第7話 ゆゆしきミドルキック

 ネコの次の相手は柔道の選手だったらしく、開始1分で派手な背負い投げを仕掛けて、ネコをマットに叩きつけた。けれど、ネコが直後に下から抱きつきひっくり返して形成逆転。バックから執拗に裸締めをしかけた。4分を過ぎたところで、ついに相手がマットを叩いて降参した。その2時間後には3回戦。今の試合が始まっていた。

「打ち合いが得意な人と、寝技が得意な人がいるのね」

 膝の上に乗せたシーサー君に言った。

「そうじゃな。ただ、女子選手の場合は瞬発力が発達しにくいから、打撃で戦える選手は限られておる。基本は組み技、寝技じゃ」

 相手はネコのキックを受けてすぐに組むと、仰向けになって足を絡め、スパイラルガードという技術で寝技に持ち込んだ。相手もネコと同じくらいに敏捷で、のた打ち回る蛇が絡み合ってるような試合になった。けれど3分過ぎ。ネコは上になると膝を相手の腹の上に乗せて制圧した。審判が右手を上げた。これはニー・オン・ザ・ベリーという姿勢で、大きなポイントになるらしい。

「判定、30対26で、赤、二宮!」

「やった! やった……!」

 ネコが両手を握りしめ、目を閉じて声を絞り出した。初めてのトーナメントで、ネコは決勝戦まで進んだ。一戦、一戦。勝ち上がるごとにネコの動きはよくなっていった。

「自分勝手にやるタイプかと思っておったが、限られた技術を生かして確実に勝っておる。良い選手じゃ。強いだけでなく、素直で真面目じゃよ」

「ふーん……」

 シーサー君の頭をなでながら、試合場をもう一度見た。ネコはリングを降りて、キッカ先輩に汗を拭いてもらっている。強くて、素直で、真面目か。今までの、ヨハネでのネコはどうだったろう? 能天気で、落ち着きが無い、いたずら好き。みんなはそう思っていた。私もだ。

 ネコは変わったんだ。格闘技を始めてから。

「反対側は……」

「今決まるの」

 反対側の準決勝は、片方は予想通りショーコだ。相手は明らかにショーコの技術に圧倒されていた。4分がまわったところで、ショーコの鋭いハイキックが相手の横面に命中。相手が下に崩れた。意識は失ってないけど、足が震えている。

「やめ!」

 審判が割って入った。ショーコは右手を下に、左手を脇に引いて相手をにらみつけている。ゴングが鳴った。


 決勝戦は夕方の五時からだった。

 ネコは銀色のパックに入ったゼリーを腹に流し込んで、あとはずっとマットの上で横になっていた。キッカ先輩が顔をパタパタ扇子で扇いでいる。冷房が入っているのにかなり暑いような気がした。

「ネコ、もつかなあ」

 私がつぶやいた。

「強く打たれておらんから、試合自体はできるじゃろ。だが初めての試合は緊張で消耗が早くなるものじゃ。ばかりかネコの相手は全て自分よりも重い。決勝の相手はショーコじゃ。難しいところじゃのう」

「シーサー君は空手の先生だったんでしょ。ショーコの空手はどうなの?」

「文句のない逸材じゃ。彼女の使っている松風館流は一撃必殺を誇る、全格闘競技最速と言われる空手でな。その俊敏さをうまく総合競技に転化できておる。ド素人のネコに打撃で立ち向かう余裕は無い。しかしネコは勘が鋭いし、寝技に特化した選手じゃ。落ち着いて寝技に巻き込めば勝つ可能性はあるの」

「シーサー君の流派は寝技があるの?」

「空手に寝技は無い。寝技は柔道やレスリングのものじゃ。ただ獅鷹流は組み討ちのような乱戦を想定した空手じゃ。うまくペースに巻き込めば役にはたとう」

 今日はこいつ結構しゃべるな。ふと、あたしはずっと気になっていたことを聞いてみることにした。あたしはこいつになにも習っていない。ネコは、シーサー君から何を身につけたんだろう。

「シーサー君はネコに何を教えたの?」

「なんも教えとらん。ネコを指導したのはキッカじゃよ」

 予想通りの答えだ。

「なんてコーチなのよ。セクハラしかしてないわけ?」

「そういうことじゃな」

「はあ……」

 なんて当てにならんマスコットなんだ。必勝の秘策とかないのかよ。

 顔を上げる。ネコの試合が近づいていた。組んでいた指が、不愉快な温度の汗に濡れはじめた。ネコは仰向けに休んでいる。足をクーラーボックスの上に上げて額と腕に氷マクラを乗せ、じっと体力を回復していた。

