未来の世界の未来のゲーマーの語る未来のクソゲーたち。ハチャメチャなアイデアに満ちた未来のゲームを語りながら、そのゲームの背景としての未来の歴史、未来の風景も描写されていく。ゲームレビューという、読者への負荷の軽い文章形式で、バカSF、パロディSF、文明批評SFのような楽しさをしっかり味わうことができます。
そして、笑いながら読み進めていくにつれて浮かび上がってくるのは、語り手自身の、ゲームしか生きる目的を見出だせなかった一人の老人の、孤独な生涯。後半は、ゲームレビューがさながら闘病記のような様相を呈し始めます。
「人はなぜ遊ぶのか」「人はなぜ生きるのか」。そんな二つの問いを、架空のゲームレビューというトリッキーな形式でつなげようとした、無茶な試みともいえる作品。ゲームが大好きな人、遊びが大好きな人、大好きだからこそ、「でもこれって無意味なんだろうか」という思いが頭をかすめてしまう人。そんな人は、無茶とはいえ果敢な試みである本作に、心を動かされるはずです。
この作品の語り手は、クソゲーと見なされたゲームを頑ななまでに擁護します。それは、他人からは無価値だと見なされるような人生をも守ろうとする、優しい祈りに似ています。
決して軽いとは言えない、どちらかといえば重さのある文章ながら、ついつい読み進めてしまう。
世界を作るのに一から十を全て書き連ねる必要はなく、あくまでレビューサイト形式を崩さない語り口が心地よい。記事の周辺を彩るるニュースや歴史的な出来事の説明もまた、ゲームと世界にほどよい存在感を与えている。
扱うものが低評価のレトロゲーというだけに、当然それらはどれもそれなりの問題点を抱えているわけで、そこから見えてくる愛や混沌、時代の流れ、アホらしさや業の深さがまた趣深い。
気軽にさくさく読めるエンタメ性というわけではない部分が個人的な好みと若干解離しているため星2としてますが、良作です。
架空の書評というとボルヘスの短編やスタニスワフ・レム『完全な真空』辺りが思い浮かびますが、架空のゲームレビューとは……まずは設定の勝利。
かつて伊集院光のラジオ内に「3点ゲーム」という架空のクソゲーレビューのコーナーがありましたが、ああいう小ネタ的面白さを期待して読み始めるうちに、この話がそんなレベルを超越していることに気付かされます。自分はすっかり本作を見誤っていたのです。
面白いだけじゃありません。
この物語は、泣けるのです。
糸井重里の傑作ゲーム、バス釣りNo.1……じゃなくて、ええと『MOTHER』シリーズ3作のキャッチコピーを噛み締めつつ。
エンディングまで、泣くんじゃない。
書籍化、おめでとうございます!
表紙に惹かれ、手に取りました。
レトロゲームのレビューなのに、紛れもないSF。SFなのに、確かに今と地続きの100年後の未来。
自分のゲーム歴は、『ドラクエ』とか『FF』とか最初の方をちょっと触った程度(最後にクリアしたゲームは『クロノ・トリガー』)。なのに、読むのをやめられない!
ゲームに夢中になって遊んでいるうちに、気がつくと100年の時が過ぎて、まだ見ぬ昔を思い出しているのです。
★3つでは全然足りません!!
