*知らしめたもの
次第に風は治まり、草の擦れ合う音も騒がしさを沈めてゆく。波の音も潮の香りもすでに遠のき、山々を遙かに望みながら草原を延々と進んだ。
ニサファがちらりと視線を降ろすと、余計な事は話しかけるなという雰囲気がナシェリオの全身から放たれていた。
「それほど英雄を否定なさるのは、自身を許せないことがあったからですかな」
このひねくれた英雄がひねくれただけの過去があるのは自明のことだが、あえてその傷に触れてくる老いぼれに鋭い一瞥を送った。
「これだから年寄りは嫌いなんだ」
人の心にずけずけと踏み込んでくる。
「貴方の方が年寄りでしょうに」
返されて複雑な表情を浮かべた。ニサファはそれに多少の安堵を覚える。冷たく接しようとはしていても、内から
本心で世を嫌っているのなら、人の中に身を置く事を選びはしない。それはやはり、人の温もりに触れていたい表れなのだろうとニサファは推し量った。
「あと少しで村です」
港町を出て歩き続け、ほぼ一日が経っている。昇った陽はすでに姿を隠すまでに傾き、再び訪れる夕闇を押しのけるように遠方に見える小さな灯りにニサファは顔をほころばせて手を差し示した。
「ほう」
それに、ようやくかと溜息を吐いたのも束の間、ナシェリオは近づく気配にやや体勢を低くする。その様子を見たニサファは、ただならぬ事なのかと押し黙った。
「それは誇り高き北の草原シャレナの末裔が駿馬。ガネカルなど易々と引き離すだろう」
ナシェリオは前方に目を凝らし、近づく気配の正体を理解したのかゆっくりと口を開いた。まさか村に到着する前に出会うとは思ってもいなかったニサファは体を強ばらせ、渡された手綱を震えた手で掴む。
「ナシェリオ様」
不安げに見下ろすニサファに決して馬から下りるなと言い残し、ゆっくりと歩みを進めて剣を握った。
「この暗がりでは無理です」
月が出ているとはいえ満月というほどではない。下弦の月は薄い雲にも時折その弱い光を遮られていた。ガネカルは夜目が利く、人にはとてつもなく不利だ。
「見えるんだよ。私には」
そうして、草むらから姿を現した獣に苦笑いを滲ませ互いに目視で相手を確認した。
「どうしたものかな」
狂い唸る獣を前にナシェリオは思考を巡らせる。やはり、幾度となく目にした分厚い毛皮は見事なほどに全身を覆っている。
ガネカルと対峙するのはこれが初めてではない。それでも、出来るならば遭いたくはない獣に違いはなかった。
その凶暴性は再認識するまでもなく。そこには慈悲の欠片すら見あたらず、ただ引き裂き食い尽くす意識のみが存在していた。
そのような獣にも何かしらの役割がある。それが善くも悪しくも、この世界に生きている以上はそのものの意識に関わらずあるものだろう。
このガネカルも、ナシェリオと対峙する事で何かしらの役割を背負ったのかもしれない。それが、この先の未来にどう影響するのかなど狂った獣に解りはしないというのに。
「役割を背負わされるなどまっぴらだ」
口の中で発し、大地を蹴って駆け迫る獣に剣を構える。しかし、策がないまま剣を振るう訳にはいかない。鋭い爪と大きな牙をなんとかいなして再び剣を構える。
やるしかなさそうだと目を吊り上げ、口の中で何かを唱え始めた。その間にも獣は見境無くナシェリオに襲いかかり、それをかろうじて交わしていく。
「──っ!」
どんな事があっても声を上げるなと言われているニサファは、食いしばるようにその様子を眺めた。
ひと声でも上げればガネカルは目標を変えて襲ってくる。そんな事にでもなれば彼を不利にさせるだけだ。かけたい声を殺してニサファは心で叫ぶ。
彼が何かをしようとしている事はおぼろげながらも感じてはいるものの一体、何をしようとしているのかまでは解らなかった。
いなしながら剣の刃を獣の体に滑らせているようだがしかし、硬い毛は切れ落ちる事もなく平然としている。隙があれば剣を振るうも、やはり傷を負わせるには至らない。
獣は一向に疲れを見せない獲物に苛つき、次にじっくりと狙いを定め体勢を低くする。これで決めようというのだろう、ニサファにもそれが解ってごくりと生唾を呑み込んだ。
意を決してガネカルはより素早く突進し覆い被さるように前足を振り上げたとき、ナシェリオは瞬時に剣を左に持ち替えた。
「その力を示せ」
つぶやいた刹那に刃は青白い輝きを放ち、額に獣の爪をかすめて振り下ろされた右前足を薙ぎ払う。
獣はそれに怯んだのか小さく呻いて後ずさりしナシェリオを見据えた。よく見ると、刃を滑らせた前足にはわずかだが傷が出来ていた。人よりもどす黒いそれは、流れるほどではなくじわりと毛の色を変える程度でしかない。
「たったあれだけ……」
ニサファは愕然とする。どう見ても英雄の額にある傷の方が大きい。ナシェリオの額はぱっくりと割れ、左目の機能を
そうしてひと声、獣は鳴いて最後の攻撃に出た。か弱き人間を噛み砕こうと口を大きく開き、力を込めるために右前足を踏みしめた瞬間──ナシェリオは剣を逆手に持ち替えその、ささいな傷をめがけて突き降ろす。
剣は、あれだけ攻撃をよせつけなかったはずの体を易々と貫き、獣の悲痛な叫びと共に前足を地面に縫いつけた。ガネカルは痛みと怒りで歯をむき出し、その口に右手を突き入れる。
ずらりと並んだ牙が腕に食い込み、その痛みに耐えながら何かを口走った瞬刻、獣が勢いよく青い炎を吹き出して燃え上がった。ナシェリオは強力な炎の魔法を唱え続け、最後のひと言を解き放ち魔法を発動させたのだ。
攻撃しつつ、相手の攻撃をかわしながらも魔法の詠唱を継続させたナシェリオにニサファはやはり英雄の影を見てしまう。
獣は苦しみ悶えてしばらくのあと事切れた。ナシェリオは獣が死んだ事を確認し深く溜息を吐いて剣を仕舞った。
「ナシェリオ様」
おずおずと馬を寄せるニサファに倒した事を報告するように首をかしげ、そのまま馬に乗っているようにと示す。
気がつけば、額の傷はすでに塞がっているのか血は止まっていた。右腕はその牙で出来た幾筋もの深い傷から未だ血は流れておりとても痛々しく、老人の眉間に大きなしわを刻んだ。
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