第3話「君に笑顔を」
「読書」
――翌日。食堂での朝食と配達を終えたシエルとソレイユは、図書館へと向かった。規則正しく並んでいる長机の一つに隣り合って座り、テールの到着を待つ。
シエルは机の上に置かれている、先が黒く尖っている棒……鉛筆というのだと、ソレイユに教えてもらった……を取り上げ、しげしげと眺める。次いで、白い塊……消しゴム……に目を向ける。鉛筆は文字を書くもの。消しゴムは文字を消すもの。
「待たせたな」
シエルとソレイユが揃って顔を向ける……が、その表情は対照的だった。眉根を寄せて怪訝そうなシエルに対し、ソレイユは満面の笑みで、拍手すら送っている。
赤い縁が鮮やかな眼鏡に、大き過ぎる白衣。テールは裾を引きずりながら二人の前に歩み寄ると、机の上に紙を滑らせる。紙は二枚。小さい文字がびっしりと並んでいる紙が一枚。空欄が並んでいる紙が一枚。シエルは一枚、摘まみ上げる。
「何だ、これは?」
「問題用紙と解答用紙だ。これから君達には、テストを受けて貰う」
「テスト?」
「君の学力を知りたいのだ。それが分からなければ、対策の立てようもないからな」
「それなら、メドサンを使えば――」
「原点回帰、という奴だ。昔ながらのやり方というのも、興味深いだろう?」
「お前のその不思議な格好も、原点回帰なのか?」
「そうだ」
……断言されてしまっては、取り付く島もない。シエルには原点回帰などどうでもよく、ただ、わざわざ紙を用意するのは手間なのではないかと思っただけだ。
「他に質問はないな。では、これからテストを始める。時間は六十分だ。始め」
隣のソレイユは早速鉛筆を取り上げ、何やら書き始めた……そう、なぜかソレイユもテストを受けることになったのだ。まさか、一緒に勉強するつもりなのだろうか。
「カンニングはよくないぞ」と、テール。
「なんだ? かんにんぐって?」と、シエル。
「今、君がしていることだよ」
シエルにはピンと来なかったが、ソレイユはその言葉の意味を知っているようで、シエルをちらりと見るや、二枚の紙に覆い被さった。見るな、ということらしい。
シエルは鉛筆を取り上げると、問題用紙に目を向けた。問題の内容は計算に穴埋めと、子供の頃に受けたテストと体裁は変わらないかった。ただ、紙に鉛筆で回答を記入し、書き損じたら消しゴムで消す……ということはなかったのだが。
最初は馬鹿にしているのかと思うような四則演算から始まったが、先に進むにつれて難易度が上昇。何度か検算をする問題もあった。解答用紙には検算用と思われる余白もあり、なるほど、合理的なのかもしれない。だが、鉛筆で書く時の力加減が分からず、用紙に穴を開けてしまったり、書き損じを消しゴムで消そうとして、真っ黒に汚してしまったり、用紙を破いてしまったりと、悪戦苦闘。幸い、破けた部分は僅かだったが、紙がこんなに破れやすいとは思ってもいなかったシエルである。
――三十分が経過。計算を終え、穴埋めに入る。問題に取り組んでいると、先生から教わった知識だけでなく、その情景までが思い出され、シエルは懐かしさを感じた。ヴァンは行く先々の町で歓迎され、尊敬され、誰もがその話を聞きたがったたものである。ガルディアンの修理よりも、町の人と話す時間の方が長かったのではないかと思う時も、一度や二度ではなかった。そんな中、僅かな時間を縫って、町中で、旅の途中で、ヴァンはシエルに勉強を教えていたのである。
ふと、シエルの手が止まった。……分からない。次の問題、さらに次の問題を見ても、何を書いているのかすら、分からない。完全にお手上げた。テールは「学力テスト」だと言っていた。つまりどの程度の問題、用語が分かるのかを調べるためのものであり、当然、今のシエルに分からないであろう問題もあるはずだ。それでも、何だか悔しい。この悔しさすら、テールは計算しているのだろうか……あり得る。
