第八話 祝祭遭遇(カーニバル・アライバル)
アルスメニアの公共交通機関といえば、当然のことながら船である。
どの町にも市街地の中心部には船着き場があり、他の町と行き来する定期船がひっきりなしに発着しているもので、その点はホーニアも例外ではない。
農作物の出荷シーズンを過ぎ、野菜運搬用の大型船が姿を消すと、船着き場付近は落ち着いた雰囲気を取り戻して、人影もまばらになる。そんな中を二人の女が歩いていた。
背の低いほうの女が背の高いほうの女に話しかける。
「すごいものですね。細かい仕草まで完璧ですから、誰が見ても昔からここに住んでいる人にしか見えませんよ」
「有り難う。そう言ってもらえると嬉しいわ」
背の高いほうの女は、微妙に翳りのある表情で微笑む。
――これはかなり重症だな。
背の低いほうの女は、心の中で可哀想に思いながらも、それを表に出すことなく明るい声で言った。
「次は船に乗りますよ、彩さん」
*
先日の「雄一が畑の真ん中で棒立ちになっていた一件」以来、彩は気の毒になるほど落ち込んでいた。
それまでの積極的な姿勢は影を潜め、なんだかぼんやりしていることが多くなる。農作物の出荷作業が一段落し、一年の中でも暇な時期に入っていたので、何か支障があるわけではないのだが、あまりの変わりようにアイリスは困惑した。
雄一もそれには気がついており、
「大丈夫ですか、彩さん?」
と声をかけてみるものの、彩は、
「疲れているだけだから心配しないで」
と答えるだけである。むしろ迷惑そうな様子だったので、雄一もそれ以上は何も言えずにいた。
そんな状態が一週間ほど続いたところで、アイリスはジェイムズに呼ばれて、
「今度のお休みの日に、彩を連れてミンツの町まで買出しにいってくれないか」
と言われた。
「ミンツというと――ああ、収穫祭の時期だね」
「そうだ」
「でも、彩はボルザの人じゃないんでしょう? お祭りに連れて行っても大丈夫かな」
「大丈夫だ。ただ、その前にいろいろとやることがあるけれどね」
アイリスがそのことを彩に話すと、彼女は、
「ごめんなさい。なんだか気を遣わせてしまったようで。でも、そんなに外出したい気分でもないんですよ」
と断ろうとした。そこでアイリスは、父親から言われた通りの話をする。それでも駄目なら決して無理強いはするなと言われていたので、最後の手段だ。
「そうですか。じゃあ、仕方がないかな。実はお父さんからも言われたんです。ミンツの町に行くためには、彩さんにボルザ人になりきってもらわないといけないから、難しいかもしれないねって――」
そこまで話したところで、久しぶりに彩が自分から口を開いた。
「あの、ボルザ人になりきるって、何か違いがあるのですか?」
「かなり違うよ。例えば、誰かを呼ぶときの手の動かし方とか。彩は雄一を呼ぶ時、上から下に手を振るよね」
「まあ、そうですが、ボルザだと違うのですか」
「うん。そういう時、私達ならこうする」
アイリスは右腕を右から左に振り、最後に懐に抱え込むようにした。
「他にも何か違いはあるんですか」
「そうだなあ、例えば雄一がたまにやる、右手を立てて小さく振りながら、腰を曲げてるやつ。あれなんかはボルザではやらないよね」
「ああ、あれは地球人でも日本で生まれた人しかやらないですね」
「そうなんだ、ふうん。じゃあ、こんな動きをしたら地球人はそう思うのかな」
アイリスは右腕を下から掬い上げる。彩は少し頭を
「そうですね。それだとアメリカ人が誰か人を呼ぶ時の動きになるかな」
「ふうん。ボルザだと『ふざけるな』っていう意味だけどね。ところで、彩って考え事をする時に、少しだけ頭を傾けるよね」
「えっ? ああ、そうですね。今もやりましたね」
「それもボルザじゃやらないから、地球人だってすぐにばれるかも」
「それはなかなか難しいですね」
そう言って、彩は久しぶりに笑顔を見せた。
*
ミンツ行きの船が出る三番埠頭は、他の船着き場に比べて人が多かった。特に家族連れの姿が目立つ。年に一度のお祭りを見物しに行くのだろう。
