第5話 くるしいストレート

 小学校5年生のころ。私はショーコの同級生だった。そのクラスの女子グループには女王様みたいなのがいて、8割がその取り巻き。2割くらいがそこからはぐれた連中だった。ショーコも私も2割のほうだった。

 そしてある日、ピラミッドが崩れた。ショーコが女王様を徹底的に殴り倒したのだ。ショーコが空手をやっているってのは、同じ道場に通っている男子から聞いていた。大会でも賞状やらトロフィーやら、そんなのをたくさんもらってるとかなんとか。

 私がノートに落書きをしていたとき、突然、ものすごい音が鳴った。

 机が乱れて、椅子がころがっていた。たむろしていた男子グループが、ぽかんとしてあっけに取られていた。

 鼻血まみれの女王様は、泣きながらショーコにつかみかかってさらに殴られた。顔を蹴り飛ばされて壁に頭をぶつけ、ばったり床につっぷした。

 思わず、2人の間に割って入った。理由はよくわからない。多分子供なりの、純粋な正義感だったんだけれど、今思えばずいぶん大胆なことをしたなと思う。私がショーコの右腕をつかんだ時に先生が来て事件は終わった。

 女王様の政権は崩壊したけど、それはどうでも良かった。問題はショーコだった。そのことがあってから、私は先生になんとなくひいきされるようになった。ケンカを止めて偉いと思われたみたいだ。先生は逆に、ショーコには辛く当たった。

 それから、私の学校生活は変わった。

 ショーコは私の顔を見るたびに、何も言わずに殴った。それまで思っていたよりもずっと不気味な子だった。ショーコに会わないように、ショーコの顔を見ないように、隠れるような毎日を送っていた。ゲームに逃げるようになったのもその頃だ。他の人ともうまくいかなくなっていった。怖くて、スポーツでも勉強でも、目立たないように実力以下の結果を出すようにした。前髪を伸ばして、目立たないようにした。ネコに出会うまでは、他の同級生とも話さないようになった。一番覚えている、一番忘れたい時期だ。


 そのショーコがいる。

 私の目の前に。それも、私の先輩の相手として。


 キッカ先輩は慎重に歩を進めてリングの中央を取った。

 先輩が軽くジャブを出した。ショーコは反応しない。じっと先輩を見つめている。

 4年が過ぎても変わらない、冷たい視線だ。

 静かだった。あれだけ騒いでいた観客が声を控えている。

 誰かが、パンフレットをがさっと鳴らした音が、妙に高く響いた。それが聞こえたのか、関係ない判断なのか。風を切って、ショーコが左拳を飛ばした。

 キッカ先輩はそれをさばきながら右のストレートを返した。

 ショーコは肘で先輩を迎え撃った。

 キッカ先輩が受けた。

 受けて、膝を出した。膝は当たらなかった。ショーコは前進を止めていた。

 ワンテンポの静止。直後にお互いのパンチが衝突した。

 弾けるように、二人の体がのけぞった。

 踏みとどまる。両方が、もう一度前に出た。

「さあ!」キッカ先輩が叫んだ。あの透明な声で。

「おお!」ショーコが吼えた。4年ぶりの声。でも、記憶にはない声だった。

 2人が大きく右手を振った。フックだ。二人のグローブがうなりを上げた。

 どっちもあたらない。殴りながら倒れる寸前まで上体をわざと崩し、直後に俊敏に起き上がった。

 ショーコの回し蹴りが横腹をとらえに走る。それよりも速く、先輩の下段蹴りがショーコの足に命中した。

「すっ……」

 息を呑んで見守っていた周囲の中から、初めて声が出た。

「すげえ!」

 周りの声が、一気にふくれあがった。私たちは前の背もたれに身を乗り出して、試合を見守った。続いて次々に、先輩たちが声を出し始めた。

「ちょっと、誰なのあれ?」

「あれで高1? 本当に?」

 後ろの観客もどよめいていた。

「これで女子の試合か?」

「キッカに打ち負けてねえぞ!」

 両方とも、動作が完成されてる。一撃、一撃が重い。防御も完璧だ。パンチ、キック。どれもわずかな動きで大きなダメージを避けている。

 消耗戦になる。序盤でこの打ち合いなら、後半からの追い上げは無理だ。二人とも、つぶしあってつぶしあって、最後に立っていればいいって考えてる。正面から打ちまくるつもりだ。

