第12話 なまめかしいチョークスリーパー

 夏休みの終わり。試合停止期間が終わって、キッカ先輩は小さなアマチュアの大会で優勝した。あとは部員の先輩たちと花火を見に行ったり、肝だめしに行ったり、映画を見に行ったり。先輩たちはみんな親切だったし、久々の合同練習も楽しかった。

 けれど……

 目的はショーコだ。それは変わらない。

 私はショーコの電話もメールも知らない。前の試合のパンフレットを開いて、ショーコの所属している新武道両統会にメールを出した。ファンですが、彼女はいつ出ますか、と書いた。

 返事はすぐに来た。ショーコは夏の大会に1つ出場してからはオフらしい。本当は教えないらしくて、外に言うなと書いてあった。両統会に手紙を書こう。

 夏休み最後の日。私はペンを手に取って、真っ白なコピー用紙に向かった。ファンレターもラブレターも書いたことのない私には、初めての手紙だ。どう書こう。ネットで果たし状の文面を検索してみたけれど、しっくりくるのがない。まあ、とりあえず書いてみるか。えーと……


『次の満月、子の刻、吉祥寺境内、影はただ二つ』

 くしゃっ

 ありえない。というか意味がわからない。暗号かよ。


『拝啓、初秋の候 このたび私こと神楽坂は御園生様へ決闘を申込み度』

 くしゃっ

 時候の挨拶はいらないだろ。ケンカ売るのにへりくだってどうする。


『十月十日午前一時、総合運動公園にて決戦を申込む。実力を発揮し正々堂々と』

 くしゃっ

 運動会か。


 格好つけてどうする。だいたい格好よくない。むしろダサい。くそー、なんかズレてる。もっとこう普通でいいだろ。いや、普通ってなんだ。普通の女子高生ケンカしない。

 もういいや。手紙なんか勢いだ勢い。


 御園生さん

 話をする準備ができました。こっちの要望は二つあります。武器は何も持たないこと。運動をするための靴と服で来ること。時間と場所はそっちが決めて結構です。体調を整えて来てください。

 左の携帯に電話入れてください。二度は連絡しません。 神楽坂優葉


 できた。封筒に入れてシール貼って……ウサギのシールはダメだな。というかシール自体ダメだ。「緘」って書けばいいのか。字が難しい。「〆」でもいいらしい。よし、完成だ。

 生まれて初めて、郵便ポストにモノを突っ込んだ。なんだかハイテンションだ。この手紙。ちゃんと届くだろうか。


 *


 始業式になり、次の日になった。ショーコから連絡は来なかった。そしてもっと意外なことに、ネコが学校に来なかった。もう怪我はとっくに治っているはずだ。どうして来ないんだろう。キッカ先輩も知らないの一言だ。シーサー君を探した。裏庭のマリア像の下にいた。

「知らんよ。ユーハのほうが知っておろう」

「2回電話して大量にメール打ったけど、なんか携帯の電源切ってるみたいでさ。家に聞いてみたんだけど、家族にもなんかはぐらかされてさあ」

「そりゃ明らかに本人が拒否しておるんじゃろう。なおさらどうにもできんよ。試合に負けて恥ずかしいのかもしれんし、体の調子がすぐれぬのかもしれんし、乙女心は複雑なんじゃろ」

「もう、どうしてそう面倒くさがりなのよ! あれでも一応弟子でしょ?」

「吾輩は弟子に好きな事をやらせる主義じゃ。強くなりたいならそれに合わせて。そうでないならそれなりに。無理に引っ張り出しても、モノになりゃせんよ。だいいち、ネコの休みに何かを言うべきなのは学校の教師じゃろ。クラブのコーチなどではない」

