第13話 めでたくフィニッシュブロー

 女子空手部のホープ、ショーコが四天王寺神泉の中等部2年の時の話。新しく高等部の主将になったショーコの元彼は、まるで練習に身が入っていなかった。

 彼は明らかに落ち込んでいた。昨年のインターハイでは県の3位、夏の空手連盟主催の大会では2回戦敗退。続く秋季の流派大会では、なんと初戦で敗退してしまったのだ。彼にあこがれて入ってきた部員も、少しずつ減っていった。

『気にしなくていいだろ。実力とかと関係ないんだし』

 一方のショーコは中学に入って空手部に所属していた。そのころには、以前の性格は変わっていった。小学校のころのような乱暴なまねはやめ、女の子らしい部分も育っていた。あるきっかけがあったからだと、ショーコは言った。

 彼の敗因が単なる体調不良やクジ運の悪さだったことも、ショーコはわかっていた。連盟の大会は直前に夏カゼにやられていたし、流派大会で当たった初戦の相手はその大会を優勝している。それまで人の事なんか考えたことがなかったショーコが、初めて他人に心を寄せた。

『腐っても上達しないよ』

 ショーコは彼の以前の大会の活躍を知っていた。言葉は下手だったけれど、彼女なりにはげまそうとした。一途に、熱心に。その気持ちは、そのうち別の気持ちに変わっていった。その年の2月。ショーコは特大のチョコレートを持って告白した。

 最初の1ヶ月は良かった。だがプライドの高い彼には、ショーコの同情が許せなくなっていった。慰められていると思いたくなかった。ショーコが一生懸命つくしても、彼はすさんでいった。ショーコが大会で次々に成績を出していたのも災いした。

『今日部室? いいけど何? 練習の相談か。道着持ってく? いらないの?』

 4月の新入生勧誘では、高等部にも中等部にも部員は入らなかった。がらんとした部室で、ショーコは……

『やめて! やめてよ! なんでこんな事すんの? わかんない! わかんないよ……』

 犯罪一歩手前まで行った直前、ショーコが指を揃えて彼の目玉を突いた。護身のために習った技術を、まさか教えてくれた人に使うとは思わなかった。目の表面をかすっただけだったが、彼がこれでキレた。目を抑えながらショーコの喉に拳をたたきつけた。片目で距離感が狂っていたせいか、もろにショーコの喉に命中した。

 むせかえりながら、喉を押さえながら、ショーコは逃げた。悲しさと恥かしさを、頭の中でかき鳴らしながら。

 それまでのショーコの声は無くなった。スマホに入っていた無数のメールと着信を拒否ボックスに放り込んで、ショーコは学校に行くのをやめた。

 親には相談できなかった。学校の教師にも相談したけれど、話は聞いてくれそうになかった。彼の父親は商社の社長で、四天の理事の一人だっていうのも関係あったらしい。

 あの人が怖い。味方がほしい。自分を守ってくれる味方が。強い味方が……

 その一心で、ショーコは総合格闘技に転向した。

 ショーコの話は、ここで終わった。


 *


「最初にそういえばよかったのに……」

 私が呆れて言った。

「あんたたちとこんなに関わるなんて思うわけないだろ。学校もジムも違うのに。それに、あんたらの青春ごっこと一緒にされたくない」

「そりゃわかるが……」

 ネコが言った。長いショーコの話を聞いて、ようやくそれまでのわだかまりは払うことができた。同時に今度は別の事も理解できてきた。今までの話を何もかもつなげてみる。まるでパズルのように、一つ、一つ、出来事がまとまっていった。

「わかんないわよ」

 私が言った。

「何が……」

 ネコが私の顔を見た。私は答えずに続けた。

「その元彼から守ってもらうために両統会に入って、しかも認められたいから手段選ばないで反則まで使ったって事でしょ?」

「ずいぶん丸めてくれるね……まあ……そうだけどさ」

 ショーコが苦い顔で言い返した。

「両統会に頼っても無理よ。学校に戻るのとなにも関係ないわ」

「なに言い出すんだ。そんな事、お前に言われたくない」

 ショーコは腰を浮かして、ムキになって言い返した。

「ううん。もう確信できる。私もこの半年でいろいろ見てきたわ。知らなかった道場って言う世界、格闘技っていう競技。その中でわかったのよ。試合で活躍できたって、両統会がショーコを守ったりするわけないわよ。ただの格闘技のジムが。そこの選手やトレーナーだって1人1人、自分の生活があるのよ。あんたのボディガードになってくれやしないわ」

