第四話 姫君混乱(プリンセス・コンフュージョン)

 個蟲ゾイド達は作業に没頭していた。

 生体装甲が動いている間はリアルタイムの処理をこなすことで忙しく、新たな作業に手を出している余裕はなかったが、今は待機中であるから集中して取り組むことが出来る。

 個蟲は凝集し、機能分化し、連携機能を追加していた。

 共生生物である彼らは、宿主の能力を解析して、それが最も効率的に生体装甲に反映されるように外部組織を作り上げる。

 例えば筋組織。

 宿主の神経を流れる信号は、宿主に差し込まれた個蟲の神経によって途中で感知され、増幅され、加速されて生体装甲の全身に伝達されてゆく。

 宿主本来の筋組織に伝達される速度よりも速いために、宿主は普段よりも身体が軽くなったような感じを受けた。

 あるいは水平感覚。

 三半規管の補助を行うバランサーが形成されて、生体装甲の姿勢を制御する。

 そうでなければ巨大な生体装甲の素早い動きから生じる加速度を、宿主本来の機能だけで処理し切れるはずがなかった。

 更に、個蟲達は宿主の生命維持のために最善を尽くす。

 体液を分泌して過激な加速度に対する緩衝材としたり、遠方を見るために視神経を調節したりする。

 細胞を急速再生して、宿主の身体を一定のバランスに保ち続けるのもその一つだ。

 そして今、これまでの生体装甲では決して生じることのなかった能力の延長が行われていた。より複雑な構造を有する組織の生成である。

 通常、宿主のその組織は外部延長を必要としないほどの余裕を持っている。従って、個蟲は補助機能を追加することはあっても、その機能を外部化しようとは考えなかった。

 しかし、その特定の生体装甲を操る宿主に限っては、特殊要因から機能に負担がかかっていた。そのため、個蟲達はその機能を外部化する必要があると判断したのだ。

 もちろん個蟲は群体であるから、いずれかの個体が高度な判断を下している訳ではない。集合体としてその負荷を感じて、反射的に外部機能を追加しているだけのことである。

 個蟲は凝集し、機能分化し、連携機能を追加していた。

 ただし、その機能が有効活用されるようになるまでには、今しばらく時間が必要だった。


 *


 ――またか。

 安藤彩は腕組みをして、目の前に座り仏頂面をしている少女を見つめた。

 仕方がないとは思うものの、自分の置かれている状況が全く分かっていない彼女に、彩は苛立つ。今は我儘を言っても、誰かがそれを叶えてくれる状況にはないのだ。

 彩は大きく息を吐くと、いつものように道理を説き始めた。

「お口に合わないかもしれませんが、私達が今出来ることはこれぐらいなのです。それを理解して頂かないと困ります」

 少女の目の前には朝食が並んでいる。それは明け方から彩とアイリスが準備したもので、簡素ではあるもののそれなりに手が込んでいた。

 使われている食材の大半は、ジェイムスとアイリスが育てた野菜である。形や大きさが不揃いで、調理する時に手間がかかるものだったが、中身が詰まっていて味が濃かった。

 ミッドランド王国の地球人用厨房では、見た目が地球の料理に近くなるように拘って調理していたために、味のほうがアンバランスになってしまった。

 しかし、ボルザ人が普通に食べている料理と同じ手順で作り、エスニックのようなものと割り切って食べれば、それなりに美味しい。

 ところがライナ姫はそれを受け付けなかった。

「食べたくないのです」

 彼女は眉を顰め、堅い声でそう言う。

 彩も同じく眉を顰めたが、内心では別なことを考えていた。

 ライナ姫はボルザ生まれであり、ミッドランド王宮に住んでいた。食事も王宮でとっていたはずである。宮廷料理と家庭料理の違いはあるだろうが、ボルザ人が普段食べている料理を食べられないはずがない。

