第十話 天帝来襲(インドラ・アタック)

 船を降りてからも、グイネルの機嫌はしばらく直らなかった。


 村の船着き場で、さすがに買い物荷物をいくつか持ってくれはしたものの、今も黙って前を歩いている。

 頭から湯気を上げていそうなその後ろ姿を見つめながら、彩はアイリスに言った。

「ねえ、アイリス。ボルザの人はみんなあんなに妖精のことを嫌っているの?」

「うーん、私と父さんはそうでもないけど、他の村の人たちは、確かにグイネルさんと同じような感じかもしれない。私も昔、学校で何かの話をしていて『妖精も学校に行くのかな』って話したら、教室にいたみんなに『妖精が勉強するはずがない』と一斉に怒られた。みんなの顔が、なんだか凄く怖かったのを覚えている。その後、また口をきいてもらえるようになるまで、一週間ぐらいかかったよ」

「ふうん、そうなんだ」

 ジェイムズとアイリスの出自を知っている彩は、アイリスに対して平然とした顔でそう言いながらも、内心では激しく動揺していた。

 どうやらボルザ人には、妖精や獣を激しく侮蔑する心が隠されているらしい。しかも、それは相当強固に植え付けられているようだ。

 ――植え付けられている? いやいや、そんなことはありえない。

 彩は頭を振る。


 *


 さすがに筆頭大神官まで務めたほどの男であるから、アイリスの家が見えて来る頃にはグイネルの機嫌も直っていた。

 先程までの激しい怒りのことなぞ綺麗さっぱり忘れて、

「姫様はやつれておられまいな?」

 などと心配している。彩はそのグイネルの変化が不思議で仕方がなかったが、またここで怒らせるのは嫌だったので、

「むしろ、前よりも元気そうに見えると思いますよ」

 と言った。

 実際、アイリスと一緒に森の中を散歩したりするようになってから、姫君は変わってきた。

 生活が昔に比べて健康的になり、少し日焼けしてきたこともあるが、冷笑的な性格はそのままであるにしても、今ではたまに普通に笑うようになってきた。それを見たらグイネルはさぞかし驚くに違いない。

