第10話 たえまなきラッシュ

「ショーコに確実に勝つなら、寝技のほうが簡単なのは間違いないんだけどね」

 練習を終えて更衣室で着替えながら、キッカ先輩が言った。

「ネコは寝技ばっかりやってたんですよね?」

「うん。ネコは体が柔らかいしパワーもあるからね。ユーハは思い切りがよくてリーチあるから寝技より打撃なんだけど……」

「うーん……」

 スカートのホックを留めながら考えた。

 たしかに、私には打撃のほうが向いてる。自分でもそう思う。でも、ショーコは打撃の神様みたいな人だ。ネコがあの経験量であそこまでくらいつけたのは、やっぱりショーコが苦手な寝技で挑んだからだ。

「今のままじゃまずいですかねえ?」

「そういう悩みはいらんよ」

「どっから入ってきたぁ!」

 キッカ先輩がスポーツバッグをぶん投げる。私の後ろで、肉のつぶれる音が聞こえた。


      *


 外に出て、自販機からベンチへ戻る。私はアクエリアス。キッカ先輩はペプシコーラを持っていた。

「さて、念願ののぞきに成功した記念として、ボクからつつしんでプレゼントをさしあげよう。うらうら、喜んでいいよ?」

「みぎゃー、シーサー虐待反対! シーサー虐待反対!」

 サディストがチカンを木の幹にがんじがらめにして、片手で目をこじあけ、片手でコーラをぶんぶん振っていた。プルタブに指をひっかけて、ぺちぺちと音を鳴らしている。ああ、この空間に存在するまともな人間は私だけだ。

「さー開けるぞー、今開けるぞー、すぐ開けるぞー」

「飲み物を粗末にするなー!」

 私の耳に、噴水のような音と絶叫が聞こえた。


「炭酸抜きコーラはカロリー摂取に最高ってなんかのマンガで読んだけど、あれ本当かなあ」

 ベロを出して気の抜けたペプシをまずそうに飲みながら先輩が言った。

「知らないですよ、なんですかそれ」

「で、いつまでも失神してないで、話続けてよ。ボクも聞きたかったんだ。そういうの」

 ぺしぺしとキッカ先輩がシーサー君の頭をはたいた。

「こんなマネをしておいて、人にモノを頼むのか……」

 ぐるぐると目を回しながらシーサー君が言った。

「もう一個の目にもコーラを流し込むとどうなるのかな? 急に興味が出てきたなー」

 シーサー君にヘッドロックをかけながら、先輩がペプシの缶を近づけた。

「言うからやめんかあ!」

 シーサー君はひとしきりキッカ先輩を怒鳴りつけてから、ようやく話を始めた。

「2人ではだれてしまう。もう夏休みに入ったし、8月の上旬に合宿をやろう」

「合宿」

 私が言った。

「ショーコとの試合を近いうちに考えておるなら、とにかく練習量じゃ。一日中練習する日を作ったほうが良い。幅を作る時間はない。今の技術でかまわんから磨きを入れるんじゃ」

「合宿かあ。どこがいいかな?」

 キッカ先輩がコーラの缶を潰しながら聞いた。

「もちろんお前の故郷じゃよ。獅鷹流の本部じゃ」

「えっ」

「そう嫌そうな顔をするな」

「いやそのボクは文句は無いけど」 

 そう言いつつも、明らかにキッカ先輩の声には不満が混じっている。

 なんか裏があるな、これは。

「奴を嫌いな事はわかっておるよ」

「そこじゃないよ!」

 ああなるほど。苦手な人がいるわけね。

「ユーハの実力を上げるのがいかんのか」

「そんなこと言ってないよ! 言ってないけど、サラは、つまり、なんていうのかな、あいつ、あの女、頭に来るじゃないか!」

 この人もこういう態度とったりするんだ。意外。

「しょうがないのう、2人で行くか。お前は留守番でもしとれ」

 キッカ先輩が腕を組んでから、じっと下を向いて、苦々しい顔で折れた。行ってくれるは行ってくれるのか。


 *

 

