とても面白かったです。
フォローしてくださり、ありがとうございます。どこにメッセージを送れば良かったのか分からなかったのでこちらに送りますね。
私はファンタジーを長々書いてまして、貴方がフォローしてくださったものも高校2年から現在まで5年間書き続けているものです。
ゲームファンタジーではないと思います。
そもそも、ゲームファンタジーが書けません。ゲーム世代だとは思うのですが、グリム童話やアンデルセンを読んできたので「ゲームの中を歩きたい」ではなく、「ファンタジーの世界を歩きたい」が創作の原動力だったからだと思います。そのため、街によってバラバラで決まりきったものがありません。時代や政治もその時々でまちまちになっています。現実の世界も国によって歩んできた道のりはまちまちなんです。だから私はそのようにしています。
私が1200年の歴史と四国の気候地理とそれぞれの国の距離も登場人物総勢40名の性格や関係、歩んできた人生も全て考えた作品です。
創作設定表はB5判用紙50枚分です。
きっと気に入ってくださると思います。
まだ正直、貴方様の評論を一話しか読んでおりませんので空いた時間にちまちまと読んでいこうと思います。
人の考えを読むのはとても好きなことなので、とても楽しみにしています!
よろしくお願いします。
読んでいてなかなか耳が痛く、かつ考えさせられる内容でした。
ファンタジー小説を知らない人に「指輪物語」を勧めると「あれでしょ、勇者や戦士や魔法使いが出てきて竜とか魔王を倒すっていうRPGみたいのでしょ」と決めつけられ読みたくないといわれた悲しい思い出があります。正確にはファンタジーRPGの世界から「指輪物語」が生まれたのとは逆で「指輪物語」からテーブルトークRPGが生まれ、TVゲームのファンタジーものが生まれたわけでして。上橋菜穂子先生の「精霊の守り人」を勧めたらどういう反応になってたか。
まずファンタジー作品とは名前の通り幻想世界を舞台にした物語で、読者に与える幻想感こそ重要です。勇者や魔王の出ないファンタジーなんてファンタジーじゃない、というのはゲームファンタジーに慣れたことの弊害です。
中世ヨーロッパ風の~という漠然とした世界観もまた「そうしたほうがわかりやすいから」という安易な表現です。実際の中世ヨーロッパは戦争と疫病による暗黒時代でした。
ファンタジーのテンプレ化は世界観が把握しやすくすぐに入っていけるという利点がありますがゲームに興味のない人からは「RPGを文章にしただけの退屈なもの」と受け止められてしまう危険性があります。
ファンタジーがわからなければ読まなくていい、と初心者お断りにすると、新規ファン層は減り、ファンタジーファンは減る一方になるでしょう。かつてSF小説が辿った道です。
かといって現実と異なる幻想世界をイチから作るとなると、大陸や島の大きさや形、そこに存在する国家、動物の生態系、各国家の歴史と系譜、文明発展の経緯、各国の文化や習慣、人々が話す言語と、世界観を表現するだけで分厚くなってしまいそれだけで「とある幻想世界についての説明」という一冊の本ができあがってしまう。
その独自の幻想世界で物語を創作するのが本来のファンタジーであれば、現実を舞台にした物語よりもはるかに難易度が高く手間と時間がかかる代物なのです。
故に今のアマチュアファンタジー作家がゲームファンタジーを書くのは効率が良く読者受けもいい作品を生みやすいからです。
それでもファンタジー作家であれば、いつまでもトールキン先生の手のひらで踊るような真似ばかりせず、想像力の限りを尽くして独自世界観を創造し、幻想的で魅力ある物語を想像してほしいものです。
ファンタジー。
それは、空想を自由に羽ばたかせて、想像力を存分に発揮するジャンル。
そう思っていました。いまでもそう思っています。
ただ、心のどこかで違和感はありました。
もちろん細かな設定は違うのですが、読者にイメージさせる世界観は余りにも似ている。
まるでクトゥルフ神話のように、同じ舞台設定を使うことが暗黙の了解になっているような。
そんなモヤモヤしたものの正体がハッキリしました。
その枠組みを自ら選んで、有効活用をしているのか。
その枠組みしか知らず、その中にとらわれているのか。
いつかはファンタジー小説を書いてみたいと思いながら、貴重な意見として読ませていただきました。
ファンタジーとゲームファンタジーは違うという話。
中々興味深い話です。
人の想像力は自由だ、的な話がぐっときました。
