第4話 はなやかなハイキック
「スピード上げるぞ!」
「ちょっ、あんた、なんでそんなに速いのよ!」
午前七時半。走りながらネコに言った。
格闘家になった一歩目として、私たちはカバンをスポーツバッグに変え、ジャージでランニングしながら登校することになった。9割近く私がネコに合わせたけど。
「こんなに体が軽いなんて、自分の才能が怖い」
「知るか、運動バカ!」
スカートの中を見られる心配はなくなったけど、それ以上の問題があるじゃないか。
近い遠いで選んだ学校じゃないから通学は3キロ以上ある。私たちは白い息を吐いて走り続けた。
*
「着いたわね」
「走るとはっえーな。いつも30分くらいかかるのによ」
校門をくぐってまっすぐ更衣室へ。そこで制服に着替えようと思ったけど、3キロも走ると汗が止まらない。このまま授業に出たら風邪ひきそうだ。
「HRまでけっこうあるぜ。シャワー行くか」
「そーする」
「着替え持ってるよな?」
「あるわよ」
いいながら替えの薄いグリーンのショーツとブラを手にとって、着てるやつのホックを外して……
「おや、これは絶景」
突然、更衣室のロッカーの陰から奇怪な声が聞こえた。
「ぎゃああああああああ!」
大声と同時に体が動いた。上体が先、遅れて足を繰り出す。昨日習ったばかりのローキックだ。
「ごげぐあ!」
奇怪な生命体は奇怪な声を上げ、奇怪な方角へ飛び去った。
「な、な、何をするか!」
天井と床を往復して着地し、目の前に戻ってきた物体が吼えた。
「覗きよ痴漢よ変態よ! これでもか、これでもか!」
パニックになりながらそれを踏みつける。
「むぎゃー!」
「ユーハ、落ち着け! ここは殿中だ!」
後ろから何者かが羽交い絞めをかけた。
「嘘つけ! ここは学校だ!」
暴れまわる私を引きずり、ネコがジャージを着なおさせた。
「でも、何でこんなとこにいんだよ」
ロッカーの陰に隠れて服を着直したころに、ようやく頭が落ち着いてきた。ネコの足元に尻尾と耳が見えた。コーチじゃないか。
「キッカが試合に出るから朝練の監督に来たんじゃ。そのついでに更衣室を見学していただけじゃというのに」
「へ、それ、やっぱりのぞきじゃないか?」
「そうとも言うの」
「アホか」
ネコの蹴り足が跳ね上がった。奇怪な生命体が、放物線を描いて飛んでいく。
「おっと?」
落下するシーサー君が、すとんとシャワールームから出てきた誰かの腕に納まった。
「あれっ、どうしたの? 早いね!」
キッカ先輩が、シーサー君を逆さに抱えて私たちに声をかけた。なんでもう服を着てるんだろう。
「キッカ、お主はもう少し新人をちゃんと教育せえ」
あべこべのシーサー君が口を開く。
「あ、ついに最初の洗礼を食らったのかな?」
キッカ先輩が濡れた長い髪を片手で器用に拭きながら、シーサー君を抱えなおした。よく見ると、先輩は腕にバッグを抱えている。シャワールームで着替えてたのか。なるほどこいつ常習犯なんだな。アミ先輩があんな顔をするわけだ。
*
昼休み。キッカ先輩が教室に来て、試合のチケットを渡してくれた。そういえば試合があるとか言ってたな。下着姿を見られたのが衝撃的過ぎて、すっかり忘れてた。
「遠いんすかね?」
ネコがパンフをひっくり返した。地図がかいてある。
「等々力の体育館だねー。出場選手は何枚か招待券がもらえるんだ。来てくれるなら特別にサービスするよ、いろいろと」
なぜかキッカ先輩が私の耳をいじりながら言った。ぞくっと快感が走る。この人もこの人でなんだかわからない。
「やめてくださいよ。行きますけど」
「サンキュ。応援してね。それとさ」
ぽん、と先輩が私の肩に手を乗せた。
「へ?」
前腕を掴んで、ぐっと引きおろす。首に先輩の手がかかった。
「うわ!」
ひょいと重心を移動して、先輩が脚を引っ掛けた。
「はい、受け身とって」
「だわーっ!」
バシッと床を叩いて受け身を取る。うええ、畳じゃないから手が痛てえ!