 沖縄。

 ここは中学校の修学旅行で行ったきりだ。飛行機は先輩が取ってくれた。なんでもキッカ先輩の親御さんは飛行機関係の会社に勤めてて、なんちゃらかんちゃらで直前でもやけに安くていい席が取れるんだそうだ。世の中の理不尽を感じつつ、ジェットの轟音を聞いた。

 流れる雲海を眺めながら、配られたオレンジジュースに口をつけた。

 何やってるんだろうな、私は。人をたたきのめすために、こんなに多くの人を巻き込んで。ネコが負けてから、キッカ先輩やシーサー君はあたしとたくさん話すようになった。ショーコより強くなりたいっていう希望も、あっさり聞いてくれた。良心が痛む。先輩やネコのように、表舞台でショーコと戦うつもりはないから。

 でも仕方がない。強くなるために手段は選ばないって、あの日に決めたんだ。


 那覇空港についた。複雑な気持ちのまま着替えを満載した手荷物を取る。水着もトランプも入ってないキャリーカート。こんな色気のない旅行は初めてだ。せっかく来たんだから、もう少しなんか考えれば良かったかな。

 そんな気分で外へ出た。

「ん……?」

 けれど、風の音が私の耳をくすぐった時。潮の匂いが頬を撫でてきた時。それまでの暗い気持ちが消えていった。

 手をかざして空を見上げる。太陽がものすごく高いところにあるように感じた。指先に見えた点のように小さい鳥が、ひゅんと羽ばたきもせずに地面すれすれへ降りてくる。私の周りを半回転して飛び去った。見たこともない鳥だ。東京よりも種類が多い。植物も違う。大きい。いや、大きさじゃない。存在感が違う。

 暑さを感じない。

 心が解き放たれて、肩から緊張が抜けていく。一度来たはずなのに全然印象が違う。こんなに綺麗なところだったんだ。

「さて、ボコられにいきますかね」

 キッカ先輩が私の肩を叩いた。


 バスに乗って糸満市へ。

 赤瓦屋根が福木の緑と交互に並んでいる。木々の奥に獅鷹流の本部道場が見えた。  

 ものすごい建物だ。敷地の周囲は台風から守るための濃密な林。2本の大木に挟まれた石畳を踏み、その奥には母屋、離れ、籾倉の三棟の御殿が待ち構えている。

「ずいぶん立派だね」

「吾輩が仲間と作った時は掘っ立て小屋みたいじゃったがのう。弟子たちが大きくしてくれたんじゃよ。今では伝統の空手、キックボクシング、総合の全部のクラスがある。さて、館長の娘がそろそろ来るはずじゃ」

 キッカ先輩がふいっと目をそらした。その館長の娘となんかあるのかな。

 木漏れ日の落ちる石段の上を見上げたとき、誰かの足が見えた。

 視線をさらに上にうつす。南中した太陽を背に、その人は立っていた。

「ハイ」

 透明な声が、私の耳に届いた。

 健康そうな小麦色の肌。亜麻色のセミロングカット。切れ長の目の中には、髪と同じ色の瞳。白い上品なサマージャケットに同じく白のフレアスカート。白い日傘。きれいに磨かれた真っ黒な革靴。映画みたいな登場シーンだ。

「神楽坂優葉さんかしら?」

「あ、はい、えと、その、神楽坂です」

 舌をかみながら答えた。

首藤更紗すどう さらさですわ」

 日傘をたたみながら彼女が答えた。

「さらささん?」

「ええ、サラって呼んでくださるかしら。ようこそ沖縄へ」

 傘を置くと、たおやかな笑顔で手を出してきた。握手。涼しげな容姿からは想像できなかったけれど、体温は高く、握力を感じた。

「は、はあ、どうも」

 強烈な存在感に圧倒されながら手を離した。その後ろから、先輩の声。

「はろー♪ 久しぶりだね。この前はセコンドありがと」

 キッカ先輩が少女に手を振ってる。セコンド? ああ、そうか。そういえばキッカ先輩の出てた大会で見たような気がする。私が病院にいたときも、キッカ先輩のそばにいたような……でもじゃあ、仲いいんじゃないのか?