アイリスも例年であればジェイムズと一緒に船に乗るのだが、さすがにライナと雄一だけ残すわけにはいかなかった。それに、二人を連れてくるわけにもいかなかった。
なにしろ、雄一は何度教えてもボルザ人の仕草を真似ることが出来なかった。
ライナは、動作が優雅すぎて一般庶民にはとても見えなかったし、本人もそれを隠す気が全然ない。
そのため、ジェイムズともどもお留守番となったのだが、ライナが微かに寂しそうな顔をしたのをアイリスは決して見逃さなかった。
――何かお土産を買ってこよう。
アイリスは、頭の中にある貴重品置き場に、その考えを丁寧に保管する。
それ以上に面倒だったのはノラの扱いである。
彼女は御主人様と離れるのを極端に嫌がった。
「私は彩様の御世話係なのですから、一緒にいて当然ではありませんか」
悲しそうな顔でそう言うノラに、ジェイムズが穏やかな声で説明する。
「常に武装妖精を傍に従えているのは、騎士階級か、それを専門に扱う一部の専門職に限られている。庶民は武装妖精と縁がないし、あっても農作業の時にお金を払って借りるぐらいだ。だから君が彩と一緒にいると、彩が普通の人間ではないと宣伝しているようなものなのだよ」
「でも――」
ノラは大きな瞳に涙を一杯に溜めている。しかも、わずかに身体が震えていた。禁忌に抵触し始めているのだ。
その場にいた全員が顔を見合わせる。皆、ノラがそこまで固執する理由が痛いほど分かっていた。
彼女は彩の元気がないことを人一倍気にかけていて、一日中彼女の傍に控えていた。
武装妖精に睡眠は必要ないものの、それでも黙って傍らで見守り続けるのは決して楽なことではない。
それでもノラは何も言わずに、ただ彩の邪魔にならないように注意しながら傍らで見守り続けていた。
「分かったわ、ノラ。一緒に行きましょう。誰か他の人がいる時には隠れていてもらうことになるけれど、それでも構わなければ」
彩は優しくノラをさする。
「有り難うございます、御主人様」
今、ノラは彩の服の内側にあつらえたポケットの中で大人しくしている。
*
アルスメニアの船は基本的に帆走で、機械式の動力は設けられていないものの、その代わりに氷結系武装妖精が必ず乗船している。
これがジェイムズの言っていた「騎士階級以外の専門職」の一例で、平地で風が凪いだ場合や傾斜のきついところを上流に向かう場合に、船の後方にある水を氷結させることで前に進む力を生み出した。
なぜ常時その力を使わないかというと、武装妖精の力に限りがあるからである。
基本的に武装妖精は戦場で使われるものであり、民生用に回ってくるのは戦場で使えなくなったものの払い下げであるから、長い時間は使えない。
その船の
充分な風が吹いている時であったから、妖精の出番はない。
それでもいつ声がかかるか分からないので、彼は船の艫から離れずにいる。
船に乗ってからずっとその武装妖精を見つめていた彩は、アイリスに向かって他の客には聴こえないように小さな声で言った。
「あの子達にも御主人様はいるのかしら」
「私も詳しくは知りませんが、確かいないはずだと思います」
「そうなんだ。それでも指示に従って魔法を使うことが出来るんだね」
「逆ですよ。みんなの指示に従って魔法を使うようになると、戦争では使えないんです」
「それはどうして?」
「特定の御主人様を持たない妖精は、いつでも魔法が使える代わりに威力はなくなるらしいです」
アイリスの話を聞いているうちに、彩は以前ふと疑問に思ったことがある「武装妖精や使役獣の位置づけ」を改めて思い出した。
雄一と共に武装妖精と使役獣の登録手続きを行った際、窓口の担当者は書類の手続きを進めながら、同時に武装妖精と使役獣について彩に簡単な説明をしてくれた。それによれば、
「妖精や獣はその昔、自然の風景の一部だったのだが、微弱魔法という特性を増幅され、御主人様への絶対服従という条件付けを施されて、武装妖精及び使役獣となった」
確かそんな経緯だったと記憶している。続いて、