「こんなド放任の学校に期待してもしょうがないのよ。でもわかった。人に期待したのが間違いだったわよ。もういい、私の話なんだから、私がどうにかする」

 まくしたてて立ち上がった。中庭の入り口に向かう。

「なぜネコの事を信じない」

 背中に、突然声がかかった。

「はあ?」

 顔だけをシーサー君に向けた。

「なぜ、ネコが立ち直り、再び元気な顔を見せるだろうと考えぬのじゃ。担任の教師やほかの友達も、同じように大騒ぎしておるのか?」

「シーサー君にはわかんないわよ」

「そりゃそうじゃ。そんな変な考えなど誰もわからん。ネコですらわからんよ」

「もう、いいって言ってるでしょ!」

「やれやれ」

 私は中庭のドアを乱暴に開けた。今日は2学期に入って、最初の練習日だ。もう一度キッカ先輩と話そう。何か知ってるかもしれないし。

 思って、上靴の音を乱暴に響かせて廊下に上がった。その一歩目で携帯が震えた。

 あわてて取り出した。知らない番号だ。ごくりと唾を飲んでから、通話のボタンを押した。

「はい」

「変な作りの学校だな」

 かすれた声が耳に届いた。

「うちに来たの……?」

「エスティー……? セントか。セントヨハネ……チャペルだな。ここで待たせてもらうよ」

「今行くわ」

 教室に飛び込んで、Tシャツとジャージの下に着替えた。グローブ……いや、いらない。相手が何か用意をしてたら、そっちにも外させよう。今日は、そういう日じゃない。

 かばんは教室に放り込んだ。わざわざここまで来るなんてたいした度胸だ。答えてやる。


 礼拝堂の入り口。いない。でもドアが開いている。シスターたちの礼拝時間は日が沈んでからだ。誰もいないはずだ。

 緊張を殺してドアを開けた。上靴を脱ぐと、素足になって祭壇に小さく十字を切り、中に入る。部屋は椅子が片付けられていて、がらんと広い。電気は消えていて薄暗かったけれど、人の気配がした。

 脇に並べられた椅子に誰かの影。

 ショーコだ。

 独り。

 ショーコはチェックの半袖ワイシャツにベージュのチノパン、スニーカー。なんだか男の子みたいな恰好だった。

「靴を脱ぎなさい。神様の前よ」

「それ、神社じゃないのか」

 そうだったような気もする。

 ショーコはクスリとも笑わずに素直に靴を脱ぎ、靴下もその中に入れた。丁寧に並べてスポーツバッグの上に置く。

「何の話をしたい?」

「あんたが新人戦でやったことを大会の主催者に申告して、入賞を取り下げるよう言うこと。決勝の相手の二宮に、自分のやったことを認めて謝ること」

「協会は、いまさら賞の取り下げはしないと思うよ」

「あんたが言えば、それでいいわ」

「なるほどな。キリスト教っぽく、ザンゲをしろって言ってるのか」

「そうね」

「負けたらやってやるよ」

 ショーコがワイシャツのボタンを、一番上だけはずした。

「降参はなしにしよう」

「ノックアウトするまでってこと?」

「それなら、立ち直った時にまたって言われそうだな。お前とはもう関わりたくないんだよ。そうだな。泣くか漏らすかにしようか。それなら二度と立ち直れないだろ」

「あっきれた……」

 ショーコは不気味な薄笑いを浮かべ、首を左右に倒しながら歩み寄ってきた。

 恐怖心が一瞬だけ頭をもたげる。むりやりにそれを払った。怖がるな。これでいいんだ。いや、むしろついてる。こいつは、私の腕をなめてるから。

 礼拝堂の中を私は下がりながら距離を取った。2メートルくらいか。作戦は何度も考えた。後は実行するだけだ。原始的に現実的に、残酷にやってやる。絶対に容赦しない。

 下がる足を止めて、自分から入った。

 ほとんど同時にショーコが動いた。力任せの右だ。一方的に攻め落とす、格下に使う戦法だ。

 私は姿勢を低く、左腕を曲げて顔をガードした。ショーコの右拳が腕に当たる。グローブをしてない。素肌に素手の痛み。でもこの厚みなら慣れている。

 返しの右を渾身の力で振った。礼拝堂の中に、嫌な音が響いた。

 ショーコの体が、脇に片づけてある椅子へ突っ込んだ。派手にパイプ椅子が崩れる。頭は打ってない。ショーコは椅子の足をつかんで立ち上がった。

「へえ」

 ショーコが感心したような声を出した。生身の腕で口を拭う。血がついていた。

「なんかやってきたな」

 ショーコの変な声が、礼拝堂を何度か反射した。残響が消えると、2人の足がカーペットをこする音が響いた。

 間合い。ショーコは間の取り方がうまい。遠い距離と近い距離を使い分けて、最適な技術を使うことができる。遅い私からコンタクトしたら、確実に強烈な反撃が来る。

 待つ。待って、相手が動いたら自分も動く。

 ショーコは軽く構えらしい態度を取った。下段に手をそろえて、腰を落としている。

 やる気だ。でも、まだ私をバカにしてる。私の持っている刀を付け焼き刃だと思い込んでる目だ。幸運は続いている。

 ショーコが跳んだ。パンチ。狙いは私の顎。違う。フェイントだ。続く予備動作のないミドルキック。これが肝臓を狙ってる。

 私は懐を深く、蹴りを空振らせた。反撃のストレートを返す。ショーコが首を振って前蹴りを刺しに来た。これも避けた。

 試合とケンカの違いを、昨日一晩考えていた。

 試合は狭い空間でやることだ。逃げることはできない。格闘技は互いが互いに戦うと同意していて、初めて成り立つ。バスケの先生じゃないけれど、あきらめたらそこで試合終了だ。

