昇る日

久保田弥代

――――本編――――


          一


 傘を伝わる雪の感触を右手に楽しみながら、家の近所を歩いていた。朝の冷たい気配の中、雪がちらちらと空を舞っている。

 白い雪は、嫌いじゃない。空の灰色に押されて雲からこぼれ落ちた、白のエッセンスみたいで、きれいだ。

 ぎゅっ、ぎゅっ、と長靴で、アスファルトにつもった雪に跡をつけていく。雪をかぶった鳥居をくぐった途端、足音はきゅっ、きゅっ、と変わった。白くきれいな雪は、誰かが訪れてくれるのを待っていたのだろうか。

 神社は静けさの中、白に沈んでいた。

 雪に埋もれた参道の左右で、石灯籠が傘地蔵のように雪をかぶっている。参道の向こうにはお社。とても古びている。どことなく恐くて、でも、何故か見とれてしまうような建物だ。お社の左手には社務所、鳥居のすぐ近くには手水舎がある。

 社務所の真向かい、お社の右手には、幹が抱えきれないくらい大きな銀杏の木。

 その銀杏の根本に、犬がちょこんと座っていた。〈お座り〉の姿勢だ。犬には詳しくないけれど、あの飾りのない素朴な顔立ちは、たぶん柴犬だろう。

 まだ、ここにいるんだね――

 手水舎に行き、水で手を浄める。痛くて目をつむってしまうほど、冷たかった。

 お浄めを済ませて、銀杏の方に歩き出す。誰の、何の足跡もない雪を、きゅっ、きゅっと鳴らしながら。

 犬の前に立ち、見下ろす。犬が視線を向けてくる。どこまでも黒くて深い目だった。

 どことなく寂しげな犬の姿は、霧雨の中の街灯みたいに、にじんでしまっていた。もう少しで乾いたのに、うっかり水をこぼしてしまった水彩画みたいに。

 きゅうん、と犬の喉が鳴った。その声も姿と同じで、ぼやけていた。犬と目を合わせたまましゃがみ込む。動物は真っ直ぐだ。いつだって、自分を見てくれる目を見つめている。

「かわいそうにね」

 目の高さを合わせた途端、犬は嬉しそうに、舌を出してはふはふと息をした。でも、白い靄を吐き出しているのは、この犬ではない。

「まだ、どこにも行けないんだね」

 そんな言葉を、白い靄と一緒に吐き出した。

 無駄なことだと分かっているから、撫でてやろうとは思わない。肩にもたせかけている傘に、頬をそっとつけた。ちりっ、と痛いような冷たさが伝わってくる。目を閉じて、冷たさが溶けていくのを待った。

 心細げな犬の鳴き声で、目を開けた。

 犬は、雪に沈み込んだ長靴を掻き出そうとでもするように、前足でひっかく仕草をしていた。何度も、何度も。見ていると、鼻の奥がきゅんとなる。犬は手応えがないことを不思議がっているのか、まるで首を傾げるような仕草も交えて、同じことを繰り返している。

