第8話 おこがましいカウンター
数十分、彼女を追った。
彼女はトレーナーと分かれると渋谷の住宅へ向かった。私が隣を歩いた。ショーコも気がついた。首をこちらへ向けて、わずかに目を細める。そこで口を開いた。
「用があるわ」
「みたいだな」
言葉の中から感情の部分を切り落としたみたいな声だ。前からこんな話し方だったろうか。思い出したくなかったから、覚えていない。
ショーコが首を振って公園へ向けた。赤い髪からカルキの匂いがした。
「そこにカバン置きな」
ショーコが言った。
命令みたいに口調が強い。思わず言われたとおりにした。ショーコも同じ場所にカバンを置いた。
「ジャージか。着替えなくていいな」
突然変なことを言い出した。ノイズの混じった声。まるで機械みたいだ。
「なんの話?」
「話したけりゃあたしに勝ってからだ」
ショーコが奇妙な微笑を添えて言った。それが世界の常識だと言わんばかりだ。昼の挨拶をするみたいな態度だった。
「御園生さん。私、殴り合いしたいなんて言ってないんだけど」
4年ぶりに、こいつの名前を呼んだ。
できるだけ声を抑えようとしたけれど、無理だった。うわずった高い声。ショーコが細い目をはっきり開いた。茶色い瞳が、私の網膜へ突き刺さった。
こんな奴だったろうか?
小学校のときは、ただの暴れ者だっただけだ。そこからさらに何かが加わってる。
「始めたんだろ」
ショーコが拳を握った。
「なんのことよ?」
「すっとぼけんなよ」
拳を前に突き出した。私がたじろいで、一歩離れた。
「二宮の話がしたいんだな。いいさ。あたしに勝てば話も聞く。それ以上も考えてやる」
「やめてよ何それ。大した居直り方ね。あんた何したんだかわかってるわよね? それを言われたくないからって、暴力に訴えるの?」
「ガキのころと同じこと言ってんのか。神楽坂らしいな」
4年前のように、苗字で呼ばれた。
「あんたは変わったわ。前よりひどくなったわよ」
それを聞いて、ショーコがチッと舌を鳴らした。
「あたしはこうやってくしかないんだよ」
「なんで? もっとちゃんと話してよ。あたしはあんたの……」
その動作には一つの音もなかった。
手のひらが、私の顎を斜めに貫く。続いて、何かがあたしの胃袋を揺らした。
痛みが胴体の全体に広がったころに、それが蹴りだってわかった。
ショーコのスニーカーが、あたしのどてっぱらにざっくりと突き刺さっていた。
「ちょっ、待っ……」
続く言葉は、音を持たなかった。
苦しい。たった一発なのに、完全に油断してた。
せめて腹筋を締めておけばよかった。習ったはずなのに。いや、こんなところで、そんな事が考えられるか。街の公園で真っ昼間に、突然人に蹴りを食らわせるなんて。
「弱いくせにあたしに関わるな」
ショーコがバッグを肩にかけて背を向けた。
なんて奴だ。話し合いなんか無理だ。
ネコに謝れ。
ふざけんな。
死んじまえ。
叩きつけてやりたかった言葉は、どれ一つ出てこなかった。
*
公園でしばらく休んで、情けない気持ちで立ち上がった。もう日が暮れていた。
畜生。
ちくしょう。
チクショウ。
ネコの顔を思い出した。それまでも明るい奴だったけど、格闘技を始めてからはまるで太陽みたいだった。あの日々。目標を見つけて一心に努力し、日の当たるところでがんばろうと、あいつが追求した日々。それを奪ったショーコが、どうしても許せなかった。
住宅地から太い通りへ。ネオンと街灯が並ぶ、渋谷の道玄坂を下りていった。
そこで、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「ダメだって! お酒ナシだって言ってたじゃない!」
「別に大丈夫だって。バレるわけねえよ」
「そうじゃなくて、嫌だって言ってんの!」
「いや経験だって、経験!」
ケーコだ。そういえば合コンがどうとか言ってたな。目の前で、絵に描いたようなもめ方をしてる。結局こういうのなんじゃないか。行かなくて良かった。
ケーコと取り巻きが2人。相手の男が3人。ケーコは腕をつかまれて、残りはおどおどと肩を震えさせてる。あっきれた。なんで制服なんだよ。そりゃあヨハネの制服なら人気出るだろうけど、学校に連絡行ったら退学とかじゃないのか。それに、それを飲み屋に誘うってもっとアホだ。犯罪だろ。
そんなに荒っぽい人にも見えないし、ちゃんと言えばわかってくれないかな。このままホテルにでも拉致られたら寝覚めが悪い。助けてやるか。
「よしなさいよ」
ケーコを掴んでいた男の肩を、軽くたたいた。
「は?」
男たちが振り向いた。
「えっ、ユーハ?」
ケーコの後ろから取り巻きの声。ケーコも私に目を向けた。
「なに、あんた?」
「そんな格好だけど、そいつらお嬢さんだしさ。お酒は勘弁してやって」
「そんな格好って……あんたのほうがすげえカッコだよ」
……そういえば、ピンクのスポーツウェアだった。
こんな格好で渋谷をうろついてるって、なんの冗談だって話だ。横を向いて苦笑いを浮かべた。
「つーかでかいなあんた。高校生?」
「失礼ね、172よ。あんたのほうが大きいわよ」
「はあ……」
男がケーコから手を離した。
「いったー! マジ信じらんない!」
ケーコが涙目になって叫んだ。
「いや、そんなつもりじゃねえのに」
「はあ何言ってんの? 意味わかんない。超やだ、もう帰る!」
うわ、ケーコ。それはないだろ。助けてやったのにその態度か。火に油注ぎやがって。
「ああ? おまえ、ふざけんなよ!」
「ふざけてんのそっちでしょ! ありえないんだけど!」
こじれてきたなあ。余計な事するんじゃなかった。
「お前何いい気になってんの? カンチガイすんなっつってんだけど!」
「カンチガイしてんのアンタでしょ!」
うざすぎる。どっちもタンスの角に足の小指ぶつけて悶絶すればいいのに。
「はあ? お前おかしい!」
「あんたがおかしいのーっ!」
男が、じっと下を向いた。
ああ。
これがあれか。
『普通はにらんでる間は殴ってこないんだよね。まずはぎゃあぎゃあわめき散らしてから下を向くんだ。そして黙ってから、顔を上げると同時に……』
頭の中を、キッカ先輩の声が響いた。そうだ、こういうときは肩を見るんだったな。
男が顔を上げて、ケーコに向けて男がゲンコツを横に振り回す。同じタイミングで、私も軽く地面を踏みしめた。パンチはよく見えた。これで男か。ネコやキッカ先輩より全然遅い。
男の顎に右を飛ばした。
『カウンターで行くと決めたら絶対ためらわないことが第一。まずは腰の回転を意識。脇を締めて拳の先頭が当たるように。体軸をずらさず視線は動かさない。当てる瞬間に気持ち手首を回転させると威力が増すよ』
骨の音が体の中へ響いた。遅れて、拳の先にわずかな痛みが走った。
ぎゃあ、とか、ぐわあ、とか叫ぶのかと思ってた。男は何も言わなかった。
体をひねりながら渋谷の雑踏へ、文字通りに消し飛んだ。
*
30分後。
「なに? お嬢ちゃんヨハネなの? 本当に? それがケンカ? 若いからわかるけど、もうちょっと落ち着きなさいね! 兄弟いなくてご両親は遅くていつも一人? 大変だねえ!」
何を言われてもしょうがない。スチールの椅子に座ってテーブルに両手をついて、じっと下を向いた。
「家は吉祥寺? なんで渋谷にいるの? イベント? 格闘技の? そういう趣味なの?」
じっと下を向いて、スイマセン、スイマセンを繰り返す。生まれて初めて私はお巡りさんの厄介になった。
どん底な気分だ。警察って、悪いことした人には厳しいな……