「それゆえ武装妖精や使役獣は、感情表現の個体差はあるものの、基本的に自主的な判断や自律的な行動を表に現すことがないし、常に指示待ちの状態にある」
という窓口担当者の説明を聞いた時、彩には、
「武装妖精と使役獣は、そのように人為的に作られた」
という意味にしか聞こえなかった。
そして今、アイリスから説明を受けたところによると、
「武装妖精の魔法強度は御主人様との関係に依存している」
ということになる。
使役獣の形態進化がどうなのかは分からないが、少なくとも武装妖精は御主人様と契約していなければ戦うことすら出来ないし、御主人様と契約するとその指示命令に縛られることになる。
また、使役獣は普通の動物と同じように食事や休憩を必要とするから、ボルザの騎士階級が戦闘用に乗用の獣を飼育しているのと、さほど意味合いは変わらない。
ミッドランド王国では生体装甲を失った地球人の雇用確保のため、使役獣の専用施設が生態装甲の格納庫の近くに設置されていたので、各自でその世話をする必要はなかったが、ホーニアにきてからは雄一がヨルの面倒をみている。
フワのほうは、何かを食べている姿を見たことがなかったが、彼が日向で転がっているのを見かけることがあるから、光合成でもしているのだろう。
いずれにしても、使役獣は独立した生命体であり、命令に従うように条件付けされているという説明で間違いがないように思われる。
一方、武装妖精は自ら進んで食事をすることはない。食べようと思えば食べられるが、食べなくても支障はないし、彼らにもそんな習慣はない。
生物としてのエネルギー補給をどうしているのか全く分からないものの、自己結晶化して待機することがあるので、彩は始めのうち、それが武装妖精にとって睡眠のようなものだと考えていた。
ところが、フワは自己結晶化があまり好きではないと言う。
「あそこは静か過ぎるので、私は嫌いなんです。最近は全然やっていません」
ノラが自己結晶化についてそう表現していたのを、彩は思い出した。つまり、別に自己結晶化しなくても生きていけるということだ。
そんな補給や休息を必要としない武装妖精のあり方が、本当に生物と呼べるのか、彩は疑問に思う。
――そういえば、武装妖精は歳を取るのかな。
彩は船尾でじっとしている妖精を改めて観察する。
蓬髪と髭に覆われた彼の顔は皺に埋もれ、古傷がその上を横断している。かなりの年月を経ているように見えるのだが、果たしてそれが時間経過によるものなのか、それとも御主人様を失ったことによるものなのかは判然としない。
――この件は後でノラに聞いてみることにしよう。
そこで彩は、自分の懐の中でじっとしているノラのことを考える。
最初に出会った時、ノラはいかにも優等生といった表情で、棚の上で畏まっていた。
契約してみると、彩の指示に対して期待通りの結果を返してくれるものの、それ以上のことは決して期待できなかった。
真面目だけれど融通が利かず、熱心ではあるけれども楽しそうではない――それで彩は「武装妖精はこんなものなのだろう」と考えていた。
ところが、そのノラが雄一の従者達と行動を共にするようになってから、少しずつ変化し始めた。
今では綾のことを心配するあまり、命じてもいないのに傍らで彼女を見守ろうとしたり、離れることを禁忌に抵触する寸前まで強硬に拒否したりする。感情表現も豊かになり、実に人間らしくなった。
――人間らしい?
そこで彩の脳裏に新たな疑念が沸き起こる。
――現在の武装妖精のあり方は、そもそも生物として無理があるんじゃないのかな?
人間が存在することを前提とした存在、そこに力の源泉すら依存している存在――地球であればそんな生き物は「寄生虫」ぐらいしかいないだろう。
しかし、武装妖精には確かに自我が備わっている。それは寄生する生命体には似つかわしくないものだ。
そして、絶対服従以外の関係が成立することを、雄一とその従者の関係が証明している。
――ということは、前提がどこかで間違っているんじゃないのかな?