行き詰まったシエルは、こっそり隣の様子を窺った。ソレイユは相変わらず机に突っ伏している……と思ったら、瞳を閉じて、すやすやと眠っているではないか。まさか、全て終わったのだろうか……いや、そんなはずは……でも――。
「そこまで。時間だ。採点が終わるまで、休んでいてくれ」
シエルはしまったと解答用紙に向かったが、テールは有無を言わさず回収。シエルは溜息と共に鉛筆を手放した。一方、目を覚まして大きく伸びをするソレイユ。
「んー……終わったー! ねぇ、どうだった?」
「……まぁまぁ、だな」
「そっか。私はね、バッチリ!」
「ほ、本当か?」
「うん!」
自信満々のソレイユを見て、シエルは少し動揺する。……考え過ぎだよな。シエルは疲れた右腕を、左手で揉みほぐす。手書き自体、随分と久し振りだ。腕は痛むが、不思議と嫌な感じはしない。やがて、机に向かっていたテールが戻ってきた。
「採点が終わった。まずシエルだが……思っていたよりも良い結果で、驚いたぞ」
「なんだその、思っていたよりというのは?」
「正直な感想だよ。計算はもとより、ガルディアンについても詳しいじゃないか」
「それは……先生のお陰だ。だが、後半はほとんど空欄だったぞ?」
「当然だ。これは君の学力を、私が知るためのテストだからな。この全てに答えられるのは、アヴニールで正規の教育を受けた技師ぐらいだろう。だから、点数も発表しない。意味がないからな。それに、名誉のためにも」
……何か引っかかる言い方が気になりつつも、シエルはそれ以上何も言わなかった。代わりに、ソレイユが勢いよく手を上げる。
「テール、私は?」
「満点だ」
「やったー!」
「う、嘘だろ!」
シエルは立ち上がった。テールはソレイユの解答用紙を広げて見せる。そこには髪の長い女の子の絵が描かれていた。裾が長く伸びた服を着て、眼鏡をかけている。
「私の似顔絵がよく描けている。花丸をあげよう」
「わーい!」
「……似顔絵か」
シエルは気が抜けたように、着席した。安心したような、騙されたような気持ち。
「では、この結果を元に準備をしよう。ソレイユ、手伝ってくれ」
「了解!」
ソレイユは敬礼して立ち上がると、テールの近くへ。手渡されたメモを見ながら、本棚へと足を向けた。テールもまた、ソレイユとは別の本棚へ向かって歩いていく。
手持ち無沙汰なシエルは、堪らずテールに声をかける。
「俺も何か――」
「いいから君は休んでおけ。これからが本番だからな」
……休む、か。シエルは仕方なく腕を組み、目を閉じた。
――ドン! という音と衝撃で、シエルは目を覚ました。大量の本が、見上げる程に積まれている。シエルは自分の頬をピシャリと叩く……夢ではなかった。
「まずはこんなものか」と、テール。
「凄い数だねぇ」と、ソレイユ。
テールとソレイユも本の山を見上げる。そして、テールはシエルに向かって一言。
「さぁ、読め」
「……これを、全部か?」
「そうだ」
当然だと言わんばかりに、テールは頷いた。シエルもそうだろうなとは思っていたが……本の山が
「……美人で有能な先生が教えてくれるんじゃなかったのか?」
「必要な知識は本に書かれている。それでも分からない事があれば、私が教えよう」
シエルは手近の本に手を伸ばしたが、「違う」とテールが首を振る。読む順番も決められているようだ。「まずはこれからだ」と手渡された本は……軽い。題名は「マンガでわかる! 電子工学」。ペラペラめくると……なるほど、漫画になっている。
「……こんなので、いいのか?」
「安心しろ。どんどん難しくなっていくからな」