 四つに組み合って寝技へ。膠着に入って、レフェリーにブレイクをかけられた。二人の目は、離れる間もお互いから外れなかった。焦げるくらい強烈な眼光が衝突した。

「続行!」

 声と同時に、二人が再び前に出た。空を引き裂くショーコのアッパーと、弧を描くキッカ先輩のハイキックが同時にお互いを弾き飛ばした。汗が散っていた。汗は霧になって、霧は熱気になった。弾き飛ばされたショーコは、膝と左足で姿勢を維持した。キッカ先輩は大きく両足を曲げたけど、膝をつかなかった。

 沸騰するような歓声が舞う。天井のエアコンが空気を吸い上げても吸い上げても、熱気がスチームのように立ち上っていく。2人が前に出た。ジャブ、ハイ、エルボー、ミドル。神速の攻防が火花を散らす。

 喉が一度鳴った。私の記憶の中に、これ以上白熱した瞬間があったろうか?

 お互いの手を払い蹴りを避け、ショーコの手はキッカ先輩の首を、キッカ先輩の手は脇と腕をがっちりと握りこんだ。

 お互いがお互いを投げて崩れ落ちた。肩から落ち、マットに二人が弾む。

「もう勝負かけてんのか」

 ネコがつぶやいた。

「キッカは判定勝負無しの選手じゃ。相手が仕掛けてくれば、必ず迎え撃つ」

 シーサー君が答えた。

 二人が寝技に入った。キッカ先輩の動きがのろい。右足をひねった。倒れた時に痛めてる! 仕切り直しがかかるとまずい!

「先輩動いて、動いて!」

 思わず叫んだ。リングまで届いているとは思えないけど、声が勝手に出た。

 ショーコの押さえ込みが入った。キッカ先輩が振りほどきに暴れる。

「キッカ、左手抜いて!」

 アミ先輩が叫ぶ。

「ダメだ、それじゃ!」

 私が叫ぶ。

 キッカ先輩がショーコの抑え込みをときにかかったけれど、その角度だと外れない。膠着した。

「ブレイク!」

「ああっ……」

 顔を伏せて、前の背もたれに両手をついた。

 ダメだ、立ち技から再開しちゃダメだ。

「ファイ!」

 審判の声がかかる。

 観客がどよめいた。

「ステップが……!」

 ネコが苦しい声を出した。

 顔を上げた。あきらかに先輩の右足が動いていない。痛めて動かせないのがばれた。

 ショーコの気配が強まった。体積を持つ鉄塊の気配だ。

 アミ先輩が、苦い顔で試合を見守っていた。息を吸い込んだまま肺の中にとどめている。キッカ先輩がしかけた。痛めていないほうの足で低い蹴り。直撃したけど、ショーコは微動もしない。軸足の踏ん張りが利いていない。

 キッカ先輩が、焦れて前へ入った。

「まずい!」

 目を細めた。先輩の突きと蹴りが、再び筋肉の厚みに跳ね返された。手の角度が悪い。力の伝わらない、まずい打ち方だ。

 逃げたほうがいい。時間は……

「あと1分!」

 アミ先輩が大声を上げた。

 1分、たった1分なんだ。先輩、逃げて!

 そう叫ぼうと、手を口に当てようとした。

 声は出なかった。ショーコの狙い済ました一撃が走る。右ストレートが、キッカ先輩のアゴを貫いた。

「先輩!」

 ネコの声。

 先輩が、苦し紛れに右手を振り回す。当たらない。ショーコは上体をそらしてかわしている。同時にローキックがキッカ先輩の脚に直撃した。パアンという乾いたムチのような音が響き、先輩の体が大きく崩れた。ショーコが追撃の左フックを打ち込む。これが、完全に試合を終わらせた。