「今度はこれやろうよ。こういう投げを覚えると幅が広がるよ!」
「教室でやらないでくださいよ!」
「ごめんごめん、つい習慣で♪」
先輩が私の体を起こして、制服の埃を払ってくれた。けれどもはや確信に揺るぎはない。この人、ものすごく変だ。
「今の、払い腰っすか? 柔道っすよね」
ネコが聞く。
「柔道だと襟があるから、もうちょっと遠くから仕掛けるけどねー。体重移動を加えてアレンジした、ボクの払い腰だよ。今日やるから楽しみにしててね」
キッカ先輩は何事もなかったかのように去っていった。クラスメイトたちが、なんだあれ的な目で私たちを見つめている。高等部に入ってから、私たちの位置づけが徐々に変化した気がしてならない。体育会系に昇格? いや、これは降格ではなかろうか。
「えーと、こうやって」
その目をまるで気にもせず、ネコが私の腕を掴んだ。
「やめんか」
「げふっ」
私が手のひらの下側、肉の厚い部分でネコの顎を打った。先輩に習った掌底だ。
「ちょっと、今叩かなかった?」ひそひそ。
「ユーハとネコ、最近あぶなくない?」ひそひそ。
「あんまり見ないほうがいいよ、きっと」ひそひそ。
……どうしてくれよう。
*
試合の日は快晴。まぶたの上に日の光と一緒に大声が響いた。
「ユーハーっ 寝てっかーっ? 起きてっかーっ?」
その声じゃ寝てても起きるよ。うわ、こいつ部屋にまで入ってきた。
「起きてるくせにいつまで部屋にいんだよ! 化粧する気もねぇくせに!」
「うっさいわね! 不法侵入ではったおすわよ!」
着替えて等々力の体育館へ向かう。ネコの私服を久々に見た。相変わらず豪華な奴だ。こっちは上下灰色のモノトーンだってのに、こいつときたらブランドの広告塔みたいだ。靴はシャークスキン。赤に縁取られた硬そうなレザーの黒スカートには、呆れたことに三重にベルトを巻いてやがる。トップスは飾りの入った真っ赤なカットソー、上から純白のジャケット。バッグはアン・アプレ・ミディ・ドゥ・シャンだ。たいていの日本人は知らんだろうが、これはフランスのナイロン&レザーのブランドらしい。もちろんあたしもヨハネに入るまでは全く知らなかった。こいつをひんむいて上から下まで売っぱらったら、一年くらい生活できるんじゃないだろうか。
「はーくしょい! あーちきしょう、まだ寒ぃなあ、おい」
中身はこれだけどな。本気で女としてどうかと思う。
「にしても、ユーハがこんなに上達が早いなんて思わなかったな。楽しめてるし」
電車を降りる。渋谷で乗り換えて、等々力へ向かった。
「うーん、まあそうね。防具つけてるから思ったより痛くないし。それに一つ一つの技術が面白いっちゃそうかな。でも、結局は殴ってひねって首しめるだし……本気でやるのは怖いわよ。あんたと違って、試合だって初めてみるのよ」
「そんなもんかあ。あたし様はやっぱりすぐこんな試合に出たいなあ」
「はじめてまだ2週間じゃない」
「試合しないでなんで格闘技やるんだよ」
「ケンカとかじゃないの」
「……あたしはケンカはしないよ」
ネコが、妙に真剣な顔で言った。暴力女が何を言う。小学生のころは、男子相手にやってたくせに。
等々力で降りて公園を抜ける。会場の入り口には大きな垂れ幕がかかってた。立派なところでやるんだ。それにずいぶん客が多い。列を作って折り返し折り返し、入場した頃には手が冷たくなってた。ざわざわと人の声がひしめく中、ネコが通路の先、そのさらに先を指差した。
「見ろよ」
細い人差し指の向こうに、光が下りていた。
「あそこで戦うんだぜ」
青い四角いマットの上に、三本のロープ。チケットの席に到着する。リングからそんなに離れていない。座席に座ったところで、横から声が届いた。
「ユーハ、ネコ」
先輩たちだ。
「ちす」
ネコが軽く頭を下げた。
「どもっす」
私が言うと、先輩がプログラムを渡してくれた。
「うわ、厚い。えっ? テレビ局って書いてある。中継とかもあるんですか?」
「ケーブルかな。ネットのストリーム配信もあるよ」
朝から晩までものすごい試合数だ。もう一度周りを見渡す。高い天井。広い会場。
「おう、来たかの」
突然膝が重くなった。
「おわっ!」
スカートの上に謎物体が跳び乗ってきた。アタマを胸にあずけてくる。
なんたる不自然さ。アリなのかよこれ。ペットお断りとかじゃないのか。
「あ、シーサー君、お疲れ様」
アミ先輩が当然のように頭をなでている。ううう、納得いかねえ。誰かつっこんでくれよ。