近所の書店で探して見つからなかったので、取り寄せてもらいました。お気に入りのゲームのように、手元に置いて、何度も読み返したくなる作品です。
紙媒体は少し似合わない気もしますが、できたら100年後にも誰かに読んで欲しい。そしてよかったら、感想を聞かせてくださいね。
二度目の心臓交換と人工小脳交換のための入院の際にこのレビューに気付き、投稿した次第であります。いまだ物理的な端末からアクセスにこだわる懐古老人故に半ばまでの感想ですが、どうかお許しを。
さて、21世紀を振り返ると故レイ・カーツワイルの系譜に代表される「人工知能」の世紀、ウィリアム・ギブスンやウォシャウスキー姉妹らに影響を受けた「拡張現実」の世紀という見方が主流となっており、当時描かれたサイバーパンクもそういう視点からのものが多かったように思います。若い頃、若年性糖尿病(まさか特効薬があんなに早くできるとは!)を患った反動で、無限の速さで進歩するコンピュータに期待を寄せていた私も、そういった呼称が百年後には正しいものになるのだろうと信じていた時期があります。しかしながら、過ぎてしまえば私の「手元」にあるのは地層のように積み重なったゲームの山。当時を探しても、ゲーム「史」を主題に語られるサイバーパンクなんてあったか、私には見当もつきませぬ。(そちらに詳しい友人は先月他界してしまった。)
そう、我々、ファミコン(私は博物館ではなく自分の家で見た!)所有者を親に持つゲーム第二世代の駆け抜けた21世紀という時間はまさにゲームの世紀でした。
本サイトの昔懐かしい形式のレビューは、各年代のゲームのうち、駄作、怪作、迷作のレビュー、そしてそのゲームの登場する背景が事細かに描かれており、中には当時心無く叩いていた作品にも、こんな裏があったのかと驚かされるばかりであります。特に、今は無き懐かしのSNSのデータを漁ってくる、過去のニュースデータベースをしっかり添えるところは作者の知的収集力(随分と懐かしい死語だ)に驚かされるばかりであります。
読んでいると、かくのごとき「クソゲー」が出るごとに今は無き「まとめサイト」で炎上という騒ぎに乗じていたころの若い頃の自分や、「AfterLife」の騒動で姉一家が大騒動した日々のことがありありと思い出される次第であります。
また、単なる過去のゲーム紹介を通じて、その根底にあった収穫加速的進化に裏打ちされた果敢な新技術への挑戦と失望と迷走、はたまた我々が人ゆえの笑い悲しみ、そしてそこから再び立ち上がる不屈の人類史を感じ取ることが出来ます。いつの時代にも名作あり、迷作ありならば、それは今この瞬間もコンピュータ分野は無限の可能性を持ったカンブリア紀の只中にいるのだと。まあ、これは老人の勝手な解釈かもしれませんが。
1999年、当時田舎の小学校の片隅で0点のテストを持ったまま、ノストラダモスという終末預言者に興奮して早い人生の終了に歓喜していた自分にこれを読ませたい。人生は周りから見るとまるで価値がないが、自分から振り返ると、十分すぎるほど価値があるものだと。そして思うのです。そんな思いを冥土の土産に出来るなら、家族の反対を押し切って機械の体になって手に入れた余生も、それなりに価値のあったものなのだろうと。
敬具 2115年春、病室より東京の街を眺めながら。
追記
治療が終わったら三年前に開封された百年前に書かれた「現代」のロボットキャラクターのタイムカプセルから出てきた、親に初めて買ってもらったのと同じ型のゲームボーイを曾孫と見に行くのを楽しみにしながら。
人間は喜劇を求め、実際世の中には喜劇こそが大量に存在する。
ならば悲劇は求められていないのかといえば、歴史上には名高い悲劇の作品が多数ある。
何故か?
その回答は色々あるだろうが、私はこう思う。
喜劇は消耗品だ。クチコミで広範に広がり親しまれ続けることもあるが、基本的に消費されて終わる。
しかし、悲劇の物語は消耗品ではない。
喜劇をスナック菓子とするなら、悲劇はむしろ毒薬である。
食らってしまった読者の心に悲しみや怒りや苦しみを産み出すことで、彼らの人生に抜けない棘のようにその痕跡と存在を残し続ける。
それ故に、あまりに刺激が強すぎる悲劇の物語は語られ続け、人類史に残り続けるのだ。
本作は、その「悲劇の物語」を「特異性が極まりすぎた結果として駄作と見做されたゲーム」に置き換え、「それを再評価するレビュー」という形式で発表されている作品である。
皆さんは駄作ゲームに触れたことはあるだろうか。
自分はある。その作品、数千円もした上に、アップルストアから消えてなくなりやがった。
はっきり言って被害者からしてみれば、クソゲーは悪の枢軸にも匹敵する恨まれ方をして当然のものなのだが、その批判はどうしても客観性に欠ける。
そこで本作では、そのクソゲーが産み出されてから数十年経った未来の人間がレビューをするのだ。
そのクソゲー1つ1つが未来技術によって産み出されているクソゲーなので、そのSF的発想に舌を巻くこと請け合いだが、このレビューではそこはさておき。
「大多数の人間が心の底からキレたり失望したものを」
「なぜ当時の人間が批判を行ったのかを深掘りした上で、後世の人間が再評価する」
つまり、この作品でレビューされているのは駄作そのものだけでなく、
「駄作を駄作と評価した過去の人間たち」そのものがレビューされている。
彼らは時に愚かで、時に執念深く、時にはあまりにも切ない動機で行動をする。
ゲーム内ペットが死んでしまった悲しみをどうにかしようとする少女たち。
荒らしとして参加したはずのSNSゲームで、出会ったアカウントに恋してしまったストーカー。
「妹」をゲームセンターに連れて行こうとして通報される羽目になったゲーマー。
どいつもこいつも「かつて存在した人々」として客観的に語られる存在であり、レビューの主役でもないので描写は少ない。
だが、彼らの存在に「あるある」「わかるわ」と頷きながら読む本作は、生きた人間のリアルさを我々に感じさせてしょうがない。
ときおり(作中レビューの)作者リアル話も投稿されるんですが、この辺りも色々と思わされることが多くて、ほんとに良い……。
一言でまとめると、面白いから読もう。マジで。
この小説の魅力とはなんだろう。
斬新な発想? 伏線や構成の妙? 専門的な知識?
