生体装甲『神白狼』 第二章 阿修羅舞(ダンス・ウィズ・アスラ)

阿井上夫

第一話 天帝(インドラ)

 戦場の中央に屹立きつりつした『訶梨帝母ハーリティー』が、

「『天帝インドラ』を呼べ!」

 と叫んでから三十分後のことである。

 アムラン王宮内に設けられた執務室にこもって、苦手な事務作業を黙々とこなしていた天帝インドラと呼ばれる男の元に、

「『訶梨帝母』の喰人クラウド化は不可避」

 という第一報が届いた。

 それは驚異的な速さだった。


 ボルザでは、国境をまたぐ通信手段が手紙以外に存在せず、概念共有イデア・コネクト使役獣エンプロイメント・ビーストによる情報伝達は、国内での送受信に限定されていた。

 従って、『訶梨帝母』の必死の要請がヘルムホルツ共和国あるいはミッドランド王国から、アムラン王国に向けた緊急公電として外交ルートで発信されても、互いの官僚機構の窓口経由で伝わることになる。

 そして、外交ルートという複雑怪奇な伝達経路の常で、発信から相手に届くまでに様々な関係各署の意図が絡み合うことから、緊急といえども一日近く経過することがあった。

 実際、ヘルムホルツによる緊急公電は、半日かかってやっと天帝の元に届いているが、それでも速いほうだと言ってよい。

 ところが、アムランに限っては、別な情報伝達ルートが存在する。

 一般には知られていないが、アムランは他国同士の紛争であっても、視覚情報発信ビジュアル・インフォメーション・パッシブ系の使役獣を現場に忍び込ませていた。

 ここで言う「視覚情報」には音声も含まれている。ほぼリアルタイムの衛星放送に等しいから、今回のような早業が実現できたのだ。

 視覚情報受信ビジュアル・インフォメーション・レシーブ系使役獣の待機場所ターミナルはアムランの王宮内にもあり、そこで受信された情報は切り分けられ、速やかに必要な部署に転送される。

 今回は天帝個人を名指しした要請であったことから、彼の世話役コンシェルジュに届けられた。


 土石系武装妖精サンドロック・アームド・ピクシーのヴィルーダカから第一報を聞いた天帝は、思わず椅子から立ち上がった。

 いつもは春の海のように望洋としているその顔が、硬く引き締まる。

 彼はうつむいてしばし考え込むと、

「ヴィルーダカ、『インドラ』の準備は?」

 と、彼女に短い言葉で尋ねた。

 その時、ヴィルーダカは眼を閉じ、沈思黙考していた彼のほうに顔を向けて、背筋を伸ばして彼の前方右前の空間に正座していた。

 彼女は長い黒髪を微かに揺らしながら、頭を傾ける。共有概念経由で照会するために一呼吸分の間が開き、その後、彼女は

「完了しております、御主人様マスター

 と答えた。さらに続けて、

「ヴァイシュラヴァナ、ヴィルーパークシャ、ドゥリタラーシュトラに同期済みです。全員、格納庫に急行しております」

 と補足した。

 天帝は顔を上げて微笑む。

「了解。さすがはヴィルーダカだね、話が早くてとても助かる。どうも有り難う」

 という大袈裟とも思える言葉で、彼はヴィルーダカの機転を褒めた。彼女は顔を赤らめて下を向く。

 もちろん、褒められることは誰でも嬉しい。しかし、天帝のその過剰な褒め方は、彼女にとってかけがえのない宝物なのだ。

 彼は、ヴィルーダカに対してだけ、感情を大袈裟に言葉で表現してくれる。そうすることがヴィルーダカへの配慮になることを、彼はちゃんと理解しているのだ。 

「ヴィルーダカ、行くよ」

「はい」

 いつもの合図があって、いつものように天帝の手がヴィルーダカを優しく包み込む。彼の服の胸部分にはヴィルーダカ専用のポケットがあり、彼女はいつものようにそこに収まった。