「そ、そんなことない! みんな優しいし、強いし……」

「優しくて強けりゃその元彼をぶっ飛ばしてくれるの? ないわ。そこの誰かと付き合ってるとかでなきゃ、それはないわよ。入って3ヶ月のショーコがいくら実力があったって、そういう事とはなにも関係ないわ」

「そんな……」

 今までの事を思い出しながら、あたしはショーコに言った。チロさんたちの日常、ケンカで格闘技を使ったときの事、沖縄で会った門下生たちの生活。今はもうわかる。格闘家は暴力団でもないし、警察でもない。格闘技は特別な人のためのものじゃない。ただのマイナーなスポーツだ。

「……ネコ。ショーコの反則の事、許してやってよ」

「はあ? それ決めんのはあたし様だぜ。ユーハが言うのは違うんじゃねえの?」

 ネコが私に鋭い声をたたきつけた。けれど、そうじゃない。

「違わない。ネコ。あんたが怒ったのには謝る。でも、一つだけ隠してる事あるでしょ」

「……なに?」

「さっきショーコが小学校の頃から変わったって言ったとき、ショーコがあんた見たわよね。あんた目を伏せたでしょ」

「いや、それはただ……」

「私には見えたわ。私の目は、あんたが一番知ってるはずよ」

「その……」

 あたしはネコの言葉を無視して、隣のショーコに聞いた。

「ショーコ。ようやくわかったわよ。勝たなきゃならないだけじゃなくて、ネコにあそこまでやったわけが。なんで黙ってたの?」

「わざわざ言う必要が無かっただけさ。あんたは知らないようだったからな。よく気がついたな、今の話で。普通、そこまで読めないと思うんだけどな」

 ショーコが言った。ネコが、気まずそうに黙った。私が続けた。

「ネコ。4年前……あんたが後ろからぶん殴ったのは、ショーコだったのね」

 ネコが、チッと舌を打った。


 私がショーコに付け狙われたのは、小学校5年の夏までだった。ネコと知り合って一緒の塾に行くようになってからは、全くいじめられなくなった。私はその理由がよくわかっていなかった。考えたくなかったからだろう。けれど、今ならわかる。

 私がいじめられなくなったのは、ネコがショーコを叩きのめしたからだ。

 私を守るというのを建前に、ネコは自分の楽しみのためにショーコをぶん殴った。それも、多分一度じゃない。ショーコが私にやったことを、ネコがショーコにもやった。だからショーコは私と関わるのをやめた。私は確かに助かった。でも、それは正しいやり方じゃなかった。ショーコのように、私のように。こいつにも、人に見せられない部分があった。こいつに頼り続けていたら、きっと気がつかないままだった。

 ネコは今まで、ずっとその事を傷に思っていた。そしてネコは自分の暴力性を別の方向へ向けるために格闘技を始めた。ショーコとの関係を忘れたかったから。けれどネコは、偶然ショーコに再会した。私が驚いたように、ネコも心の中で驚いていた。そしてネコは過去の精算をしないままショーコと勝負した。その結果があの試合だ。ネコは自分の罪に対して、本人から罰を受けた。


「ネコ、どうしてショーコの事知ってたって言わなかったの?」

「格好良くないからだろ」

 ショーコが横から言った。ネコが黙って首を縦に振った。

「その三つ編みはあたしを倒して、あたしとの事は無かった事にしたかったのさ。昔いじめてました。今リベンジされましたじゃ立場ないからな」

「バカね」

 私が言った。それから3人が黙って、それぞれのコーヒーを飲んだ。

 ネコも、ショーコも、私も、全員がバカだった。

「3人でそいつに会って、学校に戻れるように相談しましょう」

 カップを置いて、私が言った。

「何いってんだ? これはあたしの問題……」

「ショーコだけじゃどうしょうもないから、そんで困ってたんでしょ?」

「いや、だけどさ……」

「ネコ。ショーコのために動けるわよね」

「……わーったよ。ショーコ、ごめんな」

 ネコが立ち直って言った。切り替えの早い奴だ。話が短くてすむ。

「まあなんかするのは当然だよ。ショーコは四天に守られこそすれ、逃げなきゃならないような事は何もしてねえ。それをあたしらが黙ってるわけにはいかねえ。ユーハの言うとおりだ」