 トーナメントだ。優勝するたった一人以外、全員が負けるルールなんだ。それでもネコはショーコを倒さなければ満足しないだろう。

 不意に、奴が目を開いた。氷マクラを取り除いて、上体を起こす。視線が合った。

 ネコはそれまでの厳しい表情を崩して、久々に笑顔を見せた。無理やり作ったのがバレバレだけど、それでも奴の、あの、毎朝見せる顔だった。

「ユーハ! 見てろよ!」

 奴が言った。

「勝ってくるからな!」

 私への言葉だ。熱気に満ちた、ネコの声だ。

 心臓が、きゅうっと握り締められるみたいな気分だった。

 ケガさえしなければいいと思っていた。初めて、勝って欲しいと思った。


 ざわついた会場の中からレフェリーがリングへ上がっていった。なにかしゃべってる。ほとんど聞き取れなかった。最後の大声だけが私の耳に届いた。

「聖ヨハネ学院高等部茶道部、二宮美弥子」

 ネコは落ち着いてリングへ上がった。

「ガード高く! 落ち着いて!」

 キッカ先輩が最後の指示を与えた。ネコが両手のグラブを合わせてうなずいた。

「新武道両統会、御園生翔子」

 ざわめきが広がった。この試合唯一の名前を知られた選手。中学生で国体に出場した空手のエリートだ。周囲の噂話がとぎれとぎれに耳に流れ込んでくる。そのたびに、ネコの耳に届いていないかが気になった。

「ユーハ、そんな顔をせんでもよかろう。ネコはよくやってきた。それに、勝敗が全てじゃあるまい。目を上げてネコの試合を見ておれ。奴はそれしか望んでおらん」

 シーサー君が目を向けてつぶやいた。

 答えず、リングに目を向けた。ネコの厳しい表情がショーコに向けられていた。

 体は力んでいない。しなやかで敏捷な46キロの軽騎兵は、静かに開戦の合図を待っていた。戦うためにここに来たんだと、その目が語っていた。

 レフェリーが二人を近づけ、そしてニュートラルコーナーへ戻した。ネコは両手を高く、左手をゆるやかに前に出した。ステップを踏みながら浅く顎を引いて、じっとショーコを見つめている。

 金属の音。


 空気の質が変わった。キャンパスの上に立つ二つの姿。ショーコは深く腰を落してネコの隙を伺い、リングを回りながら機会を狙っている。対するネコはあまり大きく動かず、じっとショーコの出方を待っていた。

「ショーコは徹底して一撃目に突きを持ってくる。良い一撃を当てたら、直後に連打。それが唯一で、また絶対の強みじゃ」

 シーサー君が言った。

 ゲームと一緒だな、と思った。最初の一撃を読み合って当てる。当ててから連続技を入れる。格闘ゲームで必要なのはその技術だ。

「ただ、ショーコには接近戦で蹴りを混ぜる技術がない。強力な蹴りをもらわなければ、少々打たれても強引に組んで引き倒す方法がある。ネコにも勝機がある」

 連打のパターンに穴があれば反撃もできる。そこもゲームと一緒だ。意外と共通するところもあるんだな。

 二人のにらみ合いは続いていた。レフェリーが打ち合うように合図をした。

 その直後だった。ショーコは一度下がって間を広げ、それから後ろ側の足を強く蹴りこんだ。弾丸のようにショーコの全身が飛んだ。低く構えた左手が、不自然な速さでネコの上段を貫きに行った。

 ネコはその左手をたたき落とし、軽やかに左へ滑った。きゅっとリングを踏んでネコが止まる。

 ネコは……がっちりと両手を折り曲げて顔を守っていた。足腰は柔軟で機敏に動いていて、上体にも力が入っていない。立ち上がりは悪くない。

 ショーコがもう一度軽くジャブを飛ばした。ネコが払う。ネコは自分から行く気だ。ショーコの手をつかんで引き込んで、寝技に持ち込むつもりだろう。

 でも……

 ショーコは打ってからの引く手が速い。あれをつかむのは難しいはずだ。リーチを生かした遠距離戦になると、ネコには圧倒的に不利だ。

 ざわめきが徐々に大きくなっていった。

「やっぱりショーコだな」

「あいつ強いよ。こんな試合に出てくる奴じゃないんだろ」

 周囲の声が耳に障った。

 ショーコは遠間から再度ジャブを出した。ネコのあごをかすめた。続いて、高いキックを出してくる。ネコが下がった。それを見て、ついにショーコが大胆に前に出た。

 まずい、逃げる時に姿勢が高くなってる。つかまる!