彩はノラがいるあたりに掌を当ててみた。武装妖精には体温がないはずなのに、そこに僅かな温もりを感じる。
――心配かけてごめんなさい。
彩は心の中でノラに謝罪した。
ホーニアを朝の早い時刻に出発した船は、正午前にミンツの船着き場に到着した。
地球人の感覚では片道五時間ほどかかったような気がする。アイリスが「今年はちょっと早くついたね」と言っていたので、所要時間は一定ではないらしい。風の状態に依存するのだろう。
船に揺られている間、彩はずっと「自分はボルザ人である」と考え、その役を演じ続けてきた。
そして、船がミンツに着く頃には、すっかり気分が切り替わっていた。
それで彩は、自分が「女優である」ことを改めて自覚する。あのまま、素の「安藤彩」としてホーニアに留まり続けていたら、きっと
今ならば、第三者の視点で客観的に、あの時の自分を振り返ることが出来る。
雄一が畑の真ん中に立ち尽くしているのを目撃したときの衝撃は、本当に大きかった。
『訶梨帝母・喰人』との戦闘中、教授が雄一と
それは「雄一の中に教授の記憶がある」ことを意味しており、彩もそのことは素直に理解した。ライナ姫を『
だから、その時点では別にそのことをたいして気にかけてはいなかった。
しかし、畑の真ん中に立ちすくんで、涙を流しながら何かを呟いている雄一を目撃した瞬間、彩はそこに別な意味があることに気がついてしまった。
――雄一の中に教授が住んでいる!
彩は教授の記憶がデータとして保存されているだけだろうと思っていたのに、実際は仮想人格となった教授が存在していて、雄一と会話しているのである。
そのことを理解した途端、彩はそのことに耐えられなかった。
単に「雄一と教授が一緒にいる」ということではない。彼らは分かつことが出来ないほどに同化しているのだ。
教授は自分の全てを雄一に委ねることを躊躇しなかった。
雄一は教授の全てを受け入れることを躊躇わなかった。
彩はその関係を、条件反射のように羨望し、嫉妬し、憎悪した。さらには、そんなことを考えてしまった自分を嫌悪した。それでその場から逃げ出してしまったのだ。
今、客観的に考えられるようになってみると、彩は「自分の中に他者がいる」ことの辛さを想像することが出来る。それは決して楽でも楽しいことでもない。
しかも教授は決して幸せな道を歩んできた人ではなかったと、雄一から聞いている。その過去を受け入れることが、どれほど重いことか、今の彩には理解で生きる。
彩にも他人に触れて欲しくない闇の部分はある。誰かに見られたら恥ずかしくて死にたくなりそうな記憶もある。しかし、あの時、教授がそこまで曝け出さなければ、自閉した雄一を引きずり出すことができなかったのだろう。
教授は自分の中の闇を曝け出し、雄一はそれを丸ごと飲み込んだ。それを承知した上で、それでも彼女と会話を続けている。
そして、どんなに恋焦がれたとしても件して触れることのない相手を心に抱えて、涙を流しながら話し続けている。
その壮絶な関係に彩は戦慄した。とても自分では耐えられないと思う。
二人の間に割り込む隙間が見当たらないことを改めて認識し、彩の胸は少し痛んだ。
――しかし、もうこのことで動揺するのはよそう。
二人は互いに特別な、唯一無二の存在で、他の誰かが代われるものではないのだ。
――願わくば、いつか自分にもそのような誰かが現れますように。
彩はミンツの船着き場を見つめながら、心でそう願う。
風は川から岸に向かって穏やかに吹いていた。
*
その時、進藤は船底に押し込められて
彼に任務の内容を伝えた後、劉は、
「とはいえ、安藤さんかどうかを確認して、場合によっては彼女と話をするだけの簡単な任務です。休暇だと思って楽しんできて下さい」
と言っていたが、とんでもない話である。
まず、ヘルムホルツ国内を目隠しされた使役獣車に乗って移動し、アルスメニアとの国境線近くで船に乗り換えた。
しかも船に乗り込んで早々に、
「地球人がうろうろしていることがばれたら、大騒ぎになりますから」
と言われて、船底に押し込まれてしまった。
それからずっと、薄暗くて、湿っぽくて、黴臭い部屋の中で、一人寝そべっている。生体装甲の基地を出てからかれこれ十時間以上経過しているはずだが、その間、殆ど太陽を拝んでいない。車から船に乗り換えた時ぐらいだ。
――おいおい、これじゃあ休暇中というよりは護送中といったほうが正しいんじゃないのか?