 叫んだ。

 何を叫んだかわからない。

 涙は鼻の奥へ流れて呼吸に交じり合い、吐き気を引き出した。

 ゴングが鳴り響く。セコンドと先輩たちがリングに飛び込んだ。

 キッカ先輩の長い髪が、ばさっとリングに散っていた。

 気が遠くなった。どろどろに溶けた真っ白な世界が目の前に浮かんで、徐々に暗くなっていく。それから、何もかもがわからなくなっていった。


 *


 なんだろう。なんだかほっぺたが痛い。

 ぱちぱち変な音がしてる。

「えっ? あたっ! あいたたっ! 痛い痛い! ネコ、あんた何やってんのよ!」

「あー、戻った戻った」

 顔を背けて、ネコの手から逃げた。

「気がついた。大丈夫?」

 アミ先輩の顔が飛び込んで来た。

 あれ、どこだここ。

「初めての試合で驚いたんじゃろ」

 声の間近で声。

「へっ?」

 どこからだ?

 と、もぞりと胸の横で何かが動いた。

「どわわっ!」

 ええい、なぜに私の脇の下にいるんだ、この小動物は!

 思わず手を振り払う。シーサー君がアミ先輩の腹にすっとんでいった。

「ぎゃおーん!」

「おっと」

 アミ先輩があわててキャッチ。ったく、油断も隙もない。さすが伝説の武道家だ。っと、それよりここはなんだ。

「病院?」

 私の上に覆いかぶさってるネコに言った。なんだか襲われてるみたいな気分だ。

「キッカ先輩と一緒に連れて来たんだよ。ここは等々力の聖隷病院だ」

 ネコが私の上に乗ったまま答えた。

「は、はあ……あ、そうだ。キッカ先輩は?」

「そこ」

 ネコが隣のベッドを指差した。

「あんたが乗っかってると横向けないんだけど」

「これが必殺マウントポジションだ」

「ネコ、バカ言ってないで降りなさい」

「あだだ」

 アミ先輩が、ネコの耳をひっぱって私から引き離した。

 横を向く。キッカ先輩はベッドの中でいつもの赤い眼鏡をかけて、私の顔を見つめていた。

「ユーハ、ごめんね」

 やさしそうな微笑、赤い唇。初めて会ったときと同じ、澄んだ声だった。

「え?」

「いいとこ見せらんなくってさ」

「そんな……それより、大丈夫なんですか」

「もちろん。すぐに退院できるって。こっちがびっくりしたよ。ベッドについたら、隣に寝てるんだもん」

「あっ……すいません!」

 言われてみりゃそうだ。すごい迷惑かけてるじゃないか。

「ははっ、ネコに言ったげてよ」

「ネコ、あんたが運んでくれたの?」

「んあ? まあ先輩たちとな」

「うわっ……ごめん……」

「まああれだ。あたし様は心が広いから許してやるぜ」

 ひええ、なんて話だ。人の試合見て失神するって、相当珍しいんじゃないのか。

「集中して見ていたんじゃろう。気にせんでええ」

 シーサー君がアミ先輩の腕の中から言った。

 そこで、病室のドアが開いた。

「おや、お目覚めですか」

 白衣のおじいさんが入ってきた。お医者さんか。

「国頭君はすぐに検査だ。神楽坂君は帰ってかまわないと思うよ。めまいの薬を出すから、もし気分が悪くなったら近くの診療所に行きなさい」

「あ、すいません」

 体を起こした。

「……え?」

 えーと。

 私、何も着てないぞ。

「おや失礼」

 お医者さんが慣れた様子で後ろを振り向いた。

「なっ、なんで裸なの、私?」

「脱がせた。あたし様が」

 ネコが答えた。

「上着はともかく、なんで下着が無いのよ!」

「あまりにも胸が無くてずれてたからひっぺがした。これ本当にいるのか?」

 ネコがひらひらと水色の下着を振る。一発ひっぱたいてからひったくった。

「下も渡せ! つーかショーツ取るとか意味がわからん!」

「はいはい」

 ネコが隣の籠を引き寄せた。

「あ、まってまって! ちょっとまって!」

 さっと横に目を飛ばした。