 平成年代の日本人である雄一や彩が、

「見た目の違和感から、どうしても食欲がわかない」

 と言うのであれば、まだ話は分かる。姫君のそれは我儘としか言いようがなかった。

 アルスメニアのジェイムズとアイリスの家にお世話になってから、そろそろ二週間が経過しようとしているのに、その間ライナ姫は真面に食事をとろうとしなかった。

 さすがに空腹に耐えられなくなると少しぐらいは食べるものの、それでも小鳥がついばむ程度の量である。

 次第に痩せてゆくライナ姫の姿を見ているのが辛いため、彩の言葉は思わず厳しいものになっていたが、姫は頑として彩の忠告を聞こうとしない。

「食べたくないのです!」

 ライナ姫はそう言うと席を立ち、どこにそんな余力が残っていたのかと思うような勢いで家から走り出る。

「あ、待って」

「御主人様、私も参ります」

 ライナ姫の後を雄一が急いで追いかけ、それにエリイが追随する。更にアイリスが、軽い身のこなしで無言のまま後に続いた。

 彩もそれに続こうとしたが、

「待ちたまえ。今君が行っても、何の役にも立つまい」

 という、ジェイムズの穏やかな声に押し留められる。

「――確かにその通りです。申し訳ございません、朝から大騒ぎになってしまって」

 彩はジェイムズに頭を下げた。するとジェイムズは、

「別に謝らなくていいよ。君達をここに留めたのは私だからな」

 と言って笑った。それで彩は思い出した。

「では、ご迷惑ついでに質問させて頂いても宜しいでしょうか。ここにお邪魔することになってから、何かと忙しくて聞きそびれていたことがあるのですが」

 そう言うと、彼女は食卓の椅子に再び腰を下ろして、ジェイムズの顔を見つめる。

「今はアイリスさんがおりませんから、正直に答えて頂けますか、ジエイムズさん。貴方は地球人ですよね」

「それはもう既に分かっていることではないのかな」

「それを、あえてご本人の口から聞きたいのです」

 ノラが彩の剣幕に驚いて、空中で身を縮こまらせている。彩の視界にはその様子が見えていたのだが、彼女はそれでも強い視線でジェイムズを見据えた。

 彼は溜息をつき、そして言った。

「確かに、私は地球人だよ」

 初めて出会ったあの日、彩と雄一は滝壺の底に眠る黒い生体装甲を見ていた。だから、彼が地球人であることは確かに分かっていた。

 しかし、そうなると別な疑問が生じてくる。

「どうして貴方はいずれかの国の軍ではなく、アルスメニアの普通の村に住んでいるのですか? 私に考えられるのは、ミツドランドの前にヘルムホルツに併合された国の生体装甲部隊所属だったという可能性ですが、それでは最近すぎて時期があいません。どう考えても、ここにはかなり前から住んでいるように見えます。それに、この国には生体装甲部隊が存在していないはずではありませんか?」

