「日課」
――とっておきの場所。それは、ビブリオを象徴する施設、「図書館」だった。町の中心に位置する巨大な図書館は、様々な場所から目にすることができる。シエルもその存在は予備知識として知っていたし、昨日、ガルディアンの中枢に向かう時も、今朝、配達をしている時も、あれがそうだろうという目星もついていた。だが、実際にこうして白亜の建物まで足を運び、荘厳な扉を押し開いて、その中に一歩足を踏み入れると、シエルは眼前に広がる光景に、ただただ、息を呑むしかなかった。
天井は高く、吹き抜けになっている。五階建て。淡い照明。天窓から差し込む陽光に、埃がちらちらと舞っている。ピンと張り詰めた空気……心安らぐ、濃密な香り。
「へへ、凄いでしょ!」
ソレイユの得意気な声が、やけに大きく響いた。シエルは黙って頷きで応える。こんな光景を見るのは、生まれて初めてだった。見渡す限りの「本棚」……そして何より驚きなのは、その本棚に収められているのが全て「紙の本」であるということ。
「前はすぐに帰っちゃったから、案内できなかったんだよね。ビブリオに来て図書館に来ないなんて、川に行っても水遊びをしないようなものだよ?」
「……一体、何冊あるんだ?」
「九十九万九千七百三十二冊だ」
シエルが驚いて顔を向けると、いつの間にかテールが隣りに立っていた。
「……チェスはもういいのか?」
「ああ。あの後も何度か指したが、全て私の勝利だ。凄いだろう?」
そう言って、テールはシエルを見上げた。シエルは肩をすくめ、質問を続ける。
「お前、ここにある本のこと、全部把握しているのか?」
「無論だ。本には全てタグがついているからな」
「で、九十九万……だっけか、随分と半端な数だな」
「九十九万九千七百三十二冊だ。紙の本は紛失や劣化には抗えないものなのだよ」
「……不便なんだな」
電子書籍なら、メドサンにも収録されている。それも、大量に。
「ねぇシエル、本は好き?」
本棚の前に立っていたソレイユは、振り向きざまに問いかける。
「ああ。ただ……紙の本というものには、ほとんど馴染みがないな」
本棚の前へと歩み寄るシエル。本のための棚、か。シエルはゆっくりと本棚の前を移動していった。タイトルはもちろん、高さや厚み、色やデザインまでもが様々である。シエルは足を止め、小さな本を一冊、手に取った。パラパラとめくる。
「……こんな大きさの本を、先生が持っていたな」
「それは、文庫本だね」と、ソレイユ。
「ぶんこ……? そんな名前がついていたのか」
シエルは本を開き、文字を読もうとするが……小さい。指を当ててしきりに広げてみても、指先は紙面を滑るばかりである。指触りは悪くないが、これでは……。
「拡大もできないなんて、目が疲れそうだな」
「でも、モニターとかタブレットで読むより、すっごく楽だよ?」
「……それに、数もメドサンに入っている方が多い」
「へぇ! 何冊入っているの?」
「一億冊ぐらいだな」
「いちおく……って、いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……」
ソレイユは指折り数え始める。シエルは振り返って、本棚を見渡す。
「紙の本だと、百万冊でこれか……非効率というか、懐古趣味というか」
「そうだな。情報量の観点から言えば、電子書籍には遠く及ぶまい」
そう言って、テールはシエルが肩に提げている鞄を指さした。
「だが、それをどれほど読み解いた? 十万冊か? 百万冊か? 一千万冊か?」
シエルはその問いに応えず、文庫本を棚に戻した。実の所、シエルがメドサンの電子書籍を読んだ冊数は……多く見積もっても、十冊ぐらいである。
「じゃ、そろそろ案内するね! ここは文庫でしょ、あっちには絵本が……」
桁を数えることを放棄したソレイユは、シエルの先に立って案内を始める。ソレイユは館内を熟知しているようで、すらすらと滞りなく解説。それは二階、三階とでも同様だった。シエルは時折、気になった本を手に取り、表紙や内容に目を通す。
「あっちは哲学で、こっちは歴史、そっちは社会、数学、宇宙、風俗、伝記――」
「あれはなんだ?」
シエルが指さす。壁際の本棚が、赤や黄色、黒などの布で覆い隠されていた。
「十八禁コーナーだよ! 私は後二年しないと見ちゃ駄目だって、テールが」
