第2話 はじめてのマーシャルアーツ
4月!
新しい学校!
夢と希望の女子高生活!
なんて思えりゃどんなに楽しいか。
併設の女子中からエスカレーターで上がるだけだし、頭に夢も、胸に希望も膨らまない。どうせ高校なんて中学と一緒。相変わらず排ガスにまみれた東京のはずれの学校で、朝から晩まで授業を受けて、好きでもない部活やって、ろくでもないクラスメイトに囲まれて、それを3年間繰り返すだけなんだ。周りは女の子ばっかりで、気取ったり飾ったりする気にもならない。
ま、男がいたってするつもりもないけどね。関心あるのは新発売のゲームくらいなんです。引きこもりバンザイ。
いつもと同じひねくれた気分で朝霧の中を学校へ。途中でわき道に入る。アホみたいにでかい家。通学路の中でも一番でかい戸建てだ。ゴシック建築みたいな瀟洒な壁、ドア、屋根。世界の格差を感じさせてくれる、重厚なライオンのドアノック。それを掴もうとすると……
「ラヴアンドピーストーキョー! ロッケンロー!」
がこん。
「ぐあやっ!」
喉からつぶされた蛙みたいな声が出た。牙をむいたライオンと強烈なキス。吹っ飛ばされて石畳に転がった。
こっ、こいつ、狙ってやったのか?
「ハローディアマイフレン! おお? なんでそんな赤い顔してんだよぅ?」
「ネコ、あんたね……」
輝く黒のローファー、新緑のようなチェックのスカート、淡い茶色のジャケット。その中身は、きょとんとした顔で私を見下ろしていた。
一緒なのは制服だけで、性格は私の正反対。この女はネコ。
「ユーハ、赤くなってるヒマなんかないぞ! 今日から高等部! あたしらはついに、夢と希望の女子高生になったんだぜ!」
キンキンに高いソプラノが、両方の耳に突き刺さった。
*
レンガ敷きの大きな遊歩道を並んで歩く。両側のケヤキが心地いい香りを運んでくる。ろくに外を歩かない私にとっては、唯一の自然を感じる時間だ。が……
「でさあ、それで……あたし様は……だからなあ……」
アニメとマンガとロックの話題に加えて、最近はスポーツもレパートリーに入ってきた。毎日通学路で鳴り響くこれ、街宣車よりひどいよ。だいたいあたし様ってなんなんだ。俺様っていう男はいるかもしれんが、あたし様ってのはこいつ以外に見たことが無い。
「で思ったんだよ。あの主人公のモデルって、ひょっとして有名ボクサーなのかなって。でもネット情報だと、どうもプロレスラーのな……なあユーハ、ちょっとはなんか言えよぉ」
豆鉄砲を食らったみたいに目をぎゅっとつぶった。ユーハってのは私。こと神楽坂優葉。とても立派な氏名だけど、残念ながら育ちは普通。長い真っ黒なストレートの髪と高めの身長がちょっと自慢。認めたくないのは首の下が平らなことだ。
「あんたがうるさすぎんのよ。私がバランスとって黙ってんのよ」
「なんでだよー。あたしの話つまんないのかよー」
ぐらぐら両エリを掴んで引っ張りまわす。私のワイシャツをなんだと思ってんだ。
「つまんないかなんて知らないわよ。聞いてないもん」
「ぎゃー、最悪だこいつ!」
耳に小指を突っ込んでガタガタゆすった。なんという騒がしいやつだ。鼓膜に傷でもついたらどうする。
「ったく無愛想で無神経で胸が洗濯板な奴はこれだからイヤだ。そのうえ目つき悪いし頭悪いし性格悪くて髪がゲゲゲのキタローだし」
「よくそんなのと一緒にいる気になるわよね」
私が心底不機嫌そうな顔をネコに向ける。
と、突然。ネコが私の前髪を持ち上げた。
「なあユーハ、切れよこの前髪。あたしはユーハの灰色の目が好きなんだ。最初に会った時からさ」
ネコが突然真剣な顔で、じっと私の目をのぞき込んできた。声にはなんの照れも無い。もうわけがわからん。なんなんだこいつは。
気まずくなって時計に目を移した。針はちょっとギリギリなところを指している。
「気が向いたら切るわよ。それより急がない? 入学式からいきなり遅刻はイヤよ」
「おお? よし、走るか」
ネコがローファーのつま先をトントンと鳴らす。そして、二人で小走りに駆け出したとき。
その私たちと、一匹の犬がすれ違った。
変な犬だった。
首輪をしていない。
足が妙に太い。
変な服を着ている。着物なのか、柔道着のように見えた。ばかりかまるで夜逃げしたか泥棒かというような、唐草模様の荷物を背負っていた。
気になって、すれちがってから何度か振り向いた。