「お前には分からないかな」

 踏み締める雪以外には何の感触もない足に視線を落とす。

「お前はね、死んじゃったの。ゆうれいになっちゃったんだよ。分かる?」



          二


 この犬を最初に見かけたのは、クリスマス・イブの夕暮れ――つまり二十四日だった。一人でぶらぶらと歩いていて神社を通りがかり、気付いたのだった。

 一目で分かった。風景に溶け込んでしまった姿、どこからか響く声。

 ああ、この犬は死んでるんだ――

 こういうものを見ることは、特に珍しいことではなかった。ずいぶんと昔から、――物心つくよりも前から、それは当たり前のように見えるものだったのだ。

 周りの人にはそれが見えないのだと気付いたのは、小学校二年生の頃だった。霊視とか霊能力という言葉を知り、自分が人と〈違う〉のだと知ったのは、四年生の頃だった。

 友達を作れなくなったのは、それから。

 〈違う〉ということは、つらかった。だから心の中に堰を作った。中身が溢れ出さないように。余計なものが入り込まないように。それでなければ、耐えられなかった。

 それ以来、本ばかり読んで過ごすことが多くなった。本を読んでいる時だけは、他に何百、何千、何万といる他の読者と同じなのだと、安心することが出来たからだ。

 〈違う〉ことに、変わりはないけれど。

 ふと気分がほぐれると、何かを見ることが今もある。いつも、と言えるほどには多くないが、たまに、と言うには多すぎる程度に。中学に上がったばかりの頃は、見るたびに、嫌悪で顔をしかめたものだった。

 しかし本を読んだせいだろうか、いつの間にか嫌悪感は薄くなっていた。中学卒業を間近に控えた今は、こうして声をかけてやることさえ出来る。こちらの声が向こうに届いているのかどうかは分からないけれど。

