森のクレマンさん

 

 薄暗い森の中を女が一人、憔悴しきった顔で歩いていた。


 元、スレイン法国漆黒聖典第九席次、且つ

 元、秘密結社ズーラーノーン十二高弟の一人であり

 現、英雄級の放浪者


 クレマンティーヌその人である。

 

 虚ろんだ目の下に深い隈を作り、背を丸めてフラフラ揺れながら森を行く姿は、老猫の歩みを思わせた。

 時折立ち止まっては倒れそうになり、はっとして姿勢を正してまた歩き出し、

ふたたび立ち止まっては倒れそうになり……といった妙な仕草を繰り返している。


(眠い……)

 

 それもそのはず。もう丸二日間歩き通しなのだ。

 なぜここまで強行軍で進むのかというと、理由は二つ。


 まず、追っ手を撒かなければならない、というのが一つ目。

 今や法国とズーラーノーンの両者から追われる身である。

 そのため街道を歩いて目立つ訳にもいかず、こんな道なき道を彷徨い行く羽目になっているのだ。

 追跡者がどれだけ高度な追跡能力を持っていたとしても、クレマンティーヌにできるのはとにかく距離を稼ぐことだけ。さらにはその能力次第では、夜の森のような暗黒の世界であっても発見される恐れがある。休んでいる訳にはいかない。


 そして、二つ目の理由は……



(けれど眠るのが……あの悪夢を見るのが怖い……)



 ……という訳である。


 三日目の夕刻、流石に限界を覚えたクレマンティーヌは身を休める場所を探し始めた。

 ほどなくして木々の開けた場所に出る。広場の中央には巨木が斜めに真っ二つになっており、その幹の傍らには折れた上の部分が転がっていた。


(雷が落ちたんだな……他の木より無駄に高くて立派だったから……)


 どこか自分と相通じるものを感じ、木の表皮を撫でた。


 社会病質者ソシオパスであるクレマンティーヌは普段、他者に共感することなど殆どない。ましてや植物であれば尚更だ。彼女を知る者が今の行動を見れば驚いただろう。

 

 裏側に回ると幹が裂けて樹洞になっているのを見つける。

 水袋の最後の一口を飲み切ると、中に何も住み着いていない事を確認してから入って、身を横たえた。








「――お前はただ死ぬのではない」


 やめて。助けて。


「――自らの迂闊さ、傲慢さに――」


 何でもするから。お願い。


「――押し潰されて死ぬのだ」


 殺さないで。死にたくない。

 

 ――そして背骨が砕かれ――


 痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。


 ――熱の塊が口を飛び出す――


 苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。


 ――骨の眼孔の奥底にあるくらい灯が此方を見つめる――


 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。

 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。






―――――




「ひいいっあぁっ!」

 

 響く自分の悲鳴。

 背骨の幻痛。胸を焦がす胃液の逆流。


「うっ……はぁっ……はぁっ」


 三度みたび訪れた夢中の死。

 だが、目覚めた後もその恐怖の余燼は尚もくすぶり続ける事を女は知っていた。

 

 自分が寝ている場所に一瞬戸惑い身を起こすも、すぐにここが巨木のうろである事を思い出して力を抜き寝そべる。

 

(今回は吐かなかったな……吐けるだけ口にしてないからか……そういえばあの部屋、吐き散らかしたまんまで来ちゃった……)

 震える体を抱きながら、そんな取り留めもない事を考える。止まない恐怖を必死で紛らせるように。


 ふと、股間の辺りに生ぬるい不快感を覚え、手をやる。

 

「あ……やだ……」

 

 濡れた手はアンモニアの匂いがした。

 眠っている間に失禁してしまっていたのだ。


「ち、ちくしょう……ちくしょう……」

 情けなくて涙が滲んだ。

 力を込めて嗚咽を殺しながら、胎児の様に体を丸めて震え続ける。


 

不敵さを笑みにして獲物を狙う狡猾な山猫はもう居ない。

そこには自分を取り巻く恐怖に怯える濡れそぼった捨て猫の姿があるだけだった。


 

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