と考えてみるものの、だからといって今更待遇が改善されるとも思えない。進藤は気分を切り替えて今回の任務のことを考えてみた。
まず、国境線近くの船着き場に待機していた情報屋の一団である。彼らはいかにも怪しい集団だった。
ボスと思われる男は、商人風の出で立ちで一見「愛想の良い貿易商」に見えたが、その実、劉と同じ目の奥が笑っていない得体の知れなさがある。その配下の男達は、情報屋にしては身体つきが頑丈すぎるように思われた。
進藤の先入観かもしれないが、情報屋というのはもっと目立たない普通の恰好をした連中ではないかと思う。ボスは確かにその通りだが、配下の連中は情報屋というより軍人のほうが近い。
進藤は柔道家とはいえ、力で相手を圧倒するほうの柔道ではなく、相手の力を利用して投げ飛ばすほうの柔道を得意としていたから、身体はさほど大きくない。筋肉ばかり発達してしまうと身体の切れが悪くなるので、むしろ控えめに鍛えている。
しかし、力で圧倒するほうの柔道家はお構いなしに筋肉を鍛え上げるから、一見して格闘家であることがばればれである。配下の連中は明らかにそちらの手合いで間違いない。
となると、現在の進藤の立場は少々微妙である。
劉が金で雇った連中であるから、少なくともヘルムホルツの正規軍人ということはあり得ない。
傭兵の可能性を考えてみるが、それにしては統率が取れすぎているような気がする。傭兵はもう少し個性的だろう。
――となると、どこかの国の軍人さんかよ。
身体の鍛え方からしても、それが一番妥当な見方だろうと進藤は思ったが、そうなると今度は別な疑問が生じる。
ボルザの軍人は、だいたいが正面からの一斉攻撃を好む。それはヘルムホルツも同じで、戦略的にそのほうが有利だと判断した時には宣戦布告をしないことは許容しても、後ろから不意打ちするのは嫌がる。
――ましてや、正々堂々とは真逆の諜報活動なんて……
と、そこまで考えたところで、進藤は二つの可能性に気づいた。
まず一つ目は、生体装甲『ハヌマーン』である。
『ハヌマーン』は正体不明の生体装甲で、噂によると隠密行動が専門らしいから、可能性がないわけではない。ただ、『ハヌマーン』が集団で作戦行動を行ったという話を聞いたことはなかった。そこで、進藤はこちらの可能性を却下する。
二つ目の可能性は、アムラン王国だ。
こちらも真偽のほどは定かではないが、彼らが怪しげな諜報組織を作ったという噂を聞いたことがある。アムランの組織が実在するのであれば、そちらの可能性のほうが高いだろう。確かにこんな感じの怪しげな集団になるに違いない。
ただ、仮にそうだとしたら、アムラン王国がミッドランドの残党に興味を示す理由が分からない。
進藤には、アムランとミッドランドの間に特別な利害関係があるとは思えなかった。
そこで船が岸か何かにぶつかったらしく急に揺れたので、進藤は頭を船底にある竜骨にぶつけた。
「あいててて、これのどこが楽しい休暇だよ」
進藤は小さな声で毒づいた。声も極力出すなというお達しである。
仏頂面をした男を腹の中に抱え込みながら、船はミンツの船着き場に近づいてゆく。
*
ミンツに着いてからというもの、アイリスは嬉しくて仕方がなかった。
なぜなら、彩の様子が以前の彼女に戻っていたからである。
表情から翳りが消え、笑顔が戻る。興味深そうにミンツの街を眺めている彩を見ていると、アイリスは殊の外嬉しかった。自分でもどうしてそんなに嬉しいのか分からないほど嬉しかった。
二人は大通りを歩きながら、道端に布を引いて並べられた金属細工を眺めたり、台車の上に乗せられた巨大な果実に目を丸くしたり、時には屋台で売られている軽食を食べたりしながら、ジェイムズから頼まれたものを買い集めた。
「彩さん、ちょっとこっちに来て」
「なんですか? 何か見つけたんですか?」
「ふふふ、これなんだけどね」
道端に机があり、その上には色とりどりの豆が、箱に入った状態で置かれている。
「顔を近づけて、よく見てみて」
「どれどれ、なんなのかしら?」
