第6話 あらあらしいタックル
一学期も終わりに近づいてきた。
今は体育の時間。普通試験直前の体育って保健とかに切り替わるんじゃないのか。この炎天下に短距離ってなんだよ。
「あっちーねー」
木陰でケーコがいかにもダルそうな顔で言った。わざわざ相槌を打つのも嫌なくらい暑い。お互いにTシャツが汗まみれ。これは死ねる。抜け出してコンビニとかに駆け込んだらダメだろうか。ダメだろうな。
「ねーユーハぁ。テスト終わったら土曜の午後に遊びに行かない?」
「えー面倒。どうせ服屋でしょ?」
「服屋って。ブティックとか言おうよー。じゃなくて合コン! 大学生と!」
「うげー、なおさらパス」
男なんかとしゃべってられるか。だいたい話題が何も無いよ。
「ユーハ絶対モテるって。あたしが保証するからさ!」
「いらんいらん。いらんもんいらん」
「そこをなんとか! 実はちょっと怖いとか思ってんだって! ユーハがいると心強いしさ」
「男と会うのにボディガードがいるとか、なおさら意味がわからん。パス!」
手を振って目を閉じた。
「ちえっ、ユーハ紹介したかったのにー。ゆーはさんってばブラ透けてるくせに付き合い悪いんじゃないっすかー?」
Tシャツをつまんでその奥のひもを引っ張ってきやがる。なんだこいつは。話そらそう。
「それより、どうなの?」
「どう? 何がさ」
「タイムよ」
「ちょ、ユーハってば、なにそのマジメちゃん!」
わざとらしかったかなと思いつつも、強引にケーコに続きをしゃべらせた。
「もー言うほどなわけないじゃんー。8秒5よー」
ケーコがきまずそうに私の肩を押した。
「うっそ? どうすりゃそんなに遅く走れんのよ」
押されて斜めになりながら、跳ねた前髪をかきあげた。
「うちの平均9秒とかよ。お嬢様だもん。ユーハは?」
「7秒2だけど?」
言うと、ケーコがぎょっとしてこっちを見た。
「なにそれどういう事?」
「それでも今日は調子出てないわよ。ベスト7秒0よ私」
「スパイク無しですごくない? なにそれ陸上やってるレベルじゃない。女子で7秒って」
「や、ネコはもっと速いよ」
ふと、トラックに目をやった。ちょうど、ネコが走ったところだった。体育の先生が、大きな声でストップウォッチを読んでいた。
「えー、6秒9!」
「ほらね」
「7秒切るとか……マジ陸上あるとこなら普通に行けるよ。都大会とか目指せるんじゃないの?」
「あいつ今鍛えてるしなー」
「ユーハもやってんでしょ? どうなの?」
……鍛えるか。どうなんだろう。この前のカウンターの練習あたりから、まあまあ動けるような気はしてるけど。
確かに、私には私なりの才能はあるんだと思う。でも、それはネコと一緒にいて引き上げられたものばっかりだ。何しろあいつと遊んでると小学校からサッカー、テニス、バレー、バスケ、ソフトボールに水泳だ。身体が丈夫にならないほうがおかしい。柔道の時間もずっとあいつと組んでたんだから、それで抜け方とか覚えたように思う。あの人間離れしたスピードを相手にしてると、こっちまで他人の倍くらい動くことになるし。目が鍛えられたのも、ゲームの恩恵もあるだろうけど、やっぱりネコがいたからかもなあ。
考えてみれば、ネコとこんなに話さなくなったのは初めてだ。そのくらい、ネコはこれに打ち込んでいる。私ももう高校生だ。もう少し、自分の時間や自分だけの考え方を持ったほうがいいんだろうか? 少し、そんなことを考え込んだ。
教室に戻るとすぐタオルを手に取った。拭いても拭いても、だくだくと流れる汗が止まらない。張り切りすぎた。先生がドアを開けたとこで、ようやく着替え終わった。ぎりぎりセーフか。と、見回すとほとんど周りはまだ途中だ。こいつらは……
「始まる前に着替えはすませとけ! いつも言ってるだろ!」
「やー怒んないでいーっすよー。訴えないから鑑賞してて下さいよー」
ネコが言いながら着席した。あいつも汗がなかなか引かないんだよな。しかしそのセリフはどうか。
と、ノートを出そうとしたときに、机の上の手紙に気がついた。誰だ。いや、このテキトーな折り方。ネコか。これ書いてて着替えが遅れたのか?
