*拠り所なき悲嘆

 あれほどに胸を躍らせた風景はナシェリオから全てを奪い、暗く闇の縁に立っているように重々しく流れてゆく。

 村の人たちにどう説明すればいいのかと、そればかりがナシェリオの心を満たしていた。馬のために時折休憩するも、食欲がまるで湧かないことに己の体の変化を知る。

 試しに干し肉をひとかじりした。味覚に変化はない。それで理解したのは、今までの食欲とは異なるということだ。

 ゆっくりと腹は減るけれども、特定の何かを食べたいという強い欲求が希薄になっている。次に気がついたのは身体能力だった。

 走る速度も掴む力も以前より著しく強さを増している。そして最も変化を見せたのは視力だろう。まるで鷹のように遠くを見渡すことができ、猫のように夜目が利く。

 このときになってナシェリオは己に恐怖した。ドラゴンが言ったことなど戯れだったのではないかという思惑は脆くも崩れ去り、私は人ではなくなったのかと背筋を凍らせる。

 私はいつか、人の姿すら無くしてしまうのか──?

「それだけは嫌だ」

 真冬でもないのに歯をカチカチと鳴らし、無駄なことだと解ってはいても精神を保とうと強く己の体を抱きしめる。自分の身に何が起きているのか、すでに理解を超えていた。

 叫ぶ間もなく命を落としたラーファンがとても羨ましく思え、死ぬ方法を繰り返し考える。

 ──ラーファンの死を告げる事がとても重々しくその足取りは躊躇われたが、一刻も早く彼の両親に報告せねばという感情が馬の足を速めた。

 陽が落ちて、夕闇に響く虫の音を耳にゆっくりと進んでいたナシェリオは暗がりのなかにぽつりと明るい一帯を見つけて速度を上げる。

 そうしてたいまつの灯されている村の入り口を視界に捉え、ようやく戻ってきた嬉しさとラーファンを喪った哀しみにうなだれた。

 村を出たのはつい十日ほど前だというのに、今までの記憶が酷く昔のように思えた。

「おいあれ、ナシェリオじゃないのか?」

 夜の見回りをしていた青年が近づく影に気がついて目を凝らす。

「なんだって? 本当だ。おいみんな! ナシェリオが帰ってきたぞ!」

 見回りをしていたもう一人もそれを確認し、仲間の帰還を大きな声で知らせた。そうしてナシェリオは集まってきた村人たちに小さく笑みを見せて馬を下りる。

 戻ってきた仲間に喜ぶ村人たちのなかに、慌てて出てきたラーファンの両親を見つけて胸が痛んだ。

「ラーファンは? ドラゴンは倒したのか?」

 口々に尋ねられ、ナシェリオは重々しく説明を始めた。

 ドラゴンにはまるで歯が立たなかったこと。それによってラーファンが命を落としたこと──自分の身に起こった事はとても言えなくて伏せたままに、ドラゴンが寿命で死んだおかげで自分は助かったのだと話した。

「そんな……。ラーファンが」

 村の人気者だったラーファンが死んだと聞かされた人々は哀しみと落胆に沈黙した。彼の母親は夫の胸に顔を埋めて泣き声を殺し、夫は妻を抱きしめて静かに涙を流した。

 そんな光景に耐えきれずナシェリオは顔を背けた。そのとき、

「でも、ナシェリオはドラゴンを倒したってことになるんじゃないか?」

 そんなひと言が周囲の空気を一変させた。何を言い出すのかと驚くナシェリオを横目に村人たちの表情は希望を見い出したかのように輝いた。

「そうだよ。ドラゴンの寿命に立ち会える人間なんてそうそういない」

「目の前でドラゴンが死んだのだから倒したことになるよ」

 どうあっても村から英雄を作りたいのか、ラーファンの死から目を背けたいのか、人々はこぞって沸いた。

「みんな、待ってくれ」

 どうしてそうなるのか解らない。私はドラゴンを倒してなどいない。ナシェリオは狼狽えれども、村人たちは彼の変化に気付いていた。

 久方ぶりに見たからではない。明瞭なまでに彼の存在感は増しており、外見はいっそう麗しく神秘性を備えるまでになっていた。

 それはまさしく、ドラゴンを倒したことによるものに他ならないと村人たちは考えたのだ。

 ラーファンの両親はにわかに活気づいた周囲に戸惑い、弾き出されるように輪の外に追いやられ呆然とみんなの喜びを見つめていた。

「ドラゴン殺しの英雄だ」

 違う、そんなことはしていない。

「大事な友達が死んで悲しいのは解るよ。でも、俺たちの希望も考えてくれよ」

 希望だって? 無理矢理に創り出された希望などになんの意味があるんだ。そこに私の意思などありはしないじゃないか。

「さあ、今夜は宴会だ! みんなを集めろ」

「待ってくれ! ──っ私は」

 伸ばした手に誰をもつかみ取る事は敵わず。よしんばドラゴンから力を受け継いだという真実を明かしていたならば、さらなる英雄譚が積み上げられていたことだろう。

 友の死は英雄の誕生の踏み石にされ、その哀しみすらも一蹴いっしゅうされた。どうしてこんなことになるのかと強く拳を握る。

「ナシェリオ」

 ラーファンの母が震えた声で呼びかける。息子の死がよほどの衝撃だったのか、一気にやつれた様子にナシェリオは目を合わせられなかった。

「あの子は、ラーファンは立派だった?」

「はい」

 ドラゴンとのやり取りを思い起こす。

「彼は……。とても、勇敢でした」

 ただでさえ息子の死に打ちひしがれている二人に、これ以上の責め苦は必要ない。ラーファンはドラゴンと対峙し勇敢に闘って果てた。それでいいじゃないか。

「そう。そうなのね」

 息子のせめてもの勇ましい最期に母親は、どこか振り切れたのか薄く笑みを浮かべた。

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