「走るよ」

「はい」

 天帝は動作を始める前に、いつものようにヴィルーダカに声をかけると、執務室を出て勢いよく走り出した。

 彼が王宮内を走り回っているのは、いつものことである。ただ、顔にあたる風の強さや振動から、その時の走る速度がいつもよりも格段に速いことに、ヴィルーダカは気づいた。

 実際、この時の天帝の異常な速さは、後々まで王宮内で語り草となる。

 彼女は戸惑いながらも、ポケットの端をしっかりと握り締めた。


 アムラン王国が他国に対して、その存在を厳重に秘匿している組織がある。

 その名を「シャクラ」という。緻密な諜報活動と迅速な情報伝達を旨とする秘密組織で、これは天帝が国王に謁見を許された際に、設置を直接献策したものだった。


 通常であれば、地球ガイアから転写トランスレートされた人間が、国王あるいは王族の一人に謁見することは有り得ない。

 これは別に、地球人に対するボルザ人の偏見によるものではなく、転写初期の概念汚染イデア・ポリューションが引き起こした、ある王族の悲劇から導き出された教訓だ。

 その後の研究により、教授プロフェッサーの右眼に生じた同期シンクロナイズのような魔法結合が行われなければ、同じ場にいても深刻な概念汚染が個人間に生じることはない、と判明している。

 しかし、万が一にも危険を冒したくないのが官僚という存在であり、それは地球でもボルザでも変わりはない。だから、地球人とボルザの貴族が、席を同じくして親しく交わることは殆どなかった。