「お前らには何の得にもならないだろ。なんでわざわざ」

 ショーコがかすれた声で聞き返した。

 あたしが立ち上がる。ショーコとネコの頭をつかんで引き寄せた。ごちんと3人の額がぶつかった。

「友達になったからよ」

「そういう事だな」

 あたしとネコが続けて言った。

「私たちは友達よ。一緒に話をつけに行くわ」

 過去は過ぎ去った。実にどうでもいい過去が。

 でも、これまでの苦労は無駄だったんだろうか? そうは思わない。私たちは、今、ここでこうやっていられるんだから。


 ショーコは渋谷に。私たちは家に。吉祥寺は相変わらずにぎやかだ。私とネコは少し気まずそうに並んで家に向かった。

 ネコの家に近づいたあたりで、ようやく奴が口を開いた。

「なあ」

「うん」

「沖縄まで行ったんだって?」

「う……うん」

「あたし様のためにか?」

「えーと……それはねえ……」

 それはたしかにそうなんだけど、いまさらだ。それに結局、ネコのためにはならなかった。

「キッカ先輩が言ってたよ。すごく腕を上げたってな。あたしともやりあえるくらいだってな。ショーコにケガさせるために、そんな苦労したのか」

「……」

「なんか言えよ」

 ネコがあたしの顔をのぞき込んだ。近い。唇が目の前によってくる。アホの顔を押しのける。ようやくネコは機嫌を戻したようだった。

「ユーハ、ごめんな」

「もう貸し借り無しよ。謝らなくてもいい。あたしもあんたには謝らないわ」

「そっか……わーったよ。じゃ、別のこと言わせてくれよ」

「なによ?」

「髪切ったんだな。よく似合うぜ」

 ネコが手を伸ばして、あたしの額を突っついた。

 2人で顔を見合わせた。

 ネコがくくっと笑った。

 私も、ふふっと笑った。

 ネコが家のドアに手をかける。どっちも挨拶は言わなかった。気まずそうな照れをかくして、声を殺して笑いあった。

 友達は戻ってきたんだ。


 *


 3日後。ショーコのメールが転送されてきた。夜に渋谷の宮下公園って書いてあった。

 キッカ先輩に断って練習を休み、私たちは井の頭線で渋谷へ向かった。ハチ公前でショーコと落ち合って、トイレで着替えて荷物をロッカーに。三人とも靴はスニーカー、デニムはボトム、Tシャツ。なんかおのぼりさんみたいだ。日が暮れて、少し寒い。私たちは周囲を見回した。

