「課題」

 朝から晩まで、ひたすら読書。気分転換に運動、そして読書。息抜きにゲーム、また読書……そんな生活が一週間程続き、シエルは積み上げられた本を全て読破した。

「やるな。想定よりずっと早い」

 テールは肯いた。シエルも一ヶ月はかかるだろうと踏んでいたので、拍子抜けというか、何というか……ただ、本を一読しただだけで、その全てを身につけたとは言えるものではない。それでも、頭の中が充実しているという実感はあった。

「では、次だ」

 テールは隣のテーブルを指さす。シエルが顔を向けると……新たな本の山が鎮座していた。半ば予想していたこととはいえ、それが現実になると……げんなりするシエル。観念して隣のテーブルに移り、最初の一冊を取り上げた。題名は「電子工学」。パラパラとめくってみると、小さい文字や公式がびっしり……シエルは溜息をつきながらも読み始め、数ページ読み進めたところで、ふと疑問を口にする。

「……なぁ、これでいいのか?」

「何がだ?」

「俺は本を読んでいるだけだぞ? いつまでこうしていればいいんだ?」

「まだ一週間だ。そして、猶予は十年間だ」

「それは、俺を読書で定住させようとしている……そんな風にも聞こえるが?」

「その通りだ」

「テール!」

「冗談だよ。だが、簡単に知識や技術は身につくものではない。ましてや、君は人類の叡智に独学で追いつこうという、無謀ともいえる偉業に挑んでいるのだからな」

「……そんな、やる気をなくすようなことを言うなって」

「それでも、やるんだろう? だが、焦ることはない」

「それは分かっている。分かっているんだ、俺も」

「何か目に見える結果、成果が欲しいというわけか」

 ――そう、成果だと、シエルは思う。今はまだ、自己満足でしかなかった。最初は読み終えた本が積み重なるだけでも満足だったが、それは本来の目的ではない。

 ガルディアンを修理する。それも、アヴニールの技術に頼ることなく……シエルの目標はとてつもなく高く、現実的とは言い難かった。少なくとも、今は。

 だから一歩でも半歩でも、それに近づいているという実感が欲しかったのだ。テール……ガルディアン自身がそれを保証してくれたとしても、それだけでは足りない。自分には今、何ができるのか……それを、シエルは確かめたかった。

「……どうやら、君は私の予想よりも向上心があるようだ。ここで自らの力量を知ること、そして、その先を見ることは、良い結果に結びつくかもしれない」

 テールは指先を顎に当て、頷いた。そして、シエルに向けて人差し指を立てる。

「君に一つ、課題を出そう」

「課題?」

「ああ。実際に手を動かしながら課題に挑めば、学んだ知識の定着に役立つだろう」 

「それは……願ってもないな。どんな課題だ?」

「私を笑わせてくれ」

 シエルは手にしていた本をパタンと閉じ、テールをまじまじと見つめた。

「……何か、面白いことでも言えばいいのか?」

「私は表情回路が壊れていてな、笑うことができないのだ。それを直して欲しい」

 ……確かに、シエルはテールの笑顔を見た記憶がなかった。それどころか、無表情という表情以外の顔を見たことがない。だが、それは……。

「いくらなんでも、いきなりハードじゃないか?」

「分かっている。だから、マニュアルを用意しよう」

「マニュアル?」

「そうだ。例え何をやっているか分からなくても、その手順をなぞることは、いい練習になるだろう。習うより慣れ、という奴だ」

「……なるほどな。で、そのマニュアルはどこにあるんだ?」

「今から作る」

「今から?」

 シエルが怪訝そうな表情をテールに向けていると、昼の配達を終えたソレイユが手を振りながらやってきた。

「やっほー! お勉強の調子はどうかな?」

「丁度良いところに来てくれた。準備を手伝ってくれ」と、テール。

「了解! で、何をすればいいの?」

 テールはソレイユに分厚い紙の束を用意させる一方、自身は椅子に腰掛け机に向かう。机の上には羽根ペンとインク。シエルはその脇に立ち、何事かと眺める。

「一体、何を始めるつもりだ?」

「マニュアルを作るんだ。こうやってな」

 そう言うと、テールは羽根ペンを手に取って、その先をインクに浸した。そして、ソレイユが用意した紙を一枚、目の前に置くと、その上に猛然と羽根ペンを走らせる。その速度は極めて速く、シエルは目で追うのがやっとだった。瞬く間に書き上げると、テールは紙を宙に放り投げ、新たな紙を置き、再びペンを走らせる。宙に舞った紙は、ソレイユが両手で挟んで捕まえた。シエルは紙を広げているソレイユの背中から、その内容を覗き込む。紙には文字や挿絵が綺麗に描かれていた。速乾性なのか、インクの滲みも見当たらない。二人が紙を眺めている間にも、二ページ、三ページと、テールは次々と書き上げていった。