「アミ、お前は少し、気が利きすぎるのじゃないかね」

「黙って鼻血を拭いてください」

 アミ先輩は片手でシーサー君の両目を塞ぎ、ウェットティッシュか何かで鼻血を拭いていた。なんてありがたい先輩なんだ。

 左手でネコからショーツをひったくり、右手でゲンコツを狛犬に食らわしてやった。

「ぐへえ、見とらんのに」

「見ようとしてたじゃないの! 未遂も禁止よ!」

「心が狭いのう」

 服を着なおして外へ。酷い目にあった。


 *


「キッカ先輩、大丈夫かな?」

 病室の外で、シーサー君に聞いた。

「もう回復はしているが、脳震盪で意識が一度飛んだからのう。規定どおり90日の試合停止、練習も当分は軽くやるしかないの」

「えっ……」

 私が聞き返した。出場停止。そういう規則があるのか。

「まあ生活自体は大丈夫じゃろう」

「もう格闘技ができなくなるとかは無いんだよな?」

 ネコが反対側からシーサー君に聞いた。私もそこが気になった。

「それは大丈夫じゃが、キッカは徹底して接近戦に持ち込むスタイルじゃ。そのせいで若いわりに比較的打たれている。今後は少し考えなければならんの」

「今のまま続けるとどうなるの?」

「個人差はあるが、ドランカーと呼ばれる症状が出るかもしれん。常に体が震え、歩いたり物を持ったりすることも困難になる。呂律が回らなくなる事もある」

「おおごとじゃない!」

 思わず叫んだ。

「キッカは強い。しかし、強いがゆえに打たれるのを怖がらん。皆の前で堂々と戦いたいという気持ちが大きすぎるのじゃ。あやつは根っからの役者なんじゃよ。だが、今度は少しきつく言おう。今日の試合も、打ち合いを避けて得意な寝技に持ち込むこともできたはずじゃ」

「……いや」

 ネコが、そこに割って入った。

「そのやり方で勝ちたいなら、もっと強くなればいい。それだけだろ」

「人間には限界がある。どんな強い者、たとえ世界で最強の戦士であっても、故障や体調不良があれば戦術を変えるものなのだ。ネコ、精神主義はいかん」

 シーサー君が答えた。

「あたしは違う。強くなりたいなら、逃げ腰じゃいられない。そんな事言ってちゃ、気持ちが萎えちまうよ」

 ネコの頑固な言葉に、ちょっと不安な気持ちが強まった。ネコには、ショーコと関わって欲しくなかった。

「ネコ、なんか気分悪い?」

 私が言った。

「何言ってんだ。ユーハほどじゃないよ」

 ネコが答えた。言われてみればそうかもしれない。自分をこいつに当てはめてただけか。

 頭の中を、キッカ先輩の試合が駆け巡る。ショーコのいるところ。あの、暴力と生きているような女。

 あいつがいるような場所に行くつもりなの?

 ネコの背中を見ながら、私は一人、心の中でつぶやいた。


 *


 翌日午後、6時間目。ミトコンドリアのイラストを書かずに、ティッシュでこよりを作って遊んでいたら先生に怒られた。ホームルームの連絡事項はナシ。全員ががたがたと席を立った。

「ユーハ、やろうぜ」

 ネコに肩を叩かれる。

「私パス。ごめん」

 ちょっと暗めの声で言った。今日は合同稽古がない。初めて休むことにした。続けるかどうかを、少し考えてみたかった。

「え、なんで? ああそっかアレか? 見学だけでも来りゃいいのに。夜のしかないけど貸すか?」

「ちゃうちゃう。そんなんじゃなくて普通に調子悪い」

「ふーん? 珍しいな? じゃあしゃーない、あたし様は行くよ」

「……ずいぶん打ち込むわよね?」

「ああ。この、全力で動く爽快感ってのかな。それにもう引っ込めねえよ。やれるところまでやるさ」

 急に、そのネコの返事に疑問がわいた。なにか、ネコの言い方は上っ面というか地に足がついてないというか、そんな感じがあった。先輩とショーコの試合を見てから、特にそんな感じだ。