想像は無敵です。私は、もっと自由な発想の物語が読みたいと思う一人ですから。
テンプレートを否定するわけではないです。
ありえないこととか、予想を外すこととかが、私がそんなのが好きなだけですので。
ゲームファンタジーという言葉を聞いて色々想像膨らみます。
パッケージに入ってるのがディスク一枚じゃなくてもっとたくさんあったり、たくさん分岐したり、別の話を装いつつもどっか話が繋がってたりなディスクだったり、むしろ基本のゲームをしてから自分が中に入りこんでやるのが本命のゲームだ、みたいな。
色々考えて呼んでみると面白い話だと思います。売れない売れるかはともかく、発想はもっと自由でいいと思います。
まず、世界観の構築を怠っている作者が多い、と言う点については大いに同意するものであると言っておきます。
その上で、個人的に言いたいこととしては、結局のところ、冒険者、ギルド、武器屋。これらのような非常に使い勝手のいい設定が使われているのは単純に言ってそこが本題ではないからであると思っています。
作者は冒険者のルーツに触れたい訳ではない。ギルドと言う存在を誰が結成して、なぜ一大組織になるまで大きくなったかを書きたい訳ではない。武器屋と言う商売が何故成り立つかということを書きたい訳ではない。
作者が書きたいのは主人公の活躍、テーマの体現です。世界観そのものをアウトプットする作品も魅力的ではありますが、それをやるには食器の形レベルで細かい部分を決める必要があるため非常に難易度が高くなります。
故に、そういう"どうでもいいもの"は読者がイメージしやすく、こちらも描写しやすいものに頼ることになります。これは悪いことではないかと。
ですが、"そうでもいいから"と思考停止してしまうは非常によろしくありません。その世界に魔法が存在する理由一つとっても複数の理由があるように、ただ冒険者ギルドがある。それだけで終わらせるには惜しいものだと考えています。
例えば、本来山賊、傭兵として活動するであろう人間を纏める為に冒険者ギルドを結成することになり、それに国王が一枚噛んでいた。
一人前の兵士を作るのにも金がかかる以上、国からしても維持費も養育費も払う必要がない兵士がいることは悪いことではない。国の手先としての冒険者ギルドが完成。
そして、その冒険者の武器を調達するための元は非合法であろう武器商人が表立って店を構えることで武器屋が出来上がる。ほら、ゲームだから存在してると言われた三つの設定が存在する理由が出来上がりましたでしょ?
即興で考えましたから割とガバガバですが、その理由が正しかろうが間違ってろうがいいのです。何せ、現実ですら「国内に勉強をしたことがある人がいなくなれば国が平和になる」と考えて現代で300万人虐殺した指導者だっているんです。全員が全員最適解を行えるワケがないのです。
だからこそ、それが何故あるのか。という問いを忘れてはいけないのです。
本来、設定というモノは互いが互いをフォローしあうようにして存在しているものだと考えています。物事の本質は一つであっても、その要因は一つではないように、設定が他の設定を深くしてくれるものだと考えています。
ファンタジーの金字塔と言える『指輪物語』の原作者はホビットという架空の種族の設定だけで小説一冊くらいの文章量を書いています。
その過剰ともいえる設定は、世界観に深みを持たせることに成功しているのです。それが明らかに本編で使わないような設定であったとしても。
最後に一つ。本文見てイラッと来たそこのあなた。心配しないでください。自分もです(笑)
控えめに言って喧嘩を売っているとしか思えない書き方をしている(それも意図的に)のですが、言っていることは十分に筋が通っています。
○○だから当たり前、と言う考えから離れるべきという結論は"ゲームファンタジー"に限らず、創作活動をするならばまず意識すべきことなのでしょう。
「ファンタジー」と「そうじゃないゲーム世界みたいな異世界」のジャンル違いをよく感じていたんですが、この「ゲームファンタジー」という言葉で片づけられるものだったんですね。勉強になりました。
ゲーム上の常識をそのまま取り入れるのは、読者の中に暗黙の共通認識をもたせ共感しやすくなるので便利ですよね。特にドラクエ設定をスタンダードとした作品たちはまるでシェアドワールドみたいだなーと面白くも思います。