「……」

 ジェイムズは黙って彩を見つめた。目の奥底に強い光が灯る。

「しかも、貴方はライナ姫のことを以前から知っていたようですが、どうしてボルザ人である姫君と地球人である貴方に接点があるのですか」

 彩が畳みかけるようにそう言った時、ジェイムズの目が一瞬だけ戸惑いを見せた。

「そうか。君は知らないのだな」

 そう言ってしまってから、ジェイムズの顔に「しまった」という動揺が浮かぶ。彩は女優であったから、人の表情に現れる本音を見逃さない。

「知らないとはどういう意味ですか。私が何を知らないというのですか」

 追及の手を緩めることなくジェイムズに問いかける。


 二人は暫く、無言のまま睨みあった。


 しかし、こういう根競べは女性のほうが強い。ジェイムズはやれやれという顔をして言った。

「君は中国人チャイニーズかね?」

日本人ジヤパニイズです!」

「やれやれ。日本人女性は物静かで、穏やかで、優しいと聞いていたのだがな。考え方を改める必要がありそうだ」

「それは都市伝説です。あるいは絶滅危惧種です。それに、話を逸らそうとしても無駄ですよ」

「そんなつもりはないよ。ただね――」

 ジェイムズは元の落ち着いた表情に戻り、

「――知らないほうがよいことも世の中には存在するのだよ。もし、私が君達に真実を話した場合、君達は命を狙われることになるが、それでも構わないかね」

 と、静かな口調で怖いことを言った。そして、それが決して脅しでないことが、彩にはよく分かった。

「私達は既にヘルムホルツ共和国軍から追われている身です。これ以上、何を恐れろと言うのですか」

「確率の問題だよ。私の話を聞いてしまったら、君達の生存確率はさらに小さくなると言っているのだ」

 ジェイムズは、数学の授業で方程式の説明をするような口調で言った。

 彩も、確かにその通りかもしれない、と納得するものの、

「では、私だけが話を伺って、雄一君には黙っていることに致しましょう」

 と言い切った。

 ジェイムズの眉が上がる。

「君と彼は一体どういう関係なのかね。恋人同士というほど親密ではなさそうだし、戦友にしては君のその態度は親密すぎる」

 彩の顔は強張った。

「それを聞くと、貴方の生存確率がかなり下がりますが、それでもお聞きになりますか?」

「いやいや、遠慮しておくよ。それにしても、彼の身を心配して自分だけがリスクを負うとは、大した心がけだな」

 ジェイムズは感心したように言った。

 つまり、彩はジェイムズの言う「真実」を自分だけが背負うことで、何も知らない雄一に危害が及ぶことは避け、知らなかったことで生じる齟齬を回避しようとしているのだ。

 実はこの時点で、ジェイムズの件とは比較にならないほどの脅威を、雄一は既に引き付けていたのだが、二人はそのことを知らなかった。

 彩は、少しだけ顔を赤らめて言った。

「そんな大層な話ではありません。雄一君はもう既に、十分すぎるほどの重荷を背負っているのです。ですからこれ以上、彼に負担をかけたくありません」

「ふうむ、その辺の詳しい事情は知らんが、まあよかろう」

 ジェイムズは手元の器から水を飲むと、

「さて、どこから話し始めたものやら――」

 と、しばし考えをまとめている様子を見せた。

 その間に、彩はノラに言った。

「ノラ、貴方もこの件は聞かないほうがよいです。貴方は嘘がつけませんからね。暫く自我核アイデンテイテイ・コアで待機して下さい」

「分かりましたが……御主人様、お気をつけて」

 彩は心配そうなノラの姿を見て、少しだけ驚いた。

「あ、ああ、大丈夫よ。終わったらすぐに呼びますからね」

「はい、それでは待機に入ります」

 そう言うと、ノラは食卓の上に降りて、小さな声で何事かを呟いた。

 直後、彼女の全身から青い光が放出される。そしてそれはノラの周囲を球状に包み込むと、一気に収縮した。

 光が収まった後には青い結晶体が残される。それは朝日を浴びて輝いていた。

 彩はその輝きを見つめながら、

 ――まったく雄一君ときたら。

 と、苦笑した。正しくは雄一の従者ジウサ達の影響なのだが、そもそもの発信源は雄一である。

 ――あの、優等生で、生真面目で、融通の利かなかったノラが、なんだか最近柔らかくなってきた。

「どうした。随分と楽しそうな顔をしているが」

 ジェイムズにそう言われて、彩は我に帰る。

「いえ、別に何でもありません。それで、考えはまとまったのですか」

「ああ、やはりここから話をしようと思う」

 ジェイムズは背筋を伸ばして彩のほうを見つめると、口調を変えて話を始めた。


「私は、ライナ王女暗殺の命を受けて隠密行動を開始した」


 *


「どこにも姫様の姿は見当たりません。御主人様」

 その思念と共に、エリイが上空からの静止画像を送ってきた。

「本当にどこに行ってしまったんだろう」

 雄一は頭の中で静止画像を確認しながら、リアルな視界の中でライナ姫の姿を探す。

「ここでは共有概念が使えないんだから、道に迷うと危険なのに」

 彼は焦った。

 そもそも彼らはお尋ね者であり、この国においては異分子でしかない。

 そして、ミッドランド王国が崩壊してからというもの、彼らは共有概念コモン・イデアに接続して情報を仕入れることが出来なくなっていた。

 御主人様と従者との間の情報伝達は、共有概念結合コモン・イデア・コネクトではなく受発信系神経結合レシーヴアンドパッシブ・ナーヴコネクトという、イントラネットのようなローカル接続である。

 従って、雄一とエリイはもちろん、共有概念が異なる天帝インドラとヴィルーダカの間でも意思疎通が可能であり、雄一と彩が生体装甲を経由してやりとりをすることも可能である。

 しかしながら、生体装甲から外に出た途端、以前は可能だった共有概念結合による生体融合者間の情報伝達は利用できなくなった。

 しかも、基本的に生体融合者は自分の心が漏れ出さないように自己防壁セルフ・デイフヱンスで発信系の神経結合を制限していたから、生体装甲という媒体なしでは連絡の取りようがない。

 無論、自己防壁を解除するか、直接接続ダイレクト・コネクトをすれば情報伝達は可能になるものの、前者の場合は全ての思考が表に出てしまうし、後者の場合は命がいくつあっても足りなかった。

 生体装甲同士の直接接続は、よほどの信頼関係がなければ自殺行為であり、人間同士の直接接続も似たようなものだ。


 ところで話は少々横に逸れる。

 雄一が現在話している言葉は、実は日本語ではなくボルザの共通言語(ボルザ語)である。

 ミッドランド王国の共有概念に結合出来なくなる前に、雄一と彩はボルザに関する基本的な事項を生体装甲の外部記憶に出来る限り取り込んだが、その中にはボルザ語も含まれていた。