「……何度も聞いたけど、どうして私を誘ったの? 単にそばにいたから?」

「お前にも向いてるって思ったからさ。理屈好きなのも観察力があるのも体が大きいのも、ばっちり格闘技に向いてるよ」

「何言ってんのよ。あんたの運動神経と比べたら……」

「そんなこたあねえよ。ユーハ、お前あたしを持ち上げすぎだ。あたし様は天才だから気持ちはわかるけどよ。お前にだってお前の才能があんだろうがよ」

「そうかなあ……まあとにかく今日はいい。明日は行くわよ」

 目を閉じて、ひらひらと手を振った。

 ネコが出て行ってから私はカバンに教科書を詰めて、薄い筆箱を突っ込んだ。と、そこで私の肩にだれかの手が触れた。

「ユーハ帰んの? バイトとかは?」

「は?」

 ケーコだ。中学のころからの帰宅部代表。両耳にちっちゃな水色のピアス、金に近い茶髪。前に洋楽のダウンロードサイトを教えてもらった覚えがあった。この学校だと珍しい、チャラい連中だ。

「バイトなんてしないわよ」

 機嫌が良くないのもあって、かなりつっけんどんに答えた。

「えーなに? 勉強一筋?」

 ケーコは引かない。私のこの態度に押してくるってすごいよな。得な性格してるよ。

「勉強とか、なおありえないわね」

 別にケーコが嫌いってわけじゃないけど、このおとなしい学校でも派閥はある。こいつらとガッチリ組んじゃうと、ほかの連中と付き合いにくくなりそうだ。

「なにー、ユーハ、ひきこもり系?」

「そ。私オタクなんで」

「またまたぁ。ちょっと冷たいんじゃないのぉ? 親友はなんか忙しいみたいだしさあ。よかったらなんだけどー、駅ビルの新しいショップ行かない?」

「はあ? 私が?」

 眉をひそめて言い返す。1人と見るなり派閥に勧誘とは素早いね。しかし無化粧黒髪で目つきまで悪いこの私に、どういう風の吹き回しだ。だいたい、私はネコとケンカしてるわけじゃないぞ。

「だってユーハ、いっつも怖くしてるし基本ネコと一緒じゃん。遊んだの中学の始めだけじゃない。もー高等部だし、夜も補導とかされにくいしー。たまにはどっか行きましょーよう、ユーハさぁん」

 うげえ。しばらく見んうちに、コイツそれっぽくなりやがったなあ。こいつらがあの、デコレーションケーキとシャンデリアをミキサーにかけたみたいな、光輝くサイトを見るヤツらなんだな。

「やめてよね。そのうち行くから今日は勘弁してよ。気分じゃないのよ」


 わけのわからん集団と別れ、とぼとぼと黒い服で暗い夜道を歩く。MP切れの魔法使いみたいな気分だ。ようやく敷地だけはやたら広い我がボロ家、神楽坂家に到着した。

 自室の5畳へ直行する。かばんを床に転がし服をカゴに投げつけてベッドへ沈没。目を閉じると、キッカ先輩の顔が浮かんできた。

『ごめんね、いいとこ見せられなくて』

 いいとこ、か……

 殴り合って蹴り合って、腕をひねって首を絞めて……そして、叩きのめされて。

 ぎゅっと目をつぶっても、頭がさえたままだ。

 寝付けなかった。

 怖い。

 4年たっても変わらない。私はショーコが怖い。

 6年のころ、ヨハネに行くためにネコと同じ塾に通った。そのころから、ショーコとはほとんど関わらなくなった。ネコといたから、ショーコの事は忘れられた。それでも、今でも怖い。

 一時間くらいベッドの中で右に行ったり左に行ったり。

 机に手を伸ばしてタブレットを取った。ファンタジーの女剣士が世界を救うポチポチゲーを始める。わずかな時間だけど、いろんな事を忘れられた。面白いかどうかなんかどうでもいい。ゲームはいいよな。嫌なやつは出てこないし、なんかをやったような気分になるし。