「テール、これは……」と、シエル。

「マニュアルだ。ちゃんと並べておかないと、後が大変だぞ」

 シエルは散らばっている紙を掻き集めながら、ページ通りに並べていく。テールの手の動きは速さを増し、もはや肉眼で追うことはできなかった。シャシャシャシャシャシャ……絶え間なく、ペンが紙を削っていく。テールは次々と紙を投げ散らかし、シエルとソレイユはそれを求めて右往左往、テールは僅か二分で書き終えたが、それを順番通りに並べ、端に穴を開けて紐を通すまでにはさらに十五分かかった。完成したマニュアルは優に百枚を超え、分厚く、重みがある。

「この手順に従って、作業を進めてくれ」

 テールはマニュアルを指さす。シエルはそれをめくりながら、独りごちた。

「……自分を直す方法を自分で書けるなら、自分で直せるんじゃないか?」

「心外だな。それが不可能だということは、技師の基本だろう?」

 テールの言う通りだった。ガルディアンは自己診断をすることで、自分に起きている問題を自ら把握することができる。そして、このマニュアルが示す通り、その修理方法すら完全に理解していた。だが、ガルディアンは自らを修理することができない。地下工房で修理に必要な工具や部品も簡単に作り出せそうなのに、それもできない……なぜか? それは、そのように作られているからであり、だからこそ、技師が存在しているのである。それが、技師の基本。

「いつまで経っても子離れできないのだから、困ったものだ」と、テール。

「……何の話だ?」

「何でもないさ。さぁ、シエル。私を笑わせてくれ」

 シエルは肩をすくめ、マニュアルをめくる。その内容は、一ページ目から驚きの連続だった。シエルも知らないメドサンの機能が、挿絵付きで解説されていたのである。これだけの情報をこの短時間で書き上げるのだから、ガルディアンの能力は凄まじい……シエルは思わずテールを見たが、相変わらずの無表情だった。

 シエルは鞄からメドサンを取り出し、机の上に置くと、マニュアルの手順に従って、コーディングモードで立ち上げる。続いて作業を進めていると……。

「おい、テール! このページの……文字の羅列はなんだ?」

「プログラム。コンピューターを制御する言語だ」

「……こんな言葉で、お前は動いているのか?」

「極論を言えばな。実際はそう単純ではないのだが、君でも理解可能かつ作業を円滑に進めるためには、そこまでレベルを落とす必要があるのだよ。とにかく、今は深く考える必要は無い。とにかくマニュアルに従って、作業を進めるんだ」

「……ということは、この『int』だか『main』だかと書いてある文字列を、全部入力しろっていうのか? これ……というか、途中から全部これじゃないか!」

「そうだ」

 シエルは頭が痛くなってきた。見たこともない文字列がずらりと並び、そこに何らかの法則や意味が隠れているとしても、シエルには全く理解できなかった。ただはっきりしていることは、この意味不明な文字列を、一文字も間違えることなく、全て入力しなければならないということ。それも、自分の手で。紙と鉛筆ではなく、メドサンのキーボードで入力できるというのが、唯一の救いだった。シエルはマニュアルを前にしばらく固まっていたが、観念して一行目の入力に取りかかる。

「……やるしかないんだろ、やるしか」

 黙々と作業を進めるシエル。そんな様子を椅子に座って眺めていたソレイユは、大きな欠伸をして立ち上がり、シエルの背後から、メドサンの画面を覗き込んだ。

「うわー……何だこれ? これ、全部入力するの? 一人で? 私も手伝える?」

「申し出はありがたいが、メドサンは一台しかないからな。まぁ……やってやるさ」

「そっか。よーし、頑張れっ!」

 ソレイユはシエルの肩をバシッと両手で叩いた。その衝撃で、シエルの手元が狂い、画面がまっさらになる。『あっ!』シエルとソレイユは、目を丸くした。

「消えちゃった……」と、ソレイユ。

「ああ、消えたな。保存する前に」と、シエル。

「……その、ごめんなさい」

「まぁ……仕方がないさ」

 シエルはがっくりと肩を落とし、また最初からプログラムを入力し始める。


 ――三日後、シエルは全ての入力を終えた。テールからは読書と平行して作業を進めればいいと言われていたが、シエルはどうも気になってしまい、プログラムを入力し続けていたのである。痛む手を揉み解しつつ、疲れ目に目薬を注がれつつ。

 だが、これで終わりではない。むしろここからが本番だと、テールは不敵に笑った……ようにシエルには思えたが、実際のテールは相変わらずの無表情だった。

 シエルはメドサンに接続したケーブルを伸ばし、その先端をテールの首筋に挿入。今度ばかりはテールも白衣やワンピースを脱ごうとはせず、大人しく椅子に座っていた。着々と進んでいく作業風景を、ソレイユはわくわくしながら見守っている。