『新人戦の場所と時間。今は集中させてくれ』
試験が終わった土曜だ。どのみち合コンは無理だったな。
*
テストはいつもどおりひどかった。ネコとケーコよりマシなくらいで、下から数えたほうが早いと思う。でも問題はそこじゃない。その次。つまり今日だ。
新しいジャージに新しいスポーツバッグ、井の頭線で一時間。渋谷の体育館は明るくて静かだった。円形に並んだ座席、はるか下にリング。
腕章をしている学生たちが、椅子を黙々と並べていた。中央にはすでに青いリングが鎮座している。選手も応援もまだ来ていないみたいだ。係りの人がライトを操作する。光線が床の上に落ちた。一緒に来たシーサー君を肩から下ろす。
「ちょっと早く来すぎたかしらね」
「いや、もうすぐ来るようじゃぞ。今連絡が入った」
「携帯持ってるの?」
シーサー君がひょいっと首を振る。頭の上に、ロープにつながった電子機器が乗っかった。生意気にスマホかい。
「よくいじれるわね」
「爪を丸く研いだらなんとかなったわい。フリック入力もできるぞ」
「なんかヤね。現代的な怪獣とか」
「キッカが持てとうるさいのだ。せっかくだから部員たちを手当たり次第にローアングルで撮影しようと思ったら、なぜかカメラだけ壊れておったわ。どういう事じゃ」
やるなあ先輩。
「おや、なんか震えとるの。ユーハ、取ってくれ」
「ども。ユーハです」
「はろはろー♪ すぐボクたちも着くから待っててね。 ユーハ、ピンクの上下だって? えっちだなぁ。楽しみにしてるよ!」
どうしてこの犬コロは余計な事まで伝えるのか。それよりこのジャージとシャツはやっぱり失敗だったろうか。なんか気分を変えたかったのだが。
9時を回って、連中が来た。
ネコは下を向いて、一歩、一歩、ゆっくりと歩いていた。キッカ先輩が付き添っている。こっちを向いて軽く手を挙げたけれど、すぐにまた険しい表情に戻った。試合の前ってのは、こういうものなんだろうか? 途中で買ったペットボトルをアミ先輩に渡して、できるだけ軽く、小声で聞いてみた。
「行けそうですか」
アミ先輩は制服のタイを少しだけゆるめ、短いスカートを軽くはたいた。なんだか落ち着けないみたいだ。
「厳しいかも……結果でなくても、あんまり言わないであげてね」
「へっ?」
変な声が出た。アミ先輩が私の目を見た。
「何がまずいんですか」
「今のネコの体重知ってる?」
「えっ、オーバーしてるとか?」
「いや逆。48キロ級なのに、46キロしか無くてさ。相当食べさせたんだけど、どうしても増えなかったんだ」
なんだか、よく意味がわからなかった。
「それなら別に出られますよね? なんかマンガで見ましたけど、減量が大変なんじゃ?」
「あ、それってプロの話。もともと痩せてる人とかだと増量もあるんだ。要はベストの状態で試合に出られればいいのね。キッカがかなり食べさせて、50まで増やしてから減量させたんだけど、あっという間に46なんだ。代謝が良すぎるんだと思う」
「それは、試合に相当響くんですか」
「うん……下の階級だと、2キロの差は大きいからね。今年はネコの階級だけで10人もいるし、クジ運悪くてシードじゃなかったからさ」
アミ先輩が言葉を切って、リングサイドへ向かった。私は最前列から二列後ろのパイプ椅子で、シーサー君をかかえてネコを見た。厳しい表情だ。いつも見ているはずの二の腕が、すごく細く見えた。
*
開会式を終えて試合が始まった。ネコの試合は3戦目で、決勝まで4試合。試合時間は5分1ラウンド。防具は厚めで、判定基準が細かい。基本的には毎試合15分位で進んで行く。
ネコは私たちの二つ前の座席を降りて、黙々とストレッチを繰り返している。こちらを一度だけ振り向いて、小さく手を上げた。私も手を上げて挨拶にしたけれど、ネコは笑いもせずにまた両足を開き、黙々と体を倒し続けた。
9時ぴったりから男子の試合が始まった。3つのリングでそれぞれの選手が取っ組み合っていた。男子の試合は迫力はあったけれど、なんだか周りが野蛮な声ばっかり出してて、見る気がしなかった。
時計の針が9時30分を回ったとき、進行の一人がネコに声をかけた。
「二宮選手、そろそろ」
「ああ」
ネコが答えた。毎日聞いてる奴の高い声が、久しぶりに思えた。おろしたての、まだなじんでいないウェア。先輩と同じ白いシャツとトランクスに、金色で書かれたSt.Johnの刺繍。