 *


 次の日の教室にて。教科書をしまってスポーツバッグを手に取った。合同練習の日だ。ネコと和室へ向かった。

「今日、キッカ先輩は?」

「来るよ。練習は参加しないけどな」

「どうするのかしらね、これから。キッカ先輩がああで練習とかできるのかな?」

「1週間くらいでスパーは付き合ってくれるってさ。それまでも、技術なら他の先輩も知ってるから」

「他のジムとかは?」

 ネコは少し黙ってから、下を向いたまま続けた。

「いやあたしにはできない。基礎が固まってないのに他の方針に合わせる時間は無いよ。次の新人戦、ショーコが出るんだ。それに合わせないと」

「えっ?」

 初耳だった。

「昼にキッカ先輩からメールが来たんだ。でるよ。ショーコとぶつかると思う」

 ネコの言い方にはよどみが無い。こいつは決めていたんだ。キッカ先輩が負けたときから。

「強くなりたい。どれだけできるか試したいんだよ。掛け軸にもあっただろ。『前に進めば痛くない』ってさ。突っ込んで打ち合って、そして、堂々と勝つんだ」

「……すごいわね」

「あたしは前に進むんだ。そうでなきゃ強くなれない。痛いままだ。痛みを超えるには、前に進むしかないんだ。どうしてもこいつを身につけたいんだよ」

 ネコが拳を掌にたたきつけた。

「なんでそんなに?」

「……昔の事を捨てたいからさ」

「昔って、いつの? そんな話、聞いてないわよ」

「そのうち言うよ。今日は練習に行こう」

 小さくうなずいた。止める理由は無い。止められないと思った。ショーコへの恐怖は消えていなかったけれど、この頑固者がここまで言うなら言っても無駄だ。そのうち言うなら、そのうちを待とう。