彩が無造作に顔を近づける。
すると目の前にあった豆が急に飛び上がった。
「うわっ」
驚いて飛びのいた彩を見て、アイリスは大笑いする。そんな他愛もない、子供じみたことが、今のアイリスにはとても楽しかった。
アイリスには実の母親に関する記憶が殆どない。
彼女が小さい頃になくなったとは聞いているが、どうして亡くなったのか、その理由を父から聞いたことはなかった。
ホーニアには、母が亡くなってから移り住んだらしい。そのことは隣近所の住民から後になって教えてもらったが、正確にいつ頃から住んでいるのか、知っている隣人は誰もいなかった。
そもそも、余所者に敏感なアルスメニアの人々が、二人をすんなりと受け入れて、不審に思っていないところが不思議である。
ともかく、アイリスは長い間ジェイムズと二人だけで暮らしており、ジェイムズが近所付き合いに積極的ではないこともあって、家の中に他の誰かがいる生活を送ったことがなかった。
それが一挙に三人も増える。しかも、ミッドランド王国から逃げ出してきたお姫様と、その護衛役を仰せつかった二人の騎士である。アイリスは御伽噺の勇者が現実に現れたような気がした。
ところが、それは幻想であることを早々に知る。お姫様は不機嫌で我儘だし、騎士の片方は何をさせても上手に出来ない。それで少しがっかりしたものの、残る一人の彩が、とても素敵な人だった。
年上の女性で、穏やかで、優しくて、頼りになる。その一方で蟲が苦手という可愛いらしい一面もある。
自分が生まれた世界のことをアイリスに話す時、その途中でとても懐かしそうな顔をする。
時にはライナと雄一が話しているところを、少しだけ複雑な表情で見つめていたりもする。
そんな折々の彩の姿を目にすることが、アイリスはとても楽しかった。
――もしお母さんがいたら、こんな感じなのかな。
ふとそんなことを考えてしまい、アイリスは寂しくなることもあったが、いつものことではない。
それに、年齢を考えるとお母さんというよりはお姉さんだろう。
そして、雄一がどこか抜けていて、けれども憎めないお兄さんで、ライナが気の強い妹である。
そんな話をライナにしてみたら、彼女は、
「いや、それは絶対に違う。私のほうが姉に決まっているではないか」
と、珍しく感情を表に出して主張した。そのことすらアイリスはとても嬉しかった。なにしろ、そんな風に気兼ねなく話せる相手というのが、今まで彼女にはいなかったからだ。
村には少ないものの同年代の子供達がいるし、一緒に遊んだりもするのだが、アイリスはなぜか自分だけが他の子とは違うような気がして、心の底から馴染めずにいた。
それは、自分のほうが優れているとか、劣っているとかいう優劣の問題ではない。なぜか、人間と妖精ぐらい違う生き物のような気がするのである。
そのことは父にも話したことはなかったが、いつか彩には素直に話せそうな気がする。
そんな風にアイリスは考えていた。
ホーニアとミンツを結ぶ定期船は一日一便で、往路の船がそのまま復路に使われている。従って、帰りの船はどうしても翌日の昼以降になるから、ジェイムズとアイリスは毎年決まった宿に泊まっていた。
今回も早い時期から二人分の予約を入れてあったのだが、寸前でジェイムズではなく彩が一緒になったので、アイリスはそれも楽しみで仕方がなかった。
ホーニアの家は無駄に部屋数が多い。住人が急に三人増えても、納屋まで含めるとおのおのに個室を割り当てることが出来る。
そのため、アイリスは相変わらず一人で寝ていたが、宿は二人で一室であるから寝る前に思う存分、彩と話が出来るだろう。そう思うとアイリスの胸は躍った。
アイリスが買い物をしながら、
「今日はゆっくりお話しようね」
と彩に話してみると、
「うふふ、そうしましょうね。今晩は眠れないかもよ」
と返事が返ってくる。
――そういえば、宿であればノラも気兼ねなく外に出られるな。
だから彼女ともゆっくりと話が出来るに違いない。日常生活の中で武装妖精とゆっくり話をする機会はなかったので、アイリスはさらに期待感を膨らませる。
