深い青空の見上げかた⑥

「それじゃあ、行ってきます」

 朱音は玄関のドアを後ろ手に、ふっと“そこ”を見つめる。

 視線の先には、一本の日本酒とわざわざ買ってきた棚から溢れんばかりに積み重ねられたファンレターの山。どれもファンからもらった大切なもの。絶対に裏切らないと心に誓った、自分の大切な人たち。

 これから向かう同人誌即売会。アニメが散々な出来であることはなんとなく察せられて、きっと多くの人の期待を裏切ってしまった。だから、せめて、紅坂朱音の名前を冠しているものだけは全ての仲間を裏切らないように。

 こうして自分が同人誌を配布して、並んでそれ目当てで来てくれる仲間の期待に応える勇気を、もらえるように。

「絶対、大丈夫だから」

 その言葉は、一体誰に向けてのものなのか。その大切なものをくれた、ファンに対してのものなのか、そのファンを裏切ってしまうことを過度に恐れている自分を奮い立てるものなのか。


『これより第○回、コミックリアリティを開催いたします』

 館内アナウンスと共に、会場内が温かな拍手に包まれる。朱音は同人誌即売会のこういう雰囲気が好きだった。こういうのはある種、お約束に分類されるものであるけれど、知らない人からすればおままごとみたいなものなのかもしれないけど、温かな雰囲気が家族と共にいるような安心感を与えてくれる。

 整然とした流れが会場内に押しかけて、宝の山に向けて分散していく。

 その人々の目は輝きに満ちていたり、殺気に満ちていたり、血走ったような興奮したような、とにかく誰ひとりとしてまともな表情をしていない。

 そもそもあんな薄い本に500円を出すのは一般的に見れば、やっぱり普通ではないのだろう。けど、そういう普通ではない感覚が言ってしまえばいい意味での家族感を出している。

 開場前の近隣のサークルだったり、運営スタッフの同情というか、腫れ物に触るような距離感がかなりむずがゆい。なんというか、アニメ化大変ですねーのような触れてはいけないもの。朱音だって、外から見ればどう声をかければいいのかまるっきりわからない。

 そんな風に物思いに耽っていると、早速、参加者が朱音の目の前に来ていた。その人は、何度も熱い語りをしてくれて、いつも一番最初に来てくれる、朱音にとっても大事な、大事な、仲間。

「いつも、ありがと」

「――失望しました」

 直後、ドサドサと雪崩のように同人誌が机の上に撒き散らされていく。どれもこれも、見たことがある。いや、見間違いようのない、“紅坂朱音”の同人誌なのだから。

「え……」

 目の前に広がる子供たちが信じられない扱いをされている。

「あなたが、あんないい加減な仕事をするとは、思いませんでした」

 ――そこからのことを、朱音は、覚えていない。


「あははははははははははははははははははははははははははははははははは~、あははははははははははははははははははっ!!!!!」

 朱音は黒で塗りつぶされ、亀裂の入った画面を前にして、哄笑を上げていた。

「なるほどっ! なるほどなるほど、こりゃキレてもしゃーないはなぁ!」

 自分のしてきた仕事に自信を持っていた朱音は、とりあえず、アニメを見ることにした。しでかしてしまったことには、そこしか心当たりがなかったから。

 脚本:紅坂朱音

 もちろん、朱音は脚本など書いていないし、それどころか監修はおろか一行たりとも見てはいない。

 だけど、そんな事情は視聴者にとっては何の意味もない。アニメを見れば、紅坂朱音がこのクソ脚本を書いたことになるのだし、コアなファンからすれば『五反田の枢機卿』を見限り、適当な脚本でお茶を濁して新しい作品に鞍替え……そんなゲスな意図しか見えない。

 ここまでコケにされると、もはや怒りを通り越した何かが湧き上がってくる。

「あ~世の中腐ってんなあ」

 間違っている。世の中間違っていないか? アニメは、漫画は、誰かを楽しませるためのものだろう? それなのに、誰も幸せにならないアニメを垂れ流す意義がどこにあるのだろうか。誰も幸せにできないなら、潔く腹を切って死ね。

「あははははははははははははははははははははははははは~」

 朱音は相変わらず、ネジが外れたかのような笑い声をあげる。すると、ピンポーンと、場違いな音が部屋に響く。緩慢な動きで振り返ると、朝見送ったファンからもらった日本酒と、手紙の山が目に入る。

「…………ったく、誰だよ。せっかくいい気分だったのによ」

 そのまま日本酒の瓶を開け、一気に煽る。喉の焼けるような痛み。胃にズシンとくるような液体がやけに心地よかった。

「はいはい」

 一升瓶を片手に朱音はドアを開ける。そこにいたのは――

「……朱音、あんた」

「ああ、千歳か。――そうだな、千歳。ちょいと頼みがあるんだが」

 彼女と同じ早応大漫研部員竹下千歳は、獰猛な笑みを浮かべながら一升瓶をラッパ飲みする同級生に若干の薄ら寒さを感じながら、どこからか湧き上がる熱い何かに面白いことが起きそうだと期待を抱かざるを得なかった。

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