例えば勇者や武闘家やドワーフといわれればある程度読者の中で人物像の共通認識がある。その役割の中でいかにキャラを苦悩させ輝かせるか、というものを楽しむものですよね。原型なくして意外性はない。これはキャラに対する認識ですが、その世界に散らばる舞台装置「ギルド」や「イベントリ(だっけ?便利な道具箱)」も同じ様なものだと思ってます。
自分もそういったお約束事、(作中で制約としている場合もある)の中で頑張る話はまあいくつかは読んでいますし好きです。
でもステータスやら魔王やら便利な道具箱がないようなファンタジーが読みたいときは、こう・・・求めるものが全然違うんですよね。カレーとカレースープくらい違う。今はご飯が食べたいんだっ!てなる。もちろん単なる比喩なので、「ゲームファンタジー」が軽いとかそういうことが言いたいわけではないです。
人間同士・・・あるいは人間VSモンスターの泥臭い戦い。自分の場合むしろその方向の「ファンタジー」は「戦記物」の腹と近いように感じます。
切実にジャンル分けして欲しい・・・。
本文中引用させていただきます。
>「ゲームファンタジー」に拘っているのか、「ゲームファンタジー」しか知らないのか。
この作品のすべてはここに集約されていると思います。
既に「ゲームファンタジー」要素の小説を書いている人、その中でも意図せず無意識にゲーム要素の装置を出してしまっている人には耳が痛い内容かもしれません。
中には自分の中の「ファンタジー世界」、つまり自分の世界を全否定されたような怒りを覚える人もいるでしょう。
しかしちょっと一呼吸して、もう一度自分の作品と見つめ直す機会ととらえてはどうでしょうか?
この世界は普通のファンタジーだ
・だから普通に冒険者がいる
・冒険者って何?組織に属してる人の総称なの?
・その組織はだれがどんな目的でつくったの?
・組織構造は?資金源は?生計はどうやって立てるの?
・冒険者がいることによる利益は?社会問題は?
・冒険者が存在する場合としない場合の世界はそれぞれどうなってたの?
この世界は敢えてゲーム世界にしている
・だからイベントリが存在する
・イベントリって何?どこにどうやって出てくるの?
・どうやってアイテム探すの?文字?写真?
・誰がいつそんなものを作ったの?何の為につくったの?どうやってつくったの?何の成分でできてるの?
・どうして腐らないの?その中はどこにつながっていてどうなってるの?
・みんな使えるの?じゃあカバンや運送業はいるの?
「これはこういうものだ」という固定概念から一歩先に進んでみれば、より深い世界観が作り出されるかもしれません。自分が書くファンタジーにも若気の至りでつくってしまった「物がしまえる便利な魔法道具」なんてものがありますが、さてこれは一体どういうものなんだろうと考え直すきっかけとなりました。
当然私の勝手な感想なので「これこそが作者の考えなんだ!」と言っているわけではありません。
感じ方は千差万別。作品を読んでどう感じ自分の作品に生かすか、すべては自分次第ということですね。
先日、こんな話を見かけた。
「ファンタジー世界を舞台とする物語であっても、主人公がその世界の出身である(現実世界から転生、転移などで訪れた人物ではない)場合、『異世界ファンタジー』とは呼ばない」
最初に目にした時はそれこそ「???」となったものだが、「主人公が現代人としての目線を持っているからこそ、その世界を『異世界』と呼ぶのだ」と言われれば、納得せざるを得ない。
ただ、やはりどうしても感情的に納得しづらいというか、腑に落ちない部分があった。
おそらくは、それが筆者・林檎無双氏の挙げる『ゲームファンタジーしか知らない』世代との価値観の相違なのだろう。
web小説において『異世界転生もの』や『MMORPGもの』が繁栄を極める中、転生する手段、転生先の世界観、MMORPGのゲームシステムなどは、ゲームによくあるシステムや設定を用いて形骸化されているように感じる。
林檎無双氏がこれを問題視し、警鐘を鳴らし、疑問を呼び掛けている理由は、
ひとつの異世界を表現するにはあまりに力不足である『コンピューターRPG』でファンタジー世界を表現するために生まれた数々の仕組み(イベント、武器屋、ギルドなど)を、『小説』という媒体でそのまま模倣する必要があるのか?
ということだろう。
ただ、これについては安易に肯定も否定もできない。
ひとつの物語が生まれる上での仕組みには、必ず何かしらの意味があると思うためだ。
ここからは、web小説における『異世界転生もの』を例に挙げて書いていく。
トラックに轢かれて異世界に転生する――そんな一連の様式美が何故生まれたのか?