「ネコ! 右足!」

 思わず叫んだ。叫んでから気がついた。右足ってなんの右足だ。相手の右足か、自分の右足か。相手だとしても、向かって右なのか、相手にとって右なのか。あの状況じゃ判断できない。言い直してももう遅い。

 けれど。

 ネコはその私の声をそのまま読み取ったみたいに突っ込んだ。ショーコの鋭い右ストレートを軽快に左でカチあげて、流れるようにショーコの右足に組み付いた。

「ほう。足への意識が薄いの」

 魔術のようだった。ネコは相手の右足を両足でがっちり挟み込むと、マットすれすれに右手を滑らせ、無造作にショーコの左足を刈りとった。蛇が小動物を締め上げるような、全く無駄のない動作だ。

「赤、テイクダウン、ハーフガード」

 レフェリーが指を上げてポイントを宣告した。

「やった!」

 ぐっと片手を握り締めた。

 この新人戦は、事故が少ないよう寝技重視のルールになってる。キッカ先輩が出た大会よりも、寝技に対して細かい得点がつく。ネコにもチャンスがある。

「体起こして! 膝使ってこじ開けろ!」

 キッカ先輩が叫んだ。言われるまでもなく、ネコが上体を離して膝で相手の大腿を押さえに入る。けれどそこは小柄な体が災いした。ショーコは下からネコの首に腕を伸ばして抱え、自由の利く脚でネコの腹を押した。2人が転がる。ショーコがするりと逃げ、立ち上がった。

「赤、スタンダップ」

 レフェリーが二人の間に入り、ネコに立つよう促した。

「あー、惜しい」

 両手を組んで、親指の爪を噛んだ。

「腕力が足りんなあ」

 ネコのバカ力でもショーコの太い脚はとらえられなかった。仕方ない。あれは女によくある、脂肪に包まれた大根足じゃない。筋肉の境目が見える頑強な針金の束だ。

「どうにかならないの」

 あああっさり寝技から逃げられるんじゃ、倒しても倒しても先が続かない。かといって、打ち合いならネコのほうが下だ。体重も軽い。

「タックルで何度も倒して点数を稼ぐことじゃな。あとは寝技で膠着を取り、時間が過ぎるのを待つ。勝ちたければそうすることじゃ。これはスポーツじゃからの」

「あああ、そりゃ、普通はそうなんだろうけどさあ……」

 ネコはそんなのは絶対嫌がる。あいつはKOだけが勝ちだと思ってるはずだ。

「まあお主の思ってる通り、ネコはそれは選ばんじゃろうのう。それにくらべて、ショーコはポイントで負けていれば取り返す方法を選ぶ。今までの試合を見る限り、ネコには辛いタイプじゃ」

 ショーコはもう一度踏み込み、鋭いハイキックを振ってきた。ネコが大きくサイドステップで避ける。柔軟なネコの体が、残像を描いて走るキックを避けた。

「さあ!」

 ショーコが声を出した。かすれた気合と同時に、蹴りおえた足を振り上げ、もう一度、今度はネコの頭上から足が襲い掛かる。

「ハイガード左に下がる!」

 キッカ先輩が怒鳴った。ネコが指示の通りに逃げた。

「カカト落としじゃな」

「あれは入らない」

 私がつぶやいた。

 ネコは二度目の蹴りをグローブで払いながら下がった。ショーコの後ろを取る。

「左サークリング下がって!」

 キッカ先輩がもう一度叫んだ。

 下がる? どうして? 後ろに回ったのに?

 私の中に疑問符が浮かんだ。ネコも同じことを思ったらしい。踏み込もうとした。

「あっ、よせ!」

 キッカ先輩が怒鳴った。

「シイア!」

 鋭い声と同時に、ショーコがもう一度蹴りを出した。同じ足で三度の蹴りを。ショーコの右足がネコのみぞおちを捕らえた。知らない技術だ。ショーコは回転すると振り向きざまに右脚をたたみ、それをまっすぐに蹴りだしてネコの腹部に食らわせていた。

「珍しいの。後ろ蹴りか」

「ネコ!」

 両手で口を覆った。ぐらっとネコの姿勢が崩れた。今日初めて見る、ネコに命中した一撃だ。

「効いたぞ! 詰めろ! 詰めろ詰めろ!」

 ショーコのセコンドが叫んだ。素早くショーコが仕掛けた。突きの連打だ。倒しにかかってきた。観客は、ショーコの速攻に声援を上げている。ほとんどの人が、これで決まったと思ったんだろう。