 なぜなら、ミッドランド王国の生体融合者は日本語を基本言語に設定としていたが、他の国の生体融合者がそうだとは限らないからだ。共有概念がなければ言語の壁が立ちはだかることになる。

 それに、一般的なボルザ人はボルザ語しか使わないに違いないという考えから、彼らはボルザ語を基本言語に設定し直した。これなら、ボルザ人と共有概念に結合している地球人の両方に使える。

 ミッドランド王国で使われていた生体装甲関係の用語は、英語由来のものが戦国時代の武士の言葉に置き直された独特な発音であったから、共有概念が使えない雄一と彩の言葉にはそれが未だに残っている。

 既にヘルムホルツ共和国の共有概念に結合出来るようになった劉と琴音は、一般的な英語発音に更新されていた。


「早く見つけないと」

 雄一は周囲に細かく目を配りながら、森の中を駆け抜けていった。


 *


 その頃、ライナ姫は雄一が進んでいる方向とはジェイムズの家を挟んで反対方向にいた。

 家を出る時に、彼女は言語魔法ワアド・マジカの中の『反転画像』を呪文詠唱コマンド・ロオデイングし、逆の方角に向かう自分の姿を生成していたのである。

 雄一とエリイがそれを追って森に消えた後、彼女は更に『浮遊』の呪文詠唱を行なった。

 食事を満足にとっていない身体で機敏に動くことはできなかったし、魔法で移動できる範囲も限られている。それでもなんとか、生体装甲を隠した滝壺まで移動した。

 深い考えはない。ここしか知っている場所がなかったからである。

 反転画像に欺かれた雄一達も、少し考えればそれに気づくだろう。

 どのみち、彼女が独力で他の場所に行って生活することが出来る訳ではない。そのことは彼女自分がよく分かっている。ただ、腹いせに雄一を困らせたかっただけのことだ。

 すっかり体力が削られてしまった身体を、滝壺の周囲にあった岩の上に横たえて、ライナは空を見上げた。

「アイゼン、グイネル……」

 思わず、筆頭大神官チイフ・グランドマスタア達の名を口に出してしまうと、続いて涙がこみ上げてくる。


 ミッドランド王宮の中では主従の関係にあり、常に他の者の耳がある状態であるから命令口調か上から目線の言葉しか使えなかったが、ライナはアイゼンとグイネルを深く信頼していた。

 権謀術数が渦巻き、親族の間ですら信頼関係が成立しない王宮の中で、彼女が真に心を開くことが出来た相手は彼らだけである。

 母親であるゲルトフヱン・ミツドランドは、彼女が物心ついたと同時に命を落としていた。微妙な言い方だが、これは事実である。

 姫君と呼ばれながらも、実のところ彼女の父親が誰であるのかは不明だった。これも奇妙な話だが、真実である。

 それでも、母親の偉大な功績が彼女を周囲の冷たい視線から守っていた。そして、真実を知る三人のうちの二人がアイゼンとグイネルであり、彼らは徹底して具体的な脅威からライナを守り続けた。


 アイゼンがライナの傍を片時も離れなかったのは、ゲルトフヱンの遺言だからである。それは最初に会った時に、直接アイゼンから言われた。

「姫君の中にあるものを守れ、との御命令ですから」

 彼はその時、そんな言い方をした。随分と冷たい言い方である。決して「姫君を守れ」ではない。しかし、以降のアイゼンの献身的な行動は、その言葉を良い意味で裏切った。

 確かに、他国および国内の刺客から彼女の命を守ったことは、数えきれないほどある。ただ、それ以外の日常においても、アイゼンはライナ姫のよき理解者であり続けた。

 彼女はとある理由から、時にとても激しい感情を抑えきれなくなった。それは周囲の者に向って発せられることもあれば、自分自身に向かって発せられることもあった。

 それを身を挺して、時に自らが傷つくことすら躊躇わずに、アイゼンは制止し続けた。

 ライナが自分の胸に向かってナイフを突き立てようとしたところを、アイゼンが指数本を飛ばしながら刃を握って制止したことがある。治癒魔法があるから元通りに治るのだが、痛いものは痛い。

 ライナが猛獣の檻に身を投げ、その牙にかかる寸前に、アイゼンが身代わりとなって八つ裂きにされたこともある。これは相当危なかったらしく、暫くの間は治療施設から出てこなかった。