「来ないかもしれないよ」

 ショーコがぼそっとつぶやいた。ネコが軽くショーコの肩をたたいた。

「いや、来るわよ。それより、何人で来るかが問題ね。私らまで一緒に前と同じ展開ってなるってのはまずいわね」

「なんか考えてあるか?」

「携帯の110のボタンだけ押しておいて、すぐにかけられるようにしとこうか。2人からかかれば、動いてくれるでしょ」

「なるほどな」

 ショーコはずっと黙って下を向いていた。不安なんだろうか。

「ショーコ。話すこと、決まってる」

「まあな……でも、うまく言えるか」

「うまくなんて、言わなくていいじゃない」

「……そうかな」

「うまくなんて生きてないしね。私たち、3人とも」

 ショーコが鼻で笑った。けれどその態度は、最初に私を蹴り飛ばした時とは、全く違っていた。

 ベンチの向こうから、誰かが入ってきた。

「ショーコ」

 男が声を出した。背の高い、細身の男性だ。

 ショーコが、声を出さずに立ち上がった。

 写真は見せてもらっていた。この人がショーコの元彼氏さんか。もっと難しい顔で来ると思っていたけれど……なんだか、やけに軽い態度だ。

「や、やあ……」

 ショーコが、たどたどしく言った。

「あ、あのさ……あたし、学校に、戻ろうと思うんだ」

 大きな覚悟があったんだろう。言葉は震えていたけれど、はっきりしていた。

 がんばれ、ショーコ。

 私たちが後ろからショーコを見守った。


 けれど彼の態度は、あたしたちが期待していたようなものじゃなかった。

「なに言ってんの」

 彼が言った。

 意味がよくわからない。ショーコが顔を上げた。

「公立とか行けよ。もうお前戻るとか無理でしょ」

 彼が続けた。

「え……?」

「誘っといて逃げて、いまさらなに考えてんだよ、お前」

 彼が言った。

「そんな……あんなに無理に……いや、いいよ。あたしも悪かった。だから、話そうよ」

「遅えよ」

 彼が視線をショーコから離して、一度、私とネコを見た。そして、横に目をやった。

 すぐにその意味がわかった。まずい!

「ユーハ、数えろ」

 ネコが舌先でささやいた。

 さっと周りを見渡す。うわっ、最悪の予想が的中か……

   私の目が暗い中を走る。3人……いや5人……いや……予想してたよりずっと多いぞ。

「なにさ、これ! こっちは3人なのに……」

「もう一度来るってのは、覚悟できてますって事だろ?」

「な、なに言ってんの? やっぱり、やっぱりあんたおかしい! おかしいよ!」

「ショーコ、こいつらは知ってんのか?」

「部員とか……あとは知らない! なんで言いなりになってんの?」

「俺に逆らって学校にいられるわけねえよ。知ってると思ってたんだけど」

 げっ、こんなにイってる頭だったのか。まずいな。ショーコ、あんたこいつを信用しすぎだ。これじゃ話になんかなりゃしない。

「ま、3人ともそこそこ見られた顔だし、遊んでくれよ」

 男が、つっと手を振った。一人がネコの肩に手を伸ばす。ふっ、とネコが身を沈めた。そして次の瞬間。

「てめえっ、ふざけんなこの野郎!」

 ものすごい音が夜空に響いた。

 ネコを掴んでいた男が顔を抑えてうずくまった。アッパーカット直撃だ。あのバカ! 殴ってないで電話かけろよ!

 ネコに向かってとりまきが殺到した。ネコが舞い上がってもう一人に蹴りを食らわしたけど、直後に別の一人に捕まえられた。ようやく数え終わった。8人だ。8人の男に囲まれた3人の女じゃ話にならない。私の両腕が別の一人が捕まえられた。携帯が出せない。ネコの携帯は?

 地面を見てぞっとした。携帯は、ネコのポケットから滑り落ち、土の上を転がっていた。

「離せ、ばかやろー! すけべ! ちかん! ちきしょう、誰か助けろ!」

 ネコが声を出そうとしたけれど、すぐに口を抑えられた。運悪く人が少ない。声が届かない。こんな暗い公園を選ぶんじゃなかった。今日にかぎって、まるで人がいない。

 仕方ない、使うか!

 掴んでいた両手を全力でひきつけて、鼻っ柱に頭突きを食らわせた。

「くそっ、こいつ!」

 振り向いて、左のフックをたたき込んだ。3人のうち、1人だけでも逃げられればなんとかなる。暴れてやる、全力で!

「2、3発食らわせろ! 腕の一本も折ってやれ!」

 この野郎!

 頭に怒りが駆け巡った。ようやく大声が出せそうになってきた。声さえ出せばなんとかなるだろ。渋谷なんだ。誰かいるはずだ!

