深い青空の見上げかた⑤

「はぁ……」

 どんよりと曇った空の下、朱音は六聖社の編集部ビルを見上げていた。それでも微かな雲の切れ間から漏れ出す光に、思わず目を細めてしまう。

「はぁ……」

 自動ドアをくぐり、また溜め息をひとつ。

 それは、現在放送されている『五反田の枢機卿』の容易に予想されうる出来に対するもので、決して、急に呼び出されて面倒だとか、せっかくの原稿を描く時間を削られたとか、そういうものではない。……はずだ。

 けど、ひょっとしたら、心のどこかではそういうふうに思ってしまう自分がいることを否定できない朱音だった。なんというか、活力に満ち溢れ、エネルギッシュとか、そういう古臭い表現が悲しくも当てはまってしまう状態。

「はぁ……」

 だから、こういう、思わず嫌なことを思い出してしまう場所には極力来たくなかった。朱音は三度溜め息を溢し、エレベーターに乗り込んだ。


「あっ、あーちゃんお疲れ様」

 さほど乗り気でない編集部訪問の朱音を出迎えてくれたのは、これまたあまりやる気を感じさせない担当編集の萩原の声だった。

「萩原さん、打ち合わせなら先日済ませたでしょう? あんまりほいほい呼びつけるのはやめてください」

「あ~あの頃の可愛いあーちゃんはどこかに消えてしまったのねそうなのね。せっかくいいお知らせがあるところなのに」

 萩原の言葉に思わず、むっとしてまう。確かにデビューしたての時期の朱音はそれはもう素直で清楚でまさしく深窓の令嬢もかくや、といった具合の自画自賛ぶりだが、流石にそれでは漫画家なんて奇特な職業では生きていけない。

 それに素直なのは、担当の言いなり、ということでもあり、朱音が振り返ってみてもまだまだ未熟だったなと思わせる。

「それで、悪い知らせってなんですか? さっさと教えてください。もう驚きませんから?」

「ちょっと、ちょっと。いい知らせって言ったじゃない。勝手に曲解しないでよ~」

「こういうときって、『いい知らせと悪い知らせがあるんだけど、どちらから聞きたい』って流れが鉄板じゃないですか」

 ゲームやドラマなんかでもよく見られる台詞で、むしろ初出が気になるところだが、それはさておき。ところで、あの台詞は大抵いい知らせの方が大したことがない気がする、と思わず朱音は身構えてしまう。

「純粋に、清廉に、潔白に、今回はいい知らせです! 疑り深くなったのはいいことだけど、担当編集くらいは信じてよ~」

「…………」

「無視しないでよ~」

 沈黙は別段、無視などではなく。それでも若干の、普段やり込められている編集への仕返しという面が多分に含まれている可能性は否定できなくはないわけだが、やっぱりアニメ化で受けた痛い想いが朱音の心に大きな爪痕を残している。

 世の中にはそうそううまい話があるわけじゃない。朱音は子供の陵辱ビデオが送りつけられてくるという仕打ちを糧に、大事なことを学んだのだ。

「ああ、ちょっと考え事を。それで悪い知らせってなんですか?」

「だから、いい知らせだってばあ……」

「あー今のは素で間違えました。で、悪い知らせとは?」

「あーちゃん?」

「すいません」

 割と真剣な目で睨まれて、朱音は大人しく謝っておいた。

「まあ、いいわ。百聞は一見に如かずというものね、ちょっと待ってて」

 ひと伸びして席を立つ萩原。その机には大量のエナジードリンクやら缶コーヒーの空が置かれていて、朱音に闇を感じさせる。

 そういえば、天丼芸は何回繰り返すのが定番だっけと、原稿のネタを考えながら萩原を見送る。ちらりと編集部全体に目を向けると、皆、打ち合わせに出払っているのか、どことなく人通りが少なく感じられた。

 アニメ化が盛大にこけたから、活気がないのは仕方のないことだが、決まった時期に比べると明らかに人が少ない、ような気がした。

 これも何かのトリックが……? と、またもやネタにつかえそうな面白い理由を考えていると、

「あーちゃん、お待たせ」

 何やら大きな段ボールを抱えた萩原に声をかけられる。

「……それ、不幸の手紙集とかじゃないですよね?」

「どれだけ世間様を恐れてるのよ!」

 とりあえず、まあ、インターネットに繋げないように電話線を引っこ抜いた……ぐらいだろうか?


「連載当初は、本気で修羅場ってたし、しばらく経っても修羅場ってたし、アニメ化が決まって修羅場ってたし、渡す機会がなかったの。だから、かなり溜まってて」

「…………」

「最近、あーちゃん、いえ、紅坂朱音に関するニュースはどれもこれも批判的なものばかりで、クリエイターとして心にくるのは十分理解できる。褒められても素直に受け止められないのもわかる。それでも新作を作り始めるくらいの余裕が出てきたなら、きっとこれらは紅坂朱音先生の力になってくれると思います」

 段ボールを開けて出てきたのは、溢れんばかりの便箋。可愛らしいファンシーなものもあれば、無骨な茶封筒なものも。それでも、共通しているのは真剣に気持ちを込めて書いたのがわかる、ちょっとだけ緊張混じりの宛名や住所の文字たち。

 読者の極めてリアルな感想であり、そして時にはギリギリでの打ち切りを回避させてくれる等の噂などもある、作家にとっては文字通りの宝の山、ファンレターであった。

「…………」

 朱音は思わずしゃがみこんで、ひとつひとつの文字を確認する。どれも確かに『紅坂朱音先生』と書かれていて、思わず頬が緩んでしまうのを、抑えきれない。

「もちろん、編集部として一度内容を確認して危険がないことは確認済です。だから、こういう励ましてくれる読者のために……って、聞こえてないか」

 萩原は苦笑しながら、必死にファンレターに目を通す朱音を置いて仕事に戻る。今の紅音なら、編集に言われるまでもなく、勝手に英気を養って、勝手に作品を描きあげてくれるはずだ。だから――

「やれることは、全部やっておくべき」

 カタカタとキーボードを叩く音をBGMに、朱音は一心不乱にファンレターを読み込む。

「凄く面白かったです!」「バトル描写の迫力が凄くて、それだけで満足できるのにキャラクターたちの物語も読み応えがあって凄いです!」「感動して泣いてしまいました」「ギャグがキレッキレで、何度読み返しても笑ってしまいます」

 そんな、ばらまかれた宝石のような言葉を、朱音は受け止める。他の人間にとってはまるで石ころとしか思えないような言葉。けど、朱音にとってはそれは宝石だ。

 朱音にしか価値のない言葉、朱音だけの宝石。朱音の持つ、宝箱の中でだけ、存在を許される言葉たち。

 大事に、大事に閉まっておいて、たまに何かに縋りたくなった時だけ、開く大切な宝箱。この、宝石のような言葉たちだけは裏切らないでいこう。

 朱音は、そう固く心に誓った。

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