それはおそらく「ここ(現代社会)ではないどこかで大活躍したい!」という欲求を多くの人々が抱いていたためだと思われる。
もっとも、この欲求自体は決して批判されるものではない。むしろ、娯楽作品を楽しむ上では、ごく普通の感情だろう。
なら、どうして転生先の異世界がコンピューターRPGのルールを基調として構築されているのか。
それは、分かりやすいからだ。
D&Dと、そこから派生した多くのコンピューターRPG――『ゲーム』が生まれて、もう何十年も経つ。
年月を経るごとにゲームは万人に愛されるものへと変化し、ゲームもまた万人に愛されるために様々な進化を遂げてきた。
ひとつのゲームが生み出した分かりやすいシステムが、後のゲームに引き継がれていく。そうして作り上げられたものが『よくあるゲームシステム』、つまり異世界転生ものに多用される各種の概念だ。
コンシューマーゲームやソーシャルゲーム、ブラウザゲーム。ゲームを遊ぶための媒体は多く、大きく、広い。
そんな中、誰もがゲームを楽しむために最適化されたシステムが、誰にでも分かりやすく作られているのは、至極真っ当なことだろう。
異世界ファンタジーには、『分かりづらい』という側面がある。現実世界とのルールの違いを念頭に置いて読み進めなければならないためだ。
しかし、そこに『ゲーム』で作られたルールを導入することで、理解するための難易度はぐんと下がる。
「ここ(現代社会)ではないどこかで大活躍したい!」
「現代から転移した先の異世界で、どんな風に活躍するか?」
異世界転生もののweb小説でもっとも重要視されるのは、おそらくこの2点。
だとすれば、その活躍方法をわかりやすく描くための手段が、万人に理解されやすいゲームシステムであった、ということなのだろう。
つまり、ゲームファンタジー風の異世界というのは、物語を動かすための『手段』であって、それ以上の理由は存在しないのだ。
とはいえ、林檎無双氏の「ゲームファンタジーは人間が本来持つ想像力を阻害する可能性がある」という問題提起について、私はうんうん頷きたいくらい共感できる。
やはりこれも先日の話なのだが、「異世界に行ったって太陽と月は昇るし世界は丸いんだから、いい加減に異世界転生に夢を見るのは止めろ」という旨の発言を見かけたのだった。
……えっ、世界が平らで、端っこから水が滝のようにじゃぶじゃぶ流れている異世界とか、存在しないの!?
衝撃的だった。少なくとも、私にとっては。
世界が平らであっても、何らかの理由があれば太陽と月は運行するし、夜空の星は瞬く。たとえ現実的にはあり得ない、突拍子もない理由であってもだ。
それこそがファンタジーの魅力であると、私は常々思っている。
ただ、現在流行している『異世界転生もの』を好む読者にとって、それらの要素は不要なのだろう。
転生した先がどんなファンタジー世界なのか――そういった想像は、彼らの期待する娯楽には結びつかない。
つまり、『ゲームファンタジー』を用いた小説は、林檎無双氏が想定する『ファンタジー』小説とはまったくの別物なのだ。
とはいえ、旧来の『ファンタジー』小説であっても、娯楽作品である場合は、その時代の空気を反映したり、需要に合致するものが作られていたことは間違いない。
(私は『スペルシンガー・サーガ』のドラッグ描写と敵の昆虫がどうしても受け付けず、読了できなかった人間だ)
願わくば、林檎無双氏の文章に込められた問題提起が、ゲームファンタジーを含めたあらゆる『ファンタジー』を愛する人々にとって、意味あるものになりますよう。
長文失礼いたしました。
武器といえば剣、旅をしながら戦うのは冒険者、冒険者をまとめるのはギルド……そんな「当たり前」に切り込んだエッセイです。
定番のイベントやアイテムは、ネット小説としては便利なものです。定番になるだけの理由がありますし、そこで作品の個性を出せればそれだけで強みになります。
しかし、それだけではあまりにも浅い。昨今では、ギルドで中堅の冒険者に絡まれる、魔力計測機で主人公が特殊な結果を出す、などの展開は忌み嫌われる風潮があります(個人の感想)が、本質的には「ギルド」「イベント」「武器屋」「冒険者」などの要素自体もそれらと同じではないでしょうか。
このエッセイでは、そういう「当たり前になってしまって誰も深く考えなくなった安易な記号化」をまとめて「ゲームファンタジー」と表現しているように思います。