「ネコ、今のなんだろ?」
走りながら、ネコの横に並んで話しかけた。
「なんかいたか?」
「いや、変な犬が」
「知らんよ」
次にすれ違ったのは、となりの男子高の生徒だった。自転車に乗っていた彼らは、私たちとすれ違うなり、ガタガタと集団で転んでいった。
「ユーハ、今のなんだろ?」
ぎょっとして、ネコの後ろに回る。鮮やかな青と白のストライプが目に飛び込んできた。
「あんたレギンスはいてないじゃない!」
「あ、なんだ」
「なんだじゃないでしょこの露出狂!」
あわててスカートをおさえた。レギンスはいてないのはこっちもだ。
ちきしょー、ただ見は高いぞ、あの男ども。今度あったら訴えてやる。いや、このクソ短い我が校のスカートが悪い。理事長を訴えよう。これが高校生活初日。中学のころと全く変化が無い。予想通りだ。
*
ミカエルとガブリエルの並ぶ巨大なステンドグラスを背に、我らが聖ヨハネ学院高等部の入学式と、カナダ人校長の英語スピーチを眺め終わった。聞き終わった、ではない。高等部からこの学校に入った連中がびっくりしてるけど、私たち内部進学組みは驚きもしない。もちろん奴の英語なんて聞き取れてない。これはあきらめの境地という奴だ。私たちは6年間、校長が何言ってるかもわからん学園生活を送る気なのである。
解散になって、ネコがよってきた。
「なあ、部活とかどうする?」
「去年と一緒でいいでしょ。音楽部」
「へ? おまえ、あのへったくそなフルート続けるつもりあったのか?」
どすっ。
背中に見えない槍が突き刺さった。
「な……し、失礼ね! あんたのバイオリンだって聞けたもんじゃないわよ! ガラス引っかいてるほうがマシじゃないの!」
「はあ? お前なんかもっと酷かったじゃないか! ガラスぶち割りそうな超音波!」
「言ったわね!」
私がネコの胸ぐらを掴む。ネコも私の前髪をひっぱって言い返した。
「言ったがどうした! いい加減切れやこのうぜえ前髪!」
「なんの関係があんのよ! とっとと染めろこの半端な茶髪!」
いつものど突きあいが始まりそうになったとき。私がタイを掴む手を緩めた。
ネコの机の上に何かが置いてある。私のにもだ。始業式の前はなかったはずだ。教材のチラシでもない。
その紙は、あたしたち2人の席にだけ置いてあった。
「なんだろこれ」
「はん?」
「部活の勧誘? かしらね?」
「え? 何? 音楽部の先輩たちから? やめんじゃねえぞとか?」
「多分向こうはそう思ってないわよ……茶道部って書いてあるわよ」
「茶道部なんてあったか?」
ネコと2人、A4のコピーをのぞき込む。数行のシンプルな案内が書いてあった。
「新入生歓迎! 裏茶道部、スポーツに興味ある人求む」
「裏? 茶道部? スポーツ? 歓迎はともかく、その先、どれひとつ意味がわかんないわね」
茶道に表千家、裏千家ってのがあるのは聞いたことがある。
が、裏茶道ってなんだ。
「……いや、聞いたことあるぞ。それにこのチラシ、あたしたちの名前が書いてる。あたしたちへの勧誘だよ」
ネコが神妙な顔でプリントを手に取った。たしかに下に手書きで、2人の名前が書いてある。
「ユーハ、これ行ってみよう」
「ええ……?」
わけがわからないまま別棟に移動した。茶室があることは知っていた。けど、一度も入ったことが無い。にじりぐちを抜けると、中は物置みたいだった。茶碗やらなんやら、茶道に関係ありそうなものがおいてある。
「ここが何……?」
薄暗い、ちょっと不気味な部屋だ。
「設計した外人が勘違いして、この茶室につなげちまった部屋があんだよ」
「この先って体育館じゃないの」
「いや、だったら体育館からふすまが見えてるって事だろ?」
ネコが指を指した。たしかに裏口のような形で、もう一つ部屋が続いている。
この先は体育館じゃなかったっけ? いや、おかしいな。なんだろう。たしかにこのスペース知らないぞ。それに向こうからなんか声が聞こえる。
「なにここ」
「わからん。開けるぜ……」
ネコがひょいとふすまに手をかけた。
そこは、別世界だった。
「はい、声出して! もっと手だそうよ! スピード上げて!」
「足出して右手引いて! 倒せなかったら離れて蹴る!」
道着に帯。ジャージや短い袖のTシャツを着ている人もいる。
二人一組で取っ組み合って、右へ左へ。
組んで転がったり、蹴っ飛ばしたりしてる人もいる。
「なにこれ?」