「なんでそんなものが……」
シエルはそう思うと同時に、「十八禁」という言葉の秘密が分かったような気がした。ちらりとテールを窺うと、気にする風でもなく平然としている……やれやれ。
ソレイユの案内は続き、ソレイユがお気に入りだという、冒険小説の本棚へと辿り着いた。ここは、ソレイユのためにテールが用意したのものだという。
「私は物語が大好き! この中には、私の知らない世界がいっぱいあるから!」
何気ない言葉。だが、ソレイユの境遇を考えると……シエルは複雑な思いがするのだった。ソレイユは一冊の本を本棚から取り出し、シエルに手渡す。
「これ、私のお気に入りなんだ! ちょっと読んでみてよ!」
本のタイトルは「勇者の冒険」。シエルは手近な椅子に腰掛け、本を開いた。
文庫よりは大きいものの、相変わらず文字は小さかった。これで本当に目が楽なのか……半信半疑で読み始める。タイトルからして、勇者が魔王を退治するような、ありきたりな内容だと予想するシエル。すると案の定、平和な王国に魔王の軍勢が攻めてくる描写から始まった。結局その王国は滅び、舞台は他国へ。そこでは魔王を倒す勇者を募集していた。世界中から集まった腕自慢の男達に混じって、幼い少年の姿が。少年の正体は、冒頭で滅んだ王国の王子で、唯一の生存者だった。少年は神に選ばれし者がその手にできるという、伝説の聖剣を大衆の面前で抜いて見せ、勇者と呼ばれるようになる。勇者は屈強な戦士や知識豊富な僧侶、妖艶な女占い師などを仲間に加え、魔王退治の大冒険へと――。
シュゴォォォォ。
突然の騒音に、シエルは我に返った。思わず本を閉じ、辺りを見回す。
「あ、うるさかった?」
振り返ったソレイユは、口元をマスクで覆っていた。手には小型の掃除機と本。近くのテーブルには何冊もの本が積み上げられ、その傍らには
「お前、何をやっているんだ?」と、シエル。
「お掃除だよ!」
「掃除?」
「うん。本って、すぐに埃が溜まっちゃうから、こうやって掃除機で吸ったり、刷毛で払ったりしてるんだよ」
「まさか……全部をか?」
「ちょっとずつね。数年前からやってるけど……全部終わるのは、何年後かなぁ」
「随分と気の長い話だな。数年前に掃除した本も、今頃は埃まみれじゃないか?」
「大丈夫! 全部終わったら、また最初からお掃除するから!」
……本当に気の長い話だと、シエルは感心するやら、呆れるやら。
ソレイユは埃を吸った本をパラパラとめくっていたが、やがて手を止めると、開いたままテーブルに置いた。何事かと、横から覗き込むシエル。どうやら、ページが破れているようだ。ソレイユは透明なテープを使い、破れたページをぴたりと貼り合わせる。その見事な手際に、シエルは今度こそ感心した。
「慣れたもんだな」
「へへ、みんな、けっこー本を借りに来るんだよ? 中々返してくれなかったり、なくしちゃったり……破けちゃった時はね、私がこうやって直してるんだ!」
「図書館の管理人、だな」
「うん! 司書さんっていうんだって!」
そう言って、ソレイユは本棚に向かった。高い場所にある本を取ろうと必死に背伸びをしているようだが、指先が届きそうで届かない。見かねたシエルが横に立ち、本を抜き出した。埃が舞い、シエルは思わずくしゃみをする。
「……掃除が必要なわけだ」
「でしょ? シエルは大きいから、助かっちゃった! ありがとう!」
それからしばらく、シエルも本の掃除を手伝うことになった。高い場所にある本を取るだけではなく、刷毛で埃を払ったり、埃を掃除機で吸ったり……ページの修繕にも挑戦したが、斜めに貼り合わせてしまい、ソレイユがやり直す一幕もあった。
やがてお昼になり、掃除を終えたシエルとソレイユは図書館を出て、食堂へと向かった。食事を終えると、ソレイユが再びバスケットを満載した台車を押し始める。今度はお昼の配達……何とも忙しいことだと思いつつも、同行するシエルだった。
――午後の配達が終わり、ソレイユはシエルを鉄塔へ誘った。鉄塔……それはビブリオに
ともすれば図書館より……いや、確実に図書館よりも目立つこの塔が、何のために存在しているのか……ソレイユに尋ねても、首を傾げるばかりであった。ただ、塔には螺旋階段が備え付けられており、上ることができるという。