祭りの出店で買ったものが結構な量になったので、それをいったん部屋の中に置くと、彩とアイリスは隣にある食堂で夕食をとることにした。
本当は部屋から出ないほうがよいのかもしれないが、彩が、
「大丈夫ですよ。それにボルザ人の普通の生活を知っておいたほうが、後々役に立つに違いありませんから」
と言って、自ら人前に出ようとする。アイリスもそのほうが楽しそうだったので、特に反対せずに連れ立って店に入った。
店に中には様々な地方からやってきた人で一杯だったから、ボルザでも地域によって仕草が異なるから、これならば彩は多少珍しい仕草をしたとしても、目だってしまうことはないだろう。
「何がおいしいのかな」
「これなんかどうだろう」
言葉だけでは何が出てくるのかまったく分からないが、それも旅の楽しみの一つだろう。とりあえず三つ頼む。それが出てくるのを待つ間のおしゃべりも楽しかった。
アイリスは自分が普段よりも余計に笑っていると感じる。
*
ミッドランドの残党が食堂にいるという連絡を受けた情報屋の一団は、店の外から中の様子を伺ってみた。
二人連れのうち、背の高いほうの女は窓に対して背を向けていたので、顔が分からない。背の低いほうは明らかに少女で、進藤が見てもそれは無関係な一般人だと知れた。
あまり長時間見つめていると他の者が不審に思うので、短時間で確実に素性を確認する必要がある。
店を出るまで待つ手もあったが、それでは進藤を人目のあるところに立たせておくことになるから、そちらも具合が悪かった。
「だったら、俺が中に入って確認してくればいいじゃないか。待ち合わせをしている友人を探すような振りをして、すぐに出てくればばれないだろ」
そう進藤が提案すると、愛想の良い商人風の男は眉を潜めつつ、言った。
「今はそれが最善のようですね。ただ、彼女に気がつかれませんか」
進藤はもっともな懸念だと思いながらも、こう断言した。
「もし、中にいるのが想定通りの女だとしても、俺の素性がばれる心配はないよ。なにしろ彼女は俺の顔を知らないからな」
*
食事の間も会話は弾んだ。
出てきた食べ物の味は彩の想定と違っていたらしく、彼女は一瞬だけ眉を潜めたが、別に食べられない味ではないと判断したらしく、普通に食べ始めた。ライナと違って彩は本当に適応が早い。
「おいしい?」
とアイリスは訊ねてみる。
「まあ、どこかの国の郷土料理だと思えば普通に食べられる」
「だって、その通りだよ」
「あ、そうだった」
すっかり調子を取り戻した彩を見ているとアイリスの心は弾んだ。
その時、店の扉が開いて、頭に布をかぶった男が入ってくる。収穫が終わると次第に寒くなってくるから、そのような恰好で歩いている人がいても不思議ではないのだが、その男の視線がアイリスは気になった。
店の中を見回しているように見えて、実のところ焦点を合わせて見ようとしているのは、彩とアイリスが座っている方向だけだった。男は彩の後ろからアイリスたちのほうに近づいてくる。
危険な気配はないものの、それでも気になる。
アイリスが少し身構えていることに彩も気がつき、
「どうしたの?」
と言いながら、アイリスの視線を追いかけるように後ろを向こうとする。
男は混雑した客の間を歩いてくる。そして、彩がその男のほうを振り返ると同時に、男が座っていた客の背中に肘をぶつけて、座っていた客が後ろを振り向いた。
布をかぶった男がその客に向いて、あの雄一がよくやっている仕草をする。
*
彩は立ち上がって、即座に男の腕を握った。
「動かないで!」
彼女は日本語で小さく叫ぶ。
*
アイリスは驚いた。
彩が急に立ち上がって、彼女の知らない言葉を発しながら男の腕を掴むと、アイリスに向かってこう言ったからだ。
「アイリス、ごめん! 食べ終わったら先に部屋に戻って頂戴!」
そして、彩は男の腕を引っ張りながら、店の外に出て行った。
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