深い青空の見上げかた②

 六聖社のとある一室、一人の編集と一人の作家は酷く落ち込んでいた。

「ごめんなさい。あーちゃん」

「…………」

 謝罪の言葉をかける萩原の目の前には、憔悴したまま顔を俯かせる高坂茜。その落胆の大きさは、計り知れない。

 煌びやかな面ばかりが強調されるメディアミックス、アニメ化。けれど、その裏にはドス黒い何かが蠢いている。紅坂朱音と『五反田の枢機卿』は単にその何かに飲み込まれた、数多の作品とその生みの親のワンペアに過ぎない。

 けれど、朱音と『五反田の枢機卿』はあまりにも順調すぎた。

 挫折を経験することなく、弱小とはいえ一つの出版社の看板となり、これまた失敗が確定されるとはいえメディアミックスも経験する。

 だから、ついつい、この業界は輝きに満ちている。あるいは、自分たちは祝福されていると勘違いしてしまった。

 お金がない、ただの弱小。

 朱音と『五反田の枢機卿』は単なる井の中の蛙に過ぎなかった。オタク業界という大海に対してあんまりにも無知であった。

「こちらでも、まさかああなるとは思ってもいなくて、紅坂先生のデビュー作を最悪の形で汚してしまって、申し訳ありません」

 もはやそこにいつもの萩原の姿はなく、逆にそれが先程までの悪夢が現実であると朱音に理解させた。

「…………」

 朱音は言葉を返すことができない。

 ただただ、頭の中で思考を回すだけ。

 どこで間違えたのか。どうすればよかったのか。

 何が、自分の子供を守ってくれるのか。

「これからのことなのだけど、とにかく編集部としてはできる限りの宣伝はしていくつもり。少しでもアニメのことを――」

「いいですよ、そんなの」

 これからのことを話し始める萩原に朱音はようやく応える。

「紅坂、先生?」

 しかし、顔を上げた朱音を萩原は怪訝そうな表情で見つめる。朱音は、穏やかな表情をしていた。まるで、アニメなどなかったかのように。

「原作は原作。アニメはアニメ。それでいいじゃないですか。向こうが失敗する気満々なら、こっちのことを知られていない方がいい。こっちはこっちで、成功する。だから、これまで以上にこっちを推してくれれば、それで構いません」

「……わかりました」

 萩原は、神妙に頷く。

 いつもの茶化すような気配は毛頭なく、朱音の覚悟を、アニメを切り捨てるという覚悟を、尊重した。

「じゃあ、今日はこれで帰ります。私は、漫画を描きます」

「ええ、それじゃあお疲れ様」

 朱音は一人、編集部から立ち去る。

 萩原だけが残された部屋に、ぎぎぃっとドアが閉まる音が微かに響いた。


           ――――――――――――――――


「………………」

「紅坂先生、何かありましたか?」

 朱音の仕事場には、静寂が渦巻いていた。

 普段滅多に声を出さないアシスタントの秋島の声が、やけに響く。

「……………………」

 朱音は言葉を返さない。

 耳に入ってくる音を遮断しているかのように、ひたすら手を動かしている。秋島はそれを見つめると、自らの作業に戻った。

 朱音は、悔しかった。

 何もかもに、憤りを感じていた。

 クソアニメを作るスタッフも、作品を守ってくれない編集部にも、そして何より自分の子供に対して何もできなかった自分に。

「…………」

 朱音はひたすらに作業を進める。

 あんなクソアニメとは違う、全く別の作品へ。全方位にぶちまけたくなる怒りを作品のクオリティーへと完璧に昇華していた。


「それじゃあ、これで」

 規定の作業時間になると秋島は朱音に別れを告げて帰っていく。

 普段は振り返りもしない彼女が、今日ばかりは一心不乱に作業を続ける朱音を慮るように部屋を出る前にちらりと確認をする。

 朱音はその視線に気づかない。のめり込んで、まるで何かに取り憑かれたかのように作業を続ける。

「………………」

 仕事場には、沈黙が下りる。ぎぎぃっと、ドアが閉まり一人のアシスタントが帰宅するだけで、ぞっとするほどの静寂が訪れる。

 その日、朱音の仕事場の電気が消えることはなかった。


           ――――――――――――――――


「あ、朱音。スペアル出るわよね?」

「……出るけど?」

 アニメの一件から数日。最新話の原稿を提出した朱音は次の話のネームを作っていた。そんな折、友人から電話がかかってきた。

「あら、なんか不機嫌そう? もしかして……女の子の日だったりする?」

「用事がないなら切る。仕事中」

「あー冗談冗談。できれば、またサクチケ分けて欲しいなって」

 まあ、朱音のそういう事情は結構軽いもので、いちいち不機嫌になるとかそういうのはないのだが、それはさておき。

「あーサクチケ」

 サークルチケット。同人誌即売会においてサークル参加者が持つ開始前に入場する権利。

 それはサークル側の準備やら挨拶やらに使われるわけだが、よからぬ使い方をする輩もいる。所謂ダミーサークルとして入り、入手困難なサークルの新刊を漁るわけだ。

 別段、苑子がそういうことをする人間ではないことを、朱音はよく知っていた。

 ただ……

「ああ、悪い。サクチケはもうない」

 ただ、クソアニメ『五反田の枢機卿(偽)』の放送前だ、色々予想されるあれやこれに、友人を巻き込みたくはなかった。

 あれは自分の子供ではない、と朱音は思っている。だが、自分の不始末である、と思っている。だから、そういうゴタゴタに苑子を巻き込みたくはない。

「えー朱音にサクチケ渡す相手なんているわけないでしょ? あ、ひょっとして千歳? あいつ、最近忙しくてスペアル行けないって言ってたのに。あれ、でも私と千歳しか友達がいない朱音が――」

 ぷつっ、と朱音は携帯を切った。嘘がバレそうだったからではない。

 単にネームを進める時間が惜しかっただけだ。

「悪いね、お苑」

 再びネームに向き合う朱音は、数少ない友人の名前を微かに呟いた。

 

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