「約束」
――夜のビブリオは、幻想的と言って良かった。満天の星。並木道は街灯に照らされ、暗闇に枝葉が浮かび上がっていた。涼しい風。慎ましい、川のせせらぎ。
シエルはバスケットを片手に、石畳を歩いていた。その前を行くのは、案内役のテール。銀色の髪に、白いワンピース。シエルはその背中を見ながら、歩き続ける。
シエルの耳に、歌声が届いた。透明感のある声色……歌を聞くなんて、いつ以来だろうか。やがてシエルの前に現れたのは、水路に囲まれた広場だった。テールは小さな橋を渡り、シエルもそれに続く。広場にはいくつかのテーブルとベンチ、そして奥にはステージが設えられており、そこに歌声の主がいた。ソレイユである。
テールがベンチに腰掛けたので、シエルも距離を開けて座り、テーブルの上にバスケットを置いた。すると、テールがシエルとの距離を詰めて座り直す。シエルは怪訝そうな眼差しをテールに向けたが、テールはステージを見詰めていた。
シエルは肩をすくめ、ステージを見やる。歌は佳境を迎え、ソレイユは歌い終えた。じんわりとした、余韻。パチパチパチ……シエルは自然に手を叩いていた。
ベンチに顔を向けたソレイユは、ぎょっとした表情を浮かべると、両手を胸の前で握り合わせ、もじもじと身をよじった。ステージの照明で、金髪は白銀に近い輝き。真っ白なシャツに濃紺のオーバーオールと、活発そうな服装とは裏腹に、小さく縮こまっているソレイユを見て、シエルは拍手を止めて声をかけた。
「歌、上手なんだな」
「えっ? ……あ、ありがとう! あは、褒められちゃった!」
ソレイユは笑顔を見せたが、その先が続かなかった。沈黙。やがて、ソレイユからすがるような視線を向けられたテールは、「こほん」と咳払いをして、一言。
「自己紹介」
「そう、それ! 私、ソレイユ! 君は?」
「……シエルだ」
シエルの返答に、ソレイユは眉根を寄せた。腕を組み、首を傾げる。
「君、本当にシエル?」
「……どういうことだ?」
「だって……」
ソレイユはステージから飛び降り、すたすたと早足でシエルの元へ。シエルは思わず背筋を伸ばした。ソレイユはシエルの前で立ち止まると、腰に手を当て、シエルをじっと見下ろしす。紺碧の瞳には、疑惑がなみなみと湛えられていた。
「だって……全然違うもん」
「違うって、何が?」
「だから……その、昔のシエルと!」
「そりゃ、八年も経てば変わるさ」
「……そういうもの、なの?」
「お前だって、変わっただろう?」
「そうかなぁ……あっ、じゃあ、シエルも私のこと、覚えていてくれたんだ!」
話が思わぬ方向に行き、シエルは戸惑った。
「いや、俺は――うっ!」
肘打ち。シエルの脇腹を襲った痛みは、隣に座るテールの仕業だった。
「よく覚えているってさ。なぁ、シエル?」
「お前、何を――ぐっ!」
再びの肘打ち。加減という言葉を知らないのか……シエルは脇腹を擦った。
「嬉しい! じゃあ、やっぱり、シエルはシエルなんだね!」
ソレイユはその場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。その様子を見て、シエルは慌てて飲み込みこんだ。……何も覚えていない、という言葉を。
「じゃあ、自己紹介しなくてよかったね! 久しぶり! うん、これでよかった!」
手を上げるソレイユ。シエルは曖昧に頷きながら、バスケットへ手を伸ばした。
「こ、これ、キュイさんから……」
「わぁ! ありがとう! ……う~ん、いい匂い! 私、もうお腹がぺっこぺこ!」
ソレイユはバスケットを受け取るや否や、さっと手を突っ込み、大振りのサンドイッチを取り出すと、口いっぱいに頬張った。余りの早業に、シエルは唖然とする。
「ソレイユ、ちゃんと手は洗ったのか?」と、テール。
「ふん、はいじょうぶ、ひゃっき、ひゃんとあふぁったふぉ!」
もぐもぐと大きく口を動かしながら、あっという間にサンドイッチを平らげたソレイユは、口の周りを指先で拭うと、もう一つ、サンドイッチを取り出した。
「お~いしっ! 本物のお肉なんて久しぶり! はい、シエルもどうぞ!」
「……いい。それより、腹が減っているのにどうして食堂に来なかったんだ?」
「むぐっ……そ、それは、だって、私、酷いことを……」