 ミッドランド王国における教授は、王宮での会議に同席することを許された稀な例ではあったが、実際に彼女が置かれた状況はさほど変わりがない。

 会議に出席してはいたものの、常に隣席に座っている筆頭大神官チーフ・グランドマスターのグイネルが、共有概念コモン・イデアへの結合経路を遮断サスペンドしていた。

 貴族の会議は、ともすれば己の権力の源泉である支持層の権益を守るために、議論が細部に入り込む傾向にある。

 例えば、商工会の代表者は重商主義を取ろうとするし、農民代表は重農主義を貫こうとする。騎士代表は軍備拡張に走り、金庫番は予算を出し渋る。

 そうなると、共有概念なしでは肝心の発言者の支持基盤などの背景が分からないため、議論の筋道すら追うことが出来ない。

 彼女はそれに強い不満を感じており、たまに会議後に荒れ狂っていたのはそのせいであった。

 この点からいえば、ミッドランド王国のライナ姫はかなり異質な考えの持ち主だった訳だが、どうしてそうなったのかは追々言及する。


 さて、当時のアムラン国王がまた、破格の存在だった。

 後世、常に『賢王』という尊称を伴ってその名を呼ばれることになるヴィレム一世が、先王の急死により若くして国王に即位した直後である。

 戦場における天帝インドラの目覚ましい功績を聞きつけた若き賢王ヴィレムは、「是非、天帝に会って話がしたい」と若さゆえの気紛れから要望した。

 官僚組織といえども、国王の要望を無下に却下することはできない。

 何度か議論が行われて、最終的に筆頭大神官が同席して共有概念への結合経路を遮断し、謁見を短時間で済ませるという約束で、それは実現した。

 その冒頭、いきなり賢王ヴィレムは天帝に対してこう言い放ったという。

「今回は実に大義であった。ついては褒賞について何か貴殿から要望はないか?」

 国王が直接、褒賞の希望を臣下に問うというのは、前代未聞の話である。

 それに対して天帝は、物おじすることなく、

「それでは、私にこんな組織を作らせて下さい」

 と、こちらも即座に言い放った。

 その場にいた全員が呆気にとられて、制止することができないうちに、彼は滔々とシャクラに関する基本構想をぶちまける。

 いまだ政治の腐敗臭に犯されておらず、前例主義にも形式主義にも陥ってもいなかった賢王ヴィレムは、その率直な献策をむしろ面白がった。

 天帝にシャクラの設立を許可すると、

「ただし、貴殿が組織の長に就任することが絶対条件である」

 と、笑って釘を刺す。

 その後も、国王と天帝によるシャクラに関する細かい意見交換は続き、最終的に謁見が終了したのは、予定時間を四時間近く超過した後だった。


 こうしてシャクラの長官に就任した天帝は、前代未聞の組織運営に乗り出した。

 まず彼は、地球人とボルザ人の別を問わず、優秀な人材とみるや組織に取り込み、徹底的に諜報技術を仕込んだ。

 最初のうちは地球人の指示に従うことを嫌がるボルザ人も、天帝に圧倒的な力の差を見せつけられて次第に納得するようになる。それどころか、最期には心酔するようになった。

 そうやって手なずけ、鍛え上げた諜報員達がある一定水準まで達したところで、天帝は彼らを野に放った。

 但し、地球人は短期の探索任務、ボルザ人は長期の潜入任務につくことが多い。

 外見上、地球人とボルザ人にはそう大きな相違点はないのだが、どんなに注意深く振る舞ったとしても、ボルザ人に地球人であることを隠し通すことは難しいからだ。

 日本人、中国人、韓国人の違いが他の地域の者には判別不能であるのに、その地域に住む者にとっては自明のことに思われるのと同じことである。

 また、諜報員は組織に属する間、情報漏洩を避けるために共有概念の利用を禁止される。長官である天帝も例外ではなく、彼がヴィルーダカから第一報を聞いていたのは、そのような事情があったからだ。

 シャクラの諜報員が収集した情報は、共有概念から完全分離された固有概念パーソナル・イデアを通じて他のシャクラ諜報員に共有され、さらに関連した情報が収集されるようになる。

 その情報がいつの間にか膨大かつ詳細なデータベースとなり、その分析によってアムランは常に時流の一歩先を行くことが出来るようになった。

 このような情報収集による優位性は、物理的軍事力のそれと匹敵する。

 これによりアムラン王国と他の二大国との力関係は大幅に改善され、いまやアムランはラムザール大陸制覇の最有力候補となっていた。

 天帝はその功績をもって、王国内の地位を盤石のものにしてゆく。地球ガイア人であるにもかかわらず、彼は今や王が最も信頼するアムラン王国の重臣の一人だった。


 従って、敵も多い。


 *


『インドラ』は格納庫の真ん中に、まるで王国の守護神のように置かれていた。

 もともと黒色の生体装甲バイオ・アーマー全体が、粉をふいたように白くなっている。これは、長期間起動していない生体装甲に見られる普通の現象で、個蟲ゾイドの新陳代謝によるものだった。