シエルは溜息をつくと、一冊目を読み始める。マンガで分かる……と銘打っているだけあって文章は少なく、挿絵が多かったので、あっという間に読み終わった。二冊目はマンガではないものの、図解が多く、読むのは苦にならなかった。二冊目を読み終え、三冊目に手を伸ばそうとした時、ソレイユが声をかけてきた。
「シエル、お昼の時間だよ!」
「えっ、もうか?」
「うん! 凄いねシエル、私が本の掃除をしている間、ずっと読んでたんだ? でも、休憩は大事だよ! もちろん、ご飯もね! 私はもう、お腹がぺっこぺこ!」
シエルは腹ぺこのソレイユに連れられて、食堂へと向かった。だが、食事をしている間も、シエルは本で読んだ知識が、頭の中を駆け巡っているかのようだった。
昼食後、お昼の配達はソレイユが一人で請け負い、シエルは図書館で読書を再開。シエルがしばらく本を読んでいると、ソレイユが合流。シエルの隣りに座って、読書を始める。もっとも、ソレイユが読んでいるのは冒険小説だったが。
――それから数時間。すやすやと安らかな寝息を立てるソレイユの隣で、シエルは黙々と読書を続けていた。本の中に分からない計算式や用語が出てくる度に、隣りに控えているテールに質問する。テールはどんな問いにも淀みなく、そして過不足なく答えた。そんなやりとりの最中、テールはぽつりと言葉を
「君は、集中力があるな」
「そうか?」
「うん。ソレイユなんて、一時間も経たずにこの有様だからな」
「……こいつは読書より、体を動かしている方が性に合っているんだろう」
「そうだな。だが、助かったよ」
「助かった?」
「ああ。もし君が読書嫌い、または苦手となると、その意識改革から始めなければならないからな。助かったとは、そういう意味だ」
「嫌いじゃないさ。ただ、そういう時間がとれなかっただけだ」
「君の生活じゃ、無理もあるまい」
沈黙。シエルは「こほん」と咳払いを一つ。
「……もしかして、俺は今、褒められていたのか?」
「うん。この上なく。テストの時も褒めていたのに、気付かなかったのか?」
「……そうか」
シエルはテールを一瞥し、読書を続ける。テールもシエルの質問を待つ。やがて、ソレイユがもぞもぞと動き出した。目元を指先で擦り、大きく伸びをする。
「んー……テール、今何時?」
「三時二十八分三十二秒だ」
「ありがと。シエル、ずっと読んでるんだ? 偉いね!」
……何だろう、さっきから子供扱いされているような気がする。そんなシエルの気持ちをよそに、ソレイユは「偉い偉い!」と繰り返しながら、立ち上がった。
「でも、じっとしてばかりじゃ体に悪いよ? ほら、ちょっと走りにいこうよ!」
「俺は別に……」
「そうだな。適度に運動した方が、頭に入りやすくなるだろう」と、テール。
「決まりだね! よし、行こう行こう!」
ソレイユはシエルから本を取り上げると、空になった手を掴んで引っ張った。シエルは観念して立ち上がる。ずっと同じ姿勢だったからか、体が強ばっていた。
図書館を出て、準備体操。ソレイユの先導で、ビブリオを駆け抜ける。シエルは作業着ではなく部屋着を着ていた。クテュールお手製で、軽い運動には申し分ない。
走り回った後は、熱くなった体を川で冷やす。ソレイユはビキニ、シエルは例の水着だったが、二度目なので少しは慣れた……気がした。そして、日が暮れていく。
夜、そして深夜になっても、シエルは図書館で読書を続けていた。節電のため、シエルが向かうテーブルの周りを残して、他の照明は全て落とされている。天窓から差し込む月明かりが優しく館内を照らしていた。タッタッタッと軽快な足音。シエルが顔を上げると、ソレイユが小さなバスケットを掲げて立っていた。
「差し入れ。お夜食だって」
「ああ、悪いな」
シエルは本にしおりを挟んで閉じると、テーブルに置いた。バスケットの中身はキュイ特製のチーズケーキ。ちゃっかりソレイユの分まで入っている。ポットに入った紅茶と、カップも二人分用意されていた。それらを食べ終えると、紅茶をカップに注ぎながら、ソレイユが尋ねる。