「これで応援は全員かの」
シーサー君が私の胸に頭を預けた。意外と重いぞ、こいつ。
「なんでしれっと私に乗るのよ」
「別にいいではないか。実に居心地がよろしい」
「スカートめくったりしたら殺すわよ」
「そんな事はせんよ。ただ残念なことに、枕が少し硬いのう」
無言でアッパーを食らわせた。シーサー君が飛んでいく。
「うお、コーチが降ってきた」
さかさまになったまま、シーサー君がネコの腕に収まった。
「将来有望と言うべきか、おしとやかにせえと言うべきか」
人の胸にケチをつけておいて何をぬかすか。
*
「ご来場の皆様、大変長らくお待たせいたしました。ただいまより全日本学生総合格闘技連盟選手権大会、決勝トーナメントを開催いたします!」
アナウンスが終わるなり、爆音みたいな歓声が上がった。
「な、何?」
思わず振り返って二階席を見上げた。観客がびっしり埋まっている。その全員が総立ちだ。
「これって……」
「ユーハ! 始まるぞ!」
リングへ男の人が上がる。タキシードにマイク。大きく息を吸い込むと、天井めがけて大声を張り上げた。
「ただいまより全日本女子学生格闘技連盟選手権大会、総合格闘技部門48キロ級、準決勝第一試合を開始いたします! 青コーナー、ロシア極東大学附属高等学校3年、ロシア共和国ウラジボストーク出身、165センチメートル48キログラム、ソーフィア・ネスメヤーノハ!」
ドン、と、腹を揺るがす爆音と同時にファンファーレが響いた。
「姿を見せました! ネスメヤーノハです! 激戦の48キロ級、再び北海道ブロックを制覇した白夜の女王が、このリングに足を踏み入れます!」
通路の向こうから、姿が見えた。なんだありゃ? 鮮やかな金髪、彫りの深い顔立ち、頑強そうな腕。日本人じゃない。
「これって国際試合なんですか?」
アミ先輩に聞いた。
「いや、なんだっけ。北海道の函館だったかに、ロシアの大学の付属高校があるらしいのよ。それが学格連に入ってるとかなんだとか」
「ええ……で、強いんですか?」
「一応、去年の優勝選手だよ」
「えっ、それじゃ……」
「あ、キッカ出るよ!」
「あだっ!」
アミ先輩が、私の顔をゴキッと前に向けた。
「続きまして赤コーナー、セント・ヨハネ学院高等部2年、沖縄県那覇市出身、164センチメートル、48キログラム、国頭貴歌!」
反対側から、一礼をしてキッカ先輩が姿を見せた。階段を降りてリングに向かう。普段の練習着じゃない。白のタンクトップにトランクス、白のグローブ、その全部にSt.Johnと金色の刺繍。赤いメガネを外して髪をアップにまとめたキッカ先輩は、猛禽類みたいな目を相手に向けていた。
「っせーのお!」
アミ先輩が手を振り上げて、指を突き上げた。
「キッカ、ファイトー!」
応援に来ていた先輩たちが、一斉に右手を振り上げる。
「おおっ!」
先輩が答えて、振り上げた右腕を叩いた。歓声が会場を埋めた。
なんだこれ。
夢を見てるみたいだ。あの毎日一緒にいた人が、あんなところを歩いてる。
「さあ、期待の2年、国頭選手です! 昨年もこの準決勝でネスメヤーノハ選手と対峙、激戦の末に辛くも判定負けを喫しております。しかしこの1年、この1年が彼女をどう変えたのか。颯爽とリングに上がる彼女の表情には、かつての緊張は浮かんでおりません!」
「えっ? 去年?」
ネコがシーサー君のヒゲを握り締めながら聞いた。
「痛い痛い!」
「すげーなおい。お前、ろくに指導してないっぽいのにな!」
「お前らは全くコーチに敬意を払わんのう……」
リングの上で2人が向かい合った。レフェリーが何かを説明してる。先輩がコーナーに下がり、一度、ジャブを軽く振った。
ゴングが鳴った。
ライトの色が真っ白に変わる。
円を描きながら、2人がじりじりと近づいていった。
交差するまであと数歩。ソーフィアが深く踏み込んだ。
ぶん
と、ソーフィアのローキックが走った。
「あっ……」
喉の奥から、低い声が出た。
シンプルな蹴りだった。
ついこの間、先輩に習った動きとまったく一緒だ。手を前に出し、腰を大きくひねって足首を外側から太股にぶつける技だ。
動作だけなら難しくなかった。すぐに、私にもできると思った。
その考えが変わった。
風を切る音が、座席を揺らしたような気がした。
腰を浮かした。
ゲームとは違う。エフェクトがなくても感じる、生物の放つ荒々しい気配。
明らかにゲームとは違う。
信じられない。
ゲームよりも速い!
