的外れなレビューでもいい。
好意的な声であっても、内容が的外れだったりする事がある。
そうした点を遠慮して、レビューを控えようとしてしまうのは損である。
と私は考える。
重要なのは「自分が感動したポイント」を正直に伝える事なのだ。
もちろん、作者が作品を通じて表現したかった事、伝えたかった事を寸分違わず理解し、受け取る読者もいるだろう。
作者にとって、これほど嬉しい存在は無い。
しかし、読者としてそのような優等生であるべき必要はまったく無い。
実に極端な話をしてしまうと、読者の目的は「面白い作品を読むこと」あるいは「作品を通じて感動する事」であって、期待通りの声を出して作者をもてはやす事ではない。
作者の文章にある持ち味を評価することはあっても、評価によって作者自身をおだて上げる事はそもそもの目的とは離れたものであるし、的外れな評価によって作者を傷つけてしまうのでは……といった懸念は、読者の驕りでさえあると私は考える。
創作は「作者の表現」であり、主張なのである。
主張には当然、対話が生じてくる。
(ここにおける「対話」とは、作者の作品に対して読者がどのように感じ取ったか。それを作者がどう受け取ったか。といったものである)
対話にあって、認識の食い違いや心のすれ違いが生じる事は実によくある。
そうした事で、傷つくことだってある。
しかしながら、お互いのズレを通じることで、成長していく側面もあるのだ。
そして、的外れであっても読者が「そのように感じた」事は紛れもない事実なのだ。
的外れな評価をどのように受け取るかは作者自身が答えを出すべきであって、我々が踏み込むべき領域ではない。
多少、意地の悪い言い方をすれば。
相手を傷つけてしまったことで、自分自身が罪悪感を感じてしまう事を恐れてしまうのであれば。
相手の為にといいながら、つまるところ
声をかける事はそもそも労力を使う事であるし、労力には時として疲れも、痛みも生じる。
そこまで重く考える必要は無いし、無責任であってよいと私は考えているけれど、そうした面も、確かにある。
悪意ある曲解でないのならば、正直な的外れは大いにあってよいのである。
思いがけない評価が今後の成長に続いていく事だってあるし、遠慮せずに声を出すべきだと私は思う。
どうしても気になるのであれば「的外れだったらごめんなさい」と添えればよいだけなのだ。
曲解といえば、私自身も実に的外れなレビューを行ったことを思い返す。
「オレオ」である。
作者が何を思い、あの文章を投稿したのか、今でもさっぱりわからない。
しかし、当時の状況と、状態を見た時、私は確かに心を動かされたのだ。
あの時、あえて大幅に曲解して、悪ふざけに乗じた事を私は後悔していないし、反省もしていない。
おいおい……と思いながらも、面白いと感じてしまったことに、偽りは無かったのだから。
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