キッカ先輩がネコに付き添う。はっきりした声で、最後の指示を出した。
「体は軽く。最初は待って一発受けたらタックル。いいよね」
「ああ」
「攻められてもパニクらない。落ち着いて寝技に持ち込む。セコンドの指示はしっかり聞いてね。主の御心をキミに」
ネコが無言で、胸の前に十字を切った。
ざわざわと、遠くから声が聞こえた。
「キリスト教だぜ。ヨハネだろあれ」
「日本最強の茶道部か?」
「新しい選手だよ。キッカだけじゃないのかな……」
周囲のざわめきに、ふっとネコが目を向けた。ネコの膝が震えていた。ヨハネを背負っているからだろうか。負けるのが怖いからだろうか。
辛い時間だった。胸の前で、小さく十字を切った。
洗者聖ヨハネ、聖マリア、全ての天使と聖人、兄弟。罪人なる我らのために祈ってください。エト・パトリス、エト・フィリ、エト・スピリタス・サンクティ。
アーメン。
ネコの一試合目の相手は、アルカディアジムの
「チロ、自分のペースでジャブから! 相手に合わせんじゃねえぞ!」
「ガタガタうっさいな! 勝ちゃあいいんだろ!」
マウスピースを口に当てながら、相手が怒鳴った。なんて向こう気の強さだ。うちの学校にはいないタイプだ。ああいう怒鳴り方する人……
「ネコ、のまれてないかなあ」
「ネコも気は強いほうじゃが、初戦は気持ちを作るのが難しいからのう」
頭の上で、シーサー君が言った。
「勝てないかな」
「試合は時の運じゃ。勝つ可能性は充分ある。しかし難しいのは間違いない。あの体重で試合に出るというのは、そういう事じゃ」
シーサー君が膝に降りてきた。頭をなでて、自分の手が汗で湿っているのに気がついた。頭の中に、ネコがチロさんの太い腕に締め上げられる映像が浮かんだ。それを振り払おうときつく目を閉じた時、ゴングが鳴った。
「さーこい!」
チロさんが一声出して、リングの中央に足を踏み出した。ネコは小さくステップを踏んだまま、ロープから少し離れて両手で顔を守る構えを取った。
「はい、こちらでは女子48キロ級一回戦三戦目、ヨハネの新人、二宮美弥子とアルカディアの加賀千尋です」
ちょっと驚いて横を見た。実況があるのか。カメラの横で記録用にしゃべっているみたいだ。場内全部に響く声じゃなかったけれど、周囲にも聞こえるようになっていた。
「二宮はまだ15歳、加賀は20歳。女子高生と女子大生の対決ですが、二宮は46キロでこの試合に臨んでおり苦しいところ。一方の加賀は高校時代に女子ボクシングで……」
視線をリングに戻す。チロさんが前傾すると、素早くネコに左手を飛ばした。ジャブだ。キッカ先輩のフォームよりも、肩を入れて遠くまで延ばすスタイルだった。
ネコのグローブがジャブを受けた。動きが硬い。練習の時よりもずっと遅いように見えた。
変化をつけて、チロさんのジャブがもう一度飛んだ。ネコはブロックを続けている。
あいつでも、あんなに緊張するんだ。
ネコの動きは重い。チロさんのパンチが徐々にネコを追い詰める。たどたどしい、場慣れしていない動きだ。下がるネコの足が、ロープに触れた。
無理なんだ。やっぱり初めてで、いきなり……
「下がんなアホ!」
会場のざわめきをぶち割るように、キッカ先輩の大声が響いた。
そこで、ネコの足が止まった。
「ネコ! 逃げない逃げない!」
「落ち着いていつも通り! 大丈夫痛くない!」
部員たちが一斉に黄色い声を上げた。そうだ、応援しないと。私は応援に来たんだ。私は、私の友達のために!
「ネコ!」
あたしが大声を出した。
「行きなよ! 約束忘れないでよ!」
それがきっかけだった。それまで光を失っていた、ネコの目が定まった。
チロさんのジャブが額をかすめる。そのチロさんの腕の下を、奴が疾走した。
ネコは一言も声を出さなかった。鋭い呼吸音だけを残して、低く、深く、まっすぐに。両腕がチロさんに巻きついた。
「右足内側から! 左手で払え!」
キッカ先輩が叫んだ。その声よりも早く、ネコの右足がチロさんの内股から左足に絡まった。ネコの流麗なタックルを喰らって、チロさんがどうっとマットに崩れた。
目を見開いた。
たどたどしい? 冗談じゃない。タックルに入ったネコは、弦を放れた矢みたいだ。
誘導してたわけじゃない。違う、そんな小細工をする奴じゃない。あいつは慣れたんだ。初めての試合に、たったの10秒で!