 見える、というだけなのだ。

 ――いつの間にか犬は、長靴を掻こうとするのをやめてしまっていた。長靴の中の足は雪に熱を奪われ、きんと冷えている。

 すがるようなつぶらな目で、真っ直ぐに見つめられていた。何かをお願いされているような気分になった。

「寂しいのかな。……ご主人様に会いたいの? ……でもね、お前の姿は、たぶんもう、ご主人様にだって見えないんだよ」

 犬は頭を下げ、尻尾を小さく左右に振った。是非にもという哀願なのか、それとも気落ちなのだろうか。それすら、分からない。

 人と〈違う〉ことは、もう、あきらめた。

 今では、何も出来ないことが恨めしい。救いを求めるうめきを聞いても、何もしてやれない。哀れな魂を見かけても、助けるための方法は知らない。

 何の意味があるのだろう――



          三


 からからと戸の音がした。慌てて立ち上がって振り返ると、社務所の戸を開けて、人が出てくるところだった。今日の空のような、灰色のロングコートを着た男の人だった。

 一度、ちらりと犬を見下ろす。黒い目は、まだ真っ直ぐな視線を向けてきていた。それに刺されたような痛みを感じて、お社の方に歩きはじめた。ぱさりと傘から雪が落ちる。

 賽銭箱には、十五円を投げ入れた。

 頭を小さく二度下げてから、これまた小さく二度、拍手した。合掌したままで、お祈りする。――神様、どうかあの犬を――また小さく二度、頭を下げる。

 振り返って、目をみはった。

 自分の目が信じられなかった。

 雪の世界。白の国。――紺の傘を差したその人は、犬の前で、犬を見下ろしている。

 ゆうれいの犬を。

 社務所から姿を見せた人。

 呆然とその光景を眺めていると、男の人は、膝を折って視線を犬と同じ高さにした。そして、まるで本物の犬がそこにいるかのように、――ゆうれいの犬を、撫でた。

 眩暈さえ感じた。膝が崩れそうな感覚があって、賽銭箱に手をついた。ぎしっ、と古い木枠が鳴って、――男の人が、こちらを振り向いた。

 犬の頭を撫でながら、頭だけを巡らせてこちらを見たその人は、立ち上がり、身体をこちらに向けた。閉ざされていた唇が開くのが見えた。言葉を待つ一瞬が、長かった。

「こちらに、いらっしゃいませんか」

 優しい響きの声だった。

 ためらいを振り切るよりも早く、身体が、銀杏の木に向けて動き出していた。雪をゆっくりと踏み締めていく。きゅっきゅっと足音。とくとくと胸の鼓動。

 男の人はもう、元のようにしゃがんで、犬を撫でていた。中程まで来ると、男の人の横顔が見えるようになって、足が止まりかけた。

 年上の人の年齢はよく分からない。二十代の後半かと思える程度だった。でも――

 おだやかに、きれいな男の人だった。

 傘がぶつかり合わない程度の距離に、男の人と並んでしゃがんだ。犬は、今まで見たことがないほど嬉しそうに、男の人にじゃれつこうとしていた。

「この子が、見えるのですね」

 やわらかな声で話しかけられた。頷くだけで済ませることも出来たろうけれど、そうしてはいけないと思わせる声だった。

「……はい」

「撫でてやりますか」と、問われた。

「出来ないんです」と答えるしかない。「見えるだけなんです。触れないし、……何もしてあげられません」

 はふはふと、犬の息遣いだけが聞こえる。

 ややあって、男の人が言った。

「私にはあなたと違うことが出来るようです。……私は、この子を旅立たせてやって欲しいと、ここの宮司から頼まれた者です」

 にわかには信じ難い言葉だった。

「出来るんですか? そんなこと」

「出来ないことではありません」

 社務所の戸が開く音がして、そちらを振り向いた。小雪の向こう、透明なビニールの傘を差した神主さんがこちらに歩いてくる。何となくそうしなければいけない気がして、立ち上がった。



          四


 すぐそばまで来た神主さんが頭を下げて、丁寧に「おはようございます」と挨拶をしてきてくれた。慌ててこちらも挨拶を返した。それから神主さんは、立ち上がっていた男の人に、こう言った。

「轟さん、そいつを助けてやれますか?」

 このきれいな人は、轟という名前のようだ。

「そうせねばなりません」

 轟さんが答えた。それから神主さんはこちらに顔を向け、話しかけてきた。

「ところであなたは、最近、毎朝お参りにいらっしゃる方ですね。……やっぱりあなたには見えていたんですなぁ、この霊が」

「……はい」芸のない返事をした。

「私には、何かいると分かるだけなんですよ。最近、銀杏の下にいると思っていたら、あなたがこの数日、見えない何かと向き合っているようだと気付きまして。やはり何かがいる、それなら幽世に……あの世に送ってやらねばならん、と、それで轟さんにお願いしたんです。轟さんは、それが出来る人なんですよ。世間で言う、霊能力者というやつですな」

 やっぱり、そうだったのだ。そういう、見える以上の特別な力がある人だったのだ。

 その時、背後で犬が大きく一吠えした。思わず振り向く。轟さんも振り向いていた。

「どうしました?」

 神主さんが不思議そうに、少し慌てたように尋ねてきた。神主さんには、今の犬の声が聞こえなかったらしい。

 轟さんが、しゃがみながら答えた。

「犬が吠えたのです」

「……そうですか。あなたもお聞きに?」

 そう訊かれ、「はい」と答えた。

 すると、神主さんは何故か渋面を作った。

「いけませんな、仮にも神殿を預かる宮司がこの有様では。……まったく、何かしてやりたくとも、気付くことすら出来んとは」

 ずきり、と胸の中がうずいた。

「それでいいのですよ」轟さんが静かに言った。「あなたはご自分の問題に気付いておられる。まず問題を知らねば、答えを得ることは出来ないのですから」

 轟さんは、犬を優しく撫でている。その手が毛並みをくしゃくしゃとゆらすのと同じように、心が今の言葉で波打っていた。

「あの……」呟くような声を絞った。「この犬を、成仏させてあげるんですか?」

 轟さんがこちらを見上げ、笑みを作った。

「成仏とは仏教の言い方ですが、そのようにするつもりです。死したる霊魂は顕世うつしよに留まらず、幽世かくりよで安らぐべきなのです。そうしてやれる者の務めとして、私は、この犬の霊を安んじてやらねばなりません」

 心が安らぐ言葉だった。

 胸苦しさが薄れていく。胸の中で膨らんでいた風船から、ゆるゆると空気が抜けていくみたいだ。

「ご自分を無力だと思ってはいけませんよ」

 はっとした。

 轟さんは手を止めていた。澄んだ、真っ直ぐな視線を注がれていることに気付いた。

「あなたは、この霊に何もしてやれなかったとお思いかも知れません。ですが、あなたはこの霊が安んじられるように、祈念を捧げていたのではないですか? あなたは、ご自分に出来る精一杯のことを、この霊にしてあげていたのでしょう」

