人間の終焉とファンタジー

ミシェル・フーコーは人間という概念が、近代的エピステーメによって発明されたものであると語る。
ここでいう人間は「現実」というあるフラットな世界の中で、「自由な意志」に基づいて行動する存在だ。
そして、フーコーは「人間」という概念が終焉を迎えたともいう。
それを実現したのは、文化人類学と精神分析学の成果によるとしている。
フーコーが文化人類学と言った場合、彼が念頭においていたのはおそらくクロード・レヴィ・ストーロースであろう。
レヴィ・ストーロースは、文化人類学のフィールドワークに構造分析という数学的手法を持ち込んだことで、有名になった。
それはある意味こうとらえることも、できる。
ひとという存在の行動を規程している「構造」が実はある。
つまりひとが自身の意志をもって行動しているとしても、その行動は数学的手法によって比較分析した結果ある種の類型的構造を抽出できるということだ。

さて、ファンタジーに話をうつそう。
ファンタジーという文学はその原型を、魔法昔話にたどっていくことができる。
この魔法昔話を構造主義的分析方法を使って解析したのが、ウラジミール・プロップだ。
彼は様々な魔法昔話を分析した結果、そこにある構造類型を抽出してみせる。
それは、加入儀礼の儀式をなぞっていると、プロップは語る。
加入儀礼の儀式は、密儀の神殿において加入者が象徴的な死と再生を受けることによって、なされる。
ファンタジーにおいて、主人公は旅に出る。
そのことによって主人公は、象徴的な死者となる。
そして彼は魔法使いの手によって恐るべき体験を経て、戦いに勝利し帰還する。
これらは、象徴的な死と再生を意味しているというのだ。
「冒険者」というものについて、考えてみよう。
JRRトールキンのLOTRに登場するアラルゴンは、言うなれば「冒険者」である。
(野伏り=レンジャーが冒険者であるかについては、もちろん色々な議論もあるだろうし乱暴な定義ではある)
彼は、何らかの組織に所属せず、出自も明確にしない。
世界の中で、浮遊する存在といってもいい。
象徴的死者とは、現実的な種々のコードから一旦切断された存在だといえるだろう。
そして彼は、魔王サウロンの軍勢に対峙した後勝利し、王位につく。
トールキンは、魔法昔話の構造にそって(おそらくは意図的に)物語を構築した。
だからアラルゴンは、冒険者として物語の中に、唐突に放りこまれなければならなかった。

剣について、考えてみたい。
剣は、ファンタジーの主人公が多くの場合手にしている。
剣は、大体において呪具であると同時に、武器である。
神話において、呪具として有名なのは、日本の草薙の剣であろう。
日本は中世において、刀狩りを行っている。
それは、刀というものが単なる武器ではなく、それを帯びるものの身分を示す象徴的な呪具でもあることを示しているとも考えられる。
さてアラルゴンは、どうだったろうか。
彼は、「折れた剣」を持って登場する。
いうまでもなく、これはゲルマン神話にも登場する重要なモチーフである。
彼は、折れた剣を再生した後に、王位につく。
剣と王位の関係を、神話は象徴的にあらわすことがある。
それは、アーサー王のエクスカリバーについても同様だと思える。
神話学者であるエリアーデは、ゲルマン世界の戦争について、生贄を神に捧げる儀式と戦いが一体化していたという。
生贄を神に捧げる役割を担うのは、ワルキューレである。
おそらくは、王族もまたその役を担っていたのではないかと思う。
生贄は、ゴールデンバッフを想定すれば、「偽王=魔王」であってもよいではないだろうか。
ファンタジーが魔法昔話を出自に持ち、それをなぞるものであれば剣の持つ役割は自ずと明かになる。

ファンタジーは、コードを持つ。
いわゆるゲーム的ファンタジーにおいてそれらは脱コード化、再コード化されたものであろう。
物語は、コードを必要とする。
わたしたちは、それを選択することが可能だ。
ファンタジーというコード。
現実というコード。
そうしたものの出自を問い、それらの意味について考え選択するのは、無意味なことではないと思っている。

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