2115年でも死ねないな。
このブログを追い続けての感想です。
何でもいいので「しにたい!!!」と思ったとき、それを引き止める想いが人それぞれあると思います。私たちの場合のそれは、「今年のゲームショウで発表されたゲームを遊ぶまでは死ねない」って奴でしょう。間違いなくそういう人種のためのブログです、ここ。
この過去のゲームを愛でながら、未来を想う、氏のゲームへの愛情深さ。今や低評価のゲームたちも、発表当時は希望を身に纏った輝くばかりの「未来」だったことを、このブログは思い出させてくれます。人々がゲームにかけた期待の欠片が低評価ゲームにも煌めいています。それを愛おしく思う感性はまさにゲーマー。
人間の寿命、延びた延びたって言いますけど、それでも100年ゲームを楽しめる身体と心の健康を保てるのかって話ですよ。こんなに心待ちにしてる未来のゲームを遊べないって悔しい。その点、この人なら100年後も何だかんだでゲームしてるわなって人ですよね。信じてますよ。
これはレビューサイトです。レビューされているのが架空の未来、それもレトロなゲームだろうが、完全無欠にレビューサイトです。ですから当然読者が知っているであろうことにいちいち触れない。
それがまた、よいのです。想像力の翼をかき立てる。
勿論紹介されているゲームのレビューそのものも大変愉快です。だからこそ、その外側に広がる、実に広大で豊穣な世界ときたら!
どんな素晴らしい世界が、この著者を駆り立てる思い出のゲームを生み出したのだろう?ゲームは社会の産物であり、社会があるという事は世界があるのです。その世界を、極限られた範囲を語るだけで語り切っている。これが凄い事でなくてなんなのか。
名作であり怪作です。素晴らしい。
作者のツイッターでこの小説を書き始めた動機について触れる機会があったのですが、正直この人は常人からすれば気が狂う程、あまりにもゲームが好きすぎるんだと思います。
抜粋及び要約すると「ゲームが楽しいのなら、小さいころ一緒に遊んだ友達が全員亡くなったとしても、人工知能に延々とゲームの相手をしてもらったとしても、ゲームをするためだけに全身を機械化しても、人格をコンピューターに移植してただひたすらゲームを楽しむだけのプログラムに転生したとしても、ゲームは楽しいはず」と信じているんです。その作者にとって理想の生活を書いたのがこの小説なんだそうです。
あまりにも深すぎる、底どころかフチすら見えない狂気なんて言う生っちょろい単語ではすまないほどのゲーム愛が、純粋なゲーム愛「のみ」がそこにはありました。
様々なゲームの引用が醸し出す奥行きの深さ。
このレビューを見た時、私のゲーム愛は燃え上がった。
私だって決して少なくないゲームをプレイしてきたが、コレほどまでに多くのゲームを語れる人はいるだろうか。
レビュアーはまだVR技術やAIが発展しておらず、筐体を必要とした100年以上前の化石のようなゲーム(ゲームを保存していた有志の存在は貴重だった)にも触れている該博な知識は驚異的ですらある。
そして人気の高いとは言えないゲームをレビューするその語り口は、単なる罵倒や開発者への暴言に陥らない。むしろ、軽妙洒脱で変幻自在、そのゲームのみならず、開発者やプレイヤーに対する海より深い愛を感じさせる。
描かれているゲーム像はそもそも至極単純だ。今の私たちから見れば拙いオールドテクノロジーの産物である。
だがそこに開発者の試行錯誤、時代の転換、そしてプレイヤーのゲームに対する並々ならぬ「狂気(バカ)」が、ゲームに関わる人間全てが織りなすドラマを生み出す。ゲームというものを根っこから変質させていく。
アナログだろうがデジタルだろうが、ゲームはつまるところ人との関わり合いである。その究極の哲学を、この作者は短いレビューで次々に暴いていく。
来るべき2215年、100年後のゲームはどのように発達しているだろうか。