「抱えんな! 右足抜いて蹴りとばせ!」
チロさんのセコンドがアドバイスを出すと同時に、キッカ先輩も叫んだ。
「蹴り上げつかめ! 取ったら最初からフルパワーでしかけろ!」
普段のちゃらけた演技の声じゃない。先輩が本気の激励を出してる。チロさんがネコの胸を蹴り飛ばしに脚を出した。ネコはその右脚を無造作につかみ取って両手で抱え、さらにとびついて両脚を絡めた。
ダン、とネコの背がマットについた。ネコが一文字に口を閉め、大きく目を見開いている。背を逸らして足を折ろうとする動作だ。ギシッとマットがなった。いける。
レフェリーが駆け寄って、ネコの手を強く叩いた。
「ストップ!」
「えっ?」
シーサー君を抱えたまま立った。
意味がわからなかった。
寝技は禁止じゃない。なんで止めるんだ?
前にいた先輩たちは、おーっと歓声を上げて手を叩いている。
「ぃよしっ! やったぁ!」
キッカ先輩が嬉しそうに両手を叩いた。ゴングがガンガン響いていた。
なんだこりゃ。
あ、えっ、勝ったのか?
勝ったのか?
本当に?
ネコが勝ったのか!
「これは見事! 二宮、新人と思えない高速のタックルから、スムーズに脚関節技へ移行しました! 試合時間わずか52秒の早業! あー、加賀選手マットを殴りつけていますね。まったく自分の試合させてもらえなかったと言うか、これは悔しいでしょう。これからもがんばって欲しいところです。一方の勝った二宮、目に涙が浮かんでいます。初戦を制した嬉しさからでしょうか。小柄な体躯はまるで弾丸のよう。15歳、46キロの軽騎兵がデビューを飾りました……」
解説を聞いて、ようやく理解できた。
ネコは勝ったんだ。1分もかからずに。
ネコがぐっと両手を握り締め、天井へ顔を向けた。両目にいっぱいの涙が溜まっている。歯を食いしばって天井を見上げ、何度も右手で十字を切っては両手を広げていた。
二宮美弥子は、私の友人は、46キロの軽騎兵は、ついに格闘家としての一勝をつかみ取ったのだ。
*
「いい勝ち方だったよ」
キッカ先輩がネコの肩をほぐしながら声をかけている。
「あと3戦もあんだよなあ。次の相手はシードで初戦、こっちは2戦目……」
「さっきの試合で打たれてないから全然問題なし。しかも2戦目から先は初戦よりもずっと気楽になるんだ。これはハンデじゃない。アドバンテージだよ」
「先輩、上手いね」
ネコが自嘲気味に笑う。
「何言ってるんだ。今日はキミが主役だぞ。キミが気持ち良くなることは何だってするよ」
キッカ先輩が、ネコの耳にふっと息をかける。
「っと先輩、そういうの良くないってんのに」
笑いながらネコが首を振る。三毛の三つ編みが跳ねた。
「いいじゃないか。力抜けるだろ?」
つっとキッカ先輩の人差し指がネコの首筋を走る。
「やーめーろー」
ネコが笑いながら体をよじって逃げた。
「楽しそうねえ」
白けた顔で私がつぶやく。
「妬いとるのか。切ないのう」
無言で狛犬にゲンコツを叩き込もうとしたとき、ふと、奥のスペースに目がいった。燃えるような赤い髪。陰気な、けれどその中に焼けた鉄塊を隠し持っているような。
「……あいつだ」
ぼそっとつぶやいた。体格のいい中年の男が、彼女の荷物を手に取った。
「ショーコ、少し休んだらアップにしよう。試合は20分後だ」
ショーコが黙って首を縦に振った。
*
席を離れてトイレで手を洗っていると、誰かの声が聞こえた。
「かーっ、とっぱじめで負けるとヒマすぎ。ツラいなー」
ついさっき聞いた声だ。
「ヨハネの二宮最後まで残るんじゃん?」
「あのいんちき茶道部、キッカだけじゃないのかよー。46キロ高1って聞いたから力押しでいけるって思ったのに、テイクダウンも関節もすげーレベル高いじゃん。ケガしなくてよかったー」
チロさんって人だ。私の隣で化粧を直し始めた。そっか。試合はスッピンだもんな。20より上みたいだし。横の人はロングへアにピアス、日サロ通いの黒い顔。チロさんの友達か。
「二宮優勝じゃない? そんなヘコまなくていいでしょ」