 生体装甲の動力源は、主に生体融合者パイロットの生体エネルギーだが、長期間稼働していない場合には、装甲を構成している個蟲自身が少しずつエネルギーに変換されている。

 エネルギーを搾り取られた個蟲の身体は、残りかすとして装甲の表面に蓄積して、最期には乾燥して白い粉になった。

 主を失った生体装甲も同様で、最後には必ず土に帰る。外部角質アウター・ケラチン化した場合であっても、時間は多めにかかるものの最後には粉になる。

 生体装甲一体分が完全に粉末化するまでには百年近い時間が必要だと言われていた。

『インドラ』は定期的に個蟲を補充されていたから、生体装甲自体が萎んでいる訳ではなかったが、たまに演習で動かすだけであったから、粉は溜まる一方である。

 実戦からも離れて久しいため、現在の実力を疑問視する声もあったが、天帝自身にとっては大した問題ではなかった。


 彼が格納庫に到着した時には、生体装甲の両肩に武装妖精アーマード・ピクシーが一体ずつ乗っていた。ヴィルーダカもそのことを共有概念経由で確認した。

 右肩に立っていたのは、雷撃系武装妖精ライトニング・アームド・ピクシーのヴァイシュラヴァナである。

 人間でいえば成人寸前の青年のような外観で、金髪を短く刈り込み、痩せて見えるが実際は鋼のように鍛え上げた身体を、黄色い僧衣のような衣で覆っていた。

 非常に無口で、ヴィルーダカにとっては苦手なタイプだったが、一緒に居る時には努めて気配を明示してくれるようなので助かっていた。

 左肩に座っているのは、氷結系武装妖精アイス・アームド・ピクシーのドゥリタラーシュトラで、こちらはヴァイシュラヴァナと対照的に穏やかな性格の中年女性である。

 ふくよかな身体を水色のエプロンで包み、始終動きまわっては何か片付け物をしていた。

 ヴィルーダカには、彼女のほうが世話役に相応しいように思える。

 事実、ヴィルーダカの前にはドゥリタラーシュトラが世話役をしていたのだが、天帝はあまり面倒を見られるのも苦手らしい。

 ただ、一週間に一回の執務室と個室の掃除だけはドゥリタラーシュトラにより強制執行されていた。

「ヴィルーパークシャはまだ来ていないようですね」

 その場の気配を読んでいたヴィルーダカは、ドゥリタラーシュトラに向かって尋ねる。

「私も来る途中、気をつけて見てはきたんだけど、どこにもいなかったわね」

 ドゥリタラーシュトラは右手の人差し指を頬に押し当て、首を傾げながら言った。

「あの子のことだから、いつものように修行後の着替えに手間取っているんだろうけどね」

 彼女は、天帝と同様にヴィルーパークシャのことも常に気にかけていた。


 武装妖精の服は微弱魔法のお陰で、殆ど破れたり、汚れたりすることがない。そして妖精は新陳代謝を行わないので、同じものを着続けていても支障はなかった。

 実際、ヴァイシュラヴァナはいつも同じ服を着ていた。

 ドゥリタラーシュトラとヴィルーダカは一日一回、着替えをしているけれど、二人のそれは単なる習慣に過ぎない。

 ところが火炎系武装妖精フレーム・アームド・ピクシーのヴィルーパークシャは、頻繁に着替えをした。

 本人曰く、

「物事が終わった時のけじめだよ」

 ということだったが、その時間差で緊急招集時には彼女が一番最後に姿を現わすことになる。しかし、他の三人が早過ぎるだけで、彼女がやってくる時間は他の御主人様の武装妖精よりも格段に早かった。

 外見は、人間でいえば高校生ぐらいの少女。

 いつも武術の修行をしているが、彼女の身体のサイズではそれに何の意味があるのか疑問である。しかし、本人は実用性を特に気にしていなかった。

 裏表のない直情径行な娘なので、ヴィルーダカにとっては非常に分かりやすくてやりやすい相手である。


 さほど待つことなくヴィルーパークシャはやってきた。

「遅れてすいませーん」

 癖のある赤毛を盛大に振り乱し、大きな声で謝罪ながら飛んできた彼女を見て、ドゥリタラーシュトラは溜息をつく。

 赤いワンピースを大慌てで被ったらしく、布ががところどころよれて皺になっていたので、ドゥリタラーシュトラは『インドラ』の左肩から降りてヴィルーパークシャに近付くと、丁寧に伸ばした。

「有り難うございます。助かります」

 身体を動かさないように注意しながら、ヴィルーパークシャが礼を言う。

 基本的に誰にでもフランクなヴィルーパークシャだが、何故か天帝とドゥリタラーシュトラに限って、丁寧語で話す。だからといって距離を置いた関係というわけではない。

 これもまた彼女特有の癖で、自分が人生の師と感じる人間には、親しくなるほど礼儀を尽くさずにはいられなくなるのだ。

「これで大丈夫よ」

 ドゥリタラーシュトラは満足そうな眼で、ヴィルーパークシャを眺めた。

 そんな二人のやりとりの向こうでは、天帝がヴァイシュラヴァナとともに『インドラ』のチェックを済ませて、搭乗準備に取りかかっていた。

 といっても、服を脱ぐだけのことである。衣擦れの音に気が付いたドゥリタラーシュトラが、いそいそと服と靴を回収し、『インドラ』の傍らに置かれた箱に収納した。

 ヴィルーダカはその様子をぼんやりと共有概念経由で知覚していた。戦闘準備となると、彼女に出来ることは何もない。みんなの邪魔にならないように、服を入れた箱の傍らに移動する。

