第11話 めくるめくスパーリング
翌朝。
朝霧の中を一人で走った。先輩たちは私がサボらないのを知っているから、部屋で掃除やら炊事やらをやってもらっている。格闘技に限らずなんだろうけど、人を育てるのは大変なことなんだ。答えないと。帰る場所はあるんだ。今はやれることを、やれる限りやる。
スピードを上げた。一本の線の上をなぞるように、スニーカーを一歩ごとにやや内側へ入れて走る。ガニマタでどたどた走るとひざを痛めるからだ。首を立てて腕は90度、手を軽く開いて胸を張る。走るのは難しい。趣味でやってるランナーには、走り方がひどい人がたくさんいる。フォームを意識せずにただ汗をかいて、その後のビールだけを楽しみに走る人たちだ。それではダメだと言われた。走るのは、とても難しい。私のランは、自分をいじめるためのものじゃない。明日のため。強くなるためのもの。
あの路肩のブーゲンビリアまで20メートル。いくぞダッシュ。
息を止めて一気に走った。足を高く挙げて大きく後ろに蹴りだし、うんと胸を張って手を大きく動かす。
ブーゲンビリアの横まで来たら、次は流して80メートル。このインターバルダッシュを教えてもらってから、こんなむごいトレーニングを考えた奴は誰なのかと本気で恨めしくなった。でも、効果的なのは間違いない。スタミナをつけるにはこれは必須だ。次は鮮やかなハイビスカスが近づいてくる。あと20メートルになった。ダッシュ。
もう一度息を止めて全力で走った。ロングストライドの全力疾走。はたから見たら、なんで朝のランニングであんなに必死なんだとおかしく見えるだろう。かまわない。目的のため、本当に強くなる。周りからの目なんてどうでもいい。この疾走が、私に新しい力を積み上げてくれるはずだ。
ハイビスカスを横切り、80メートルのジョグ。次はあの電柱。次は今横切ったヤンバルクイナ。次は街路樹。そして、ここからだ。5回目あたりからだんだんダッシュが甘くなってくる。こんなに頑張っているんだからもういいだろうという気持ちが邪魔に来る。これを振り払わなければ私の体力は昨日に戻る。今日に敗北する。それは許されない。
5回目のダッシュも全力だ。汗が下に流れたら落第。横に流れて合格。そういうルールを自分に課していた。熱気の中を駆け抜けていく。私はファイターだ。私は疾風だ。私の中に刻まれた思いが、私に休むことを許さない。
3キロ、これを繰り返して丘の上についた。風が私の頬を撫でる。どんな親切な人からも、どんな裕福な人からももらえない、神様にもらえる最高の贈り物。
柔軟体操を始める。ウォームアップは下から順に。足首を回してアキレス腱を伸ばす。膝の屈伸。勢いはつけない。常に呼吸し続ける。腰を回す。これも勢いはつけない。自分の意識が全身を稼働させていることを確かめながら、それでいてぎこちなくないように。
開脚。全開脚と全前後開脚ができるようになった。ぴたりと私の長い両足が一直線を描く。女子はこういうところでは得だと思う。筋肉がつきにくい分、柔軟性が高い。男子にはできないような関節技の抜け方もできるし、私の動体視力と組み合わせれば巧みな回避ができる。
立ち上がり、腕を回し、首を回す。あくまでゆっくり。関節を反らすのではなく、伸ばす。首は特に重要だ。後ろに倒してはいけない。学校の体育には間違いが多い。まずい走り方、まずいストレッチ、まずい筋トレ。本物のアスリートになりたければ医学や人間科学に精通しなければ駄目だ。思い込みや惰性を捨てて、数限りない実験を経てエビデンスを残した、良いものだけを取り入れる。
終わったら次はシャドーボクシングだ。まずはジャブを100。次はジャブ・ストレート、いわゆるワン・ツーを200。ワン・ツーからフック、アッパー、ローキック、ミドルキック、膝蹴り、肘打ち、タックル、立ったまま四つに組む動作をそれぞれ100。一つも手を抜かない。手を抜いたらやり直すか、休む。正しいフォームで合計1000回だ。物理的には脚の力が出しやすいように、感覚的には腰の力が出しやすいように。
それぞれの最初には、ゆっくり一回ずつチェックをする。足で地面を蹴っているか? 腰は十分に回転し、かつ前に体重が移動しているか? 肩の力を抜いて、手よりも先に動かせているか? 手首は立ててあるか? 打ちながら握りを強められているか? 人差し指の根元が当たっているか? 視線は動いていないか? 目をつぶっていないか? 軸足をしっかり固定、いわゆるカベができていて、体が流れていないか? 相手を意識しているか? 命中したイメージは作れているか?
