第3話 パスタファミリア
「じゃあね、また明日ー」
「おーう、またなー」
同級生と軽い挨拶を交わし、見慣れた高校を後にした私は、高校と同じぐらい見慣れたお店に入った。いつもの調理器具、いつものバイトの人、変わり映えしない商品と食器。ありきたりなデザインのエプロンを身にまとい、慣れ親しんだ一文字結びでしっかりと固定させる。結び終えると一呼吸置いて、ゆっくりと息を吐きだして、それから注文状況を眺める。
これが私の仕事の始まり方だ。ジンクスなんて大そうなものではないが、やらないとどうにも落ち着かない。学校に居る間は何かを意識してやる事なんてないのに、仕事をしている時だけは「始まり」と「終わり」のけじめを付けないとモヤモヤするようになってしまった。いつから続けているかなんてのは覚えてない、気が付いたらやっている。習慣なんてそんなものだろう。
「注文結構入ってますね、ソース変わります」
「あ、どうも、助かります」
シフトの交代時が一番バタバタしてしまうのは混み始める時間のせいだろうけど、交代時間を変えて対応しやすくするといった対策は行われない。だが、私たちは誰も文句を言わない。この交代するときの掛け合いが単純に好きなのか、それとも言いづらいだけなのかは分からないが、私はこの混み具合が割りと好きだ。交代する人との息の合った連携で上手く捌けるとなんだかかちょっと嬉しいような、そんな些細な事が理由である。もし息の合わない共同作業になったとしても、交代する彼はすぐに居なくなるのだから気まずくなる事も無い。ちょっとした関わりだけど、私が働く上でのモチベーションの1つになってる事は間違いないだろう。しかし、そんな小さな楽しみの積み重ねも、長くは続くことはなかった。
「あ、遥さん。急なんですけど、俺バイト今日までなんですよ」
タイマーが鳴る直前にパスタボイラーからパスタを取り出し、タイマーを止める。手慣れた手つきで水を切り落として皿に盛りつける彼の仕草は普段と変わらず冷静だった。年下である私に対してもさん付けしてくれる彼とのちょっとした掛け合いはバイトを続ける上での楽しみの1つだったが、
「そうなんだ、なんか残念だね。引っ越しか進学とか?」
「進学です。といっても4大じゃなくて専門ですけどね。」
「じゃあ、前に言ってた調理目指すんだ?」
「まだ自信はないけど、やれることはやっておこうかなって。なんだかんだバイトもよく続いたし、」
「盛り付け丁寧だし私好きですよ、高橋さんの料理」
照れくさそうに鼻先をかいている彼の表情は、どこか希望を感じさせるようでいて、それでいて寂しさなど全く感じ取れることがなかった。バイトを辞めることに未練はないようだ。
「それじゃ、短い間だったけどお世話になりました。ありがとうね、お疲れさま。」
「うん、お疲れさま。あ、そうだ。送別会とかやらないのかな?」
呼ばれていないだけかもしれないという恐怖もあったが、勇気を出して聞いてみた。
「職場ではないみたいだよ。そういうところが好きで働いてたってとこもあるから、ちょっと名残惜しさはあるけどさっぱりしてていいんじゃないかな」
「そっか、うん。じゃあ、調理師頑張ってね。お疲れさま」
「遥さんも元気でね」
それが彼との最後の会話だった。1つ上の彼は高校3年であり、職場には3年務めていた。3年であるということは転機であり、その転機が近い事は薄々感じていた。元々歓迎会を行っていない職場ということもあり、送別会をやる気配は何一つなかった。それを寂しいと思う人は多いのかもしれないが、さっぱりした関係のこの職場は私は好きでありそれが悪い事だとは思っていなかった。しかし、いざ別れの時が来てしまうと考え方は変わるもので、この時ほどこの習慣が良くない事だと思ったことはない。ほかのバイトや社員に軽い挨拶を交わした彼は、すぐに職場から消えてしまった。来なくなった人や辞めていく人も同じで、本当にあっさりと、さっぱりと辞めていくのがこの職場なのだ。私がバイトに入ってからも10人以上は辞めていく姿を見たが、長く勤めていてもこんなものなのか、と。
厨房ではパスタを茹でるぐつぐつという音や、バシャバシャと食器を洗う音、ウインウインとパスタを製麺する機械音にバイト同士の他愛無い会話が聞こえてくる。私は注文用紙を切り取り頭上の引き戸に貼り付け、次の注文の準備に取り掛かる。いつもと同じ商品をいつもと同じように作っているはずだったが、体は素直なもので、手元に力が全く入っておらずありえないようなミスをしてしまう。
「あちっ!」
ソースを調理している鍋に手を伸ばしたはずが、木製の取っ手部分を超えて金属部分を掴んでしまい、その反動から鍋ごとこぼしてしまった。
「大丈夫か?」
「あ、うん、ごめん。」
「足元片付かないとヤバいから、ソースとパスタ両方見といて。俺が掃除しとくから」
「いいよ悪いよ、私やるから」
「俺もそうしてもらいたいけど、まだソースの作り方教えて貰ってないから出来ないんだよ」
「あ、そっか・・・、そうだよね、ごめん任せた」
「気にしなくていいから、ソースの作り方早めに教えてくれよな」
「うん、ありがと」
バイトを始めて2年経つ私は教育係も受け持っていたが、高橋が辞めていく事に動揺していたのか、頭がまるで回っていなかった。この日の仕事は散々なもので、終始あたふたとする事が多かった。
そんな日であっても、終わりの時間はやってくる。なんとか業務を終え、上がりの時間になった。
「遥、もう上がっていいよ。片付けやっとくから」
呼び捨てにしてくるこの相手は、私と同学年で同じ高校の峯島である。今は私が教育係として仕事を教えている。
「そんな悪いよ、ちゃんとやるから」
「でもお前、今日なんか失敗ばっかりじゃん。早く帰って寝ろよ。片付けと仕込みは教わってるし、これで1時間経ったら深夜料金入るし俺の事は気にしなくていいぞ」
彼なりの気遣いだろう。実際私が居残ってもまた失敗しそうということもあり、言葉に甘えて帰ることにした。
「じゃあ、お疲れさま。ありがとうね」
「おう、ゆっくり休めよ」
制服に着替え、家路へと徒歩で向かう。冷たい空気が顔に吹き込むのを嫌ってマフラーを口元まで深く覆う。耳は寒さで感覚が薄れているようだった。なんてことない、いつもと同じ寒さなのに、とても冷たく痛く感じてしまう。多分、きっと、彼とは一生会うことが無いんだという事実を、今になって初めて理解してしまったからだろう。それを知ってしまった瞬間、胸の少し上のあたりが熱くこみ上げ、声を殺しながら涙を流した。腫れあがった目元を見せないよう、少し下を向きながら家までの道をいつものように帰ろうとしていた私は、1つの事を思い出した。仕事の「始まり」と「終わり」時にしていたいつものジンクス。始まりは、一呼吸おいて落ち着くこと。そして、終わりは笑顔で終わること。涙でぐちゃぐちゃになっていた顔を精一杯の笑顔を作り変えた私は、その後わんわん泣きながら家へと帰った。その後の事はあまり覚えておらず、ベッドに行った私は意識を失うように眠りに付いていた─。
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