「そういえば、テールは?」
「……さっきまで、その辺りにいた気がするんだがな」
「テールって、急に出てきたり、いなくなったり、『しんしゅつきぼつ』だよね」
「そうだな」
シエルはカップに口を付ける。ソレイユはテーブルに頬杖を突いた。
「ねぇ、お勉強、楽しい?」
「まぁな。勉強といっても、本を読んでるだけだけど」
「目とか疲れない?」
「それは、ちょっとな。テールが持ってきた目薬が効いたのか、今は大丈夫だ」
シエルはその時の光景を思い返す。テールはシエルの頭を掴むと、有無を言わせず天井を向かせ、寸分の狂いもなく、適量の目薬を、その目に注ぎ込んだのだ。
「へぇ、凄いなぁ。私、そんなに長いこと読めないよ」
「……自分でも、不思議なんだ。なぜだか、止まらない」
――そう。シエル自身もまた、自分がこんなに長く読めるとは思ってもいなかった。電子書籍なら、メドサンにも入っていたというのに。どんな本が入っているのかすら、調べたことはなかった。この違いはなんなのか……これが紙の本の持つ力なのかもしれない。だが、それだけではあるまいと、シエルは感じていた。
目的の有無……シエルはそう考える。本を読むことの先にあるもの……今の自分には、それがあった。本の中には自分の知らない世界があり、発見があり、そこで得た知識がまた、新たな本を読み解く助けとなる。既知の内容でも、別の角度から検討することで理解が深まり、より強固に定着していく……この繰り返し、繋がり、連鎖が、面白かった。だから、ページをめくる手が止まらない。めくる度に、前に進んでいるという確かな実感があるからだ。そして……。
シエルはテーブルに目を向ける。そこには、シエルが読み終えた本が積み重ねられていた。それは、成果である。小さな、でも目に見える形の、確実な一歩。
シエルはカップをテーブルに置き、椅子に背を預けた。顔を上げて、暗闇の中、微かな光で照らされた本棚を見渡す。ここは知識の宝庫だ。だが、
そういった意味では、自分は随分と楽をさせてもらったと、シエルは思う。自分が必要としている知識を、選び出してもらったのだから。それも、恐らくは、適切に。……なるほど、有能な先生というのも間違いではないのかもしれない。
「シエル、そろそろ寝たら?」と、ソレイユ。
「ああ。もう少し読んだらな」
「そっか。じゃあ、私は寝るね。お茶は置いてくから、朝、食堂に持っていって」
「ああ」
「無理しちゃ駄目だよ? 時間はたくさんあるんだから」
「ああ」
「それと……」
言葉が途切れたので、シエルはソレイユの視線の先を追った。ゲーム部屋。
「なんだ?」
「ううん、何でもない! じゃあ、おやすみ!」
手を振って立ち去ろうとするソレイユに、シエルは声をかける。
「明日」
「えっ?」
「……明日、またゲームをするか。いや、訓練だったか。まぁ、どちらでもいいか」
「本当! あっ、でも――」
「俺だって、ずっと本ばかり読んでもいられないさ。今日も走っただろ? 川にも行ったし、気分転換になった。本も難しくなってくるだろうから、なおさらな」
「そっ、そうか、そうだよね! よーし、明日は負けないからね! おやすみ!」
ソレイユは元気よく手を振って、走り去っていく。軽快な足音の後には、ただ静寂のみが残された。全く、わかりやすいというか……シエルは本に手を伸ばす。
……大きな欠伸を一つ。眠い。だが、もう少しだけ、せめてコラムを読んでから寝よう。そう決めると、シエルはお茶で喉を湿らせ、本のページをめくった。
そんなシエルの姿を、テールは本棚の影から静かに見守っていた。
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