 天帝が『インドラ』の触手に絡め取られた音がした。少しだけ間があって、

「ヴァイ、ヴィル、ドゥリ、指示待状態コマンド・モードに移行」

 という天帝の指示とともに、ヴァイシュラヴァナ、ヴィルーパークシャ、ドゥリタラーシュトラは壺のような形に変形する。

「じゃあ、ヴィルーダカ、行ってくるよ」

 そう言いながら、天帝は『インドラ』を起動した。生体装甲の表面から、細かい粉が煙のように舞い上がる。

「いってらっしゃいませ」

 ヴィルーダカは声がした方向に頭を下げた。


 それと同時に、彼女のうなじを刺激する”気配”があった。


 共有概念への着信である。

 彼女は声を張り上げた。

御主人様マスター、第二報です!」

 その声が聞こえたらしい。

『インドラ』の巨大な足の動きが途中で止まる気配がして、頭上から、

「どんな内容だい、ヴィルーダカ?」

 という天帝の声が聞こえてきた。

 その声が、彼にしては珍しいことに少しだけ動揺しているように、ヴィルーダカには思えたが、

「緊急とあります。ここで読み上げても構いませんか?」

 と、指示を仰ぐだけに留める。

「構わないよ。なんとなく内容の想像はつくから大丈夫」

「分かりました」

 ヴィルーダカは天帝宛のメッセージを世話役権限で開封し、中にあった簡潔なメッセージを読み上げた。


「『訶梨帝母』敗れる。相手は『神白狼ヂンパイロウ』」


 しばし、格納庫内に静寂が落ちる。

 続いて、天帝は大きく息を吐いた。

「そうか――彼女が僕以外の人間に斃されるなんて驚きだよ」

 そう努めて明るく言い切った彼の声には、明らかに悲しみの色が込められていた。

 天帝と訶梨帝母が古くからの知り合いであることは、ヴィルーダカも知っている。

 それどころか、ヴィルーダカは以前、訶梨帝母本人に直接会ったことがあるのだ。


 *


 半年ほど前のことである。

 天帝が突然、

「人に会いたくなったので、ちょっと一緒に来てほしいんだけど、いいかな?」

 と言い出したことがあった。

 ヴィルーダカは天帝の従者であり世話役であるから、一緒に来いと言われれば嫌も応もない。しかし、彼は必ずこんなお願いをするような言い方をする。

「はい。あの――何か準備しなければいけないものはありますか?」

 彼女は即答し、さらに注意を喚起した。そうしないと、天帝はどんな時でも、どんなことでも、準備もなしに試みようとする。


 例えば――これはヴィルーダカがドゥリタラーシュトラから直接聞いた話だが――ドゥリタラーシュトラが世話役だった頃、ある日突然、天帝が姿を消した。

 世話役は御主人様と常に行動を共にしているから、その隙を突くのはかなり難しい。

 しかも、相手がドゥリタラーシュトラともなれば不可能に近いはずなのだが、彼女が気がついた時には彼は執務室の机の前から姿を消しており、机の上には、

「ちょっと修行してくるから心配しないでね」

 という簡単な書置きが残されていたという。

 これもある意味、御主人様からの指示になるから、ドゥリタラーシュトラとしては待つしかない。

 それに天帝のことだから、無事に帰ってくるに違いないと、彼女は溜息をついて、一応なくなっているものを確認した。

 彼が持っていった物を調べれば、どこへ何をしに行ったのかなんとなく分かるかもしれない、と思ったからだ。しっかり者のドゥリタラーシュトラは、どこに何があるか完璧に把握している。

 その作業に着手してしばらくしたところで、彼女は確信した。

「御主人様は何も持っていかなかった……」

 驚くべきことだった。

 確かに、生体装甲に乗っている時でなければ空腹に陥っても喰人化する危険性はないのだが、それ以前に生命の危険がある。

 ドゥリタラーシュトラは天帝の行き先を関係先にあたってみたが、誰も彼の居所を知らない。

 そのまま三日が経過して、天帝は姿を消した時と同じく唐突に帰ってきた。自室に戻ってドゥリタラーシュトラの顔を見た彼は驚いた。

 三日の間に、彼女は心労から別人のように痩せてしまっていた。小太りで陽気なおばさんから、はかなげな雰囲気を漂わせた美貌の貴婦人と化していたドゥリタラーシュトラは、天帝を悲しそうな眼で見つめて、