 決心して、思いっきり息を吸った。


 ところがそれよりも先に、別の方角から、別の、なんだか聞きなれた声が響いた。

 木々を揺るがすような、堂々とした声。


「公の場所で、何の騒動か!」


 全員がその方向を向いた。

 宮下公園の橋の上に、一人の男が立っていた。初老、60歳くらいか。なんて格好だ。素足に空手着に黒帯。時代劇に出てくるみたいな長い総髪、夜なのに光る強烈な眼。

 この21世紀の、この渋谷の、この世代の男女の中に、最も合わない人が乗り込んできた。

 でも、どうしてだろう。

 そんな怪しい姿なのに、なぜかほっとした。

 どこかで聞き覚えのある声。まるで、いつも一緒にいたような声だ。

 私たちと、私たちをつかまえた男たちの前にお爺さんが立った。

「なんだあんた……なっ? いや、まさか、そんな?」

  私をつかんでいた男が、手を離した。

「シーサー君……?」

 私がその名前をつぶやくと、彼が一度だけ私に目を向けた。初めて見るはずなのに、不思議と見覚えのあるまなざしだった。

「あ、いたいた!」

「探しましたわ。ようやく見つかりましたわね」

 キッカ先輩に、それに……

「サラさん?」

「格連会議で師範の名代にきてみれば、羽田に着くなりキッカから電話がきて……それよりなんですの? このむさっくるしい人たちは?」

「お。おい……」

 ぼそぼそと、後ろの奴らが何かを話し始めた。そして、中のひとりが、びくっと体をふるえさせた。

「なんか見覚えないですか、あの顔」

 大柄な男が、目を細めて他の奴らに言った。

「俺、白黒の動画で見たような気がする」

 するとそのお爺さんはすうっと息を吸い込み、大声を上げた。


「吾輩は獅鷹流空手道流祖の与那原だ!」


「ぎゃーっ!」

 目の前にいた男たちが、天を突くような勢いで飛び上がった。

「大人しく弟子たちを離して頂こう。さもなくば与那原の拳は貴様らに振るわねばならん」

「なんだお前ら? 何驚いてんだ?」

 1人が左右を見て不思議そうな顔をしている。こいつはシーサー君を知らないのか。そいつ以外の全員はあたしたちから離れて、突然輪になって審議会を開催した。

「おい与那原って与那原剛順のことだよな? 本当に生きてんのか? パチもんじゃねえの?」

「知らねえよ獅鷹流の事なんて。ウィキショナリーとか見てみろ」

 あたしたちそっちのけで男どもがスマホをいじりだした。なんなんだこいつら。四天の空手部は大丈夫か。

「やっぱりだ、50年前に死んでるぞ!」

「だましやがって、このやろ!」

 言って、一斉に男たちがつっかかった。

 初老のお爺さんに、8人の高校生。普通なら新聞沙汰の暴行だ。でも、なぜか私は何の心配もしていなかった。

 最初の一人が、襟をつかもうとした。その手を軽く上から抑えて、シーサー君……今は前世の姿をしているお爺さんが身を沈め、脇の下から平手を突き込んだ。

「うわっ?」

 驚いて男がつま先立ちになる。瞬間、蹴りが中段に走った。

 ボーリングの玉みたいに、男が集団に突っ込んだ。

「うげっ!」

「てめえ、このジジイ!」

 よけた一人が腰を落として仕掛けた。まともに構えた空手の突きだ。

「さいああ!」

「おう」

 眼前、一寸の差で剛順先生が突きを見切る。と、同時に男がものすごい勢いですっころんだ。足払いだ。突いてきた手をかわしながら、相手の足を外側から自分の足ですくい取った。視線はずっと相手の目に据えたままだったのに。まるで曲芸だ。