鉄塔への道中……それは延々と坂道を上らなければならないことを意味していた。幸い、昨晩とは違いってソレイユを背負う必要はない。とはいえ、朝昼二回の配達で歩き疲れたシエルに、坂道は
やがて、二人は鉄塔に辿り着いた。シエルは呼吸を整え、鉄塔を見上げる。
――高い。まさか、ここを……というシエルの思いを余所に、ソレイユは螺旋階段をカン、カン、カンと、軽快に駆け上った。振り返り、手摺りから身を乗り出す。
「シエルー! こっちこっち!」
手招きするソレイユを眩しそうに見上げながら、シエルは声を上げた。
「おい! 今度は何をしようっていうんだ?」
「見張りだよ!」
……見張りだって? 確かに、鉄塔の上からなら、さぞ遠くまで見渡すことができるだろう。だが……シエルが動こうとしないので、ソレイユは再び声をかけた。
「どうしたの? 高いところは苦手? それとも、もう疲れちゃった?」
その両方だった。だが、このままソレイユを放っておくこともできない……と考え、なんでそんなことを思ったのかと、シエルは首を傾げる。とにもかくにもと、シエルは階段へと歩み寄り、手摺りを掴んで上り始めた。……ゆっくりと。
――どれほど上っただろう。シエルは一度、見通しの良い足場を見て後悔してからは、ずっと顔を上げて上り続けていたのだが……やがて、踊り場へと辿り着いた。階段はまだ上へと続いていたが、踊り場には風通しの良さそうな寝椅子に横たわる、ソレイユの姿が……
「……おい、何をやってるんだ?」
「あ、シエルお疲れ様! 何って、見張りだよ、見張り!」
「俺には、昼寝をしているようにしか見えないが?」
「大丈夫だよ! 何か見つけたら、テールが教えてくれるから!」
ソレイユの返答に、シエルは肩をすくめる。幸い、テールの……ガルディアンの索敵機能は生きている。そのお陰で、シエルも救われたばかりだ。その精度は、ここからの目視よりもよっぽど信頼が置けるわけで……見張りとは何だったのか。
シエルは踊り場をゆっくりと歩き、安全柵に手をかけた。強い日差し。見渡す限りの荒野。眼下に見える巨人の山。その背後の窪地には、天候制御で溜められたのだろう、雨水が巨大な湖となっていた。一方、いくら目を凝らしても、海は見えない。
踊り場をぐるりと一周したシエルは、寝椅子に横たわるソレイユを見下ろした。静かに寝息を立てるその姿に、起きているのが馬鹿らしくなってくる。だが、当然のようにシエルの寝椅子はもちろん、日除けの傘も見当たらない。シエルは踊り場で日陰になっている場所を見つけ、腰を落ち着ける。ほっと一息。日差しは厳しいが、乾いた涼しい風が吹き抜けていく。シエルはぼんやりと、自分の姿を眺めた。ジャケットにズボン。作業着以外の格好になったのは、いつ以来だろう。服は何着か持っているが、ほとんど作業着で過ごしていた。最も技師らしく見える、あの格好で。
大きな欠伸。シエルはこんなに
「……エル、シエル!」
シエルは肩を揺さ振られ、目を覚ました。ぼんやり顔を上げると、目の前には影になったソレイユの顔が。膝に手を当て身を屈め、シエルの顔を覗き込むソレイユ。
「ごめん! シエルの寝る場所がないの、すっかり忘れてたよ! テールに作ってもらおうね! 運ぶのは大変だけど、見た目よりも軽いから大丈夫、大丈夫!」
ソレイユは寝椅子に歩み寄り、ぽんぽんと白い背もたれを叩いた。
「さて、お昼寝……もとい、見張りは終わりだよ! 午後の訓練、開始!」
ソレイユは拳を空に突き上げ、シエルは大きな欠伸で応じた。
シエルは訓練と聞いて、またあの爆音を聞くことになるのかと憂鬱だったが、ソレイユが足を向けたのは、意外にも図書館だった。ただ、今度は本棚を素通りし、奥の部屋へと向かう。何の変哲も無い扉……が、その奥には別世界が待っていた。
「な、なんだ、この部屋は……」
まずシエルの目を引いたのは、部屋の奥、正面に鎮座する巨大なモニターだった。その手前には四角いものから平たいものまで、様々な機械が並んでおり、そこから何本もケーブルが伸びていた。その中の数本は、各機械の前に並んでいる、手の平サイズの機械に繋がっている。たくさんのボタンやレバーが付いた、小さな機械に。
壁際には可動式の棚が備え付けられており、そこには本ではなく、大小様々な箱が滅多に詰め込まれていた。その合間に、スピーカーらしき装置も見える。