「……茶道じゃないな」
ネコが一歩入ったとき。
先輩の一人がこっちを向いた。
「見学かな? そこのパイプ椅子使ってね!」
中央で指導していた先輩が、口の横に手を添えて大きな声で答えた。赤くて細いメガネに栗色の長髪。シンプルなヘアゴムで一つに縛ってある。顔つきは優しそうだけど、きりっとした気の強そうな目。華奢でやわらかそうな肌の下に丈夫そうな骨格。
なんか気後れするなあ。こういう前向きそうな人は苦手だ。
休憩していた先輩がタンタンとパイプ椅子を開いて、私たちに声をかけた。所在なげに座る。ネコも隣にかけた。あまりにも予想外すぎて、どうすればいいやら……
「裏茶道なんて武道ないでしょ? これって柔道? それとも空手?」
「わからん……が柔道にも空手にも、ボクシングにもレスリングにも見えるな。いや……いや、これ、総合格闘技ってのじゃないか?」
聞き慣れない単語がネコの口から現れた。
「聞いた事ないけど……」
「ユーハ、アクション系のゲーム得意だろ? 格ゲーとかの元ネタだよ。格闘技の中でも、一番ルールが少ない競技だ。パンチ、キック、タックル、関節技、絞め技。メジャーな技は全部使っていいんだよ。一対一の素手で戦うときには、間違いなく最強って言われてる。最近はあんまりテレビでも見なくなったけどな……」
言われてみれば、ゲームのキャラみたいな技を出してる人もいる。さすがに手から光を出してる人はいないけど、キックとかパンチとか。ゲームに似てるといえば似てる。というか、ゲームがこれに似てるのか。逆だ。
「はい時間だよ! お互いに礼! こうたーい!」
赤フチメガネの先輩が手を叩いて指示し、全員がぐるっと回って相手を変えた。その先輩は余ったメンバーにストップウォッチを渡し、まっすぐにこっちに来た。見覚えがない。外部からの編入かな。
「二人とも内部進学だよね。MMA見るの初めて?」
「MMA? じゃ、やっぱり総合?」
ネコが聞いた。
「そうだよ。ミックスド・マーシャル・アーツ、またの名を総合格闘技。ボクはここの主将で、
げ、出たよ女子高名物ボクっ娘。宝塚か。萌えキャラぶりやがって、いかにもこんなとこ仕切ってそうなタイプだ。
まずいなー。これは絶対に合わない。確定だ。適当に挨拶してとっとと出よう。
「未経験だよね?」
はい、未経験です。それに興味も無くて……と、私が逃げだそうとしたその時。
「未経験でも、すぐにできますかね?」
隣から、とんでもない発言が飛び出した。
なんじゃこいつは。何をいきなり言い出す。
「もちろん! そう言ってくれるなんて嬉しいな。二人とも知ってるよ。ネコとユーハだよね。スポーツ大得意なんでしょ?」
先輩が手を口に添えて笑顔を見せた。メガネの奥のぱっちりとした目。さっと背筋に寒いものが走った。
そうか、私たちのこと、高等部まで伝わってたのか。
*
中等部2年のころ。
校内のサッカー大会で、ネコと私がセンターフォワードをやったことがあった。しぶしぶ受けたものの、始めてみると息をもつかない快進撃。トーナメントを破竹の勢いで進み、決勝戦のネコは、火が消えないカンシャク玉みたいだった。13点を自分で決めて、4点私をアシスト。17対0っていう、バスケかラグビーみたいな点差で優勝をきめてしまった。
その後、ネコは何かと言ってはスポーツ関係の行事に呼ばれるようになった。おまけで私もかり出された。中体連のバスケなんか補欠の参加だったのに、なんとエースが鎖骨を骨折。2人で県の3回戦まで、全試合に出場してしまった。
でもこの話の面白いとこは、ネコも私も音楽部だったところなんだけどなあ。それをわざわざ……
「2人とも、運動得意なのに体育会じゃないってきいててさ」
まいったな。テニスもバスケもバレーも全部断ったのにまだ来るか。ネコはともかく、私はガラじゃない。よし、このバカ放置でとっとと帰ろう。
「あの、すいま……」
私が言いかけた時。先輩の後ろでタイマーが鳴った。
「こうたーい、お互いに礼ー」
「待って!」
キッカ先輩がすばやく言った。
「もしだけど、興味あるなら、ちょっとやってみたら?」
「やった! いーんすか?」
赤いグローブが、ぽんとネコに渡された。うわ、こいついきなり釣られやがった。
「最初だから、軽くね。危なくないように大きめのグローブ使ってもらうよ」
「了解! 全力で行きます!」
ぜんぜん話聞いてねえ!