「お願いですから、金輪際何も言わずに姿を消すのだけはおやめください」

 と、か細い声で言った。さすがの天帝も即座にそれを約束したという。

「以降は、さすがに行き先と日数ぐらいは言ってから姿を消して頂けるようになりましたね」

 そう言って、ドゥリタラーシュトラは笑っていた。


 アムラン国内は使役獣による定期路線が就航しているので、国境まではそれを使って移動した。

 天帝はアムラン王宮においては重臣だったが、一般のボルザ人が彼のことを知っているわけではない。かといって、全くの無名でもない。

 また、市井に生きる地球人が皆無というわけではなかったが、極めて珍しい。生体装甲は戦いの道具であり、生体融合者は軍属である。それから離脱して異世界で生きてゆくことは難しいのだ。

 従って、地球人であることが分かるといろいろと面倒だから、大きな布で容姿を隠した上で動作にも気を使う。ヴィルーダカもポケットの中で息を潜めていた。

 国境まで移動した後、警備の隙を突いて国境線を突破。言葉で表現すると実に簡単だが、実行するのは極めて難しい。ところが天帝はそれを言葉のように容易く実行した。

 人目を気にしなくてもよくなったので、ヴィルーダカはポケットから顔を出した。頬に当たる風が街中よりも冷たいように感じた。

 見つかればただではすまない隠密行動ながら、天帝はただの観光旅行のようにリラックスしている。

 ヴィルーダカも楽しかった。武装妖精は他国に侵攻する以外に長距離移動の機会はないので、この隠密行動自体が貴重な体験だったが、それ以上に天帝が生き生きとしているのが嬉しかった。

 王国内ではどこで誰が彼の話を聞いているのか分からない。それはシャクラの長官である天帝自身がよく理解している。しかし、国境を越えてしまえば気にする必要はない。

 野山を矢のように走りながら、天帝はいろいろな話をヴィルーダカにしてくれた。

 とても信じられないような地球での生活――鉄の塊が空を飛び、大陸の端から端まで瞬時に声が飛び交うというその世界は、ヴィルーダカにとってボルザ以上の魔法世界に思えた。

 彼の親や兄のこと――それを話す時の、穏やかな天帝の声に胸が締め付けられる思いがした。

 ヴィルーダカは改めて理解する。彼はボルザの戦のためにつれてこられたのだ。そのことをさほど恨んでいるわけでもない彼が不思議でならないのだが、ヴィルーダカは密かに感謝する。