 先輩を見た。ニコニコと表面的な笑顔を作っている。いつもの先輩だ。いつもの先輩だということは、つまりろくでもないことを考えているということだ。

「あら、キッカさんお久しぶりですわね。またお会いできて光栄ですこと。感激で泣きそうですわ」

 バチッと火花の音が聞こえた……ような気がした。キッカ先輩が一歩、サラさんに近づく。と、キッカ先輩がいきなり大きく手を振った。サラさんもほとんど同時に踏み込んだ。続いて何かがパチンパチンとはねる音。

「相変わらずマイペースだね。ボクの後輩は強いんだけど、キミで大丈夫かなあ。ボク心配しちゃうな♪」

 キッカ先輩がひらりと手を差し出した。ジャケットからカフスを一つねじきっている。私の目でなけりゃ見えないくらいの素早さだ。あいかわらず役者なことを。

 と、視線をサラさんに移すと、サラさんも先輩にほほえみ返していた。

「人のことあれこれ言う前に、身支度くらいきちんとしてきて欲しいですわね。お暑いからって、少々はしたないですわよ」

 サラさんが手を開く。あっ、と、心の中で驚いた。ボタンが握られていた。ぎょっとしてキッカ先輩が胸元を見ると、ワイシャツの襟がはだけ、薄いピンクのフロントまで開いてる。見事なセクシーショット。先輩のほうに気を取られてこっちまは見えなかった。俊敏なのもすごいけど、なんて器用な。

「げっ、こんにゃろ!」

 キッカ先輩がカフスをサラさんの額に命中させ、あわてて胸を隠した。同族嫌悪だな。間違いない。

「痛いですわねえ。わたくしのボタン投げないでくださる? こんなところをあのお方に見られなくて良かったですわね。あら? そういえばいらっしゃらないのかしら、あのドスケベ」

「誰のことじゃ?」

 いつの間にか、サラさんのスカートの真下にシーサー君がいた。寝っ転がってパンツの観賞中だ。どこにいてもぶれないな、こいつ。

「なあっ!」

 電光石火。サラさんの足払いがシーサー君を浮かせた。チョップ一閃、下に叩き落としながら膝蹴りで挟む。フワリと浮いたところにボレーシュートみたいな回し蹴りが突っ込み、ぬいぐるみがはるかかなたにすっ飛んだ。腰を落とした残心が見事。まあ、よくスカートでそれをやる気になるなとは思うけど……

「まったく、いやらしい」 

 顔を赤くしながらサラさんが片手でスカートを払った。

「もっと練習相手を選ぶべきであったかのう」

 バカでかいタンコブを作って狛犬が戻ってきた。

「あんたの性格と行動に問題があんのよ」

 

 *


「5分ですわね」

「うあああ……」

 次の日の夕方。私はがっくりと地面に膝をついた。目の前には空手着に黒帯を締めたサラさんの姿。

 朝から何度これを繰り返したか……早朝にランニングと補強。午前に乱捕り。午後に技の研究。それから夕方にまた乱捕り。空手道場の門下生とも一緒に稽古して、それと別にキッカ先輩とサラさんと練習。今はアタイと呼ばれる沖縄の中庭。土の上で取っ組み合っている。

 サラさんは高校入学前から、いち早く総合の世界に入って獅鷹流を生かせるよう研究してきている。その技術は海外のレスラーやボクサーとの戦いで練り上げられた知性の結晶だ。ロングリーチを生かして一方的に圧倒し、近づいたら膝蹴りと肘打ちから素早く四つに組み、引き込んで投げ、絡みつくように寝技へ移行。