 でも、ケンカは違う。審判がいない。指導も注意も警告もない。つまり、いつまで逃げてもかまわないわけだ。

 私はショーコの技術が届くぎりぎりの距離を見極めて、直撃をひたすらに避けた。威力のない突きを連打で返す。ショーコが焦れてくる。私は距離を取る前蹴りと左のジャブを繰り返す。リーチを使った威力のない打撃。試合ならとっくに私に警告が出てるだろう。これでいい。これが、ショーコにある種の感覚を呼び起こすための、私の誘導だ。

「てめえっ!」

 ざらついた声がチャペルに反響した。

 頭にきてショーコが離れた。明らかな怒りが顔に満ちている。ショーコががっちりと腰を落とし、手を中段にそろえた。完全に半身を切って、すり足で床を踏みしめる。

 来るぞ。ショーコの空手が。全格闘技最速を誇る松風館の構えだ。ショーコは自信に満ちた正拳を飛ばしてきた。下がらない。必中の技術で迎え撃ってやる。前に出るのはこの時だ。

 私はウィービングでショーコの拳を外した。頬に鋭い摩擦熱を感じた。私のたった一つの武器が、偶然身についた、この視力と判断力だ。これがなかったら、どれだけ練習してもこの勝負をやろうって気にならなかったろう。

 私は突いた手を変化させて、ショーコのうなじに引っかけた。インチキ茶道部に入って一日目に覚えた知識。そのときは一生使わないだろうと思っていた知識だ。

 いくぞ。これが私の本身を抜いた一撃だ。

 

『相手の技を払って、首をつかんで、右膝を突き立てる。空手にもキックボクシングにもあるメジャーな技だけど、簡単ですごく威力があるんだ。特に、相手が思いっきり来れば来るほど強力になるんだよ』

 

 全身を全力で収縮した。腕の引く力、膝を引き上げる力。膝頭はまっすぐにショーコの腹へ走って行った。

「ちいっ……」

 ショーコが絞るように、ひび割れた声を出した。

 当たってる。どうだ?

 いや、この感触、違う。私の膝に当たったのは腕だ。ショーコは自分の腕を、膝の直前にねじ込んでいた。ダメか! いや、まだ手はある!

 私はショーコの肩を押して斜め後ろを取った。ショーコが振り向いて私に目を合わせる。そのわずかなタイミングが狙いだ。ハイキックを振り上げた。私の足はショーコの意識の空白をすり抜け、充分な速度で横っ面に迫った。練習していた通りに出た。確実に命中するはずだ。

 けれど、待望の手応えはまたも戻ってこない。


 こいつ、自分から倒れた!


 ショーコは私のハイキックを感じるなり、自分から上体を崩して直撃を防いでいた。かすっただけだ。礼拝堂の床に片手をついて一瞬で立ち上がり、両手をガードに変えた。追撃を出せない。ショーコが2歩距離を取った。

 初めて、こいつのセンスを肌で感じた。

 うまい。

 何やったか抜きにこいつの腕だけ考えると、全く違う一面が見えてくる。とんでもなくうまい。一流の防御。才能を駆使した、努力を惜しまなかった人間の能力だ。

 やっぱりただ目がいいだけの凡人には辛いな。2度のバクチを失敗して、私は構え直した。

 ショーコは次は蹴りから来た。左手で払ってショーコの足をリードし、その手でさらに襟に組みついた。ショーコは両手で私の左手をつかむと全体重をかけて下に落とした。手が外れる。

 逆の手を取った。脇を刺す。四つになって足を引っかけた。抱きついて聖堂を転がり寝技に入った。

 こっちが下になった。両足を胴体に巻き付ける。ショーコは巧みに両足をつかって私の足を制しに来る。私は下からショーコの上体をコントロールした。けれど、腕をひねるのも脚で締めるのも無理だ。寝技もできている。私の練習量じゃ極めきれない。

 抱きつかれる前に腰を蹴って距離を取り、柔術立ちで起き上がった。仕切り直しだ。カウンターもダメ、寝技もダメじゃ、もう残る手はない。逃げ出して人を呼ぶか? 降参するか? まさかな。今さら冗談じゃない。