 そうでなければ彼に会うことは出来なかった。

 途中で野宿した。

 周辺から薪を集めてきて、上に木々の枝が密集している場所を選んで火をつける。こうすると煙が目立たなくなるらしい。

 天帝のポケットの中にいるヴィルーダカは体温で暖められていたが、天帝自身は寒いのだろう。彼女はなんだか申し訳なく思った。

 火というのは面白い働きをする。心の中身が表に出やすくなるのだ。

 ここまで行き先について何も語らなかった天帝が、聞かれてもいないのに呟いた。

「これから会いにいく人は、向こうでも知り合いだった人なんだ」

 ヴィルーダカは驚く。他国の地球人のところにそう簡単に遊びに行けるものではない。

「その方も生体装甲の融合者なのですか?」

「そうだよ。ヘルムホルツの訶梨帝母さ。君も名前は聞いたことがあるだろう?」

 ヴィルーダカはさらに驚く。よりにもよって彼の最大の敵と呼ばれている女性である。

「あの、大丈夫なのですか?」

「ああ、そうだよね。なにしろ今は敵同士だからね。でも、大丈夫。彼女はそういう人ではないから」

 そう語る天帝の声は、実に懐かしそうだった。


 *


「誰だい?」

 鋭い声にヴィルーダカは少しだけ身体が震えた。

「僕だよ」

「ああ、なんだい。お前さんかい」

 途端に声が和らぐ。

「しょうがないねえ。他の者に見つかったら大騒ぎになるじゃないか。お前さんはそれでも問題はなかろうが、私の部下が危険だろう?」

「ごめん」

「久しぶりだねえ。前は私の遠征先だったね」

「そうだね。もう一年も前だったかな」

「そうそう。それにしても助かるよ。そろそろ誰かに愚痴を言いたくて仕方がなかったんだ。お前さんなら気兼ねなく話が――おや?」

 そこで話が不自然に途切れた。ヴィルーダカは訶梨帝母の視線が自分のほうに向いているのを感じた。いつもの反応である。


 ヴィルーダカは眼が見えない。


 これは、過去の戦闘で受けた怪我による後天的なもので、彼女の眼があった位置には一本の醜い傷跡が今でも残っている。

 彼女の顔を見てそのことに気がついた者は、傷に対する嫌悪であったり、眼が見えないことへの憐憫であったり、その複合であったり、ともかくマイナスの感情を抱かずにはいられない。

 それは、長く続くこともあれば、一瞬で終わることもある。

 いずれにしてもヴィルーダカにとってはつらい一瞬である。

 彼女は身体を硬くして身構えた。

 ところが、訶梨帝母の反応はそのいずれでもなかった。

「こんにちわ、貴方が今の彼の世話役かい? この面倒な男の世話は、さぞかし大変だろうね。日々の苦労がしのばれるよ」

 そう言って彼女は笑った。暖かくて明るい、マイナス面を含まない笑い声だった。

「しかし、お前さんの周囲にいる女は相変わらずだねえ。見た目はとても可愛らしいのに、芯がしっかりしているのばっかりだ」

「あはは、そうだね。この子はヴィルーダカという名前なんだ」

「ヴィルーダカ? それって確か――」

「あ、いや。彼女にはまだ教えていないよ。それに彼女は非戦闘員なんだよ。事情があって、僕と他の武装妖精は共有概念が使えないから、彼女が橋渡し役になってくれているんだ」

「そうなのかい。まあ、その事情っていうのは私にはよく分からないけど。じゃあ、本当にヴィルーダカは世話役だけなんだ。それじゃあさらに大変だねえ」

 そう言って彼女は大笑いした。

 ヴィルーダカは二人の会話を聞きながら、ずっと下を向いていた。顔が赤くなっているのが自分でも分かった。

 訶梨帝母の「見た目はとても可愛らしいのに、芯がしっかりしている」という言葉が、なんだかとても嬉しかった。

 顔の傷について、自分では気にしないようにしていたつもりだったのに、どこかで引け目を感じていたのだろう。

 それを、そんな風に軽やかに無視された上で、さらに褒められるとは思ってもみなかった。

 しかもお世辞ではない。訶梨帝母は本気でそう言っていた。眼が見えなくなってしまった代わりに、ヴィルーダカには言葉の裏にある感情がよく読み取れるようになっていたので分かる。

 だから余計に嬉しかった。嬉しすぎて、二人の会話にある不審な部分を聞き逃してしまったほどだった。


 *


 第二報を読み上げながら、ヴィルーダカはその時の訶梨帝母の言葉を思い出す。

 彼女も悲しかった。その後も、訶梨帝母はヴィルーダカに気兼ねすることなく接してくれた。天帝と仲間の武装妖精以外に、彼女に傷のことを意識させることなく接してくれたのは、訶梨帝母だけだ。

『インドラ』の装甲がずれて、湿っぽい音とともに天帝が中から吐き出されるのを、ヴィルーダカは感じた。

 彼が生体装甲に乗ったのは、五年以上前のことだったと聞いている。恐らく、その後の時間経過が個蟲によって巻き戻され、彼は転写時の姿に戻っているだろう。

 他の騎士の配下にあった時に、ヴィルーダカは天帝を戦場で目撃していた。その時と寸分違わぬ姿に違いない。

「『神白狼』か――これはますます彼に違いない」

 天帝は微笑みながらそう呟いた。

「昔の借りを返させてもらうよ、『白狼ホワイトウルフ』」

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