「や、優勝は四天のショーコだろ」
「来てた? いないってウワサだったんだけど」
「さっき見た。開会式だけブッチなんじゃん」
「超エリートなんでしょ? 空手の最年少国体選手だっけ」
国体? 中学生でか。中体連とかじゃないんだ。
「あれもう新人じゃねーよ。セミプロ学生大会でキッカ倒して優勝だろ?」
チロさんが言った。等々力の大会の話だ。あれってセミプロ大会だったのか。道理で豪華だったわけだ。私はしれっと手を洗い続けた。もう少し、こういう人たちが何を言うのか聞きたかった。
「なんで空手やめたかね。そのまま行けば大学とかの推薦もらえんじゃないの?」
「高校空手部の主将と別れて、気まずくなってだってよ」
「マジ? 中3が高2と付き合ってたの?」
「だとさ」
「なにそれやらしー」
「いや、ヤってないんじゃん? 告って付き合ってすぐ別れたって」
「ちょっとチロ、超詳しくない?」
「柔術クラスのガキで、四天の柔道部いんのよ。ショーコとクラス一緒だって」
「へー」
へー。
なんかあれだな。この世界でも、話題も出来事もケーコたちと大差ないなあ。
ただ、ショーコが彼氏? 共学ならそんなもんなのか? あの暴力以外に何もないような奴がね。中学でどういう3年を過ごしてきたんだろう。ヨハネに入ってからは、ショーコのことなんて考えもしなかった。なかなか華やかな女子高生活をお過ごしみたいだ。
ま、うらやましくもないですけど。
長い手洗いを終えて蛇口を閉めた。そこでノックの音がした。ここのトイレ、外にドアはないのに。顔を上げて鏡を見た。隣に映る二人の顔が青くなっている。鏡の奥、入り口の柱には、誰かが体を預けていた。
げっ。
ショーコだ。
できるだけ自然に振り返った。リングから降りた彼女は、なんだか思ったよりも小柄に見えた。ショーコは柱をノックしてから、一言も口を開かなかった。
「い、行こ」
連れが、チロさんの腕を引いて逃げ出そうとした。
ショーコの右手が動いた。
「つっ?」
チロさんの顔がゆがむ。みぞおちに一発入れたな。
ショーコの手はジーンズのポケットに戻っていた。
「なっ……なにすんだよ!」
「なんかされたの?」
ショーコは強く打ってない。バカにしただけだ。
ショーコはチロさんにゆっくりと顔を向けて「ふん」と、小さく声を出した。
「てめこのっ!」
チロさんが手を握った。
「あの、やめてくれませんか」
私がチロさんの腕を後ろから取る。視線が重なった。
いつだったかもこんな事をしたことがあったな、と思いながらチロさんをにらんだ。ずっと忘れてたけど、私はもともと、こういうお節介なタイプなのかもしれない。
「なにあんた?」
チロさんが荒っぽい声を出した。
「二宮の応援ですけど」
できるだけ不景気な声で答えた。そうしないとナメられると思った。
「ヨハネの? だからさっきからあたしたちの話聞いてたの?」
チロさんが私の手を振り払う。嫌だなあ。八つ当たりでわめかないでよね。
「ここで殴り合うのは、場所が違うんじゃないんですか」
冷静に言った。2人は一度だけこちらを振り向いて、小さく舌打ちを残して逃げるように出ていった。テンプレな人たちだ。
ショーコが振り向いてじっと私の目を見ると、それからにやりと奇妙な笑顔を見せた。
気がついたか?
ショーコの目は、はっきりとあたしの全身に定まっている。でも小学校のころはそんなに大きくなかった。あたしの背は中学の3年間で伸びたんだ。それに今は前髪がこうだし……
「神楽坂か」
あっさりばれた。
ヨハネに行ったことを覚えてたのか。
「格闘技ごっこか?」
ノイズが混じった、ざらついた音があたしの耳に届いた。こんな声だったろうか? 覚えてない。男子じゃないんだから声変わりってわけでもないと思うけど。
ショーコは不気味な薄笑いをあたしにぶつけると、足早に会場へ戻った。
あまり深く考えたくなかった。そろそろネコの二戦目だ。行かなきゃ。
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