 でも、じゃあどうする。消耗戦か。正面から当たるのか。こいつに。

 いや。

 いい。それでもいい。もう手はない。だったら、今までやってきた事だけを信じよう。前に出よう。やれるだけのことをやってから、次を考えよう。

 右のチョップブローを繰り出した。ショーコが身をひねりながら受ける。お返しの右が私の鼻っ柱を狙う。これはよけた。追撃のミドルキックが来た。

 いくぞ、相打ち覚悟で狙ってやる。キッカ先輩もダウンさせた左のフックだ。

 ずどっと、嫌な音が響いた。

 フックは空ぶった。この音は、ショーコに命中した音じゃない。

 ミドルじゃない。いや、途中から変化を入れた。ローキックが、私の左脚に命中していた。

「くっ……」

 レガースをつけてない素足の骨が、私の筋肉を刻んでいた。

 48キロ級にでてたんだから、今のショーコはたぶん50キロくらい。それでも私より7キロ以上は軽いはずだ。とてもそうは思えない。激痛が左足を鈍く広がってくる。

 なんて重い蹴りだ。

 体重で決定的な差がつくなんて、でたらめじゃないか。こっちのほうが圧倒的に分が悪い。こいつと私との間には決定的な差がある。もう何度も思ってたけど、本気で頭のネジが飛んでる。機械だ。殴る蹴るという機能だけが備わっている、そういう装置なんだ。

 足を引きずりながら離れた。痛めた左足で蹴り返す。速度がでない。軸足にするよりはマシだけど、痛みで動きがにぶっている。ショーコが私の蹴りを手で誘導して、姿勢を崩しにかかる。バランスを失った。そのタイミングを目指して、ショーコの素手が私に迫ってきた。まずい!

 額に直撃。星が頭の中を駆け巡った。


 いってーっ!

 

 こいつのゲンコツ、石かなんかかよ!

 崩れながら足にしがみついた。偶然タックルの形になったけど成り行きだ。頭が痛すぎて考える気にならない。ショーコを転がしてすぐに逃げた。寝技をやる気力が出ない。

 こんなの繰り返してたら、いずれはやられる。まずいな……

 ん……?

 ショーコは一度私に転がされたけれど、引きながら立ち上がってこちらを見た。歯を食いしばって。なんか、不自然な……

 手が……いや、まさか?

 踏み込んだ。ショーコが右手を前に出して下がる。こいつは左で構えてたはずだ。それに逃げようとするなんて。

 ほとんど確信に近い。左手をどうかしてる。

 いつだ? 多分、さっき頭に命中した時だ。グローブなしで頭蓋骨を殴ったからだ。

 予想していなかった。まさかこんな事が起きるなんて。

 試合とケンカの違いだ。小さな運の差で、力も経験もあっさり吹き飛んだ。軽く、右足で蹴りのフェイントを出した。左手を出さない。ショーコは右手を前に出しながら逃げた。決まりだ。

 突っ込んだ。体当たりを食らって、ショーコの体が礼拝室の壁にぶつかった。体が跳ね返る。首を掴んで、左から後ろに回り込む。あっさりバックを取れた。膝の裏を蹴り払って、首に手を巻き付けながら引き倒す。後ろから両足で胴を締め、両腕を首に巻きつけた。床に転がった。ほとんど練習しなかったバックからのチョークスリーパーだ。

 決定的な体勢が取れた。基本通り、手を巻いて三角形を作る。その中にショーコの首は綺麗に収まっていた。

勝ち目なんて5割もないと思っていた。信じられない。私がショーコに勝てる。それも、私が思い描いていたどんなシナリオよりも理想的に。

 降参させよう。こうなったらあきらめるしかないだろ。

「もういいでしょ」

 私が言った。即座にショーコがもがいた。

「うるせえ!」

 えっ?