ソレイユは食べかけのサンドイッチに目を落とた。首を傾げるシエル。
「酷いこと?」
「それは、その、ペドフィ……ごにょごにょ……」
「あー……」
シエルは昼間の出来事を思い出した。シエルにとっては、ペド
「ごめんなさい!」
深々と頭を下げるソレイユ。シエルは指先で頬を掻いた。
「……まぁ、誰にだって、間違いはあるさ」
シエルは考えた末に、どうにか、それだけを口にした。
「……許してくれる?」
ソレイユは少し頭を上げて、上目遣いでシエルを窺う。
「許すも何も……」
そこまで言いかけたシエルは、ソレイユの不安そうな顔を見て、頷いた。
「ああ、許すよ」
「ありがとう! 私、ずっと気になってて……うん、これで一安心だ!」
ソレイユはさっと身を起こすと、食べかけのサンドイッチを頬張った。もぐもぐ。シエルはその変わり身の早さに、ただただ、呆れるしかなかった。
「ソレイユも座ったらどうだ?」
テールの呼びかけに応じて、ソレイユがベンチに腰を下ろす。……テールとシエルの間に。テールがいつの間にか移動し、スペースを空けていたのだ。
サンドイッチを口に運びながら、ちらちらとシエルの横顔を窺うソレイユ。それに気付きながらも、無人のステージを見詰めることしかできないシエル。
やがてソレイユの胃袋も落ち着き、食後の一服。紅茶はテールが注いだ。シエルもコップを受け取り、喉を潤していたが……ソレイユのちらちらは止まらない。
「……俺の顔に、何かついているのか?」
「えっ? あっ、ごめん!」
慌てて俯くソレイユ。長い沈黙。それを破ったのは、テールだった。
「珍しいのだよ。何せ、同世代の人間に会うのは八年振りだからな」
そんな馬鹿な……という言葉を、シエルは飲み込んだ。この町の状況、そして世界の情勢を思えば、馬鹿げた話だと切って捨てることは出来なかった。現に、シエルはここビブリオで、ソレイユ以外の子供の姿を見かけていない。それどころか、大人の姿も……そんなシエルの思いを見透かしたかのように、テールが先を続けた。
「それに、君の体はもう大人だ。ソレイユは大人の男を見るのは初めてなんだよ」
シエルは隣で俯く少女の境遇を思った。町でたった一人の子供……か。
祖父であり師でもあるヴァンと旅に出るまで、シエルは故郷の町に住んでいた。ラヴァンという名前。小さな町だったが、大人はもちろん、子供もいた。だから、シエルは自分以外の子供がいないというソレイユの生活を思い描くことができず、ただ、一人は寂しかっただろうなと思うばかりである。……まぁ、見た目が子供、という奴ならいたみたいだけれど……シエルはテールを一瞥した。
「……シエルは嫌かな? 私に見られるの?」
ソレイユは遠慮がちにシエルを見上げる。なんとも、答えにくい質問。
「別に、嫌というか――」
「じゃあ、もっとよく見ていい?」
「もっと? ……まぁ、見るぐらいなら」
「やった!」
ソレイユは手を打ち鳴らすと、早速とばかりに、好奇心旺盛な瞳をシエルに向けた。もっと……という意味がよく分かる、積極的で、容赦の無い視線。
「ねぇ、ちょっと立ってもらえるかな?」
シエルは溜息をつくと、言われるまま立ち上がった。
「おお、大きいなぁ! ……あ、もうちょっと前に……ふむふむ、なるほどねぇ」
……何がなるほどだ。ソレイユは何度も頷きながら、シエルの周囲をちょこまかと動き回り、全身をつぶさに観察……そう、それは観察であった。「う~ん、暗いなぁ」ということで、シエルは街灯の近くまで誘導され、なおも観察は続く。
「ねぇ、触ってもいい?」
「はっ?」
突然の申し出。シエルがぽかんとしていると、テールが代わりに答えた。
「構うことは無いぞ。美少女に触られて、嫌な男はおるまい」
「お、おい! 何を言ってるんだ!」
「違うのか?」
「それは……じゃなくて、触るって、なんでそんな……」
シエルはソレイユを見下ろす。きらきらと輝く、紺碧の瞳……答えは明らかであった。もっとよく知りたい、そう思っているだけなのだ、この美少女は。
「……好きにしろ」
「わーい!」
ソレイユは早速シエルの胸に手を当てると、次いでお腹、脇腹、背中、腕、お尻、太股……全身を両手でぺたぺたと、隈無く触って回る。シエルは初めて経験するむずがゆさに、身をよじらずにはいられなかった。だが、ソレイユの手は止まらない。