「どうして……」言葉が続かなかった。

 立ちすくんでしまっていた。

「先程、撫でてみるかと尋ねた時、『何もしてあげられません』とお答えになりましたよ、あなたは。それは、己の力が足りないことを悔いる人の言葉です。しかしそうではない。悔いることも、恥ずべきこともありません。あなたは出来る限りのことをしたのですから。その行いは、尊く、立派なものです」

 そうなのだろうか。本当にそうなのだろうか。顔を巡らせて、神主さんを見た。微笑みが頷いていた。足元に犬が近付いてきていた。どうしたのだろう、首を苦しそうなほど上に伸ばし、必死に視線を注いでくる。

 犬は首をもたげて、足の辺りを舌で舐めるようにしはじめた。感触などないだろうに、いじらしく、懸命に繰り返した。くぅん、と甘えた声がする。急に鼻の奥が熱くなって、熱は両目に広がっていった。視界が虹色に彩られていった。

「元気を出して下さい。この子には分かっているのですよ。あなたが、自分のために祈ってくれていたことが」

 思わず顔を向けた轟さんの姿は、虹に沈んではっきり見えなかった。でも、微笑んでくれている。何故だろう、そう信じられた。



          五


「〈探し犬〉を探すのです」と、轟さんは言った。「飼い主に看取られず外出先などで死んだ場合、多く動物の霊は顕世に残ります。あの犬には人懐っこい雰囲気がありますから、良い飼い主に恵まれていたのでしょう。そんな飼い主なら《探し犬》の張り紙くらいは出しているはずです。それを探し出し、飼い主との対面をさせてやりましょう」

 なるほどと納得できた。だから、そのお手伝いを申し出ることにした。轟さんはにこやかに「お願いします」と言ってくれ、それから三日間、二人で〈探し犬〉を探し歩いた。

 今まで閉じこめられていた何かから解放されたように、ずっと何かに苦しんでいたことが嘘のように、安心して街を歩けた。

 自分にも何かが出来る。

 それこそが、〈違う〉ことの意味なのだろうと思えたからだ。安堵。平穏。そんな気持ちと手をつないで街を歩くことが出来た。

 手がかりはなかなか見つからなかった。四日目は、二人が分散して探すことにしたのだけれど、こちらの方は成果がなかった。

 轟さんの方はどうだったろうと、打ち合わせ通り、夜になってから神主さんに電話した。

「轟さんがどうやら飼い主を見つけたようです。明日、大晦日ですが、飼い主にうちに来て頂くことになりました。あなたも見届けたいでしょうから、是非いらっしゃい」

「はいっ、お願いします」と、大声で返事をした。笑顔のままでも大声が出せるのだと、初めて知った。



          六


 星灯りが冴えた、しん、と冷たい大晦日の夜。表参道にはささやかな屋台が並び、気の早い初詣客が来はじめている。銀杏の下で轟さんと並び、犬の飼い主を待っていた。

 犬は、さっきから落ち着きをなくして、うるさいほどに吠えたてていた。やがてここを訪れる人が誰なのか、すでに知っているように感じられた。限りない郷愁のこもった叫びが、無性に切なかった。

 飼い主は、十歳の男の子だと轟さんから聞いた。和雄君というそうだ。そのお父さんと話をしたとのことだった。場所はこちらから、時間は向こうから指定したそうだ。

 犬がゆうれいなのだということは伏せたという。話せば信じてもらえる、ということではないから、それは当然だと思った。

 午後十時の約束の時間、鳥居をくぐった和雄君の姿を目にして、愕然とした。轟さんも、驚きを隠し切れずにいた。

 彼は、父親に押された車椅子に乗っていた。

 彼はこちらに目をやるなり、「ペロだ!」と叫んだ。ゆうれいの犬――ペロは、和雄君に答えるように吠え続けている。和雄君は車椅子の上から、ペロに向かって両手を伸ばし、ペロ、ペロ、と呼びかけた。

