最終話 生まれ生まれ生まれ生まれて
「泥のなかから 蓮が咲く。 それをするのは 蓮じゃない。
卵のなかから 鶏が出る。 それをするのは 鶏じゃない。
それに私は 気がついた。 それも私の せいじゃない。」
(金子みすゞ 「蓮と鶏」)
見えざる大きな力に、我々の誰もが生かされています。
この詩は、仏教でいうところの「縁起」というものを端的に表現していて、とても素敵だと思います。
「グランドジャンプPREMIAM」2016年5月号を、高野山から下山して橋本市の書店にて購入し、「ブラックエンジェルズ」や「ドーベルマン刑事」などの作品で知られる、平松伸二先生の自伝的漫画、「そしてボクは外道マンになる」を拝読させていただきました。
1974年(昭和49年)、18歳の平松先生は、故郷の岡山を離れ、漫画家を目指して上京し、当時、「週刊少年ジャンプ」にて「アストロ球団」を連載していた父、中島徳博のアシスタントをすることになります。
決して豊かではなかったけど、誰もがギラギラしていた古きよき昭和の熱気。時代を創ろうとする漫画家たちの狂気。
すっかり一流の大企業になった集英社のエリートたちとはまるで違う、とてもカタギと思えない、ヤクザな編集者たちの殺気。
そんな彼らの情熱が、火花のようにはじけて混ざります。
漫画の中に出てくる父は、良いところも悪いところもひっくるめて、もうそのまんま父です。どこぞの教祖のような怪しい風貌、左利きであること、野太い腕や指の感じなども正確に再現されています。
母と姉はやたら美化されてますが、おそらく母から平松先生になんらかの圧力があったのではないかと察します。
漫画家の女房は、タコ部屋に寝泊まりしているアシスタントさんたちの食事を作ったり、身の回りの世話を焼いたりする女将さんみたいな役回りです。 父は平松先生のことを「伸坊」と呼んでいました。
母は親しみを込めて、「ひらまっちゃん」と呼びます。
今や押しも押されぬ大先生となってしまった平松先生ですが、母の中では、岡山から上京してきたばかりの美少年、「ひらまっちゃん」のまま、時が止まってしまっているようです。
私が物心ついた頃から、父はすでに仕事らしい仕事もなく、 四半世紀以上、 家の中でゴロゴロしていました。社会的には完全に、「元漫画家の無職」であり、 家族からは「寝たきり老人」ならぬ、 「寝たふり老人」などと揶揄されていました。
子供たちは、父がバリバリ働いている姿を見た記憶がほとんどありません。今回、平松先生の作品のなかで、気迫をこめて漫画を描く父の姿を拝見させていただきました。
「アストロ球団」の担当編集者であり、後に第4代目の少年ジャンプ編集長になる後藤広喜さんにそっくりな「権藤狂児」という編集者が登場します。後藤さん、もとい権藤さんからのプレッシャーがあまりにもきつかったせいなのか、父、中島徳博は利き手の左手がキャッチャーミットのように腫れ上がるという、心因性の謎の奇病にかかります。
ペンが握れなくなり、1975年(昭和50年)の「少年ジャンプ」20号から23号まで、四週間の休載を余儀なくされます。この事は、「アストロ球団メモリアル」(太田出版)にも記載があります。
父は月刊ジャンプの方で「球道武蔵」というタイトルの読み切り漫画を描く予定でしたが、病気のため急遽、代役が必要になり、父は自分の代役に、アシスタントの中でも最も若い、「伸坊」こと平松伸二先生を指名します。
平松先生いわく、「なぜボクだったのか!? いまだにその答えは分からない」との事です。平松先生ほどの才能がおありならば、遅かれ早かれビッグな漫画家になったことと思いますが、父の目にまんざら狂いはなかったという事でしょう。 青年の平松先生は、締め切りに追われる初めての恐怖に、発狂寸前まで追い込まれますが、なんとか無事に作品を仕上げます。
実はこの話には裏話があります。
ここからが本題なのです。
40のオッサンになった私にも、かつて思春期の頃があり、決してグレていた訳ではないですが、反抗期らしき時代もありました。
なんらかのつまらないことで母親と口論になり、私はつい感情的になって、反抗期の少年にありがちな、青臭い台詞を口走っていました。
「なんで俺を生んだんだよ!!」
その時、母親は事もなげにこう答えました。
「あの時、お父さん酔ってたから。」
私が母に言った「なんで」は、国語の文法でいえば、あくまでも「反語法」であり、決して原因や手段を訊ねていたわけではありません。
酒の勢いゆえの誤射。
唐突に明かされた出生の秘密に、思春期の心は少なからず傷ついたものでした。
それから月日は流れ、私は高野山に登り僧侶になり、何の因果か、中国に6年間ほど出向することになります。
ビザの都合で年に一度くらいは帰国していました。横浜の実家に帰ったある日、私は古いアルバムをめくっていました。
立派なお城の前で、若い母が、幼い姉を抱っこしている一枚の写真が目に入りました。なんだか見覚えのあるお城です。おそらく長野の松本城でしょう。城の石垣には桜が咲いています。
私は母に聞きました。
「これ、松本城?」
「そうよ。」
続けて母に聞きました。
「なんで俺を連れて行ってくれなかったの?」
「あんたはまだ生まれてなかったのよ。」
なるほど。写真の姉はちょうど2歳くらいです。
母は急に思い出したようにこう言いました。
「あ、そうそう。あんたはちょうどこの時に出来た子なのよ。」
点と点が繋がります。
お父さんが酔っていたという「あの時」は、長野での「この時」だったのか。
私の誕生日は、1976年(昭和51年)の2月25日です。
この写真の長野への旅行は昭和50年の事ということになります。
城の石垣には桜が咲いています。長野は高地なので気温が低く、ひと足遅く桜が開花するでしょう。4月半ば過ぎといったところでしょうか。
4月半ば過ぎに仕込んだ子供が、翌年の2月末に生まれる。
確かに計算がピッタリ合います。
さて、昭和50年、1975年の春といえば、父の身に何が起こった時でしょうか。平松先生はよくご存知のはずです。
手元にあります「アストロ球団メモリアル」によれば、 「少年ジャンプ」20号から23号までの4週間は、「アストロ球団」は休載しています。父と母が長野に静養に行ったのも、ちょうどこの頃でしょう。
父が謎の奇病にかかり、静養したおかげで、私はこの世に生を受けることが出来たのでした。そのとばっちりで平松先生には大変な思いをさせてしまいました。どうかおゆるしください。
月の満ち欠けによって、生物は新しい命を宿します。
そしてまた月の満ち欠けによって、潮の満ち引きが起こります。
お大師さまを赤岸鎮に運んできた波も風も、
ひょんな成りゆきで母が私を身ごもったのも、
ちょっとした月の引力のいたずらなのかもしれません。
人と人が引かれ合う気まぐれな引力を、仏教では「縁」と呼びます。
合掌
入唐見聞録 魯智浅 @zhongdaolongtailang
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