 なんとしてもこれを覚えたい。けど、この体力の使い方はどう考えてもおかしい。深呼吸をしてもまるで体力が戻ってこない。いつかこの練習量も平気になるんじゃないかと思ってたけど、それは幻想だった。つらいものはつらい。

「さ、立って!」

 キッカ先輩の拍手が耳を揺さぶる。タオルで口を拭い、ずぶ濡れのシャツを替えた。立つか倒れるか以外になにもない。これはサバイバルだ。

「寝技も入れて結構ですわ」

「いいよ。じゃ、再開!」 

 キッカ先輩が両手をたたいた。サラさんの右手が降り出された。カウンターを取ったけれど、サラさんはびくともしない。私の右手をつかむと、首を取って投げられた。警戒していたのに。寝技に入って、あっさり締めを取られる。30秒で決着だ。

「うっそ……」

「サラの一発目は腰を入れてないよ! 組むために打ってるんだからよく見て!」

 そういう事か。だんだん高度になってきたな。読みあいは好きだけど、このレベルは高い。

「朝からやっとるから惰性になっとるぞ。少し休むか」

「くーっ……」

 胡坐をかいて土塀を背に。青空を見上げたら、汗が目に入ってきた。いてえ。

「思ったより悪くないですわね。いえ、想像していたより良いくらいですわ。スタミナはあるし読みも深い。組み手が楽しいですわ」

 サラさんが右隣に座った。

「でもまだ気持ちが萎える時がありますわね。それでは敵に勝てませんわよ」

 この言葉を何度聞いたか。『それでは敵に勝てません』が口癖らしい。さすがキッカ先輩の友達だよ。

 緑色に輝く沖縄の海が、はるか彼方で空にぶつかっている。苦しい。心臓が早鐘みたいに全身をたたいている。それでもこの自然の中にいると、いくらかでも力の回復が早いような気がする。空手の生まれた大地。一生を武術に捧げた人たちの郷里。あたしは成長している。前に進んでいる。前に進んでもまだ痛い。でも、痛くなくなるはずだ。きっと、いつか。

「ボクも去年ここまでできなかったよ。短い時間であっというまに伸びたんだ」

 左隣のキッカ先輩が、私を挟んでサラさんに言った。

 タオルで汗を拭きおわったころに、ようやくしゃべる気力が取り戻せた。

「キッカ先輩って、中学の時はここで空手やってたんですか?」

「うん。ボクの中学は豊見城でサラは糸満なんだけど、ボクの母はスポーツインストラクターで、柔術しててさ。毎日放課後にサラのお父さんの空手道場、夜は柔術さ」

「すごいな……」

「中学の時にわたくしも柔術を始めましたの。それ以来、キッカとは不仲ですわ」

「そういうことだね」

 二人に挟まれて苦笑した。素直じゃない人たちだね……

「でもどうしてそんな事?」

 キッカ先輩が左から言ってくる。

「え? ああいや、キッカ先輩が、いつ強くなったのかなって」

「ん……小学校のころは遊びの延長だったよ。中学校の時、どうしても勝ちたいライバルができて、それからかなあ」

「それって」

 私がサラさんへ目を向けようとしたら、すぐにキッカ先輩が肩をたたいた。

「さ、続けよう」

 キッカ先輩が立ち上がった。

 話切られたか。まあしょうがないな。今はそういう時じゃないし。

 ストップウォッチの電子音。と、同時に激烈なストレートを食らった。どんなに和んだあとでも、キッカ先輩は組手に入ると別人になる。続いて先輩のローキックが足に命中した。機械で計測した先輩の蹴りは、3メートルから落としたコンクリートブロックと同じ威力だ。直撃を食らうと痛いなんてもんじゃない。朝からのダメージで足はガタガタだ。

「また足が動いていませんわ! それでは敵につけこまれます! フットワークで打撃を外して、フェイントでもいいから蹴りの動作を混ぜて!」

 わめきやがって、ちきしょうめ。敵ってなんだよ。いいさ、やったる、ステップで外して蹴りながら強打で詰めればいいんだろ! そんくらい、私だって!

 ローキックを出して、引きながらキッカ先輩のフックを誘う。来た。このタイミングで!

「うげっ?」

 反撃が外れる。体のバランスが崩れた。

「惜しいねえ、新人クン♪」

 カウンターが命中する前に、先輩の膝がみぞおちに直撃していた。フェイントは自分だけの特権じゃない。相手だって同じことを考えるんだ。フックで誘ってヒザが来るくらい、警戒してて当たり前だったのに。

「ぐぐぐぐ……」

 うずくまった。ぞっとするような冷たい笑顔で、先輩が私を見下ろしている。くーっ、苦しい。これは立てない。

「息を吸おうとしたところで打たれましたわね。ちょうど時間ですし、夕方の練習はここまでにしましょう」

「にゃろぉ……」

 顔を上げて、キッカ先輩を見上げる。

「ま、ボクのカラダはそんなに安くないってことさ」

 頭をなでられた。一回ダウンさせてから容赦ないな、この人。

  

 休んでから食堂に引きずり込まれた。ひづめと鳴き声以外は全部食べるという沖縄の豚料理が並んでいる。筋肉やら内臓やらはもちろん、足やらなにやらどこやらかしこやら。ヒージャーとかいう山羊の料理も出てきた。一緒の皿にはキャベツにニンジン、ゴーヤーにパパイヤが乗っている。普段なら食べ慣れなくてどうとか言いそうだけど、今は食べなきゃ死ぬ。肉を食った。野菜も食った。大量のご飯もかきこんだ。たしかにうまい、しかし、吐きそうだ……

「デザートはシークァーサーのシャーベットですわ」

「は、はんぶんでいいです……」

 冷たい、酸っぱい、美味しい、でもあの世が見える。これが沖縄のニライカナイとかいう理想郷か。なんで先輩たちは2個も3個も食べてるんだ。こいつらおかしい。沖縄は日本じゃない。事実100年前は日本じゃなかったし。

 食休みが済んだら、今度はお風呂の時間と言われた。全身あざだらけで入りたくないというか、そもそも動きたくないんだけど、この汗を流さないわけにはいかない。なんかもう行動が自律的じゃなくて囚人みたいだ。洗面器に着替えとシャンプーを入れて露天風呂へ向かった。

 この道場には贅沢にも温泉がくっついてる。《効用: 打ち身・すり傷・筋肉痛・骨折》。適切な用意をありがとうございます。でも骨折はしてないし、したくないなあ。

 と、隣を見ると。

「あれ、なんでナイフなんか持ってるんですか」

 サラさんはなぜか、ディナーで使ったナイフをタオルの上に置いていた。装飾の入った高そうなやつだ。

「わたくしだけじゃありませんことよ」

 サラさんが隣を指さす。ふと見ると、お風呂のドアをガラッと開けるキッカ先輩の手には、フォークが握られていた。

「何やってんですか。泥棒ですよそれ」

「まさかまさか。返すよ。最終的にはね」

「なんですかそれ?」

 と、重ねて聞いた直後に。

「さて、ついに至福の時が」

 げっ?

「来ましたわね」

「あらよっと」

 先輩たちのナイフとフォークが、湯煙の中へ消えていった。派手な悲鳴が夕焼け空に響く。

「本気で殺す気かぁ! 誰か、誰かこの食器を抜けえ!」

「おわかり?」

「納得」

「ギリシャ神話に乙女の裸を見ると不幸になるとかあるよね。あれは真実だよ」

 セクハラって耐えられるようになるんだなあ。

  

  *

  

 次の日も、その次の日も一日中特訓だった。合宿に行くと強くなるっていうのは迷信じゃないなと思った。反復練習の回数が違う。知らない技、食らった技、かかりそうでかからなかった技。それを身に着けるための時間がいくらでも作れた。

 そして4日目。ここで一日、休みを入れるようにシーサー君から言われた。下心は無いのかって聞いたら怒られた。

「なんかこう不安になりますね。今までが今までだったから、休むのが怖いですよ」

 大部屋の布団に寝ころびながら、私がつぶやいた。

「この休憩は、それを乗り越えるのも目的ですのよ」

 パジャマ姿のサラさんが、枕を抱いて答えた。

「どういうことですか?」

「休むことの恐怖は、ユーハちゃんだけじゃなくて誰でも持つんだよ。特に女子の場合、休息にネガティブな気持ちを持ちがちなんだ。なんか悪いことをしてるみたいに思っちゃうんだよね。だからそういう時こそ休むんだ。わざとらしいくらい、あからさまにね」

 グレーのスエットでストレッチをしながら、キッカ先輩が言った。

「気持ちが乗っているときほど、休むべきですわ。そうすることで負傷や疲労が回復を上回らないようにいたしますの。一生懸命努力しても、敵に負けてはしょうがないですものね」

「ははぁ……」

 いろんな知識があるんだなあ。まとまった時間スポーツやったことがなかったから、そんな事全然知らなかった。道場の天井を見ながら、深く息をついた。ネコがショーコに倒されてから、ずいぶん経ったような気がする。まだ、あれから1カ月にもならないのに。

 いろんなことを身に着けた。戦うための力。技。知恵。それもこれも、ショーコともう一度会うためだ。私は、もう一度、あの子と話し合えるんだろうか……

 日が窓から差し込んでくる。夏の、日差しが……


 4度寝のあたりで、うっすらと目を開けた。なんか頭にもやがかかったみたいだ。先輩たちはいない。走りにでも行ったんだろうか。シーサー君もいない。これ以上寝たらかえって疲れそうだし、シャワー浴びよう。

 と、布団に手をつこうとしたとき。

「よぉ」

 と突然、頭の上から声が聞こえた。聞き覚えのある、いや、聞きすぎて鬱陶しい声だ。

「なに死にかけてんだよ。お前らしくないことしてんなぁ」

「ネコ?」

 起き上がって、頬に手を当てた。

 片目を閉じて、ネコがぱっと顔を引っ込める。

「おいおい、どうしたんだよ」

「あんた安静にしてなきゃならないんじゃないの? なんでここにいんの? いつ来たの? 誰と来たの?」

 私がまくしたてる。にっこりとネコが笑って、私の髪を撫でた。

「髪を切ったんだな。よく似合うぜ」

「平気なの? 元気なの? 本当に?」

「ああ、もちろんさ。だから、そんな無理してんじゃねえよ……」

 何も答えなかった。腕をつかんで、ネコの体をぐっと引き寄せた。

 もういいんだ。

 もうつらい思いをしなくてもいいんだ。

 私は、これで……

 ぼろっと涙を流しながら、ネコの体を抱きしめようとした。

  

 するりと、ネコの体が両腕をすり抜けた。

 世界が急に暗転する。

 見下ろすと、白目をむいたネコが床に倒れている。

 自分の心臓の音が、どくりと響いた。


「ユーハさん?」

「……えっ」

 体を起こす。背中に何かの感触。サラさんの腕だ。

「うなされてたよ。大丈夫かな?」

 キッカ先輩が聞いてきた。

 タオルで私の頬を拭う。

「すごい寝汗ですわ……」

「うわ、ひどいな。すいません、シャワー浴びてきます」

「うん。本気で具合悪くなったら言ってね。お医者さんは離れてるから早めに呼ぶよ」

「大丈夫です、病気とかじゃないですよ」

 パジャマのまま、浴場へ向かった。お湯を浴びながら、ネコの顔を頭から振り払う。

「くそー、もろいなあ」

 さっきの夢を思い返して、一人で赤くなった。

 休みをもらって、ぷっつり集中が途切れちゃったのか。危ないな。このテンションの下がりっぷりじゃ先がない。

 1度、2度の決意じゃダメなんだ。何回も自分を奮い立たせて、それで初めて本当のアスリートなんだ。付き合う人も、使う時間も、居る場所も変えたのに、それでも弱い心が私を突き落としに来る。先輩たちもネコもショーコもよくできるよ、こんな事。


 シャワーから上がったら、シーサー君が部屋にいた。キッカ先輩とサラさんも布団の上で、三人で何かを見つめている。楽器だ。

「三味線ですか? なんでまた?」

 あたしがネグリジェを緩めながら布団の上に転がった。キッカ先輩が楽器を持ち上げる。

「ユーハの気分転換になるかなと思って。沖縄じゃ三線って言うんだけどね」

「しかし、キッカは弾けたかの?」

「えーと、久々に弾いてみようとしたけど無理だった。親戚に習ったんだけどね」

「誰か弾けるんですか?」

「サラの三線は聞けるがのう」

「おだてられても何もでませんわよ。たいしたものじゃないですわ」

 先輩がサラさんに楽器を渡したけれど、自分も場違いという顔をしていた。まあ格闘家なんだし、そうだろうな。

「別にプロ級じゃなくていいよ。久々に聞いてあげるから弾いてみてよ」

「そんな言われ方じゃ気が進みませんわねえ」

 言いながらサラさんがバチを取る。キッカ先輩も小さな太鼓を手に取った。

 私の気分転換にしても、なんでこんな古くさいものを。

「曲はどんなのを?」

 私が聞いた。

「みんな知ってそうなのでしたら……唐船ドーイならできますわよ」

「知りません」

 聞いたこともない。なんだそれは。

「そりゃそうだろうね。沖縄の音楽の教科書には絶対あるけど。まあどこかで聞いたことはあると思うよ。サラ、やってよ。ボクが歌うよ」

「まあ、そこまでおっしゃるなら」

 言うと、サラさんが弦楽器を鳴らし、キッカ先輩が歌い始めた。


 唐船ドーイ サンテーマン

 いっさん走えー ならんしやユイヤナ

 若狭町村のサァ 瀬名波のタンメ

 ハイヤセンスルユイヤナ

 

「全く意味がわかりません」

「中国から船が来てうれしいなという歌じゃ。こいつらも琉球語はほとんど知らんのだろうがの。歌詞は覚えているのじゃろう」

 初めて聞くキッカ先輩の琉球語は、なんだかひょうきんで面白かった。サラさんも楽しそうだ。それまでの気分も和らいでいった。


 音響まりる 大村御殿ぬシンダン木 ユイヤナ

 那覇に響まりる 久茂地ぬホーイガジマル木


 遊びかいやしが 手拭まに置ちえーがユイヤナ

 中前入り口にサー 掛きてぃうちぇさ


 居ちょてぃ小急裸なてぃちぶい ユイヤナ  

 那覇にうちんかてぃ 首里に上る


 だんだん速くなるサラさんの三線とキッカ先輩の歌。初めて見る沖縄の日常だ。

 私は今沖縄にいるんだな。中学校の修学旅行とは違う。あの時見たのは観光地の沖縄。今見ているのは、そこで生きている人たちの沖縄だ。空手発祥の地。海と木々と、輝く太陽の国。布団の上で転がりながら、私は先輩たちの演奏を聞き続けた。

 目的のために、やることがあるから来た場所だった。成果さえ上がればいいと思っていた。でも、それだけじゃない。ここに来て良かった。辛いだけじゃない。今まで知らなかった楽しさがある。

 次はきっと。次はきっと、ネコと一緒に来よう。


 演奏が終わり、先輩たちが三線と鼓を置いた。

「お見事。懐かしいなー。また沖縄に住みたくなっちゃったよ」

「結構いけましたわね。でも戻ってこなくて結構ですわ」

「だよね。本当はキミの顔なんか二度と見たくないし」

「表に出ませんこと?」

「1人で行ってきたら?」

 寝室が寝技の練習場になった。

「前からこうなの?」

「泣くまでやらんだけ成長したかのう」

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