 和雄君には、見えているんだ――

 苦しい。胸が、縮んでしまったように。

 和雄君の父親が歩み出て、轟さんと向かい合う。その間に和雄君が、自分で車椅子を進めてペロに向き合う位置に移動した。二人の大人が挨拶を交わし、話しはじめた。

「私の車でないと遠出が出来ないもので、こんな夜分になってしまいました」

「こちらこそ事情を存じ上げず、失礼な申し出を致しました。お運び、感謝いたします」

「ペロ、どうしたの?」和雄君が叫んだ。

 彼は、ペロをかき抱くように手を伸ばしている。けれど、――

「変だよ、ペロに触れない! 幻みたいだ」

 胸の痛みに、耐えられなかった。

 同じだ。見える、けれどそれだけ。今まで何百回も撫でてやったろうペロの毛並みを、和雄君はもう二度と撫でてやれないのだ。

「ええと、これは、……」父親が、訝しそうに言った。「一体どういうことですかな、ペロが、ここにいるというお話でしたが……」

「詳しい事情は後ほど……今は、息子さんとお話しさせていただけませんか」

 轟さんは返事も待たずに、和雄君と並んでしゃがんだ。

「和雄君、残念だけど、君のペロはもう死んでしまっているんだ」

「嘘だ!」即座に、和雄君が言い返した。痛いくらいに、強い表情だった。「だって、ここにいるじゃないか。……ねえ、どうしよう、僕、ペロに触れないんだ。僕、おかしくなっちゃったのかなぁ」

 ペロは飼い主だった男の子を、愛しそうに見つめていた。時折、くぅんと甘えた声を洩らしながら。けれど和雄君の手はペロがいる空間を、空しく泳ぐばかりなのだ。

 耐えきれなくなって、口を開いた。

「和雄君、ペロはねぇ、ゆうれいになっちゃったんだよ。事故か何かで死んじゃったんだけど、でも、和雄君にもう一度会いたくって、ずっと、ここで待ってたんだよ」

「違うよ、だってペロは……ペロはここに」

 和雄君の手が、何度も何度も、空を切る。

「……ペロぉ、お前、死んじゃったのか? ゆうれいになっちゃったのかぁ?……」

 和雄君の目がきらきら光りだした。声が震えだした。ペロがしょげたように頭を小さく巡らせる。轟さんが顔を伏せた。和雄君の父親は、どんな顔をしているだろう?

 きつく、爪が食い込むほどに拳を握って、目にたまった熱を追い出そうとした。



          七


 歩く自由を奪われた和雄君にとって、自分が失ったものをもう一度見させてくれるペロは、どれほどに大事な友達だっただろう。

 自分の愚かさを痛感していた。ほんとうに、痛みが伴った実感だった。

 ペロをあるべき場所に旅立たせるということは、飼い主に――和雄君に、その死を告げるということだったのだ。

 その死を知らなければ、ペロはどこかで生きていると信じていられたかも知れない。

 それは、事実を知るよりも幸せなことだったのではないだろうか? ペロは、今もどこかで元気に走っていると信じた方が、和雄君にとっては、どれほどの救いだったろう。

 ペロのために何かしてやれることが嬉しかった。自分が、何かしてやれるということに浮かれていた。だが、ペロに良かれと思ってしたことは、実は和雄君にとって何より苦しい仕打ちだったのだ。知らなかった、では済まされない。知ろうとしなかった自分、飼い主の気持ちを欠片ほども思いやらなかった自分を、この場で叩き殺してやりたかった。