ネコがすばやく制服を脱ぎ捨てた。貸してくれたジャージを着ると、グローブにためらいもせず手を突っ込んだ。手首にマジックテープを巻きつけて歯で固定する。
「アミちゃん、用意して」
中から、汗を流してた一人が苦笑しながら前にでた。
「えー、あたし? ネコの噂聞いてるし無理だって! キッカやってよ!」
「大丈夫だよ。一番重いグローブ使うからさ。ルールはねー。うーん、取っ組み合いとド突きあいとどっちがいい?」
キッカ先輩が聞いてきた。すごい選択肢ですね。
「どっちも!」
ネコが答えた。すごい返事ですね。
先輩の指示で、アミさんとネコが向かい合った。時間は3分。先輩がルールを説明してくれた。目を突くこと、下腹を打つこと、背骨を打つこと、噛むこと、引っかくこと、頭から投げ落とすことなどなど……意外と多い。でも、殴っても蹴ってもいいし、投げたりひねったり締めたりしてもいいらしい。ほとんどルールのあるケンカって感じだ。
あぶなっかしいなあ。大丈夫かね。第一、なんでこいつはこんなにやる気なんだ。
「どーもっす。どう始めるんすか? 挨拶してから?」
「そうだね、頭を下げて、お願いします。それから軽くお互いのグラブをぶつけ合ってスタート。怪我しそうなら早めに止めるよ」
「じゃ、どうぞ」
「よし、お願いします!」
「はいおねがいします」
と、アミ先輩が答えてグラブをぶつけた直後。
風の音が、私の顔をなでた。
「……おっ?」
キッカ先輩が目を大きく開いた。
「ネコ!」
私が叫ぶより早く。目の前で、信じられない光景が展開した。
ネコはアミ先輩に抱きつくと、思いっきりエビぞって後ろへ跳ね上げた。
「うわっ……」
苦い声が漏れた。生まれて初めて、目の前で人が投げ飛ばされるのを見た。アミ先輩は高く放り上げられて、畳へまっさかさまへ落ちていく。手をついて受身をとったけれど、派手な音が和室に鳴り響いた。
あまりの事に、全員がポカンと口を開けている。誰も二の句が告げなかった。
「ちょっとネコ、あんた!」
私が叫ぶ。アミ先輩が立ち上がった。そこめがけてネコが突っ込んだ。
「待ったあ!」
キッカ先輩が割って入った。
「おおっと?」
ネコが突進にブレーキをかけた。
「ちょ、ムリ! 勘弁してよ!」
アミ先輩が両手を前に出した。
「ごめん! やっぱボクがやるよ」
キッカ先輩がネコを抱きしめながら言った。
アミ先輩が肩を回しながらタイマーを手にとって、2人を中央に出した。あいつ、派手にやらかしやがって……
「いやいや、綺麗に決まっちゃったねえ」
キッカ先輩が頭をかきながら言った。一瞬で全員が引いた。平然としてるのはキッカ先輩だけだ。
こいつ中等部時代の体力測定で全学校トップだもんなあ。単純な体力だけなら、この先輩だってネコより下だろ。
「悪いね先輩、お願いします」
ネコはまだやる気だ。
「ううん。ボクには手加減しなくていいよ。グローブも薄いのにかえてね」
ネコがグラブを指ぬきの手袋みたいな奴に取り替えた。さっきのよりも拳の硬さがダイレクトに伝わりそうだ。先輩が両手をあげて、すっと肩の高さに落とした。腰もぐっと下げて、小柄なネコと頭の高さがほとんど変わらない。たぶんこの先輩の身長は164センチくらい。私とネコのちょうど中間くらいだ。
「その構えは、レスリングって奴かな?」
ネコも腰を落とした。本能的に、そうしたほうが有利だって思ったみたいだ。
「柔術だね」
「ジュージュツね。聞いたことないな」
ネコが駆け出して跳んだ。足を突き出して先輩の喉を狙う。先輩は落ち着いてそれを捕まえ、ぱしっと手で振り払った。
そこから……
「おうっ?」
