第24話 父、カゴンマに還る
父、
2014年の6月末、車椅子の父は母と一緒に、横浜から新幹線に乗って大阪へ行き、高野山まで来てくれました。人工肛門のストマ、尿道からはカテーテルをぶら下げたまま、癌が骨を侵食していく痛みに耐えるためのモルヒネを飲みながら遠路はるばる、出来の悪い長男の顔を一目、見に来てくれました。
それからひと月後の7月、横浜市内の病院にいた父は、すでに身体中のあちこちを癌に侵され、立ち上がることもままならない身体になっていました。
己の死期が近いことを悟ったのか、鹿児島への帰郷を父は懇願しました。
母は、「こんな身体で鹿児島へ行っても何も出来ないしつまらないじゃないの。元気になってからまた行こうね」と言って父を説得しようとしましたが、父はしぼり出すような声でこう言いました。
「もう一度、桜島が見たか。錦江湾の風に吹かれるだけでよかよ。」
元気な頃の父は、基本的に標準語しか喋りませんでした。若くて、とんがっていた頃、父の口から鹿児島は嫌いだ、鹿児島のヤツはダメだ、と悪し様に言っているのを何度か聞いたことがあります。若き父は、自分から故郷を遠ざけていたように見えたのですが、死期を悟り里心に火がついたのか、それとも癌が脳にも転移していた影響なのか、晩年の父は鹿児島弁しか喋らなくなり、あどけない少年の頃に戻ってしまったようで、澄んだ瞳で天井の一角を、ぼんやりと見るわけでもなく見ていました。
母は、父の最後のワガママに付き合うことを決心し、鹿児島行きを敢行しました。
「
小中学校の同級生たち、鹿児島実業高校の同級生たち、親戚たちが、父と母と弟たちを盛大に迎えてくれて、思い出の場所に連れていってくれたり、忘れられない料理を食べさせてくれました。駆けつける同級生たちはどんどん膨らみ、一行は大名行列さながらの団体になりました。
唯一の心残りといえば、父はちょうどこの頃、山車や神輿を担いだフンドシ姿の男たちが街を賑わす祇園祭を一目、見たかったのですが、体調を崩してしまい、高熱にうなされ、ホテルで休養することになり、断念せざるをえませんでした。
父が鹿児島を離れて横浜へ帰る日、同級生たちが見送りに来てくれました。
とある、学生時代に応援団をしていた同級生は、フンドシ姿に捻りハチマキに地下足袋という、祇園祭に出仕する出で立ちでホテルまで駆けつけてくれて、大声をふりしぼって応援のエールを送りました。還暦を越えたおじいさんが、フンドシ一丁で現れて時代遅れのエールを送る。通常なら滑稽で、笑ってしまうところでしょうが、おそらく父が最後の帰郷になることは、誰の目から見ても明らかなので、真剣にエールを送る彼の姿を笑う者は一人としていませんでした。
「フレー!フレー!ノ、リ、ヒ、ロ!!」悲壮なエールを涙声でおらび、みんなして、顔をクシャクシャにしながら泣くに泣いて、父を見送りました。
「
「おお、戻ってくるわい。」
一ヶ月後の8月28日、父は横浜市内の病院で息をひきとり、この約束は果たされることはありませんでした。
2015年7月、父の死からもうすぐ一年。母の希望で、灰になった父の一部を、我々家族や友人たちの手で、鹿児島の海に還すことになりました。
しかしまあ、便利な世の中になったものです。早朝5時48分に高野山駅行きのバスに乗れば、9時18分に新大阪発の新幹線「さくら」に間に合います。
そして14時前には、父の形見の帽子をかぶった私が、鹿児島中央駅に降り立っていました。すでに父の同級生の友人が駅まで迎えに来てくれています。
鹿児島に来て、会う人会う人みんな、息子の私を見ると「ほんのこて似ちょる。」(本当に似ている)と言って涙ぐむほど喜んで、力強く握手してくださりました。
うっかり私が息子であることを忘れて、私のことを父本人だと思ってネイティブ鹿児島弁で遠慮なく話しかけてくださる方もおりましたが、福建省の方言なみにヒアリングは難しかったです。
父の同級生のご夫婦や父のいとこのご夫婦らと、父の母校の小学校や中学校に詣でて、父のルーツを辿りました。
なんだかまるで、かくれんぼしている少年の日の父を探しているような、そんな気分になりました。母子家庭で家が貧しかった父は、小学生の時から毎朝、新聞配達をして家計を支えていました。父が新聞配達をしていたという町並みも、今回、見ることができました。
中学校に上がると、父は自分を高校生と偽り、ドカタの日雇い労働もしていました。高度経済成長期のまっただ中、少年たちの誰もが野球選手に憧れて、夢中になって野球で遊んだ時代に、父は野球をしたことがありませんでした。のちに上京した父は、野球漫画を描くことになりますが、野球のルールを知らないがために、父の描く「アストロ球団」は、野球漫画の枠を超えて、限りなくエスカレートしていきます。その背景にはこういった、父の生まれ育った家庭の事情があります。
父は二畳間に、妹と母と三人で暮らしていた事もあります。父は何度か、鹿児島市内で引っ越しをしますが、どの地域からでも桜島を望むことが出来ました。
ある角度からは雄々しく見えて、ある角度からは、たおやかで女性的に見えます。たとえ道に迷っても、桜島を見れば、今の自分がどこにいるかを教えてくれます。桜島はきっと、父の座標軸のようなものだったのでしょう。おそらく、上京した後もずっと。
漫画家として一発屋の部類に入るであろう父の代表作、「アストロ球団」のモットーと言えば、「一試合完全燃焼」。このモットーは、薩摩藩に伝わる古流剣術、示現流の精神に通じる何かがあります。示現流の流儀といえば、「トンボの構え」と呼ばれる、刀をかつぐような独特の構えで「チェスト」とおらびながら、一の太刀に全てを賭けます。幕末に京の町を震え上がらせた、「人斬り半次郎」こと中村半次郎も、示現流の使い手である薩摩藩士です。「一の太刀を疑わず、二の太刀は負け」。一の太刀をしくじったら、二の太刀は無い。一撃だからこその必殺。死と隣り合わせの覚悟と気迫が剣先に宿ります。父の作品に見られる狂気じみた迫力も、今週、手抜きや出し惜しみをしたら、来週には打ち切り宣告。
当時、まだマイナー誌だった「少年ジャンプ」の新人漫画家ゆえの背水の陣。毎週がクライマックス、締め切り前は修羅場。二度と原稿を遅らせないことを誓って血判状を編集部に叩きつける、滑稽なほどの一途さ。
「泣こよかひっとべ。」
子供の教育にさして関心の無い父でしたが、私が十代の頃、この 鹿児島の言葉を教えられたことがあります。四の五の理屈をこねたり、ウジウジするよりも、思いきり捨て身でやってみろ、というほどの意味です。 今日の今、この瞬間、出し惜しみせず保険もかけずに、「今」と刺し違える、そんな捨て身の覚悟がなければ明日は来ない。中島徳博のペンと、中村半次郎の剣に相通じる、薩摩隼人の気骨。
2015年7月25日。
文字どおり完全燃焼された父の
私は今、お父さんがドカタをしていた頃にペンキを塗ったという、
錦江湾の赤灯台を見ています。
夏雲はまばゆいほど白く、カゴンマの空は、わっぜ、青かなぁ。
※わっぜ(鹿児島弁で、とても、大変に、を意味する副詞)
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