 あたしたちが練習所に行くと、今日は6人くらいが来ていた。ネコはシーサー君のところへ。あたしたちは、休養中のキッカ先輩に指導してもらうことにした。

「シーサー君がネコの監督してるから、ボクたちは護身術やろうよ」

「ああ、腕を捕まれたらああしてこうしてとか、そういうのですか?」

「うん。やっぱり格闘技やってます、そこらの人に負けましたじゃ悲しいでしょ?」

「いや、私は」

「ユーハちゃんはさ、タイプ的にカウンターが向いてると思うんだよね」

 怪我しててもしてなくても、先輩は先輩だった。このスルー力は、もはや芸術の域だと思う。

「カウンターってのは、相手が打とうとした瞬間に、それよりも早く打ち返す技術なんだけど」

 あたしとアミ先輩が向かい合った。キッカ先輩がアミ先輩に、キックを受ける用の四角いミットをつけさせる。

「アミ、片方のミット構えて、もう片方を振り回して。ユーハ、それに合わせて打ち返して」

 キッカ先輩が手を叩いた。アミ先輩がミットを振り回す。

「おっと」

 あたしがジャブを出す。アミ先輩のミットに当たった。

「こんなんでいいんですか?」

「うーん。多分」

 アミ先輩が、あんまり自信なさそうに答えた。

 何度か練習して、タイミングは合ってきた。でも、本格的な殴り合いで使えるかって言うと、ちょっと厳しい気がする。

「相手が何出すか知らないと使えないですよ、これ」

「うーん。そうだよねえ」

 アミ先輩は親切だけど、技術にはあまり詳しくないらしい。もう一度構えなおした。

「ユーハ、肩を見るといいよ」

 キッカ先輩が言った。

「ん、どーして?」

 アミ先輩が聞き返す。

「そのまま。もう一度やってみてよ」

 あたしたちが構えた。アミ先輩の肩を見る。

 そこがかすかに動いた。遅れてミットが飛んでくる。

「えい」

 ミットに打ち込んだ。いいタイミングだ。

「お、いい感じ」

 アミ先輩がちょっと後ろにのけぞった。

「ちょっと、スパーリングみたいな感じでやってみて。かならずグラブつけてね。素手で頭蓋骨を殴ると、一発でゲンコツがバカになっちゃうよ」

 キッカ先輩が2組のグラブを取った。

「さんきゅ」

 アミ先輩がミットをおろす。構えて、スパーリング形式の練習を始めた。先輩の右肩が動いた。遅れて右ストレート。次は左の肩が動いた。左のミドルキックだ。

 本当だ。肩の動き方でかなりわかるぞ。

 あたしが打ち返し始めた。右ストレートだけだけど、百発百中でアミ先輩にカウンターが入る。軽く当てているだけだけど、タイミングはばっちりだ。

「すごいねユーハちゃん! なんでわかるの?」

「や、言われたとおり、肩見てるだけですよ。あと私は手が長いから楽ですね」

 気を入れ始めた。体が熱い。Tシャツが汗を吸い込んでいた。

 攻略法をわかると一気にやりやすくなる。手を読むのが楽しい。交代してやってみる。アミ先輩も同じことができていた。受けているともっとわかってくる。やっただけうまくなる。あたしたちは何回か繰り返し、礼を交わしてから休憩した。

「どーもです。かなりわかりましたよ」

「ユーハちゃん反射神経抜群だね。ゲームの経験かなあ。キッカ、これ、ケンカでも役に立つのかね?」

 アミ先輩が言った。

「そーだなあ。ついでに覚えておくなら……よほどケンカ慣れしてれば別だけど、普通はにらんでる間は殴ってこないんだよね。まずはぎゃあぎゃあわめき散らして下を向くんだ」

「ああ……キレた人ってそうかもですね」

 私が言った。昔、ショーコとケンカになった小学校のころのクラスメイトが、まさにそんなやり方で怒ってた。

「そして一回黙ってから、顔を上げると同時にね」

「おおっと!」

 アミ先輩がキッカ先輩のフックを避けた。なるほど。

「避けちゃダメだよ。そこで打たないと。ま、ケンカならこんな感じだだね」

「さすがキッカ。変なこと知ってるね」

 アミ先輩が複雑な顔でキッカ先輩を見た。

「教養って奴さ。じゃ、もうちょっとやってみてよ」

 キッカ先輩は全く気にしない。ネコの指導に行った。

 アミ先輩と繰り返しているうちに、肩を見るっていう意味がだんだんわかってきた。そうなると、今度はお互いに上を行こうとする。うまく行くのは何回かに一度だけだ。こういう読みあいは面白い。人間の本性がわかったみたいな気分だった。

 キッカ先輩に代わってシーサー君がこっちに来て、すみっこにうずくまった。

 スパーリングは30分くらい続けた。終わったときは2人とも汗だくだ。入部してから一番動いた日かもしれない。

「身に着けたの」

 窓の下にうずくまって、シーサー君が言った。

「身に着いた……のかな?」

 私が座りながらつぶやいた。

「身に着いたのではない。身に着けたのじゃ。自分の意思と努力でのう」

「ふーん……?」

 ちょっと嬉しくなった。

 身に着けた、か。そんな事、今までになかったな。学校でも塾でも部活でも。やれって言われてやっただけだ。理屈がはっきり効果になるのはゲーム以外じゃ知らない。こういうのがたくさんあるなら面白いな。

「シーサー君、見てて悪いとことか無いのかな。なんかアドバイスくれない?」

 私が言った。

「それではまず汗をふき取るのをやめ、四つんばいになって息を荒げながらだな」

 私の代わりにアミ先輩が蹴っ飛ばしてくれた。

「バカはほっといて続けようね」

 あいつ、技術は教えてくれないんだな…… 


 *


 全体練習を一時間。ネコとスパーリングもやったけど、やっぱり才能が桁違いだ。全員で次々かかっていっても、キッカ先輩以外の部員だと3周しても負けなしだ。2分以内にまず一本勝ちを取ってくる。

「よし、今日はここまでだ、上がろう!」

 キッカ先輩が両手を叩いて言った。

「えーと、じゃあ7月末の新人戦だけど、条件はアマ2戦以下。アミちゃんどうする?」

「パスパスパス! 無理だよ試合なんて!」

「そっか、じゃあ……」

 キッカ先輩が、目をネコに向けた。

「ネコ、いいね」

「もちろん」

 ネコが返事する。おおー、と部員たちが拍手した。

「ネコなら文句なしだよね」

「優勝狙ってきな! 応援すっからね!」

 みんながネコの肩を押したり背中を叩いたり、大騒ぎだ。

 当のネコは、厳しい顔で口を一文字に結んでいた。


 *


 練習を終えた帰り道、ネコはめずらしくほとんど話さなかった。

 こいつなら大丈夫なんだろうか?