 泣いてはいけない。その資格はない。閉じた瞼を押し開けようとする涙を飲んだ。痛むほど歯を食いしばった。掌には爪が食い込む。足りない。まだ足りない。

「ペロ……触れないよ、お前、ほんとうにゆうれいになっちゃったのかぁ……?」

 泣き出しそうな和雄君の声。

 くぅん、と応えるかのようなペロの声。

「和雄君」

 意志を感じるその声に、轟さんは、和雄君の痛みに思いを馳せていたのだと気付いた。尚のこと、自分がゆるせない。

「ペロは死んでしまった。それはもう取り返しのつかないことなんだ。分かるね、生き物はみんないつか死んでしまう。これはどうすることも出来ないんだよ」

 和雄君の返事はない。轟さんは続けた。

「ペロは天国に行くはずだった。けれどそれが出来ずに、今でも、ここにいるんだ。どうしてか、君には分かるかい?」

「……ペロはね、きっと僕を心配してくれてるんだ。いつも僕はペロと一緒だったよ。ペロがいたから、いつも楽しかったんだ。歩けなくても、くじけないでいられたんだ」

「そんな風に、君がペロを大好きだったから、ペロも君が大好きだったんだね。だから、ペロは君が元気でいられるか心配で、ここに残ったんだね」

「……ここはね、僕が子犬だったペロを拾った場所なんだ。まだ歩けた頃に」

 その言葉で、ペロがどうしてこの神社に留まっていたのかが、痛いほどに分かった。

 なんて切ない願いだったのだろう――

「ペロは、死んじゃったんだね。天国に行くんだね。……でも、行けないの?」

「そうなんだ。だから君にお願いする。ペロは君を助けてくれたろう? だから今度は、君がペロを助けてあげて欲しい。心配するなって言ってあげて欲しいんだ」

「そうすれば、ペロは天国に行ける?」

「行ける。安心して天国に行ける。そしていつか、きっとまた生まれてくる」

「生まれ変わるんだよね。……そうすれば、またペロは走ったり出来るんだよね?」

「もちろん」

 轟さんの短い、力強い言葉を聞いて、きつく閉ざしていた目を開けた。

 うなだれた和雄君。ペロはその前で心配げに、顔を覗き込もうとしている。ぐすっと鼻をすすった和雄君が、勢いよく顔を上げた。

 そして、くぐもった声がした。

「ペロ……そんなに心配してくれて、嬉しいよ。でも、もう平気だからな。悲しいけど我慢する。僕、泣かないよ、絶対にくじけない。だからペロ、安心して天国へ行っていいんだよ。それで、もう一度生まれ変わっておいで。そうしたら、絶対にまた僕が見つけてやるよ。また飼ってやるからな。……また、一緒に、僕と、……遊ぼうなぁ……」

 ほんとうに、和雄君は泣かなかった。

 愛しさの満ち溢れた声。それはほとんどなきべそだったけれど、涙は目の中でゆらめきながら、そこに留まっていたのだった。

 和雄君は、紅潮した顔でにっこり笑った。

「ペロ、今までありがとう。死んじゃっても、友達だからな」

 その言葉が消えると、ペロの姿が霞みはじめた。ぎゅーっ、と、音が聞こえたようだった。それは、この胸が震えた音だったのかも知れない。にじんでいたペロの姿がさらにぼやけ、まるで、空気に融け混ざってしまうように透けていった。そして、――