ふむ、もちろんそれらは重要な要因だ。この作品が優れた技量と多くの知識に基づいて生み出されたのは間違いない。
しかしながら、一つだけ挙げるとするならば、それはこの小説の本質的な部分にしたい。
すなわち、作者の人生そのものだ。
高く評価された多くの作品と同様、この小説には作者の人生が凝縮されている。
考えても見てほしい。
俗にクソゲーと呼ばれるゲームをこよなく愛し、この世全てのゲームを愛していると謳い、ゲームのために世界中を駆け回る。
ゲームさえ出来るなら、たとえ人でなくなっても幸せだと主張する。
そんな人間が、普通か? 見ていてつまらないだろうか。
違う。面白い。面白いのだ。
そんな作者の人生が、小説という皮を被りここに存在する。虚飾にまみれた皮の下には、現実という肉が潜んでいる。
フィクションとノンフィクションの高度な融合体。それこそがこの作品の面白さの本質である。
まあつまり、万国共通で最も面白い題材は『人間』ってことで。
BGM: “Meddler” - August Burns Red -
昔は、早く過ぎ去ってしまうゲームの時間が愛おしかった。
それは一人の時も、友達とやる時間もそうである。
だがなぜだろう、いつまでもゲームをやって過ごしていたい、そう思っていた自分はもういない。
最早ゲームをやる体力がない? ゲームが面白く無くなってしまった?それとも自分が面白くないやつに変わってしまったのか?
でも、未来に生きる「赤野工作」という男は、その気持ちのまま老いていった。ゲームを楽しむために全身をサイボーグにして延命し、遂には脳を「楽しい」しか理解できない人工知能になってしまうことを望んだ。
それを不幸だ、可哀想だ、恐ろしいと断じる人は多いだろう。
私はどんどん彼のレビューを見ていくうちに涙を禁じ得なかった。
だがそれは決して同情でも哀れみでもない。
ちっぽけな一ゲーマーとして、彼がとても羨ましく思えたのだ。
そうだ、そこまでしても、ゲームは受け入れてくれる。ゲームが面白くなくなるなど、自分が変わってしまうなどあり得ないのだ。
なぜならゲームはもともとから「面白い」ものだったのだから。
改めてレビューに参りました。書籍化おめでとうございます。
これからの工作活動に、埋められたE.T.のご加護がありますように。
架空の未来の架空のゲームレビューサイトであるにも関わらず、たしかに存在する異世界に迷い込んだような、実際に自分もそれを体験してきたかのような不思議な感覚。
計算され尽くした知的な文体でありながら笑えて泣ける、たしかなゲーム愛とちょっとした風刺も交えた実にロジカルでエモーショナルな文章。
かと思えば読み進めるうちに上手く名状しがたい、言ってしまえば気持ち悪さや怖さすら覚える偏執的な展開。
これを書いている前日にゲーマー仲間から冗談交じりに紹介され、あっという間に最新話まで読み進めてしまいました。
いやー、こんなこと久々です。
そうなんですよ。
ゲームって世間の人にはどうでもいいし、生きていく上で不要どころか有害だし、結局ただの暇つぶしでしかない。
ゲーマーは惨めで無様で孤独で、後の歴史に残ったとしてもその姿はただただかっこ悪いんですよ。
でも、ゲームって楽しいんです。他の誰がつまらないと言っても、楽しいんですよ。
我々卑しいゲーマーは、実在なんかしてない架空の世界に、どうしようもなく惹かれてしまったんですよ。
作者、いや管理人赤野工作氏と同い年の、(作中の氏と)同じ哀れで寂しいゲーマーとして共感…ともまた違うな、未来へ抱く希望と絶望…は言い過ぎか、とにかくそんな感じの不思議な郷愁に浸れる作品です。
赤野先生の更新、楽しみにしています。