ネコが珍しい声を出した。あっという間にネコが畳の上に引き倒された。ネコの脇に手をさしてひきつけ、片足でネコの膝を払ったのか。ごろりと、ネコが横倒しに転がった。2人はそのまま取っ組みあっている。
アミ先輩に声をかけた。
「止めないんですか?」
「あー……一応こうなっても続けるルールなんだ。この競技は寝技もあるからさ」
「止めなくていいよー」
キッカ先輩がネコの首を抱えて言った。
ネコが転がりながら、大きく横殴りに右手を振り回した。キッカ先輩がそれを避けて腕を掴む。
見ているうちに、少しわかってきた。この競技は、大きく分けて2つのフェーズに分かれてるみたいだ。まずは立ち技。2人とも立った状態で、突きや蹴りを当てて相手にダメージを与え、体力を削る。次は寝技。立ち技で打ち合いながら隙を見つけてタックルとかの投げ技を仕掛けて転がし、床に伏せた状態で取っ組み合う。ここでは顔を狙う突きや蹴りがルールで禁止されていて使えない。寝技で狙うのは、主に首を絞めることと関節を逆方向にひねること。柔道に似ているけど、バリエーションが多いみたいだ。
「ネコ、転がったら打ってもダメよ! 逃げて逃げて。体起こして」
私が言った。
「おや、的確なアドバイス?」
キッカ先輩がこっちを見た。やっぱりそうなのか。顔が狙えないし、特に女子の力だと寝たまま打ってもダメージが入りそうにない。目や喉を打てないなら、関節技とか、足の踏ん張りがない技術が必要なんだ。ぶん殴るしか知らないネコにはそれができない。
ネコが先輩の腰を突き押して体を離す。キッカ先輩はその体をもう一度引き寄せると、さらに足をネコの首に絡めた。首を足で締めながら、両手でネコの右手をひねってる。
「三角締めか」
アミ先輩がつぶやいた。
キッカ先輩の両足は、ネコの右手と首をまとめて巻きついていた。手を抜こうとしたら首が絞まる。首が締まらないように逃げようとすると、手が変な方向へ曲がる。さすが指導してるだけあって、すごい技を知ってるね。
「へえ……こりゃあ、三角締めってのかい……」
ネコがぐっと右腕を引き絞って顎を引いた。ダメだ。両手で掴まれてるのに片手の力で抜こうとするなんて。
「ネコ、肘まげて膝立てて体起こして。逃げないと折れちゃうよ!」
「ん?」
キッカ先輩も妙な声を上げて私を見た。やっぱりこれも正解だ。少しずつわかってきた。この競技には秘伝の必殺技も不思議な馬鹿力もない。力学だ。それも単純な。技は複雑だけど、要素は力学しかない。力学を生かせる知識の差が、決定的に勝敗を分ける。
言った直後。私の指示にしたがって、ネコが先輩の両足から首をずぼっと抜いた。後ろに飛びのくと、ネコは痛めた右手をぶんぶんと振り回した。
「三角締めか……いいねえ。こいつは効くなあ……」
「うーむ、逃げられてしまった」
キッカ先輩がグローブで頭をかきながら離れた。
「もう一度いくぞ!」
ネコが横殴りのグーで額を狙った。先輩はそれを正面から受けた。
「おおっと!」
キッカ先輩の額から鋭い骨の音が響いた。なんつー嫌な音だ。
ネコはネコで、苦い顔で手を引いた。叩いた手が痛かったみたいだ。避けきれないから、硬い額で受けたのか。それぞれの動きに全部意味がある。こんなに高度なものなんだ。
「いたいよう、やったなー?」
キッカ先輩がニコニコと笑いながら、ネコの腕を取って思いっきり引いた。そこに足を引っ掛ける。ネコが一回転して畳に転がった。
「な、なんだこりゃ?」
「よっと!」
キッカ先輩が両手でネコの腕をつかんだ。両手を複雑に絡めてその腕をねじり上げる。
「おおっ?」
ネコがびっくりして叫んだ。
