ゲーム、そういう切り口もあったか!

 二度目の心臓交換と人工小脳交換のための入院の際にこのレビューに気付き、投稿した次第であります。いまだ物理的な端末からアクセスにこだわる懐古老人故に半ばまでの感想ですが、どうかお許しを。
 さて、21世紀を振り返ると故レイ・カーツワイルの系譜に代表される「人工知能」の世紀、ウィリアム・ギブスンやウォシャウスキー姉妹らに影響を受けた「拡張現実」の世紀という見方が主流となっており、当時描かれたサイバーパンクもそういう視点からのものが多かったように思います。若い頃、若年性糖尿病(まさか特効薬があんなに早くできるとは!)を患った反動で、無限の速さで進歩するコンピュータに期待を寄せていた私も、そういった呼称が百年後には正しいものになるのだろうと信じていた時期があります。しかしながら、過ぎてしまえば私の「手元」にあるのは地層のように積み重なったゲームの山。当時を探しても、ゲーム「史」を主題に語られるサイバーパンクなんてあったか、私には見当もつきませぬ。(そちらに詳しい友人は先月他界してしまった。)
 そう、我々、ファミコン(私は博物館ではなく自分の家で見た!)所有者を親に持つゲーム第二世代の駆け抜けた21世紀という時間はまさにゲームの世紀でした。
 本サイトの昔懐かしい形式のレビューは、各年代のゲームのうち、駄作、怪作、迷作のレビュー、そしてそのゲームの登場する背景が事細かに描かれており、中には当時心無く叩いていた作品にも、こんな裏があったのかと驚かされるばかりであります。特に、今は無き懐かしのSNSのデータを漁ってくる、過去のニュースデータベースをしっかり添えるところは作者の知的収集力(随分と懐かしい死語だ)に驚かされるばかりであります。
 読んでいると、かくのごとき「クソゲー」が出るごとに今は無き「まとめサイト」で炎上という騒ぎに乗じていたころの若い頃の自分や、「AfterLife」の騒動で姉一家が大騒動した日々のことがありありと思い出される次第であります。
 また、単なる過去のゲーム紹介を通じて、その根底にあった収穫加速的進化に裏打ちされた果敢な新技術への挑戦と失望と迷走、はたまた我々が人ゆえの笑い悲しみ、そしてそこから再び立ち上がる不屈の人類史を感じ取ることが出来ます。いつの時代にも名作あり、迷作ありならば、それは今この瞬間もコンピュータ分野は無限の可能性を持ったカンブリア紀の只中にいるのだと。まあ、これは老人の勝手な解釈かもしれませんが。

1999年、当時田舎の小学校の片隅で0点のテストを持ったまま、ノストラダモスという終末預言者に興奮して早い人生の終了に歓喜していた自分にこれを読ませたい。人生は周りから見るとまるで価値がないが、自分から振り返ると、十分すぎるほど価値があるものだと。そして思うのです。そんな思いを冥土の土産に出来るなら、家族の反対を押し切って機械の体になって手に入れた余生も、それなりに価値のあったものなのだろうと。

敬具 2115年春、病室より東京の街を眺めながら。

追記
治療が終わったら三年前に開封された百年前に書かれた「現代」のロボットキャラクターのタイムカプセルから出てきた、親に初めて買ってもらったのと同じ型のゲームボーイを曾孫と見に行くのを楽しみにしながら。


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