深い青空の見上げかた①

「あーちゃん。アニメサイドからちょっと会議に出て欲しいって言われたんだけど……余裕ある?」

「あーありませんねえ。私、マンガの執筆で忙しいですから。締切がもう少し延びればいけるんでしょうけどねえ?」

「紅坂先生、手を動かしてください」

 『五反田の枢機卿』作者、紅坂朱音。彼女は仕事部屋で面倒な案件を押しつけてくる担当と日々戦い続けていた。

「動かしてますっ!」

 まあ、有能だが、口がちょっとあれなアシスタントもこれまた別方向から刺してくるのだが、それはともかく。

「でもねー向こうの偉い人がなんとか来いって言ってるから、六聖社としては――」

「断れないって言うんでしょう? あ~やっぱり六聖社でデビューなんてすべきじゃなかったなあ~」

「あーちゃん最近本当に口悪くなってない? 始めたての頃は素直で恥ずかしがり屋なとってもいい子だったのに……」

「それ、口を汚した本人が言っていい台詞じゃないですよね?」

「とにかくお願いお願いお願い~それが終わったら一回休んでも構わないから~」

「このアニメ放送前に一回休むとか正気ですか萩原さん!」

「別に休んでいいのよ~? あーちゃんが本当に休みたいのなら、ひと月くらいはあげられるわよ~」

「ぐぬぬ」

 紅坂朱音は典型的なオタクだ。超のつく有名なRPGから入り、少しずつ領分を広げていき、ついには自分でもマンガを描き始めるようになったオタクだ。だからこそ、毎月楽しみにしている雑誌のお目当てが休載したときの悲しみはよ~くわかる。

 そもそもコミカライズと銘打っておきながら、原作者監修のマンガが連載するとか卑怯としか言い様がない。信者なら買って読むしかないではないか。

「どうする? このままアニメの方を無視する? それとも休む?」

 電話口から悪魔の囁きが漏れ出す。

 アニメを見捨てる? 論外だ。アニメが失敗すれば、原作も少なからずダメージを受ける。ましてや六聖社のような弱小出版社の作品ならなおさら。

 では、原作を休む? これも論外。このアニメ化が決まり波に乗っている時期に流れを止めるなんて、読者をバカにしているとしか言い様がない。

「……………………やります」

「どっちを?」

「ええわかってますよ両方やればいいんでしょやれば! えぇいやってやりますよ私は紅坂朱音だー!」

 なんというか、こう、慣れないアニメ化で、完全に切羽詰ってキャラを見失いかけている朱音であった。

「あら~ありがとうね。あーちゃんとっても助かるわ~」

 そしてその編集は、作品があがればそれでいいのか、とても嬉しそうにしていた。

「やってられるか! 今夜は酒を飲むぞ!」

「あらあら、あーちゃんお酒なんて持ってるの?」

 というか、飲める年齢だっけ? という質問はぐっと堪える。

 曖昧な部分はネタにするか語らないのが一番なのである。

「ええ、持ってますとも。この前のイベントでファンからもらった一升瓶がねっ! とっても度数の強いやつです!」

「あ~ダメダメ飲むならせめてアニメ放送前にして~」

 とは言っても、きっと朱音はそのお酒を飲まないだろう。ファンがくれた大切なもの。自分の物語の一部を占めるほんの小さな脇役。飲むなんてもってのほか、きっとその物語が終幕を迎えるまで、大事に飾られているはずだ。


            ――――――――――――――――


「あの、私変じゃないですかね?」

「あーちゃんが変なのはいつものことでしょ?」

「いえ、真面目にそういう話をしてるんじゃないことくらいわかってますよね? 萩原さんわかってて言ってますよね?」

「そんなに緊張する必要はないわよ~」

 『五反田の枢機卿』アニメ化プロジェクト、六聖社サイドの二人は、都内某所のビルの、とある一室を目の前にして、焦っていた。

 これまで原作サイドは置いてきぼりになる形でアニメ制作が進められてきて、放送ギリギリになってのこの召集。ある意味では、緊張するなという方が無理な話かもしれない。しかも六聖社にはアニメ化の経験すらないのだ。

「それじゃあ、開けるわよ?」

 萩原が製作委員会の面々と主要スタッフが待ち構える一室のドアノブに手をかける。朱音はバクバクと鳴り響く心臓を必死に押さえ込みながら、第一声はどうしようかとか、そんな、些細なことを考えていた。

 もう放送までは時間がない。自分たちができること、すべきこと。アニメを成功させるためにできることを、朱音は何でもするつもりだった。いくら憎まれ口を叩こうと、この『五反田の枢機卿』という作品は自分が生んだという自負があるから。

 ――しかし、その自負はもっとも残酷な形で砕かれることとなる。


「困るんですよねえ、六聖社さん」

「……申し訳ありませんでした」

 朱音はその現状を理解できなかった。

「言いましたよねえ? 時間がないんだって。我々はいかに空いた穴を埋めることに心血を注いでいるって」

「仰るとおりです。返す言葉もございません」

「だから、こういう分厚い資料なんて持ってこられても困るわけ。お陰で一部の連中が看過されて無駄に力を入れちゃって遅れてる作業がさらに遅れてるわけ。どう責任取るのよ?」

 目の前では、これまで飄々とした態度を崩さなかった萩原がひたすらに頭を下げ続ける光景。しかも、相手の言っていることの意味が、朱音には理解できない。

 それはつまり『五反田の枢機卿』は初めからクソアニメになることが宿命づけられていたとでも言うのか? そうだ、少なくとも目の前のお偉い方の話を結論づけるとそういうことになる。

「ったく、これだからマンガ家はダメなんだよ。脚本任せてみればあっさり投げ出しやがる。そのせいでオリジナル一本ポシャったわけで、どうしてくれるわけ?」

「誠に申し訳ありません」

 今のは流石にこっちは関係ないだろ。そして、その穴埋めも結局マンガに頼っているではないか。そのダメなマンガ家に。

 朱音は箱入り娘として育ててこられたとしても、大人だ。いや、だからこそ、金を持っている人間が偉いということくらいはわかっている。どれだけ相手の言い分が穴だらけだとしても、自分たちがここで言い返すことに何の意味もないことを理解していた。

「他にスタッフも何人か逃げるし、お陰でその穴埋めにまた作業だ。こんなクソ案件さっさと終わらせたいんだよ。こっちも」

「本当に、申し訳ありません……」

 朱音は、ただ、その風景を呆然と眺めていただけだ。

「おいそこの女。わかってるわけ? お前のバカみたいな、無駄な頑張りのせいでこっちは迷惑してるわけ。どう責任取ってくれるんだ? ああ?」

 うるさい。朱音は心の中で叫ぶ。元はといえば、あんたらのスケジュール管理が甘いせいじゃないか。だから、マンガ家も逃げた。スタッフが逃げた。

 けれど、紅坂朱音は、いや、高坂茜は、大人だった。分別のついた、大人だった。

「この度は私の軽率な行動で製作委員会にご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」

 茜は頭を下げた。謝りたくもない相手に。殺したくなるくらい、憎い相手に。自分の子供を汚そうとしている相手に。

 頭を下げてしまった。

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