解、お疲れさん」
「先輩もお疲れ様です」
「あ、あとな、目上の人にお疲れさまっていうのは誤用だから注意しろよ」
「じゃあなんて言えばいいんですか?」
「それはあれだ、うまいことやってみろ」
「・・・分かりましたよ、それじゃ、おつかれさまです」
「おうお疲れ。そういやお前、了解ですって言わなくなったな」
「先輩が丁寧に怒りながら教えてくれましたからね、すぐに覚えましたよ」
「な? いやな覚え方したほうが記憶に残りやすいだろ?」
「でもいい思い出にはならないですけどね」
そういって、私と先輩は会議室の部屋を後にした。クーラーのよく聞いた事務室をに戻り、いつものようにメールを確認し、会議の内容を軽くメモした後、自分がやるべき範囲の仕事に手を付け始めるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます