第9話 はかないコンビネーション

「前髪切ったんだね」

 茶室にキッカ先輩が入ってきた。

 軽く、額に手をあてた。邪魔な髪は切った。これからやることのためだ。

「体調はどうですか」

「ボクはいつだって絶好調だよ」

 苦笑しながら先輩が言った。けれど、言葉と違って声は陽気じゃない。

 シーサー君とキッカ先輩には、反則の話はしていなかったし、ショーコとやるのがケンカなのか、試合なのかも言っていない。ただ『ショーコに勝つにはどうすればいいか』って聞いた。

 反則の事は信じてくれるかもしれないけど、二人に動いてほしくなかった。あんなおかしな奴と関わるのは、私一人でいいと思った。

 もう一度、ふすまが開いた。

「参ったぞ」

「やろう」

 キッカ先輩がメガネを取りながら言った。

 続いて、キッカ先輩と私が横に並び、最後にシーサー君が正面に座った。

「正面に礼。先生に礼」

 二度、座礼をして立ち上がる。

「走って来い。戻ったら準備体操とストレッチに30分をかけろ」

「はい」

 最初は少し沈んだ雰囲気だったけど、練習が始まるとすぐペースを戻せた。まずは3キロのランニング。ゆっくりとダッシュを交互に繰り返す。先輩は相当に速かったけれど、私も走るくらいはできる。柔軟体操を終える。腕立て、腹筋、背筋、ジャンプもついていくのは難しくなかった。

「よし、基礎練習は今日はいい。キッカ、組手をやれ。顔は打たず3分。防具を全部つけろ」

「わかった」

 キッカ先輩は少しためらってから、茶室の奥の物置を空けた。

 防具をフルコースでつけたのは初めてだ。ヘッドギア、チェストガード(胸あて)、ボディガード(胴あて)、ニーガード、エルボーガード、レガース(脛あて)、そして16オンスの重いグローブ、マウスピース。

 ちょっと慎重すぎるんじゃないかなと思った。キッカ先輩も私も、まるで着ぐるみだ。こんなので練習になるのかね。

「顔は叩かないこと。投げも寝技もなし。打撃だけ3分じゃ」

「わかってるよ」

 キッカ先輩が厳しい声を出した。

 少し拍子抜けした。こんな練習か。この恰好じゃ、大して痛くもない。

 もう一通りの攻撃も防御も覚えたのに。それに動体視力に関しちゃ、部員の誰よりも上って自信がある。もう少し上級の練習をやりたいんだけどな。

 言おうと思ったけれど、文句を言うのも早すぎる気がした。黙ってキッカ先輩の前に立った。

 先輩が繰り返した。

「ユーハ、本気なんだよね。本気でキミはショーコに勝ちたいんだよね」

「言ったとおりですよ。強くなります。先輩よりも、ネコよりも」

「……OK。そこまで言うなら、ボクも付き合うよ。とことんね」

 先輩がつぶやいた。自分に言い聞かせるような言い方だ。

「とことんまでお願いしますよ」

 軽く答えた。私はこのときまで、これが基礎練習の延長だと思っていた。

「では、はじめ」

 シーサー君が、ストップウォッチを動かした。

 2歩、すっ、すっ、と先輩が歩を進める。すぐに私たちは衝突した。

 まずはこっちのジャブ。先輩のチェストガードに当たった。先輩もパンチの連打を返す。左だけじゃ追いつかない。両手の連打に切り替えた。先輩からローキック。私もローキックと膝蹴りを返す。防具をつけてるからほとんど痛くなかった。

 私と先輩が、交互に技を出し続けた。

 20発。

 30発。

 50発はお互いに打ったろうか。

 そこで、気がついた。

「うっ……?」

「1分」

 シーサー君の声。

 おかしい。もう息が上がってる。

 まだ3分の1。たった60秒。

 足がもつれ始めていた。

 手も肩より高く上がらない。

 なんだこれ。

 顎があがってきた。手が前に出ない。キッカ先輩が打ち返してくる。同じ数を打ち返さないとすぐに押し込まれる。体力が消し飛んでいった。

「1分半」

 シーサー君の声。まだ半分しかたってない。

 嘘だろ。

 3分。

 たった3分。

 

 3分が、こんなに長いなんて!


 吐き気がこみ上げてきた。全身が焦げるように熱い。呼吸をいくら繰り返しても酸素が全然足りない。

 キッカ先輩のスピードが徐々に上がってきた。正確に、機械みたいに手足が私の全身を刻んでいく。防具があるから痛くはないけど、前に立ち向かうたび、気が遠くなるような振動が体をめぐる。

「いくよっ!」

 まだ速くなってる! なんでこんなことができる?

「なろっ!」

 叫んで、こっちもスピードを上げた。

 壮絶な殴り合いだった。蹴る。蹴られる。突く。突かれる。

 苦しい。きつい。とてつもなくきつい。

 3分間のフルコンタクト・ファイトがこんなに苛酷だなんて、始めるまで思いもしなかった。今までやってきた運動の中で、一番きつかったのは? 多分バスケ部の人数あわせで、中体連の大会に出場したときだ。フルパワーで動いた4クオータ32分だ。あれ以上に体力を使うスポーツなんて、この世にないと思っていた。

 今はたったの3分。10分の1以下の時間だ。それなのにこの苦しさは、あの時をはるかに超えていた。

 考えてみりゃ当たり前だ。バスケットボールの個人プレーで、3分なんてありえない。これが格闘技なんだ。今まで見ていた競技なんだ。試合に出ている人たちは、みんなこんな練習をやってたのか。

 距離をとろうと、右を強く打った。先輩はバランスを崩さない。食らいながら力を逃がして打ち返してくる。私の距離にならない。キッカ先輩は自分の理想的な距離から私に打ち込んでくる。跳ね返してリードを奪うには、もっと強烈に打ち返すしかない。

「ハァ……ハァ……」

 獣のような呼吸を繰り返す。無我夢中で手と足を前に出した。一瞬でも休んだら、キッカ先輩の強烈な蹴りが胴を揺らしてきた。

「2分」

 ウソだろ。まだ2分? あと1分もあるの?

 永遠のように長い短い時間。私の知っている最長の3分だ。ガードが下がる。ダメージがだんだん無視できなくなってくる。

 ローキックが太腿に命中した。痛い。すね当てをつけてるのに。足が疲れて直撃を食らい始めていた。防具の上から、さらに先輩の一撃が叩き込まれた。なんだこのスタミナ。なんで先輩は、こんな中で動けるんだ?

 相手にもたれかかり、前かがみでめちゃくちゃに手を打ち込んだところで、ストップウォッチが鳴った。

「それまで」

 声も出ない。膝をつこうと体をかがめた。

「座ってはいかん」

 シーサー君が言った。

「ううっ……」

 体を起こす。汗が目に入ってきて痛いけれど、ぬぐう気力も起こらない。のこったわずかな力を振り絞って礼をする。

 顔を上げた。キッカ先輩も、相当息は上がっていた。

 まだやるの?

 言いかけたけれど、言えなかった。

 当たり前だ。始めてからまだ3分しか立っていないんだ。3分、次の3分、その次の3分。これが夜になるまで続くんだ。覚悟はしていたつもりだった。その決意が思い上がりだったことを、心の底から思い知らされた。

 今までの練習はどんなだったろう。2時間の間、基本稽古がほとんど。組手は1週間に数回、リラックスして5割の力でやっただけだ。密度が全然違う。

 先輩が汗を拭きながら、床の間の掛け軸の下にメガネを置いて、意を決したように立った。

「やろう!」

「……はい」

「始め」

 私が突きと蹴りをやみくもにたたきつけた。先輩は構えたまま動かない。

「軽い!」

 キッカ先輩が、私の肩口を殴った。

 車に跳ねられたみたいに、私の体がはじけ飛んだ。

「うわっ……」

 崩れた姿勢から構えなおす。

「全力を出せる距離から打って!」

 近すぎたのか。

 間合いを調節して、一番の威力が出る距離を取る。少し遠めの、私のリーチを生かした打ち方だ。

「遅いよ!」

 先輩のミドルキックが、私の腰を弾き飛ばした。連動してパンチがはずれる。

 腰を打たれたのに、額の汗が飛び散った。

 踏ん張りなおす。先輩が前に出た。

「離れるなら速く打って!」

 次から次へと無茶言ってくれるよ。私は回転のスピードを上げた。腰のクイックネスを利かせて、できるだけ直線的に連打を打ち込んだ。

 すぐにあの苦しさが全身に巻きついてきた。泥沼の中でもがいているみたいだ。今すぐ泣き出して飛び出して家の布団にもぐりこんで、ゲームの世界へ引きこもっていたい。その妄想を突き破って、シーサー君の低い声が脳天に突き刺さった。

「自分に打ちやすい打ち方をしてはいかん。相手が受けにくい打ち方を考え、変化をつけろ」

 こんなふらふらで、そんな複雑なことができるか!

 怒鳴る代わりに殴り返した。もう足はあがらない。手しか動かない。腰を回す力が落ちて、肩から押し込むだけになってきた。先輩が動くと同時に手を出した。カウンターというよりも単なる相打ちだ。当たればあとはなんでもよかった。習った技術も知識もまるで使えない。安物の子供向け人形みたいに同じ動作を繰り返した。

「……それまで」

 シーサー君の声。

 お互いに頭を下げる。

「息を整えろ」

 深呼吸を繰り返した。全然酸素が足りない。目がかすむ。全身から湯気があがっている。蛇口が壊れた水道のように、汗が手足からこぼれていく。

「フルコンタクト空手は、とてもつまらぬ競技じゃ」

 シーサー君が言った。

「武道としては実践性に欠き、スポーツとしては地味じゃ。だからガマン大会だの、押し相撲だの、いろんな言葉でからかわれおる」

 私はドラムのように響く心臓の音を聞きながらシーサー君を見た。

「だがのう。この苦しさから逃げて武術を語る者は本物になれん。強くなることを志す者とは断じて言えん。

 まずはスタミナじゃ。そしてタフネスじゃ。過酷な状況下でも動き続けられる、単純な体力じゃ。

 戦術を考える。筋肉をつける。技術を覚える。洞察力や判断力を養う。そして気力を振り絞る。それも大切じゃが、そこまででは足りんのじゃ。スタミナが無ければ闘志も沸かず頭も働かず、覚えた技も出せん。これを繰り返して初めて、ショーコと同じ舞台に立てる。どうじゃ。続けるか」

 ショーコ……

「やるよ……やらせて……」

「いいじゃろ。キッカ、続けろ」

「……うん。行くよ」

 先輩が防具をつけた。

 3回目の3分が始まった。

 3回目の3分が終わると、4回目の3分が始まった。

 4回目の3分が終わると、5回目の3分が始まった。

 1回、1回を終えるたび、掛け軸のへたくそな字が眼に入った。

『前に進めば痛くない』

 嘘っぱちだ。進めば進むほど痛い。とてつもなく痛い。一歩、一歩、突きと蹴りを出すたびに気が遠くなるような苦しさが巻き付いてくる。

 耐えて耐えて、そして耐えた。いつまでやるんだろう。いつまでやらなければならないんだろう。誰も答えは教えてくれなかった。空間を引き裂く手と足が、少しずつ、少しずつ時を刻んでいった。

 5回目の3分が終わった。喉に何かがこみ上げてきた。

「あっ」

 キッカ先輩が道場の隅に走りこんだ。

 ははっ、なるほどね。なんでバケツが置いてあるのか気になってたけど、こういうことか。

「ユーハちゃん……」

 先輩がバケツを下に置く。私の背中をさすった。口に当てた手を離すと、胃袋の中身を思いっきりぶちまけた。

「うええっ……」

 同時に、涙と鼻水も顔からあふれ出した。キッカ先輩がティッシュでぬぐうと、それをバケツに突っ込み、トイレに持っていった。ティッシュボックスをつかみとると、片っ端から取り出して口をふいた。

「口をゆすいでこい」

 淡々と、シーサー君が言った。

 道場へ礼もしないで、水飲み場に駆け込んだ。チェストガードに吐いた胃液がかかっている。外して、素手で洗い流した。

 鏡を見た。ひどい顔だ。顔からはげっそりと血の気が引いて青白く、目の周りはどす黒い。なんて残念な女子高生だ。

 うがいを繰り返して洗面所につばを吐きまくると、チェストガードを巻きつけて道場に戻った。

「ユーハちゃん……」

 キッカ先輩が心配そうな顔で、私を見ている。

「お願いしますよ。始めたばっかじゃないですか」

 震える声を押し殺して、無理矢理言った。


 *


 1日4時間。地獄に叩き込まれたみたいな毎日が続いた。

 3分やって、3分やって、3分やって、倒れそうになったら休む。起き上がる。3分、3分、3分。倒れそうになったら横になり、水を飲んで、起き上がって、3分、3分、3分。

 3分。

 3分。

 3分。

 頭がおかしくなりそうな秒針の音。ネコがそろそろ退院するはずだけど、あたしは会いにいかなかった。会おうとも思わなかった。力をつけてショーコの前に立つために、自分の時間を全てささげた。

 5日が過ぎると、ミットを使った攻防を研究するメニューや、寝技やキックボクシング形式のスパーリングも加えていった。ただ、それでも基本は全身防具のフルコンタクト・ファイトだ。疲労と精神力の限界に挑むだけを、毎日毎日がむしゃらに繰り返した。続けていくうちに、その苦しさを少しずつ少しずつ、耐えられるようになっていった。

 そして、ついに……

 7日目の練習の時だった。

 その日もキッカ先輩とスパーリングをしていた。今のルールはキックボクシングだ。重いグローブをつけているけど、顔をたたいてもいい。リーチのある私にはやりやすいルールだ。

 その瞬間は来た。下がりながら左手を伸ばしたときだ。キッカ先輩がその左手を払って右手を返す。首を振って、ストレートを避けた。

 ここからだ。先輩得意の左フックが来る。見える。体力がついてきて、余裕が生まれ始めている。私の目にようやく出番を与える時が来た。小刻みなジャブは無理でも、フックなら見える。左に合わせて同じタイミングで右ストレートを返す。考えに考えた戦術だ。この距離でも、短く刻むように打てば……

 ガツッと、手に強烈な反動が来た。

 キッカ先輩がぐらっと姿勢を崩す。膝を折って、手を畳につく。

「えっ……?」

「あっ……?」

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。

 先輩が顔を上げた。呆然と私を見上げながら。

 手の感触。重い痺れは、まだ私の右に留まっていた。

「はいった……」

 行けるとは思っていた。でも、実際にできてみると、やっぱり驚きは大きかった。

 命中したんだ。私のカウンターが。これまで一度も取れなかった、今日こそは入れてやると思っていたカウンターが。

「うーん」

 キッカ先輩が立ち上がって首を振った。小さく、息をついた。ノックアウトではないけれど、一発でもまともに命中して、ぐらつかせたんだ。試合なら、審判次第ではダウンと判断される当たりだった。

「たった一週間でやられちゃった。強いね、ユーハ」

 キッカ先輩が、笑顔で私の薄い胸を小突いた。

 緊張が解けて、実感がわいてきた。実力でこの先輩に一矢を報いたんだと、はっきりと理解できた。

「10年やっても、なんにも強くならん者もおる」

 シーサー君を見た。ちっちゃな怪獣は、床の間にうずくまってつぶやいた。

「たった1日で、見違えるように強くなる者もおる。ライバルを倒すため、仲間のため。目的を持つことで人は本当に強くなる。獣のような貪欲さでのう」

 グローブから手を抜いて、ジャージで汗をぬぐった。

 右手のしびれは、まだ残っていた。

 このとき初めて、私はこの世界に踏み込むことができたって確信した。

『あたしに勝てば話も聞く。それ以上も考えてやる』

 頂上までの距離はわからないけれど。そこまでの障害がどれだけあるか知らないけれど。泣いても吐いても倒れてもあきらめない。進む方向は、こっちだ。

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