モニターの向かい側には、座り心地の良さそうなソファーと大きなクッション。シエルが呆然と立ち尽くしている間にも、ソレイユは手慣れた様子で棚から箱を取り出し、二つに割って円盤を抜き出した。そして、様々な機械の中から黒い機械を選び、円盤を挿入。ピピッという電子音と共にモニターに映像が映し出され、スピーカーから音楽が流れ出した。ソレイユは手の平サイズの機械を手に取ると、ソファーに腰を沈め、前傾になる。やがて、モニターに巨大な文字が映し出された。
『それいけ! ソレイユ! ~危機一髪! ビブリオ防衛戦!~ PUSH START~』
……なんだ、これは。
「ゲーム部屋だ」
シエルが声のした方に顔を向けると、テールが立っていた。いつもながら唐突に現れるが、さすがに慣れてきたシエル。こいつはこういうものなのだろう、多分。
「ゲーム?」
「一口にゲームといっても色々あるが、ビデオゲームという奴だな。お前の大好きなメドサンにも入っているだろう?」
「ああ。でも何なんだ、あの機械とか、この棚の箱は?」
「太古の昔、ビデオゲームはソフトとハードがあってこそ、成立していたのだ。この部屋にあるものは、それを再現したものだ。もちろん、オリジナルではないがな」
「どれぐらいの数があるんだ?」
「九万八千九百七十七本だ。無論、この部屋に全て収まっているわけではないぞ」
シエルは棚に歩み寄ると、目についた箱を手に取って驚愕……この箱、紙でできているのか。陳腐なイラスト。裏には説明文と思しき小さな文字。シエルは箱の開け方が分からず四苦八苦。見かねたテールが開けて見せる。紙の箱は少し力を加えただけで変形し、頼りないことこの上なかった。その中には、プラスチック製の箱。テール曰く、「カートリッジ」「カセット」「ソフト」などと呼ぶらしい。そんな名称よりも、剥き出しの基盤が気になるシエル。耐久性は問題ないのだろうか……それに、ソレイユが手にしていたのは円盤だった。……まぁ、色々な種類があるのだろう。
箱の種類も様々なら、そこに描かれているイラストも様々である。ソレイユと同じオーバーオール姿をしたヒゲ面の男や、大きな剣を手にして飛び上がっている少年。そして、露出度が高い衣装を身につけ、巨大な瞳でこちらを見つめる少女。……何かと気になる物だらけだが、何より気になっているのは……。
「あれは、何なんだ?」と、シエルはモニターを指さす。
「『それいけ! ソレイユ!』だ」
「だから、それは何なんだって」
ソレイユはカチャカチャと素早く指先を動かし、それに合わせてモニターの情景もめまぐるしく変化。画面の奥から迫ってくるのは……オートマタだろうか。
「私が作ったシミュレーションゲームだ。訓練になるようにな」
「これが、訓練……」
シエルは腕を組み、モニターを眺める。ソレイユは順調にオートマタを倒しているようで、オートマタが爆音と共に消え去る度に、モニターの数字が増えていく。この数字は「スコア」で、これを増やすことがゲーム……もとい、訓練の目標らしい。
「これがあるなら、外であんな演習をしなくてもいいんじゃないか?」
「これはあくまでシミュレーションだ。演習は必要だよ」
大きな爆音が響き、モニターに大きく「GAME OVER」の文字。「あ~! もう!」と声を上げたソレイユだが、言葉とは裏腹に、その表情は楽しそうだった。
その後もソレイユは訓練を繰り返し、何度目かの「GAME OVER」を迎えた後、くるりと振り返って、シエルに声をかけた。
「ねぇ、シエルも一緒にやろうよ!」
そう言って、手にした機械……コントローラというらしい……を差し出す。
「俺、こんなのやったことないぞ?」
「大丈夫! 私が教えてあげるから!」
「大丈夫って……そもそも、二人でできるものなのか?」
「問題ない。最大、千二十四人まで同時プレイが可能だ。ただ、ここにはモニターが一台しかないから、画面分割にはなるがな」
シエルはテールの話がよく分からなかったが、とりあえず、コントローラを手に取った。シエルがソレイユの隣りに座ると、早速、レクチャーが始まった。
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