 あのキッカ先輩が勝てなかった相手にも?

 たしかにこいつの運動神経は抜群だ。でも……

 いろんな事を言いたかったし、聞きたかった。でも、あたしの中には、今は伝える言葉が無かった。ネコが先に口を開いた。

「今日はなにやった?」

「カウンターね。あと、ケンカのやりかた」

 言うと、ネコは突然顔を上げて不愉快そうな顔をした。めったに見せない表情だ。

「ユーハ、ケンカなんかすんのか?」

「しないわよ。あんたじゃないんだから」

「あたしだってしないよ。ケンカはダメだぜ」

「でもさあ……格闘技なんて、ケンカみたいなもんでしょ?」

「全然違うよ!」

 突然、ネコが言い返した。

 足を止めた。

 言い過ぎたか。でもどうして? こいつだってガキのころはケンカしてたのに。

「……ごめん。怒った?」

「あ……ちょっとな。でもいいよ。悪かったな」

「でも、たしかに私はよくわかってないけど。格闘技ってケンカみたいに見えるわよ、どうしても。ちゃんと聞いてなかったけど、どうしてネコ、格闘技を選んだの? バスケやバレーは毎回断ってたのに。格闘技ってことは、やっぱり強くなりたいってことじゃないの?」

 いうと、ネコは少し黙ってもごもごと口を動かしてから、気を整えて顔を上げた。

「……ガキのころは、あたしもケンカしたことあったよ」

「でしょう?」

 ネコは急に話しにくそうな顔をしてそっぽを向いていたけれど、すぐに続けた。

「一度な。顔も見ないで後ろから叩きのめした奴がいたんだ」

「え? なんでまた?」

「いや……もうよく覚えてないよ」

「そんな事あったかしらね? 私と会ってから?」

「どうだったかな……とにかくそんとき思ったんだ。理由はあったんだけどさ。ぶん殴る事はなかったはずなんだ。なんでそんな事をしたんだか、あとになってからずいぶん考えたんだよ。それで、わかったんだ。あたしは人をぶん殴るのが好きだったんだ。誰かを悪者にして、一方的にやっちまいたかっただけだったんだよ」

「……そりゃまた、物騒なやつね」

「そうさ。だからケンカはやめたんだよ」

「ふーん……?」

 ふとネコに目を向けると、奴は上目遣いに私を見ていた。時々こういうこいつの態度にはドキッとする。単純そうに見えて、こいつには意外といろんな顔がある。

「格闘技なら、平等だからなあ」

「平等? どっちが強いかを決めるのよ?」

「だからよ! だから平等なんだよ! 本人たち以外は全部が平等でなきゃダメなんだよ。後ろから殴れないし、体格も近い同士だろ。武器も危ない技も使えない。それに公平なレフェリーがいるしさ。だから殴ってもいいんだよ。物騒でもいいんだよ。あたしたちは、リングの上ならそれが許されるだろ」

「わかるようなわかんないような……」

「ユーハだって、どっかに殺伐としたところの一つくらいあるだろ。察してくれよ」

「まあ、要するに体力が余りすぎてるけど、ケンカはイヤですと。そんで健康的にスポーツってわけね」

「そうさ。立派だろ?」

「その一言がなけりゃね」

「ちえっ」

 ネコが笑いながら言った。

 こいつはこいつで、いろんな事を考えてたんだな。私の知らないところで。

「ま、あんたの理屈はわかったわよ。でも、怪我しないでよ」

 別れ際に、それだけを言った。

「大丈夫さ。でも……まあちょっと不安かな。なあユーハ。変な話しちまったけどよ。これからもあたしの友達でいてくれるよな? あたしを応援してくれるよな?」

「そりゃ当然」

「サンキュ。きっと優勝してくるよ」

 はっきりとした視線を交わして、ネコが背を向けた。

 ショーコの事が怖いのは変わらない。けれど、ネコの事は応援してやるさ。

 私は、あいつの友達なんだから。

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