 最後に元気な一吠えを残し、ペロは――遠い世界へ、旅立っていった。

 それでもまだ、和雄君は、耐えていた。

「強いな」励ますようにそう言って、轟さんが、和雄君の震える手を包んだ。

 和雄君が透明な表情で轟さんを見返した。

 そして、戸惑いの混じった声。

「僕、泣いちゃったら、ペロ、また天国へ行けなくなるかなぁ……」

「もう大丈夫だよ。……泣いてあげなさい。ペロが天国で、どれだけすてきな友達と出会えたか自慢できるようにね」

 途端に、和雄君は空を仰いで泣きはじめた。見上げる天に届くほど、高らかに。清らかに。

 間近に迫った新年の到来よりも、それは、ずっと厳粛な儀式だった。



          八


 和雄君達が車で去って行ったあと、――

 轟さんと二人、社務所の方に歩いた。

 けれどいつの間にか、立ち止まっていた。石灯籠に寄り添う自分に気付く。冷たい夜気が流れていた。夜の藍色。静かに瞬く星。

 お社前がにぎわっている。人が増えていた。家族、友人、繋がった人達。やがて来る晴れやかな一瞬のために。華やいだ光景、あたたかい景色。ざわめきが境内を満たしていた。

 もうすぐ零時。神聖なその一瞬を、ここで迎えたくない。迎えられない。

 轟さんが、側に歩み寄って来てくれた。

 見上げると視線が合った。

「……ペロのことだけしか考えていませんでした」そう言った。「浮かれてしまって……飼い主の悲しみなんて、少しも……」

 自分がどんな顔をしているか、分からない。

 轟さんはおだやかに、「それでいいのです」と、教え諭すように言ってくれた。

「あなたは今度初めて、自分が〈見た〉ものに何かしてやれると思えたのでしょう。考えが及ばなかったのは、無理もありません」

 反射的に頭を振っていた。

「でも、やっぱり、考えることは出来たと思うんです。しっかり考えれば、飼い主のことまで思いやってあげられたと思うんです」

「自分がいつも何かが出来ると考えるのは、思い上がりです」

 凍えた。

 言葉が空けた胸の穴に、夜気が忍び入る。動けずに拳を握るだけ。爪の、痛み。

 ――だって、〈見える〉んだ。

 人と〈違う〉んだ。

 〈違う〉何かが出来るんでなきゃ……そんなの、意味がないじゃないか……

 うつむくと、重たい言葉がこぼれた。

「そう思うのは、……いけないことですか」

 そよ、と夜気がゆらめいた。

「人間には〈出来ないこと〉というものが、悲しいけれど存在するのです」

 頭の中を何かが駆け抜けていった。

 思わず顔を上げた。轟さんの、真剣な眼差し。けれどそれは、すぐに微笑に変わった。

「しかし人間は、それを乗り越えられるはずなのです。前は気付けなかったことに、次は気付くことが出来る。……今日、悲しくて泣いたことに、明日は泣かないで耐えられるのです。それが人間です。……人間の、成長というものです。和雄君も、そしてあなたも」

 じっと聞き入っていた。

 轟さんの、やわらかい視線。見つめ返していると、どうしてだろう、胸の奥があたたかくなっていくようだった。

「それを忘れてはいけません。日々学び、日々変わり、そして新しい何かを見つけていく。それが人間なのだと、私は信じます」

 何かを言おうと思った。けれど言葉が出なかった。轟さんの微笑に、身体が震えてしまうばかりだった。

「今日見つからなかったなら、明日、また探せばいいのですよ」

 瞬間、全身が熱くなった。熱が、頭から爪先まで、ぱんと膨らませたみたいだった。

 ずっと、答えが欲しかった。

 〈違う〉ことの答えが、意味が欲しかった。でもそれは、探しても見つからないものだったんだ、それはどこにもないもので――

 いつかこの胸の中に、生まれてくるものだったんだ――

 口を手で覆った。その手が小刻みにゆれる。

「心で涙を流せるのは、人間の特権です」

 轟さん。

「……泣いても、いいんですよ」

 染みわたる声。言葉。――心。

 その、たった一言だけで、心の堰は音もなく崩れていってしまった。

 感情が、目から、口から、止めどもなく溢れはじめた。あとから、あとから。夜気を忘れるほど身体が熱い。それなのに震えが止まらない。濡れた頬だけが冷たかった。轟さんが見えない。目を開けられない。でも、そこにいる。いてくれる。信じられる。

 境内にはあたたかいざわめき。ここに満ちたあらゆる声に抱かれている、と感じた。つらくない。恥ずかしくない。ずっと手が届かなかった何かに、ようやく触れることが出来たと思えるのだから。

 遠くから除夜の鐘。ざわめきが波を打つ。

 年が明ける。やがて夜が明け、世界は生まれ変わるだろう。けれどもう、この胸で――

 日は、昇りはじめている。





 ―了―

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