 なんだそれ。慣れてない私でもこれはわかる。はっきり入ってるんだぞ。

「いいかげんにしなさいよ。あれだけのタンカ切ってて、ここで意地張ってなんなの? あんたとこれ以上抱き合ってるのヤなんだけど」

「うっせえ! このっ! こいつっ……」

 ショーコが右手を髪の毛に持っていこうとした。まさか、ヘアピン引き抜く気か? パッと見だとヘアピンはついてないけど、こいつの髪の毛、太い上に量が多い。中に入ってたらわからない。ネコの時もこうだったのか。

 慌てて両腕に力を入れた。今のこいつなら、目でも突いてきかねない。

「離せ、てめえ、殺すぞ……」

 右手だけで必死に引きはがしに来る。

 困ったな。この展開は考えてなかった。まさか降参しないなんて。

 けれど、よく考えたらこんな奴が、あっさり負けを認めるわけがない。バカ正直に呑み込んだ私がアホだった。どうする。人を呼ぶか。

「覚えてろ……絶対に殺してやる……」

 首を絞められながら、ショーコが声を出す。ふざけるな。こっちのセリフだ。自分が何をやったと思ってんだ。

 その怒りを抱きながらも、その一方で、私の心の中から再び別の感情が浮かび上がった。ショーコへの恐怖だ。ネコに会うまで、毎日こいつに殴られていた。そのころに植え付けられたやつだ。

 たしか先輩に習ったけど、落ちたところで手を離したら、死んだりすることはない。柔道とかではよくあることだし、サラさんに見せてもらったDVDでも、そんな事を言っていた。でもこいつを締め落として、それでどうする。こいつはまた来る。それも、次は正面からじゃないだろう。夜道で後ろから消火器か何かでぶん殴ってくるんじゃないのか。

 考えているうちに、腕に込めた力も急に抜けそうになった。慌てて力を込め直す。もう遅い。落とすしかない。でも、殺すのか? まさか、殺すわけがない。ただのケンカだ、ケンカで人殺しなんて。いや、でも殺さないと殺される? まさか、殺しには来ないだろう、わからない。殺しに来るかも。安心なんかできない、やるか、やらないか、やめろ、やれ、やめろ、やるんだ、なんのために格闘技をやってきたんだ。こいつを倒すためじゃないか……

『ケンカはダメだぜ』

 ネコの声が頭の中を駆けた。私は頭を振って、それを捨てた。

 ケンカのためだ。強くなるためだ。強くなって、こいつに言うことを聞かせるためだ。こいつだってそうしてるんだ。私がそうして何が悪い。そうだ、こいつは、さっきなんて言っていた……?