何度かやりながら影をチェックして、左の回し蹴りが良くないことに気がついた。フォームを修正する。フォームを意識する時も、女子の場合は有利なことがある。腕力だけに頼らず全身のコントロールで力を出す能力は、女子のほうが高い。射撃やアーチェリーなどでは毎回同じ姿勢を取ることが重要になるけど、この時の姿勢は、考えるのではなく自然に覚えさせるものだ。これをマッスルメモリーというらしいけれど、それに関しては女子のほうが平均値が高いと言われている。ただしそれは、一度誤ったフォームを作ってしまうと修正が難しいという諸刃の剣でもある。だから丁寧に、慎重にフォームを作る。何度かやり直して、納得いくミドルキックが出せた。
最後は補強、いわゆる筋トレだ。私はこれが大嫌いだった。好きにならないとダメだと先輩たちから言われた。最近は大嫌いが嫌いくらいにはなった。草の上に寝転んで、ベンチに足を乗せる。腹筋を100。ひざを曲げて自分の腹を見る。大きく起こさない。腰を痛めるからだ。一瞬、腹を見て戻す。少し左右にひねる。次は仰向けから少し上体を起こす。手を頭の後ろに組む。脚を浮かす。V字を作る。100回。これは腹筋だけでなく背筋も鍛えることができる。
終わったらうつぶせになって、手ごろな大きさの石を取る。コンクリートブロックがあればいいけれど、無ければ平たい石でいい。この上に両手を乗せる。腕立て伏せだ。ひじを曲げる。ぐっと胸を大きく開く。ゆっくりと上体を持ち上げる。反動はつけない。苦しい気持ちを殺す。この一瞬が次の一瞬を作るという感覚を作り、自分の中へ宿らせる。
そしてスクワットだ。私の体格では一番これに気をつける必要がある。細身の長身は遅かれ早かれ、必ず膝を痛める。関節の負荷を減らし、筋肉への負荷を上げるには曲げきらないことだ。うさぎ跳びなんて論外だ。一番下までしゃがむフルスクワットも厳禁。淘汰の果てに残ったトレーニングはこれだ。まずぐっと前後に足を開く。わずかに膝を曲げて下に落とす。これの繰り返しだ。回数が少なくなるよう、石を抱いて負荷をあげた。
以上が1セット。これを3セットやる。これで大きな筋肉を鍛えたら、次は小さい筋肉だ。全身のさまざまな関節を細かく小さく動かす。指や足で円を描き、肘や膝を複雑な、けれど関節の可動域を意識して動かす。効果のある新しい方法はどんどん取り入れる。
結局、どれも行き着く理論は単純だ。初めてキッカ先輩とネコが取っ組み合っているのを見たときから思っていたけど、これは力学だ。それも簡単な。力学を使うために、動作はもちろん、呼吸や意識、バランス、負荷、そういったさまざまな要素を詰め込んで、工夫しているというわけだ。
これが私の早朝のトレーニングだ。さて走ろう。走って帰ったら、今度は対人トレーニングだ。帰りは帽子をかぶって海岸を走ろう。白砂の上を駆け抜けて、陽光をいっぱいに浴びながら。海の透き通る青さを感じよう。緑の間を吹き抜ける音を聞こう。東京に戻っても、走るときはこの景色を思い出そう。くじけそうになった時は、この風を思い出そう。泣きたくなった時は、この汗を思い出そう。
*
「戻りました!」
「よーし、やろう!」
キッカ先輩がグローブを叩き合わせた。
ジャージを抜いでトレーニングウェアに着替える。体を大きく回して、マットの中央へ。
「じゃ、最初は組み技のドリルからいきますわよ。向かい合って!」
サラさんの合図で先輩と向かい合う。
「打ち込みでも必ずスパーリングと思って、テイクダウンを積極的に取る意思を持って! はじめ!」
ぐっと腰を落とす。キッカ先輩がローキックとジャブを組み合わせたフェイントからタックルを仕掛けてきた。ぐっと腰を落として上からつぶしにかかる。
「はいそこでフロントチョーク! 遅い! タイミングが悪い! その他もろもろすべてが悪い!」
横から蹴り飛ばされた。なんてことしやがる。
「立って! はじめ!」
先輩が今度は大ぶりのハイキックを振りぬき、私が避けたところへタックルに来た。両足を引いて再度上からがぶる。