「……なんだか、ごわごわしてるね」
「そりゃ、作業着を着ているからな」
「そっかぁ」と、どこか不満そうなソレイユ。
「……まさか脱げ、とは言わないだろうな?」
「うん、それは名案! さ、脱いで脱いで!」
ソレイユはシエルの上着に手をかけ、ぐいぐいと引っ張る。
「お、おい! 本気か?」「だって、脱いでくれるんでしょ?」「そういうわけじゃ――」「大丈夫! 私も脱ぐし、シエルも触っていいよ?」「はっ?」「こういうの『スキンシップ』っていうんでしょ? ね、テール?」「何を教えてるんだお前は!」「しないの?」「しない!」「何で?」「何でって……そりゃ、は、恥ずかしいだろうが!」「私は、恥ずかしくないよ?」「テール! なんとかしてくれ!」
二人のやりとりを見守っていたテールは、「こほん」と咳払いをして、一言。
「十八禁」
すると、ソレイユは「そっかぁ」と残念そうに、上着から手を離した。半ば脱がされた上着を着直しているシエルに、ソレイユが「ねぇ」と声をかける。
「お話してくれる?」
「……お話?」
「うん! シエルって、世界中を旅しているんでしょ? だから、お話して欲しいんだ。私、ビブリオから外に出たことがないから……」
シエルは何だか拍子抜けしつつも、二つ返事で引き受けた。スキンシップの後となっては、お話などお安い御用である。
「でも、そんなに期待するなよ? 俺は話をするのが――」
「ねぇ、シエルは海って見たことある?」
「……ああ、あるよ」
「本当! 凄い! 潮の香りって、どんな感じなの? あっ、座って座って!」
ソレイユはシエルの右手を取ると、「わ、大きい!」と驚きながら、ベンチに向かう。シエルはこれもスキンシップなのかと考え、首を振った。
――海の話から始まり、山の話、町の話、子供の話、空の話、星の話と、ソレイユが聞きたがる「お話」は、尽きることがなかった。シエルはその勢いに圧倒されながらも、一つ一つ、自分の知り得る限りのことを話して聞かせた。それは時に、シエルの過去に触れることにもなった。
「……じゃあ、シエルはそれまで町で暮らしてたんだ?」
「ああ、七歳まではな。それから祖父……ヴァン先生と旅に出たんだ」
「どうして旅に出たの?」
「それは――」
シエルは口をつぐんだ。理由は明白である。オートマタに町が滅ぼされたからだ。生存者は町の外に出ていたヴァンとシエルの二人だけ……危険を察知した祖父が、自分を連れて逃げたのだとシエルは考えることもあったが、それならもっと多くの住人を逃すこともできたはずで……結局は運だったのだと、今ではそう思う。
「シエル?」
「……旅に、憧れていたんだよ。外の世界を見てみたいってね」
「へぇ~! 外の世界……私も行ってみたいなぁ!」
「行かないのか?」
「私? それは、もう……行きたいけど……」
ソレイユはテールを一瞥し、手にしたカップを唇に当てた。
「……んと、じゃあ、シエルが子供の時って、どんなことして遊んでたの?」
――どれだけの「お話」をしたことだろう。中にはシエルが知らないことや、分からないこともあったが、それはそれで、なんでだろうと二人で考え、語り合った。
やがて、ソレイユはうとうとし始めた。紅茶が零れそうになり、シエルが支える。
「あ、ごめん……」
「眠いのか?」
「ううん、大丈夫……」
ソレイユは口元を押さえて、大きな欠伸をした。目もとろんとしている。手にしたカップをゆらゆらと眺め、一気に飲み干す。「はぁ……」と、長い溜息。
「……私ね」
「うん?」
「八年前のこと……シエルのこと、実は、よく覚えてないんだ。ごめんね」
「それは――」
シエルはテールを一瞥し、俺だって……という言葉を飲み込んだ。テールは頷く。
「私、男の子って初めて見たから、びっくりしちゃって。遠くから見ているだけで精一杯で、お話しもできなくて、そのまま、お別れになっちゃったの。それから、とても後悔したんだ。もう二度と会えなかったらどうしようって、すっごく泣いて。だから……もう一度会えたら、たくさんお話ししようって……思ってたんだ。後悔じゃない、楽しい思い出を……シエルと……作りたいって」
ソレイユはそこまで言うと、シエルの顔を見上げた。
「だから……大丈夫」
ソレイユの体はぐらりと傾き、慌ててシエルがその肩を支える。