『お前とはもう関わりたくないんだよ。そうだな。泣くか漏らすかにしよう。それなら二度と立ち直れないだろ』

 こんな奴が泣くわけがない。だったら……

「てめえ! 畜生!」

 ショーコが暴れる。

 首を絞めた。

「げっ! えっ!」

 だんだん嫌どころか、別の意味で腹が立ってきた。上からルール決めてきて、負けたらいきなりこの態度か。

 あれだけの思いでこいつの前に立ったんだ。こいつが望んだように、可能な限りの譲歩をして、沖縄にまで殴られにいって、こいつとやれるようになったんだ。

「いいかげんにして……離せよ……」

ショーコが息も絶え絶えに声を出した。私が初めて聞く、こいつの女の子らしい声だった。


 その声に、なぜか、それまでの怒りや、そういう感覚がごっそりと消えていった。


 代わりに、ぞくっと背筋へ快感が走った。

 こいつは卑怯な女なんだ。何をされたって仕方ないはずだ。汚い手を使う、汚れた女なんだ。

「離せよ……」

 泣きを入れたような声。いや、演技だ。これで手を解いたらすぐに反撃してくる。そうでなくても逃げるはずだ。女の涙なんて信用できるか。

 いじめてやる。立ち直れないように。今、私はこいつに、なんでもやり放題なんだ。

「離してほしい?」

 静かに聞いた。

 私にこんな声が出るなんて思わなかった。ものすごく残酷な声が出た。いやらしい笑いが顔に張り付く。喉の奥で笑い声をかみ殺した。

 ショーコが私の手をふりほどこうとする。力が入らないみたいだ。全然外れそうにない。

 楽しさがふくれあがってぞくぞくしてくる。そうか。私、こういう趣味があったんだ。

 もう一度きつく首を絞める。

「ううっ……」

「離してほしい?」

「この……ううっ、もう……」

 ショーコが右手をじたばたと振る。少しだけ腕を緩めてやる。逃げようとしたらまた締める。いいおもちゃだな。もっと遊んでみよう。

「なんでも言う事聞く?」

 耳元で嫌らしくささやいた。

 軽く耳を噛んだ。ぞくっとしてショーコが首を振った。そのせいで、また首が締まって咳き込む。首筋に息をかける。ショーコがもがく。いい気分。

「ねえ、降参されても負けじゃないのよね。自分で言ったわよね、さっき」

「あれは……」

「泣いて謝らなくてもいいわよ。もう一つを選んでよ」

「なに言って!」

 ぎゅっと首を絞める。

「ううっ……やめ……やめて……」

 冗談じゃない。こんな楽しいことやめられるか。

「おもらしで許してあげる。さ、遠慮なくどうぞ」

「バカ、離せ! 変態! 何考えてんだ!」

 ショーコが叫ぼうとする。そのたびに腕を締めたり緩めたり。すぐに声は小さくなった。

「ううう……」

 だんだん力が抜けて従順になってきた。でも、もちろん許さない。

「別に私しか見てないんだからいいでしょ。神様が見てるくらいよ」

「できるか! あんたおかしいんじゃないのか?」

「自分で言ったくせに。できないの? 簡単じゃない。毎日してることでしょ?」

「バカ! 死ね! おかしい! あんたおかしい!」

「あ、そう」

 腕にちょっとだけ力を入れる。

「や、やめろ!」

「言うこと聞いたらやめてあげるわよ。早く楽になればいいのに。痛くもないし。どころか、とっても気持ちいいと思うわよ」

「ううっ……」

 涙目になってきた。

 もうちょっとで堕ちるかな。

「そろそろ? まだ?」

 上から声をかけてやる。鼻をすすりながら、ショーコが嗚咽を繰り返した。そして、か細い声が私の耳に届いた。

「お、お願い……も、もう……やめてよ……」

「許してほしい? じゃあ、許してくださいって言ってよ」

「この……」

「嫌なの?」

「ううっ……わ、わかったよ……も、もう、許してください……」

 支配感と優越感に満たされる。ようやく、その言葉を引き出せた。

「許してほしいんだ」

「はい、許して下さい……」

「ダメね。心がこもってないもの」

「許してください。お願いします……」

「ダメよ。誠意が感じられないわ。おもらしと一緒に言ってよ」

「そんなぁ……」

 そこで突然、私の横っ面に何かが命中した。


 *


 鼓膜が破れるかと思った。

 私を包んでいた気分がカスミのように消えていった。何事だ、これは。

「エロすぎだろ、バカじゃねえの? てかバカじゃねえの?」

 大音量で2度言われた。

「ネコ?」

 慌てて体を起こした。

「てっめーら、ここをなんだと思ってんだ!」

 2人並んでもう一度蹴っ飛ばされた。目の前に、1ヶ月以上会わなかった悪友がそこにいた。ネコはダンと蹴り足を下ろすと、両腕を組んで、閻魔大王みたいに私たちをにらんだ。

「いや、これは、その!」

「つまり、その、だから!」

 私たちが交互に言った直後。ネコの足の裏が私たちを3度はり倒した。

「どーでもいい! 祭壇へ向かって、手をついて謝れ!」


 *


 1時間後。学校の隣の整形外科からショーコが出てきた。ヒビが入っていて全治三週間だそうだ。ネコは無言のまま両手で私たちの腕をつかみ、待合室にくっついているガラガラの喫茶店に引っ張り込むと、奥の半個室に投げ込んだ。

「さて、どういう事か聞こうじゃねえか、ああ? お前らがいつからSMレズプレイでお楽しみの仲になったのか、じっくりとな」

 こんな怖い顔の女がこの世にいるだろうか。2人で小人になったみたいに下を向いてたけど、とにかくしゃべろうと手を動かした。

「ちなみにまさかあれが格闘技だとか言ったら、今すぐこの熱いコーヒーをぶっかけてカップを投げつけて、ソーサーを縦にしてぶん殴るからな。そのつもりでしゃべれよ」

 機先を制して畳み込まれた。

 話し始めたのは私が先になった。とりあえずぽつぽつと、これまでのことを。ネコはこめかみの血管をぴくぴくと動かしてはいたけれど、とりあえずキレるところまでは行かなかった。

「なるほど、なるほど、あたし様の大切なお友達だと思っていたユーハさんが、どれだけ早とちりでどれだけ暴力的でどれだけバチあたりでどれだけSMマニアの変態なのか、よーく理解できたよ」

「いや、始めるまではだね……」

「だいたい、あたし様が死んでもないのにかたき討ちとか、その発想がまったくわからん。4年のつきあいなのに、今日を境にまったく理解できなくなった。んで、ショーコだ。あたしとの試合、ありゃなんだよ。ええ?」

「……」

 ショーコは下を向いたまま黙っていたけど、何度か口をもごもごと動かしてから、ようやく口を開いた。


「あたしの声、変だろう?」


 二人で、顔を見合わせた。

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