「フロントチョーク! ポイントが悪い! のこぎりみたいに腕を揺らして、敵の頬骨を絞めながら首を折りなさい! ためらってはいけません!」
また横から蹴り飛ばされた。こいつなんかの病気じゃないのか。頭の。
「立って! はじめ!」
先輩がツー・ワンツーのパンチで前進しながらタックルを仕掛ける。さっきは上体が高すぎた。脚を引くタイミングも遅かった。一歩早く、相手をコントロール。
「フロントチョーク! よしそれ入ってますわ! 絞めて絞めて死ぬまで絞めて! 二度と吸ったり吐いたりできなくさせなさい!」
「うげー!」
キッカ先輩がパンパンと私の体を叩く。
「やめ! 素晴らしい! それなら敵に勝てますわ!」
敵ってなんなんだろう。
「いいよいいよ、ばっちりポイントに入ってたね♪」
キッカ先輩が首を左右に倒しながら笑顔。苦しかったと思うんだけど、 腹とか立てないのはすごいよ。こういう練習に慣れてるよなあ。
ドリルは続いた。タックルの打ち込み、投げの打ち込み、寝技に移ってパスガード、マウントからの攻撃、ガードポジションからの反撃、マウントからの脱出、抑え込み、関節技、絞め技……
休憩をはさんで、縄跳びとサンドバッグ打ち、パンチングボール、スピードボール。そしてサラさんとのスパーリングだ。
「ではユーハさん、かかってらっしゃいませ」
この変な言葉遣い、誰か指摘しなかったんだろうか。
「始め!」
キッカ先輩の合図で、私がジャブを打ち込みに行く。
「えいっ!」
「さぁらーっ!」
前手でジャブを払い落された。同じ手での反撃が私のアゴに命中する。
「ううっ!」
またもらったか。最初がダメだ。立ち上がりが遅すぎる。それにサラさんの受けてから入る機敏な反撃はキッカ先輩より早い。
首を振りながらステップで間を調節した。ジャブで様子を見るなんて、せこい発想だからダメなんだ。ストレートで深く打ち込む!
「せいやあ!」
「あーしゃあ!」
サラさんはスウェイバックで悠々と私のストレートを避け、同時に私の伸びきったわき腹へミドルキックを命中させた。
「うううっ……」
苦しい。腹の奥底にダメージが来る。なんてうまいんだろう。自分との差に涙が出そうだ。誰に聞かなくてもわかる。この人は強い。自分に対してなんの疑問も持っていない。この人の両目に映っているのは、いつか出会う真の敵だけ。なんて透明な生き方なんだろう。
この瞬間、初めて思った。これまでの冷ややかな気持ちが消えて、新しい意思が生まれた。
この人のようになりたい!
この人みたいな情熱を持ちたい!
それができるなら、きっとネコともショーコとも並ぶだけの実力が持てる!
打ち合って打ち合って、そして打ち合う。タイミングを見計らってラッシュを仕掛けた。食らいながらも当たっている。前へ! 前へ! 打ち負けてたまるか!
「やめ!」
私たちの間にキッカ先輩が体をねじ込んだ。
「邪魔だてすると許しませんわよ!」
「3分だよ!」
気がつかなかった。3分ってこんなに短かったっけ。
「1分休憩してから2本目。いいね!」
水を飲む。生ぬるい水が不気味なほど美味しい。ペットボトルの半分を飲んで残りを頭へかけて立ち上がった。わずかな水を飲んだだけで、火にガソリンをぶちまけたように戦意が戻った。
「構えて! 始め!」
「さあ!」
蹴りから入る。わかった。初手は蹴りだ。蹴りが私の原動力になる。掴まれることを恐れるな。最初から蹴りで来ると思う人は多くない。
「くうっ……」
懐を深くさばかれたけれど、いいラインに入っていた。この人が大きくバックステップするのを初めて見た。この作戦は当たっているんだ。足を置いて突撃を仕掛ける。ローキックからストレート。組み付いて四つに。体をひねって体落としをしかけた。
「させませんわ!」
裏投げで投げ返された。なんて力だ。
「やめ、立って!」
「ちえー、入るかと思ったのに!」
手をついて立ち上がる。
「投げを仕掛けてくるなんてあなどれませんわね。次は容赦しませんわよ」
感触があった。いけるぞ。次はいける。まだあと3日もある。間に合う!
