「駄作の再評価」が、人は何を愛するのか?という本質を浮き彫りにする

人間は喜劇を求め、実際世の中には喜劇こそが大量に存在する。
ならば悲劇は求められていないのかといえば、歴史上には名高い悲劇の作品が多数ある。
何故か?

その回答は色々あるだろうが、私はこう思う。
喜劇は消耗品だ。クチコミで広範に広がり親しまれ続けることもあるが、基本的に消費されて終わる。
しかし、悲劇の物語は消耗品ではない。
喜劇をスナック菓子とするなら、悲劇はむしろ毒薬である。
食らってしまった読者の心に悲しみや怒りや苦しみを産み出すことで、彼らの人生に抜けない棘のようにその痕跡と存在を残し続ける。
それ故に、あまりに刺激が強すぎる悲劇の物語は語られ続け、人類史に残り続けるのだ。

本作は、その「悲劇の物語」を「特異性が極まりすぎた結果として駄作と見做されたゲーム」に置き換え、「それを再評価するレビュー」という形式で発表されている作品である。

皆さんは駄作ゲームに触れたことはあるだろうか。
自分はある。その作品、数千円もした上に、アップルストアから消えてなくなりやがった。
はっきり言って被害者からしてみれば、クソゲーは悪の枢軸にも匹敵する恨まれ方をして当然のものなのだが、その批判はどうしても客観性に欠ける。
そこで本作では、そのクソゲーが産み出されてから数十年経った未来の人間がレビューをするのだ。
そのクソゲー1つ1つが未来技術によって産み出されているクソゲーなので、そのSF的発想に舌を巻くこと請け合いだが、このレビューではそこはさておき。

「大多数の人間が心の底からキレたり失望したものを」
「なぜ当時の人間が批判を行ったのかを深掘りした上で、後世の人間が再評価する」

つまり、この作品でレビューされているのは駄作そのものだけでなく、
「駄作を駄作と評価した過去の人間たち」そのものがレビューされている。
彼らは時に愚かで、時に執念深く、時にはあまりにも切ない動機で行動をする。

ゲーム内ペットが死んでしまった悲しみをどうにかしようとする少女たち。
荒らしとして参加したはずのSNSゲームで、出会ったアカウントに恋してしまったストーカー。
「妹」をゲームセンターに連れて行こうとして通報される羽目になったゲーマー。

どいつもこいつも「かつて存在した人々」として客観的に語られる存在であり、レビューの主役でもないので描写は少ない。
だが、彼らの存在に「あるある」「わかるわ」と頷きながら読む本作は、生きた人間のリアルさを我々に感じさせてしょうがない。
ときおり(作中レビューの)作者リアル話も投稿されるんですが、この辺りも色々と思わされることが多くて、ほんとに良い……。


一言でまとめると、面白いから読もう。マジで。