 先生が転がった男の襟首をつかんで、まだ立ってる集団にたたき込んだ。

「ま、まいった!」

 投げ込まれた男が律儀に降参した。

「与那原剛順と知らずかかってきたことと、その若気に免じてこの場は許して進ぜるわい。とっとと帰って稽古に励め」

 がさがさと虫のように集団が下がった。ショーコの元彼と、剛順先生を知らなかったらしい男が一人だけ残った。

「……てめえら、ばかじゃねえの?」

 輪からはずれていたそいつが、後ろから何かを取り出した。棒。違う。反りがある。樫の木の木刀だ。こいつは空手部じゃないのか。

「空手がどうでも、こいつにかなうわけ……」

 そいつが木刀を剛順先生の鼻先に突き出した。

 けれど、武器を持っていても結果は同じだった。

「おりゃあ!」

 剛順先生の前蹴りが、鋭く男の手首を打った。

 天高く木刀が飛び上がり、回転しながらアスファルトの上に落ちてくる。

 そこに向かって……

「チェストーッ!」

 パァンと、木の音が響いた。

 回し蹴りが、夜の空間を雷光のように切り裂いた。

「は、はあ?」

 木刀を離した男の声。

 続いて、からり、からり、と転がる音。2回。白樫の木刀は……中央から、真っ二つに折れていた。

「その年で犯罪者になりたくはなかろうが」

 剛順先生が、集団を見回した。その言葉でもう十分だった。脱力して、全員が下を向いた。

「まだ来るか」

「いやそのつまりその……」

 全員が平身低頭、小さくなって後ろに下がっていった。男の世界は強けりゃ神様って言うけど、本当だなあ……


 こうして形成は完全にひっくり返った。取り巻きたちは渋谷の町へ消え、ショーコの元彼だけが、橋の上で5人の女子高生に囲まれた。

「どうしようね。ボクならこんなの放置でいいと思うけどな」

 キッカ先輩が言った。

「お別れ記念に、一発痛いのを差し上げておきましょうか?」

 サラさんが言った。

「そうだなあ……あたし様は平和主義者だから、暴力は良くないとは思うが……」

 さっき2人もぶちのめしてましたよね、あなた。

 ややあって、全員が私に目を向けた。ふむ。しかしね。ここはやっぱり私じゃないよな。

「ショーコ、決めなよ」

「そうだな」

 ショーコが答えた。

 なにを言ってもバカに見えることくらいはわかっていたんだろう。彼は何も言わなかった。もう、こいつには自分を守る言葉はない。決めるのは、裁くのは、ショーコだ。

「なあ」

 ショーコが、悲しそうな顔で、ポンと彼の肩を叩いた。

「好きだった時があったのは、本当だよ」


 そして、別れのグーパンが夜空に響いた。


 低い欄干に一度腰をぶつけると、ぐらりと姿勢を崩して、彼は橋の下へ落っこちていった。

「ちょ、ショーコ、死ぬんじゃない、今の?」

「しまったな、落ちると思ってなかったよ」

 全員で欄干から身を乗り出した。

 下の歩道でいちおう受身を取ったようで、立ち上がると足を引きずり、渋谷の街へ消えていった。

 全員が、ほっと息をついた。

「よかったな、捻挫くらいだろ」

 ネコが言った。

「いくらなんでも大怪我ってのはちょっとね」

 私がつぶやいた。

「難儀な目にあったのう。無事で良かったわい」

 いつのまにか、シーサー君はいつもの姿でサラさんの肩に乗っていた。

「あれ、戻ってる」

「なんだ、いきなり人間になったかと思ったのに」

「よほどの時に、一瞬しかなれんのじゃよ。普段からあの格好でいたいのじゃが」

 ショーコがそれに目を留めた。

「えっ、そんな事しなくていいじゃないか」

 突然、ショーコがシーサー君をサラさんの肩からひったくった。

「前の試合のときから気にしてたんだよ。なんだい、このかわいいのは」

「かわいい?」

 全員が同時にどよめき、怪訝な顔でショーコを見た。

「かわいいよ。ヨハネで飼ってるのかい」

「飼ってるとはなんじゃい! 我輩はこれでも現代によみがえった偉大なる……」

「うわ、いい毛並み。すごい気持ちいい」

「ムキャーっ! 人の話は最後まで聞かんか! 服を脱いでそこへ直れ!」

「いいなあ、ヨハネにはこんなマスコットがいて。たまに抱かせてもらうかなあ」

 ショーコがシーサー君をひょいっと手に取った。それを胸にぐっと押し付ける。

「ぎゃあ息ができん! やめんかぁ!」

「新しいな。こんなのアリなのかよ」

「最初からこう扱えばよかったのかしら?」

「いや、ボクには絶対無理だね」

「人の趣味はそれぞれよね……」

 私たちの長い夏は、こうして終わった。

 最後はなんとかハッピーエンド。

 これで私たちの女子高生生活は、いつまでも平和に続くのであった。

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