 けれど、違う。その声援が、今度は逆に向けられた。

 シーサー君が目を見開いた。

「なんと……信じられん」

 声援がふくれあがった。それは、ショーコに向けられたものから、ネコへのものに変わっていた。キッカ先輩が身を乗り出した。

「あいつ……」

 不意に、記憶の中にある光景が重なった。

 大抵のゲームは、ネコより私のほうが得意だった。なにせ奴はパッド操作が下手くそすぎて、まったくゲームに向いてない。けれど、たった一度。画面に出てきた敵を片っ端からひっぱたくモグラ叩きミニゲームで私に勝ったことがあった。だけじゃない。世界中のランキングでもぶっちぎりの一位だった。ネットの掲示板では、この「CAT」ってプレイヤーはどうやってチートしたのか、そういう話題にまでなっていた。

 チートなんかじゃない。本当に集中している時のあいつには、私の目だって上回る、世界に通用する才能がある。

 短い時間に、ショーコは7発を打った。ネコはそのうち4発目までを下がりながら受けきった。5発目を払ってからネコが攻勢に回った。ショーコが最後の打撃を放ったとき、ついにネコの射程にショーコがとらえられた。

 ネコの反撃が始まった。左のローキックがショーコの足に直撃する。その足が降りると力強くマットを蹴り、力を右手に伝えた。フックだ。スプリングを離れたパチンコ玉みたいに、赤いグローブが円弧を描いた。ショーコの首がガクッと揺れた。ネコの集中は切れていない。両足を曲げて突っ込み、豊満な胸がショーコの胴体に密着した。ショーコの両足がマットから浮いた。

 派手な音を立てて、ネコがショーコの体を背中から叩き落した。部活で何度も繰り返した組み技の基本中の基本、リフトタックルだ。ショーコがマットの上をはねる。宙に浮いたタイミングを見計らって、ネコがサイドからショーコを固めた。

 先輩たちが何か叫んでいる。ショーコのセコンドも何か叫んでいた。会場が怒涛に包まれていた。私には、全く音のない瞬間だった。

 静謐の中、ショーコの右腕にネコの全身が絡みついている。大きく目を開けて口を一文字に閉じ、ネコが全力でのけぞった。

 ショーコの手が伸ばされる。

 十字固めだ。

 あれは防げない。ネコの勝ちだ。

 ネコの努力は報われた。まっとうなスポーツ選手として、結果を出したんだ。

 よかった。これであいつも納得するだろう。嬉しさと同時に、私のショーコへの恐怖も消えていった。

 ほっとして、深く息を吐こうとした。

「……ん?」

 その息が途中で止まった。

 見えたのは、予想もつかないような奇妙な行為だった。

「えっ?」

 目を細めた。

 ショーコが体をひねりながら逃げようと回転している。その途中で、引き伸ばされた手と反対側の手。それが自分の髪の中に入っていった。そして一瞬。何か、金属の光が見えた。


 ヘアピンだ。


 ショーコが手にヘアピンを持っている。

 それを素早くネコの内股に突き立てた。

 ネコの足のフックが緩んだ。

 ショーコがヘアピンを髪の中に戻す。ショーコが体を起こしてネコから距離をとった。

 誰にも見えてないのか?

 いや、そりゃそうだ。私の目にも見えるか見えないかだ。よほどの動体視力がなければ見えない。それもあんな意外な事。

 ネコはぽかんとしていた。当然だ。これはそういう競技じゃない。ネコが体を起こそうとした。抗議しようとしたんだろう。両手をマットから離した。その直後、ショーコの回し蹴りが、ネコの顔を蹴り飛ばした。

「なんで?」

 私が立ち上がった。

 直撃だ。ネコの体が吹き飛んだ。ゴングの音が鳴り響いた。誰も抗議に入らない。歓声が響いている。


 そんなバカな!

 あんな終わり方があってたまるか!


 目の前のパイプ椅子を蹴り飛ばし、人ごみをかきわけてリングによじ登った。

「ネコ!」

 リングに駆け上がった。

 ぎょっとして口をおさえた。

 白目をむいて泡を吹いている。全身に浮き上がる汗と、肌に浮かんだ青い血管。

「ネコ!」

 両肩をつかんで引き起こそうとした。

「だめだよ!」

 キッカ先輩に腕をつかまれた。

「何を!」

「動かしちゃダメだ! ドクターに任せて!」

「ショーコ、あんたっ!」

 キッカ先輩の腕を振り切って、ショーコをにらみつけた。

 ショーコは右手を握って軽く上げ、リングを降りていた。背を追った。髪の毛が逆立つのがはっきりわかった。あの女、殺してやる。

「ユーハ! どうしたの?」

 アミ先輩があたしの肩をつかんだ。

「離せ!」

 剣幕に、先輩がぎょっとして体を引いた。

 視線の先にネコがいた。担架の上に乗せられ、あたしの前を通った。

 壊れた機械のように痙攣する身体。

 呼吸器。

 頭を固定する器具。


 あの女。


 殺してやる。

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