「じゃあねえ、これ反省文だから! もうしませんみたいなこと書いて、二枚ね!」
テーブルの上に、作文用紙とHBの鉛筆。なんか泣けてくる。
「それで! 学校とかご両親とかに連絡するかって話なんだけど……」
ああ、そっかそりゃそうだよな。もともと大した奴じゃなかったけど、これで晴れて札つき不良少女か……
「え、ああ、何?」
と、そこでゆっくりとドアが開いた。婦警さんが声をかける。何かを小声で話してから、へえ? と、お巡りさんが言って、また戻ってきた。
「うーん、まあねえ。女の子で、ヨハネで、話聞いてるとマジメだしね。友達がちょっときつく誘われてたって、事情があったって事だと。俺も空手やってんだけど、いざと言うとき手が出ちまうのはわかる。とりあえず高校生活もこれからなんで、まあ今回はこれで終わりにしとこう」
「え?」
驚いて、作文用紙から顔を上げる。
四十くらいの太っちょのお巡りさんは、腕を組んで厳しい顔のままだ。
「言っておくけど、まだお嬢ちゃんは将来があるから、それを一回の事で全部パアってのもってだけだからね。だから今日だけはこれで終わりだけど、次はもう甘くしないと、そういうことだ。いいね!」
「あ、はい……」
反省文を太っちょのおまわりさんに渡す。うんうんとざっと読んで、折りたたんで机の中に。誰にも読まれないまま捨てられるんだろうな。
外に出て携帯を開いた。9時か。
夜空に包まれた渋谷警察署の前に、小動物がうずくまっていた。
「なんでいるの?」
「なんではひどいのう。せっかく迎えに来てやったのに」
シーサー君が、片目を開けて私を見た。
「……盗聴器でもつけてたんじゃないわよね。この変態」
「なるほど、それは思いつかなかったの」
「は?」
「次からはそうしよう」
「何を言っているのよ……」
首根っこをつり上げて、肩に乗せる。
渋谷の駅まで、とぼとぼと歩いた。ケーコとその友達から、チャットが山ほど飛んでいた。ごめんとありがとうがたくさん書いてあった。気にしなくていいよって一言、返信しておいた。
ケーコからもう一度返事が来た。『強いんだね』で終わっていた。
「弱いな……」
「何がじゃ」
「あたしがよ」
「なんじゃ突然」
携帯を閉じた。あんまり多くの事があった一日だった。
殴られるのを見て、殴られて、殴って。
そしてわかった。あたしは弱いんだ。ショーコに相手にもされない。たった1人の友達を守ることもできない。そのうえ、八つ当たりで素人をぶん殴って……
ヨハネに入ってから、ずっと他人と関わってこなかった。ネコがいて、ネコに守られて、それでようやく、あたしはあたしをやっていけていた。
弱くて、そして今はひとりぼっちだ……
「あ、あれ……」
目から突然、ぼろぼろと涙がこぼれた。なんだか突然、ものすごく悲しくなった。
悲しい。
苦しいよ。
ネコ……
その涙が、ぺろりと拭き取られた。
「……ちょっと、何してんのよ」
大泣きしようと思ったけれど、あっさり涙が止まった。
そういえば、肩にこいつがいたんだった。役立たずすぎてすっかり忘れてた。
「お主には涙は似合わんのう」
「なに少女マンガのチャラい男みたいなこと言ってんのよ」
むりやり涙を止めて、顔をぬぐった。
「強くなりたいのか」
シーサー君の言葉に少し戸惑い、少しためらってから答えた。
「……なりたいわ」
「強くなりたいなら、強くなることはできよう」
シーサー君が答えた。
強くなれば。強くなれば、今の苦しさを超えられるだろうか?
「本当に強くなれる? ショーコよりも?」
「辛い思いをすることになるがな」
シーサー君がもう一度両目を閉じた。
辛い思いならもうしてる。抉られるような、辛い思いを。
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