「よし、後はこの修正プログラムを送り込めば……」

 シエルはメドサンの前に立ち、タンッと軽やかにエンターキーを押して、テールの様子を窺う。テールは両目を閉じ、膝の上に両手を載せていた。そして……。

「エラー」

 テールは一言、そう口にした。シエルとソレイユは、思わず顔を見合わせる。

「エラーって、何だ?」と、シエル。

「エラーはエラーだ。五百三十行目」と、テール。

「五百三十? ……これでスキップして……マニュアルだと、何ページだ?」

「ちょっと待ってね……あ、これじゃない? 四十ページ。530って書いてある」

 ソレイユはメドサンの横でマニュアルを広げた。それを画面と見比べるシエル。

「ああ、それだ。……で、エラーってことは、何か違うのか? 合ってるだろ?」

「んー……あっ、ほら、ここ、『a』が『c』になってるよ?」

「えっ……ほ、本当だ。お前、こんなのよく見つけたな……」

「へへっ、間違い探しって、私、得意なんだ!」

「これを修正して、保存……っと、じゃあ、今度はどうだ?」

「エラー」

「……またか。次は何行目だ?」

「五百三十二行目」

「なんだ、すぐ下じゃないか。今度は何が……あっ、括弧が抜けているな」

「数字も違うよ。『8』が『9』になってる。あと、そこも……」

「……よし、直したぞ」

「エラー」

「やっぱりな……って、これを全部、直していくのか?」

「エラー」

「……わかったよ」

「シエル、頑張ろう! 私も頑張る!」

「ああ、頼りにしてるぞ」

「エラー」

「これでどうだ!」

「エラー」

「これは!」

「エラー」

「次!」

「エラー」

 ……このやり取りはいつ終わるともなく、延々と繰り返された。やがて日が暮れ、食堂に二人が姿を見せないことを心配したキュイが、図書館に訪ねてきた。シエルとソレイユは強い空腹と疲れを感じていたものの、これを終わらせるまでは……と、メドサンの画面とマニュアルを見比べながら、やれここが違う、やれそこが違うと、延々と言い合っている。そんな二人にキュイは呆れたが、肩を寄せ合う二人の後ろ姿を見て、ふっと頬を緩めるのだった。

 ――それから。何十回とも知れぬ修正に次ぐ修正を繰り返し、シエルとソレイユの腹の虫も鳴り疲れ、すっかり静かになってしまった頃、その瞬間がやってきた。

 シエルはもう何も言う気力もなく、ただ、エンターキーに指を乗せた。さて、次は何ページだろうと、ソレイユはぼんやりマニュアルを眺める。だが、いつまでたっても、エラーという声は聞こえてこなかった。はっとするソレイユ。

「テール、もしかして――」

「うん、大丈夫だ。今設定を反映するから、しばらく待っていてくれ」

「やったー!」

 ソレイユはマニュアルを放り上げると、シエルに抱きついた。シエルはそれを振り払うことなく、ただ画面を見詰めていた。「完了」の文字。やっと終わった……。

「よし、こちらも終わったぞ。これで私も笑うことができる」

 シエルはテールに顔を向けた瞬間、体が固まる。テールは笑っていた。上がった口角に、柔らかな目元。確かにそれは笑顔だったが……お世辞にも、可愛いと言えるものではない。お面を無理矢理曲げたような、不自然な笑顔。シエルはその結果に唖然としていたが、ソレイユはテールの笑顔を見るや、大声で笑い出した。

「あはははは! て、テールったら、何、その凄い顔! あはは、おっかしい!」

「失礼だな。人の笑顔を見て笑う奴があるか」

「ふふ、だって……ねぇ、シエル?」

 ソレイユはバンバンとシエルの背中を叩いた。その笑い声を聞いている内に、シエルも何だかおかしくなってくる。テールの不満そうな口調とは対照的な、満面の笑み……やがてシエルも堪えきれなくなり、声を出して笑い始めた。

「……シエルまで。このような結果になるとは、心外だ」

 そう言いながらも、テールは笑顔を崩さない。やがて、それが崩さないのではく、崩せないということに気付いた。両手を頬に当てて、揉みほぐそうとする。

「……おかしいな、何か間違ったか? 表情が制御できない。ふむ、困ったぞ」

 言葉とは裏腹に、テールは笑顔を絶やさない。そして、シエルとソレイユの遠慮のない笑い声が、夜の図書館に響き渡った。

 ――結局、テールの表情は翌日には落ち着いた。新たなプログラムを導入したことで、一時的に表情回路の制御が混乱していたらしい。なお、テールはそれ以降、あの笑顔を人前で見せることはなかった。……絶対に。

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