俊敏で鈍重で鋭利。あれがこういう舞台に立つ選手のキックなんだ。
ガツッと乾いた音が響いた。自分の足にまで、むずかゆい錯覚が走った。先輩がローキックをブロックしたんだ。先輩は受けた足をマットに戻さない。そのまま高く掲げて、ハイキックに変化させた。
ソーフィアは水色の目を見開き、スウェーバックで避けた。前髪にキッカ先輩の足先が触れ、ふわりとなびいた。
「追ってはいけませんわ! 中央で勝負しましょう!」
褐色の肌をした女性が、絶え間なく声をかけ続けている。あの人は多分、ヨハネの生徒じゃない。
「セコンド、誰なんですか?」
「あー、キッカの昔の友達だよ。沖縄で空手やってて、総合も経験あるんだって」
アミ先輩が答える。キッカ先輩は、体を引いて構え直した。
にらみ合いが続いた。相手の動きを読みあい、誘い合い、何度かぶつかり合った。
息が止まりそうだ。掌に汗が溜まっていく。
目が離せない。先輩とソーフィアから。リングの上に作られた二人の世界から。
瞬間。
「今ですわ!」
セコンドが怒鳴った。
「入るぞ!」
隣からネコも叫んだ。
思う間も無かった。
先輩はすばやくマットを踏みしめてタックルを仕掛け、足を引っ掛けてソーフィアを転倒させにかかった。ソーフィアは片膝をついたけど、先輩の肩を抱え込んでバランスを保ち、巧みに立ち上がった。腕を取って体重をあずけ、逆に浴びせ倒そうとする。けれど先輩も崩れない。瞬間、両手をさばいて組み付き半回転。払い腰だ。柔道より密着して横に巻き込む、キッカ先輩の払い腰だ。
二人が一緒に倒れた。キッカ先輩が上だ。膝をソーフィアの腹の上にすばやくねじ込んだ。
敏捷なだけじゃない。冷静なんだ。相手の意識の空白、空白を突いて、じりじりと自分に有利な展開を作っている。これが人間の動き? それもあの身近な人の?
「これは、越えるの」
シーサー君がつぶやいた。先輩は大きく胸を起こしてソーフィアの脚を手で押しつけて踊りかかった。寝技の第一はマウントを取ること、つまり、馬乗りになることだ。胴に絡めた足を振り払い、相手の腹に乗る。キッカ先輩がソーフィアの重心を殺しに行く。ソーフィアは数瞬の抵抗を見せたけれど、ついにその膝はソーフィアのみぞおちを制した。
「やった!」
ネコが息を呑んだ。ソーフィアが先輩に抱きついて転がり、逃げようと試みた。それよりも早く、先輩の両手が相手の腕に絡まった。腕関節技だ。ネコにかけたのと同じ形の。
「アームロックだ!」
「キッカ、入るよ!」
先輩たちの声援を受けて、先輩が腕をねじりあげた。
ソーフィアは両腕を組んで防ごうとしたけれど、その左腕がついに抵抗できずに回転した。
レフェリーが割って入る。
ソーフィアは仰向けのまま、両手で顔を抑えている。
先輩が立ち上がり、目を閉じて胸の前に右手で十字を切る。レフェリーが先輩の腕を掴む。それを高く持ち上げる。歓声が一際高く上がった。キッカ先輩の勝ちだ!
「すごい……!」
午前最初の試合に決着がついた。
4分20秒。
私たちの先輩は、見事な勝利をつかみとった。
*
「沖縄対北海道が決着したねー」
アミ先輩がシーサー君を抱いて言った。
「キッカ先輩は沖縄の人なんですか?」
「うん、高校でこっち来たの。それまでシーサー君の建てた道場に通ってたんだよねー」
シーサー君の頭をぽんぽんと叩きながら言った。
「アミ、お主は吾輩を赤ん坊かなんかと思っとりゃせんか?」
「……この試合って、どのくらいのレベルのものなの?」
私がシーサー君に聞いた。
「どのくらい」
「えと、全日本なんだから、国内最大? なのかなって思ったのよ」
「ああいや、この大会は東日本の選手中心でな。女子では3番目くらいじゃの。でも参加してるのは強豪校ばっかりでレベルは高いぞ」
「キッカはこの階級の女子じゃ国内でもトップクラスなんだよ。去年出た4つのトーナメントでも、2つは優勝してるからね」
アミ先輩が隣から教えてくれた。
「えーっ? それじゃ、ギャグでやってたんじゃなかったんですか?」
「ギャグとはなんじゃい」
のけぞりながら目をつぶって、シーサー君が言い返した。
「ええっ……だって、女子校だし、クラブの名前は変だし、コーチはぬいぐるみだし、てっきりなんかの冗談でやってるのかって」
「そりゃ全部当たってっけどさ、あたし様は一発でわかったぜ。キッカ先輩は強いよ。でなきゃ入らないさ。そこらへんの街のジムへ行くよ」
ネコがシーサー君を抱えて言い返した。
「キッカでなりたってるクラブではあるけどね。あたしたちじゃ全然相手にならないから、キッカはレスリングとかボクシングとかのジムにも出稽古してるんだ。あとはウチの特別な守り神にも手伝ってもらって、レベルキープしてるのさ」
「そうなんですか?」
不審な目でシーサー君を見た。けれど、アミ先輩はクスッと笑って私の耳を引き寄せた。
「うちのコーチ、転生してからはあれだけど、生前は沖縄最高の空手家だったんだよ……」
転生ってのが一番の突っ込みどころではあったし、こいつが指導しているのは見たことがないけれど……ただ、そんな話を差し引いても、キッカ先輩の実力は本物だ。
初めての試合にすっかり圧倒されていた。私の生きていた世界が、とても小さくて限られたものに思えた。三年間がんばれば、確かに強くなれるんだろう。
強く。
私の価値観の外側にあった言葉だ。私は、強くなりたいだろうか。
*
プログラムが進み、午後の試合が始まる。次が決勝戦だ。
ものすごい盛り上がり方だった。うちの生徒だけじゃない。この会場にいるたくさんの人が、先輩の名前を知っていた。さっきの休憩時間に耳を澄ましてみると、キッカ先輩の人気のすごいこと。そりゃあの強さであの美貌なら当たり前かもだけど、それ以上に驚いたのは、先輩の実力の評価だった。組み立ての巧みさ、1つ1つの技術の完成度、気迫とタフネス。どれをとっても一流で、高校生と思えないって噂だ。他の階級や男子の試合もある中、キッカ先輩の人気がこれほどなのは驚きだった。
「皆さん、お待たせいたしました! ただいまより全日本女子学生格闘技選手権大会、総合格闘技部門48キロ級、決勝戦を開始いたします! 青コーナーより、セント・ヨハネ学院、国頭貴歌選手の入場です!」
ドライアイスの白煙を踏み越えて、キッカ先輩が入場した。
ウィンクと同時に片手で投げキス。観客の声援が膨れ上がる。やっぱり場慣れしてるなあ。
「常勝ヨハネの敬虔なる闘士! 今、女子ティーン最強に最も近づいた国頭選手です! 強みは多彩な蹴りと大胆な関節技。不敵な微笑を浮かべ、落ち着いて歩を進めていますが、さあ解説の池澤さん、どうですか今年の国頭は」
「そうですね。国頭選手は昨年、高校一年で既に上位出場しているわけですが……今年の予選と準決勝戦を見ても、さらにスピードとスタミナを身に付け、厚みのある選手になったと言えるでしょうね。隙のない鍛え方をしてきたと考えられます……」
アナウンスを聞きながら、先輩を見上げた。
力強い歩調で、はっきりした視線をリングに投げている。眼鏡の奥に、この試合を楽しみにしているっていう、強い意思を感じた。
「ネコ」
「にゃう?」
「なんかさあ……実感ないのよね。カルチャーショックよ」
「かもなあ。でも、あたしはもう決めたよ。この競技が気に入ったよ。シーサー君。あたしも先輩みたいになれるかなあ?」
ネコが両腕に抱えたシーサー君へ声をかけた。
「わからんよ。おぬしの才能も根性も知らぬ。それはこれからじゃ」
「そっかあ……」
反対側からキッカ先輩の対戦相手。赤く染めた硬そうなショートカットに銀色のタンクトップ、トランクス。全体の雰囲気はなんだか静かで、パッとしないタイプだ。なんというか、影が薄いというか気配が無いというか。けれど、なぜか見覚えがあるような気がした。
ネコがパンフレットを開いた。
「一年生だ。あたしらと同じ年だぜ。四天王寺大学付属神泉高等学校だってよ。なんて読むんだこりゃ? ああいや、ふりがながついてる……みそのう・しょうこ……だな」
ネコが言った。
「ショーコ?」
パンフレットを覗き込んだ。御園生翔子と書いてあった。リングにもう一度目をうつした。細い、茶色の目が見えた。
体が震えた。胸の中の押し殺した記憶が、虫のように這い上がってきた。
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