 その際、アイゼンの代わりにやってきたのがグイネルである。彼はライナの顔を見た途端にこう言った。

「今回のことで私は親同然の師匠を失いかけました。今だって師匠の近くにいたいんですがね、その師匠に頼まれたら仕方がありません。ただ、覚えといて下さい。俺は姫君よりも師匠のほうが大事ですから」

 随分な言い方である。そころが、そんな厳しいことを言ってのけた割には、グイネルの献身ぶりもかなりのものだった。

 流石にアイゼンの今回の件はやりすぎだったと反省していた姫君は、他人を巻き込まずに消える方法を模索した。

 幸いなことにというべきか、不幸なことにというべきか、彼女は魔法が使えたので方法は無数にあった。

 ある時は火炎魔法で部屋ごと自分を焼き払おうとした。即座にグイネルが鎮火魔法で、ベッドが黒こげになるレベルで押し留めたがその後でこっぴどく怒られた。

 ある時は王宮の庭で召喚魔法を使い、獰猛な使役獣を大量に呼び寄せた。これも即座にグイネルが返還魔法で跡形もなく消し去ったが、やはり盛大に怒られた。

 そんなことを繰り返しているうちに、アイゼンは戻ってきた。

 そして彼は戻ってきて早々に、こんなことを言った。

「姫君、グイネルを散々振り回したようですな。彼は私と入れ替わりに入院しました」

 詳しく話を聞いたところ、彼は姫君の行動を監視するために一睡もしなかったらしい。魔法でなんとか体力を維持していたそうだが、限界に近いほど憔悴していたという。

 見た目からは分からなかったので、彼女は驚いた。

「随分と役目に忠実なのだな」

 思わずそんな感想を口にしたところ、珍しくアイゼンが強い口調で言った。

「彼はこう申しておりました。『最初のうちは役目だと思ってましたが、途中から姫君が不憫でならなくて、すっかりやり過ぎちまいました』と。そう言って笑っていました」

 彼は彼なりに、ライナの置かれた境遇を理解していたのである。

 それ以来、ライナは無茶なことをしなくなった。


 彼女は自分の父親が誰なのか知らない。

 アイゼンやグイネルは知っていたのかもしれないが、教えてくれなかった。

 そのことは気にしないようにしてたものの、時折自然災害のように表に出てくることがある。その度に彼女は、

「恐らくアイゼンやグイネルのような人だろう」

 と考え、自分を納得させていた。

 その二人が最早この世にはいないという。

 ミッドランド王国が崩壊した時、彼女は眠りの中にいた。アイゼンが魔法で、暫くの間起きないようにしたのだ。

 そして、筆頭大神官二名の膨大な魔力を注ぎ、彼女の今後の守り神となる生体装甲を作り上げた。本来なら大勢の神官が必要となる儀式である。筆頭大神官とはいえ二名では、無謀もよいところだ。

 焼き入れの時、防御魔法まで手が回らなかったらしく、自らの身体を業火に焼かれながらも、彼らはやりとげた、と彩から聞いた。

 ――そんなことは必要なかったのに。

 二人が今も自分の傍にいてくれた方が、よほど心強かった。しかし、筆頭大神官といえども大軍勢を前にしてライナを守り切るのは、至難の業である。

 だからこそライナ自身が身を守るすべを残したのだ。

 そして、雄一と彩を護衛として残したのだ。

 ――雄一。

 途端に、彼に対する憎しみがこみ上げてくる。

 ライナは彼から直接的な被害を蒙ったことはない。それどころか最初の儀式以降、ここに来るまで接点すらなかった。にも拘らずライナは雄一を憎んでいた。彼にとってはとばっちりもよいところである。

 彩もそうだ。彼女を転写トランスレイトするように指示したのは、ライナだった。雄一と同世代の人間で、年齢も近く、極めて好ましい人物として彼女を選んだのだ。

 それもこれも、あの女を苦しめるために仕組んだことである。

 ――教授プロフヱサア

 自分がこんなに苦しまなければいけなくなった原因を作った女である。

 彼女と親しくならなければ、雄一は決してライナの憎しみの対象とはならなかった。

 そして彼女と雄一があまりにも親しくなり過ぎなければ、彩が呼ばれることはなかった。

 そして、ゲルトフヱンが命を落とした元凶もあの女だ。

 ――全てはあの女のせいだ。

 ライナは拳を握り締める。


「何故、泣いているの?」


 突然、ライナの頭のほうから声がした。

 ライナは身を起こすと同時に、反射的に呪文を緊急起動させる。

 詠唱とは比べものにならないほど頼りないものの、それでも一般人であれば確実に消せる。

 彼女の身体はぼんやりと発光し、全身の産毛が立ち上がった。

 術式が螺旋を描いて起動し、対象に向かって集中し始める。

 ――えっ!?