*
次の日、その次の日。少しずつ、時間が減っていった。そして最終日。獅鷹流の道場生とキッカ先輩とサラさんと、合計50回、150分のスパーリングをしめに持ってくることにした。
「最後じゃ。思うようにやってみい。勝ち負けを気にしすぎず、自分の技術を余すところなくだしてみろ」
「はい」
夏の夕暮れ。最後の夕暮れだ。沖縄の砂浜に、女子門下生がずらりと並んだ。
「ユーハさん、行きますね」
頭の上にお団子を作った中学生、サトコが私の前に立った。
「始め」
「セイヤーッ!」
ためらいなく攻めてきた。左のミドルキックが来る。落ち着いて足を見切り、着地直前を蹴り飛ばした。崩れたところで首を取って、手刀を寸止めに。
「うわっ、参った!」
サトコが悔しそうに言った。一人目。
「わざわざ東京から来るだけあるねえ」
次は20代の人妻、ユキさんがグローブをつけた。この人はキックボクシングのルールでやれる、私の同じくらいの長身だ。シーサー君の声に合わせて、鋭くジャブを飛ばしてきた。
私は斜めに下がってから前蹴りを返す。ユキさんはそれもかわしてローキックを飛ばしてきた。膝で受けてローを返した。1分くらい打ち合ったあたりで、相手のスピードが落ちてきた。体力の差だ。チャンスを見てローキックを連打して押し込んだ。
「くーっ、降参!」
「次じゃ」
「やー、すげーな女子高生」
「そっちだって女子高生ですよね」
農家の長女のリカが入った。サラさんの中学時代のクラスメイト。この人は獅鷹流じゃなくて柔道だ。空手のルールじゃなくて、組み技で勝負することにした。寝技で転がり袈裟固めをはずしたところで、3分が終わった。
4人、5人、6人。波を蹴りながら打ち合った。手足をかいくぐって組み付いた。9人目と10人目は先輩たち2人だ。30分の休憩を入れて、さらに1週。さらに1週。30戦目に、過呼吸でひっくり返った。1時間休んで、また立ち上がる。1人、もう1人、気がついたら夜の帳がおりかけていた。そのころには、49人目のキッカ先輩とのスパーが終わっていた。
「ここからが本番ですわよ」
サラさんが前に立った。大きく両手を掲げ、それを肩の高さに落とす。
「さあ参りなさい、親のかたきと思って! 殺す気で来なければ許しませんわ!」
「はい!」
返事と同時に当たった。へとへとの私に向かって、サラさんは手加減なく全力で突進してきた。この人は私がどんな状態になっていても、絶対に手を抜かない。
「軽い! 遅い! 殺気が弱い! それでは敵に勝てません! 殺意をお持ちなさい!」
「ちっきしょぉ!」
言われるまでもなく、こっちは殺す気でやってる。サラさんを相手するのに、殺す気未満の覚悟なんかいらない。
サラさんがスパートをかけてきた。今までは、これに圧倒されてかならず追い詰められた。
今日は逃げない。全力で殴りつけた。サラさんがのけぞった。前に出た。打たれながら前に進んだ。波が足にまとわりつく。絶対に逃げない。絶対に怖がらない。前に進めば痛くない。
当たり前だ。止まってりゃぶちのめされる。ぶちのめせば痛いわけがない。四つに組み付いて足を引っかけた。抱きつきながら体重をかけてテイクダウン。
「しまった!」
サラさんが強引に倒れ際を外そうとする。その手をつかんで変化に入った。波しぶきをあげて押さえ込む。頭で肩に圧力をかけながらサラさんの腕を伸ばす。アームバーだ。伸びた! やった! やった! ついにこの人から決定的なポイントを取った!
そこで、最後のストップウォッチが鳴った。魂が抜けきったみたいだ。全部のスケジュールが、これで終わったんだ。
「それまで!」
「悔しい! 今のはとられましたわ!」
サラさんが波をひっぱたいた。
「やったじゃん!」
キッカ先輩に、バケツの海水を頭からぶっかけられた。
吼えた。両目を閉じて、夕日に向かって、獣みたいに叫んだ。
涙があふれた。
泣いたことは何度もあったけれど、こんな気持ちで涙を流したのは初めてだった。
ここに来てからの事が、浮かんでは消えていった。
一週間。一生の中でも、二度とすごしたくない一週間。それでも、私は生まれて初めて、何かをやりきったと思った。
「気合入ってたね。すごいよ、ユーハ。こーんなハードなスケジュールでさあ……」
キッカ先輩がずぶ濡れの私を抱きしめた。両腕に体を投げだした。
「ようやったのう。一生誇れる努力じゃよ」
周りから大きな拍手。いろんな声が聞こえてくる。何が聞こえているのかわからない。でもうれしかった。
沖縄の赤い太陽がまぶたに焼き付いていた。私の中に、たしかに一つの力が備わっていた。
これで、これで、ショーコに会える。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます