はじめてのさつじん

 森の奥深くに迷い込んだ男が、水辺で裸の妖女と出会い、その淫靡な美しさに心を奪われる。

 そういう異聞奇譚の類は枚挙にいとまがない。

 が、少なくとも今のこの女が纏う雰囲気に妖艶さは皆無であった。

 

 この女――そう、英雄級の逃走者

 クレマンティーヌその人である。


 女は川べりの大きな岩の上に素っ裸で座り、力なく項垂うなだれていた。

 濁った瞳は川面の煌きを映してさえなお暗い。肌を伝う銀の滴も艶めかしさより陰鬱さを強く醸し出している。

 だらりと右手に持った一本のスティレットはぶらぶら揺らされて尖端が水面を擦っていた。


(まるで違う世界に居るようだ……)

 ここ最近で自分に起こった事の目まぐるしさと環境の激変に、世界の異化を錯覚する。照らす陽光も吸うべき空気も馴染んだものとは別種であるかのようだ。


(ズーラーノーン……追って来てるだろうか)

 高弟の脱走は前代未聞の不祥事であり、盟主の怒りは相当なものだろう。だが、宝を奪った法国の場合と違って、貴重な物を持ち出した訳ではない。強いて言うなら幹部であったために知った諸々の機密情報ぐらいだ。とはいえ、それだけでも十分殺害対象なのだが。


「自由になりたかった……」

 囁きは水音にかき消され、自身の耳にも届かなかった。


 クインティアの片割れ。クレマンティーヌは幼いころからそう呼ばれていた。

 才気に溢れ、敬虔な信仰を持ち、人々の信頼厚い兄。一方、魔法の資質が乏しく、扱いづらい性格のクレマンティーヌは同僚や神官長達にも疎ましがられていた。

 歴史にその名を刻む程の大魔法詠唱者マジック・キャスター。そんな輝く光の中を進む兄が落とす影の中にずっと閉じ込められていたのだ。


「うんざりだった。何もかも。だから自由に……」

 信仰心の薄いクレマンティーヌにとって法国の理念など、どうでもよかった。

 すべてに嫌気が差してある日とうとう国を捨てた。至宝を盗んだのも自分を軽んじてきた国への意趣返しのつもりだった。


「だけどもう……自由にはなれない……」

 このまま南下し、アベリオン丘陵の回廊を西に抜けてローブル聖王国へとたどり着けさえすれば追っ手からは逃れられるだろう。

 だが最早、眠ることそのものに怯えるほどのあの悪夢と、今もなお皮膜の様に精神こころを覆って蝕み続けるこの恐怖からは、決して逃れることなどできないのだ。

 

 為す術がない完全な絶望を前に、女はただ茫然とするしかなかった。



 

 川のそばの木に引っ掛けて乾かしていた服を降ろしている時に、下ばきの腰のあたりから何かがはみ出してるのに気づいた。

「あ……」

 それはカッパーのプレート。クレマンティーヌが初めて殺した人間の物であり、初めて獲得した狩猟戦利品ハンティング・トロフィー

 験担ぎにと、埋め込むように貼り付けていたのだ。


 剥ぎ取るようにしてプレートを取り出し裏返す。そこには見覚えのある特徴的な十字の傷があった。


 クレマンティーヌは微動だにせずプレートを見つめ続ける。時が止まったように感じられ、脳裏にはプレート本来の主の最期が再生される。

 


 ――女の駆け出し冒険者。自分と同じ短めの金髪。恐怖に顔を歪ませている。

「やめて。助けてお願い」


 ――スティレットが刺さるたびに悲鳴を上げる。

「なんでもするから命だけは」

 

 ――目を。足を。肩を。掌を。穴だらけになって血まみれになって。

「……」


 ――やがて何も反応しなくなった。




 

「あは……あははは……」

 クレマンティーヌは地面にへたり込んで乾いた笑いを漏らす。 

 

 弱者を好きになぶれる強者の特権。クレマンティーヌは今まで散々それを行使してきた。

 そして今度は行使された。

 相手が圧倒的に強い存在だったから。自分が弱者だったから。

 ただそれだけの事だった。

 

 世界は、その理は全く変わってなどいなかったのだ。


「こんなっ! っ!」

 川の方に投げ捨てようとプレートを握る手を掲げ――

 ――そのままゆっくりと落ちるように下す。


 どうしても捨てることができない。

 それは過去の自分への忸怩からか。それとも僅かに残った矜持からか。

 クレマンティーヌ自身にも分からなかった。


「ぐっ……うううっうああああぁああっ」

 今度はもう込み上げる嗚咽を堪えることはしなかった。

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