 そこでライナはやっと気がついた。

 彼女は懸命に螺旋の中心を逸らそうと試みる。

 不味い。

 間に合わない。

 力が膨らんで収束し、放たれる。


 そしてその先には、アイリス・ホーガンがいた。


 *


「御主人様、反対方向に魔法攻撃の輝きが見えました」

 上空からエリイの思念が届く。

「ライナか?」

「分かりませんが、あれは言語魔法の光だと思います。武装妖精のそれとは違います」

「方角は分るかい」

「こちらです」

 エリイが進む方向へと、雄一は身を翻す。


 *


 滝壺ではライナが、呆然と立ち尽くしていた。

 アイゼンから教わった術式の緊急起動は完璧だった。

 しかも寸前までの怒りで、それが加速されていた。

 普段なら途中でリセットすることも可能だったが、それが間に合わないほどだった。

 人間が即座に消滅するほどの熱量が放たれて――


 それは誰もいない空間を素通りしていった。


 アイリスは、ただ僅かに横に身体を逸らしただけである。

「危ないなあ。他の人だったら怪我をしているところだったよ」

 動揺することもなくそう言い切った少女に、ライナは驚いた。

「ああ、ごめんなさい。なんともなかったかしら」

「うん、大丈夫だよ。ちゃんと見切ったから」

 やはり事もなげに言う。

「それより、何で泣いていたの。お腹が空いて我慢が出来なくなったの」

 流石に一般人に向かって魔法攻撃を行なってしまった関係で、ライナも強く出ることが出来ない。

 しかも、相手は自分よりも年下の少女だ。王宮には自分よりも小さな子供はいなかったから、彼女はその扱いになれていなかった。

 面と向かってアイリスと話をするのも、ここに来てから初めてのことである。

 いろいろと条件が重なって混乱したライナは、普段の彼女からは想像もつかないほどに素直になって言った。

「ううん、そうじゃないの。大切な人が亡くなったのを思い出していたから、それで泣いていたの」

 半分は本当だが、半分は嘘である。それでも、彼女にしては有り得ない素直さだった。

「ふうん、そうなんだ。でも、お腹もすいているはずだよね。さっきも今も魔法を使っちゃったことだし」

 そう言ってアイリスは、たすき掛けしていた袋を開き、中から紙包みを取り出した。

「これ、お昼ご飯用に作ったやつなんだけど、良かったら食べませんか」

 そう言ってアイリスは包みを差し出してくる。それを見ながら、ライナは戸惑った。

「どうしたの。やっぱり食べたくないの?」

 アイリスが困ったような顔をする。

 それを見ながらライナは、どうしてだか分らなかったが、とても申し訳ない気分になった。これも常の彼女からは考えられないことである。

 それで、雄一や彩には決して言えなかった言葉が、ぽろりと外に出た。

「ううん、食べたくない訳じゃないの。私、他の人が毒見をしたものしか食べられないの。そのように小さい頃から身体に覚え込まされていて、魔法までかけられているの」

 毒殺を恐れたアイゼンの配慮であったが、彼もまさかライナが雄一や彩にそれを言わないとは思っていなかった。

 ライナは彼らに自分の弱みを見せることを極端に嫌がったのだ。

「なんだ。それならばそうと素直に言ってくれればよかったのに」

 アイリスは包みを開き、サンドイッチ状の食べ物の端を齧る。

「これならもう大丈夫だよね」

「うん、有り難う」

 ライナは、かなり久し振りに感謝の言葉を口にしたことなど気がつくこともなく、差し出されたサンドイッチ状の食べ物にかぶりついた。

 肉厚の野菜から栄養価に満ちた汁が溢れ出てくる。それが舌の根元に染み渡る。

 僅かに加えられた調味料が、食欲を刺激する。王宮で食べたどんな料理よりも美味しい。

 栄養素が胃から急激に身体全体へ行き渡るような気分になる。

「私とお父さんが作った野菜が嫌いなのかと思ってた」

 そう言いながら笑うアイリスの目の前で、ライナは一心不乱に食べ続けた。

 そして彼女は、アイリスの不思議な言動や身のこなしをいつのまにか忘れていた。

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