「……ありがとう」
「もう寝た方がいい。続きなら、また明日――」
「本当!」
半ば閉ざされていたソレイユの目が開き、輝きを取り戻す。待ってましたと言わんばかりの勢い。シエルは一瞬たじろいだが、すぐに頷きを返した。
「わーい! 明日は町を案内してあげるよ! 見せたいの……たく……ある……」
ソレイユはシエルにもたれかかり、寝息を立て始める。
「……こんなにはしゃぐソレイユは初めてだ。余程、楽しかったのだろうな」
テールはソレイユの手からカップを抜き取ると、バスケットの中にしまった。
「で、どうすればいいんだ?」
テールは答えなかった。シエルはソレイユの肩を軽く揺すってみたが、目覚める気配はない。シエルはソレイユに背を向けて片膝をつくと、その腕を自分の肩に回した。膝を伸ばして立ち上がり、後ろ手に太股を抱える。スキンシップ。
「くっ……結構、重いな……」
「寝ている人間はそういうものだ。起きている時に言うんじゃないぞ」
「……で、こいつの家はどこなんだ?」
「あそこだ」
テールが指さしたのは遙か先……立ち並ぶ建物の中で、一番高い場所だった。
ソレイユを背負ったシエルは、息を切らしながら、石畳の坂道を上っていた。かつては住宅街だったこともあり、多くの家屋が軒を連ねているが、窓明かりは一つもなく、ただ街灯の明かりに照らされるばかりである。テール曰く、全て空き家だという。自由奔放な植え込みが、主の不在とその年月を、如実に物語っていた。
シエルはふと、小さな公園の前で足を止めた。ブランコに滑り台……それは、この町にも昔は子供がいたという証。幼いソレイユも、この公園でよく遊んでいたという。たった、一人で……シエルは背負ったソレイユの体勢を正し、再び歩き出した。坂道の果てにあるという、ソレイユの家を目指して。
この辺りにはもう、ソレイユしか暮らしていない。理由は単純で、坂道を上るのが大変だからだ。……もっともな話だと、シエルは思う。
一方、ソレイユがここ……それも一番の高い場所で暮らしている理由は、若さだけではない。景色が良いからだという。そして、やっとの思いで家に辿り着いたシエルは、確かに見晴らしは最高だろうなと肯いた。――眼下に広がる、ビブリオの町並み。今は街灯の明かりがちらほら見えるぐらいだが、陽が昇ればその全てを見渡せることだろう。振り返り、夜空を見上げると……漆黒の鉄塔が、星屑を貫いてた。
木造の家……テールは鍵を使うこともなく、扉を開けた。テールに続いて、シエルも家の中へ。広々とした空間。テーブルに椅子、奥には台所、冷蔵庫、戸棚……と、唐突に明るくなり、シエルは目を細める。壁際のテールが、通路の奥を指さした。
シエルは通路を抜け、突き当たりの寝室へ。シエルは大きなベッドの上に、ソレイユをゆっくりと下ろした。息をついたシエルは、何気なく寝室を見渡す。質素な内装の中にあって、ベッドや机に飾られている、猫や犬のぬいぐるみ……ふと、タンスの上に置かれている写真立てに目が留まり、手に取って眺めた。
写真には青髪の少年と金髪の少女、そして、今と変わらぬ姿のテールが写っていた。シエルはこんな写真を撮った覚えが無かった。撮影場所もビブリオのどこかだろうが……分からない。だが、そっぽを向いている少年は紛れもなく自分であり、硬い表情の少女はソレイユだった。そこに無表情なテールも加わって、決して心和むような一枚とはいえない。――だが、それでも。
シエルは写真立てを戻し、寝室を後にした。通路を抜け、流し台の前で佇んでいるテールの前を横切ると、「シエル」と声をかけられ、その足を止める。
「約束を忘れないようにな」
「約束?」
「明日も話をしてやるのだろう?」
シエルはその問いには答えず、扉を開け、家を後にした。
テールは手を振って部屋の明かりを消すと、ソレイユの寝室へと向かう。ソレイユはベッドの上で手足をちぐはぐに伸ばし、酷い寝姿だった。テールはそれを整ると、クローゼットから薄手の毛布を取り出し、ソレイユにかける。そして、ベッドに腰掛けると、ソレイユの長い金髪に手を伸ばし、手櫛で
――窓からは柔らかな月明かりが差し込み、二人を銀色に照らしていた。
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