体を起こそうとする。
「危ない! ネコ、それもう解けないよ! 早く降参して!」
私が叫ぶ。ネコがそれに応じて、ようやく声を上げた。
「参った参った! いててて!」
キッカ先輩がぱっと手を離す。ネコが解放された。
「ありゃりゃ。ごめんごめん」
先輩がネコの体を叩いた。
「すっげ……な、なんだ。あっつうまに……」
「これはアームロック。大丈夫! すぐにキミにもできるようになるよ!」
キッカ先輩が平手でネコの背中をひっぱたく。
「本当に?」
「もちろん!」
「よし決めた! あたしここ入る!」
ネコがぺこりと頭を下げた。
周りから、なぜか拍手が。
勘弁してよ。ここが拍手するところ? 感動するところ? 背筋を走った冷や汗がまだ引いてない。こんな事やってたらたちまち大ケガだ。
「じゃ、とりあえず体験はこれまでってことで。2人入会! やったね!」
キッカ先輩が両手を合わせて言った。
………
……
…
「ふたりって言った」
私が言った。
「もちろん2人とも歓迎だよ! 彼女も背高くて気も強そうだね。すぐ強くなるよ! キミ、体重は?」
「いや、54キロですけど、そうじゃなくて」
「じゃあ52まで落とせばいいね! そんなリーチ長いフライ級いないからすっごい有利だよ!」
「こいつの付き添い」
「一緒に世界目指そうね!」
「入るつもりは」
「部費は月に1000円。スポーツ保険が年に1400円。服は体育のジャージでOK。防具も貸すよ!」
「とても格闘技なんて」
「グローブとか欲しくなったら、一緒にお店行こうよ! かわいいの買おうね!」
ひょい、と私の前髪が上に上げられた。両目にキッカ先輩の視線ががっちりと重なった。
「なんで顔隠してるの? 憂いを含んだ可憐な美少女なのに。顔は打たれないように指導するから安心してね♪」
「いやいやいやいや。わかってくださいよ。無理ですよ」
「大丈夫! 怪我なんかめったにないよ!」
骨折しかけてたじゃないか!
「それに優しく指導するよ!」
骨折させかけてたじゃないか!
「大歓迎だからさ!」
骨折するような歓迎を受けられるか!
目を逸らして和室の床の間に目をやった。
なんだか変な掛け軸がかかってる。
ものすごい下手な字で『前に進めば痛くない』だそうだ。誰が書いたんだか知らんけど、普通こういうところに掛けるのって、水墨画か静物画じゃないかね?
「ユーハぁ、いいじゃんかよぅ。やろうよぅ、一緒にさぁ」
ネコが私の腕を掴んでゆさぶる。
「でも私、空手も柔道も見たこともないしなあ……」
視線を逸らして言う。
「えっ?」
キッカ先輩が、思わずってくらいの驚き顔を私に向けた。
「そうなの? だってさっき抜け方教えてたじゃないか。柔道やってたんでしょ?」
「いやいやまさか? 中等部の授業で受け身と寝技やって終わりですよ」
「うっそー? じゃなんで? すごい目だなって思ったのに」
「え……? いや、ただなんとなく……そうしたらいいかなって」
「本当に?」
「ないっすよー。格闘技なんてゲームとかで見たことあるくらいで……」
「えー、逆にすごいな。ゲームで目を鍛えられたのかな? うん、よし、ということは、才能があるってことだね! わかった。入部決定!」
ネコが私におぶさって、両手を巻きつける。
「これからもよろしくな。相棒」
力強く、私の双肩に先輩の両手が乗った。
神様。
このカトリックの学校に籍を置いてから、初めて質問いたします。
いったい、私の身に何が起こったんでしょうか?
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