ゲームファンタジーは、わかりやすさ、面白さ、という圧倒的な強みがありますが、そこに歴史や背景はありません。あるのは、これはそういうものなのだ、という暗黙の了解と開き直りだけです。
このエッセイを古典ファンタジーに毒された世代の言葉だと切り捨てるのはあまりにも愚かしい。
少なくとも、この程度の「当たり前」に「なぜ」と問いかけられない人に、読者の胸を打つ物語を書けるはずがないのですから。
ミシェル・フーコーは人間という概念が、近代的エピステーメによって発明されたものであると語る。
ここでいう人間は「現実」というあるフラットな世界の中で、「自由な意志」に基づいて行動する存在だ。
そして、フーコーは「人間」という概念が終焉を迎えたともいう。
それを実現したのは、文化人類学と精神分析学の成果によるとしている。
フーコーが文化人類学と言った場合、彼が念頭においていたのはおそらくクロード・レヴィ・ストーロースであろう。
レヴィ・ストーロースは、文化人類学のフィールドワークに構造分析という数学的手法を持ち込んだことで、有名になった。
それはある意味こうとらえることも、できる。
ひとという存在の行動を規程している「構造」が実はある。
つまりひとが自身の意志をもって行動しているとしても、その行動は数学的手法によって比較分析した結果ある種の類型的構造を抽出できるということだ。
さて、ファンタジーに話をうつそう。
ファンタジーという文学はその原型を、魔法昔話にたどっていくことができる。
この魔法昔話を構造主義的分析方法を使って解析したのが、ウラジミール・プロップだ。
彼は様々な魔法昔話を分析した結果、そこにある構造類型を抽出してみせる。
それは、加入儀礼の儀式をなぞっていると、プロップは語る。
加入儀礼の儀式は、密儀の神殿において加入者が象徴的な死と再生を受けることによって、なされる。
ファンタジーにおいて、主人公は旅に出る。
そのことによって主人公は、象徴的な死者となる。
そして彼は魔法使いの手によって恐るべき体験を経て、戦いに勝利し帰還する。
これらは、象徴的な死と再生を意味しているというのだ。
「冒険者」というものについて、考えてみよう。
JRRトールキンのLOTRに登場するアラルゴンは、言うなれば「冒険者」である。
(野伏り=レンジャーが冒険者であるかについては、もちろん色々な議論もあるだろうし乱暴な定義ではある)
彼は、何らかの組織に所属せず、出自も明確にしない。
世界の中で、浮遊する存在といってもいい。
象徴的死者とは、現実的な種々のコードから一旦切断された存在だといえるだろう。
そして彼は、魔王サウロンの軍勢に対峙した後勝利し、王位につく。
トールキンは、魔法昔話の構造にそって(おそらくは意図的に)物語を構築した。
だからアラルゴンは、冒険者として物語の中に、唐突に放りこまれなければならなかった。
剣について、考えてみたい。
剣は、ファンタジーの主人公が多くの場合手にしている。
剣は、大体において呪具であると同時に、武器である。
神話において、呪具として有名なのは、日本の草薙の剣であろう。
日本は中世において、刀狩りを行っている。
それは、刀というものが単なる武器ではなく、それを帯びるものの身分を示す象徴的な呪具でもあることを示しているとも考えられる。
さてアラルゴンは、どうだったろうか。
彼は、「折れた剣」を持って登場する。
いうまでもなく、これはゲルマン神話にも登場する重要なモチーフである。
彼は、折れた剣を再生した後に、王位につく。
剣と王位の関係を、神話は象徴的にあらわすことがある。
それは、アーサー王のエクスカリバーについても同様だと思える。
神話学者であるエリアーデは、ゲルマン世界の戦争について、生贄を神に捧げる儀式と戦いが一体化していたという。
生贄を神に捧げる役割を担うのは、ワルキューレである。
おそらくは、王族もまたその役を担っていたのではないかと思う。
生贄は、ゴールデンバッフを想定すれば、「偽王=魔王」であってもよいではないだろうか。
ファンタジーが魔法昔話を出自に持ち、それをなぞるものであれば剣の持つ役割は自ずと明かになる。
ファンタジーは、コードを持つ。
いわゆるゲーム的ファンタジーにおいてそれらは脱コード化、再コード化されたものであろう。
物語は、コードを必要とする。
わたしたちは、それを選択することが可能だ。
ファンタジーというコード。
現実というコード。
そうしたものの出自を問い、それらの意味について考え選択するのは、無意味なことではないと思っている。