 そう考えると、彩はおかしくて仕方がない。村を出た時は、とてもそんな気分になることが出来なかった。すべて、アイリスのお陰である。

 彩は隣を歩いているアイリスに顔を向けて、微笑んだ。アイリスは一瞬不思議そうな顔になったが、すぐに明るく笑った。

 ――こんな妹が欲しかったな。

 そう彩が考えていると、前を歩いていたグイネルが急に立ち止まった。

「どうしたのですか?」

 彩がそう訊ねると、グイネルは低い声で言った。

「もしかして、あそこがアイリス殿の家かな」

 それに対して、アイリスも低い声で答える。

「そうだけど――いますね」

「ああ、いる」

 二人の緊迫したやり取りの意味が分からない彩は、家のほうを眺めた。 

 すると、玄関の前に一人の男性が立っていることに気づいた。いや――一人ではない。さらに目を凝らしてよく見ると、彼の少し後ろに緑色の服を着た武装妖精が浮かんでいる。

「アイリス、誰だか分かる? この辺の方なの?」

「ううん、分かんない。でも、あの人が普通じゃないのは分かる。気配がおかしいから」

 そう言いながら、アイリスはいつも腰につけている袋に手を差し込んだ。あれには農作業で使う小さな刀が入っている。

「ならば、俺も」

 グイネルの身体の回りに、青い呪文陣が浮かび上がる。

 それに気がついたらしい。家の前に立っていた男は、笑いながらのんびりとした声で、しかも日本語で言った。

「やあ、皆さん。初めまして」

 それはまるで、遠い親戚の家に遊びに来た人好きな大学生の挨拶だった。それでもアイリスとグイネルは警戒を解かない。

 そして――彩も彼の声を聞いた途端、何故か背中が強張こわばった。彩は、武道家ではないので気配にはうといものの、職業柄、声にはさとい。

 男の声には、表向き受ける印象とは異なる、ただならない雰囲気が感じられた。しかも、彼はその雰囲気が感じられるように、声の調子をわざと変えているに違いない。

 三人が怪訝な顔をしている前で、男はなおも明るい声で言った。

「そんなに怖い顔で警戒しないで下さい。自己紹介しますから――」

 男は三人の正面に身体を向けて言った。


「僕の名前は『天帝インドラ』。で、隣の子はヴィルーダカです」


「な……」

 グイネルがそこで絶句した。彼の周囲に浮かんでいた呪文陣が揺らぐ。それが内心の動揺を如実に表していた。

 彩とアイリスは「なんだか、どこかで聞いたことがある名前だな」と思ったものの、二人ともすぐには思い当たらない。

 グイネルが言葉を腹の底から搾り出すようにして訊ねた。

「どうして史上最強の生体装甲遣いがこんなところにいる? ここはアムラン王国じゃないぞ」

 それを聞いて彩も思い出した。『訶梨帝母ハアリテイ』が喰われる前に叫んだ名前である。

 天帝はくすぐったそうな顔で言った。

「史上最強なんて、何だか凄い言われようだなあ。だからって、めてるわけじゃないのは分かるけど」

「当たり前だ。あんたに関してはろくな話を聞かない。今日は何が目的だ? 姫様に何か用か?」

 グイネルはそう問い質しながら、赤い呪文陣を後方に浮かび上がらせる。青と赤の二重呪文陣。

「ほう、見た目が少年なのにやるねえ。言語魔法が使えるということはボルザ人だね」

 アイリスは、袋から小さな刀を右手で取り出して、身体の脇に構えた。それを見た天帝が目を細める。

「おや、どこかで見たことがある構えだな。ふうん――そういうことか。彼の娘だね」

 そう言うと、彼は右の眉を上げた。

「二人とも落ち着いて。僕はライナ姫に用はない。僕が会いたいのは白狼ホワイト・ウルフだからね」

 やはり、大学生が高校時代の友人の家を訪ねてきたような言い方である。

 そして、グイネルが困ったような表情で彩のほうをちらりと眺めたので、彩は気がついた。

 白狼ホワイト・ウルフという英語は、アルスメニアの共有概念にない。そして、天帝はアルスメニアの共有概念に結合していない。

 彩は前に進み出て、わざとボルザ語で言った。

「雄一君に用があるというわけね。しかし、その『白狼』という呼び方は――」

「ああ、ごめんなさい。そうでしたね。今の彼は『神白狼ヂンパイロウ』でしたね」

 天帝は軽く頭を下げる。これで、覚えたのか、それとも彼も概念取り込みが出来るのか、いずれかは分からないものの、彼がボルザ語を知っていることは分かった。

 彩は更に情報収集を継続する。

「まあ、それは大したことではありませんが――雄一君に何かご用ですか?」

「いやあ、皆さんと関係のある話ではないんですけどね」

「それはこちらで斟酌します。結構ですからお話下さい」

「用件を言ったら、素直に彼と会わせてもらえるのですか?」

「事と次第によります」

「うーん、それじゃあ僕が貴方に用件を伝える意味がないように思いますけど」

「貴方には意味がないかもしれませんが、私には意味があります。言えないのならば、お引取り下さい」

「僕が彼に勝手に会いに行こうとしたら、どうするおつもりなんですか?」

「止めます」

「ふうん――」

 天帝はそこで腕組みをした。

「――ならば止めてみせて下さい」


 直後、天帝は腕組みをしたまま、グイネルに向かって走り出した。

 無造作なのに、ありえないぐらいに速い。

 グイネルは短く息を吐くと、右腕を上、左腕を下にして、天帝に向かって伸ばした。

 先に準備詠唱した言語魔法ワード・マジカ『針』の発動制限を解除。

 二重になっていた呪文陣のうち、青のほうが消滅した。

 同時に、グイネルの両掌から三本ずつ細長い物体が現れ、上、下の順に時間差で天帝に向かって飛ぶ。

 そして直後、グイネルの身体は僅かに沈んだ。足元の土壌から針の構成物質を調達したのだ。

 天帝は腕組みをしたまま、前方に身体を伸ばしてひねる。

 彼は地面に対して平行になり、横回転する。

 まず、上の掌から飛んだ針がかわされて背中の上を通り過ぎ、続いて下の掌から出た針が、天帝の腹の上を通り過ぎる。

 地面に身体が触れる前に、天帝は右足で軽く地面を蹴る。

 それだけで身体は頭を下にして宙に浮かび上がった。身体を回転させて、グイネルの頭の上から左足のかかとを振り下ろす。

「ふんっ!」

 グイネルが短い息を吐いた。

 赤い呪文陣が消え、風が足元から沸き起こる。

 それは天帝を空高く巻き上げた。彼は未だ腕組みしたまま、グイネルの前方に落下してゆく。

 その落下予想地点に対してアイリスが刀を投げた。

 天帝は三人に背中を向けたまま、足から地面に落ちてゆく。

 二つの動きはシンクロし、その結果は必然と思われた、その時――

 背中を向け、腕組みをしたまま、足から地面に着地した天帝は、そのまま前転する。

 刀は彼の背中すれすれのところを飛び去ってゆき、天帝はやはり背中を向けたまま、立ち上がる。

 最後まで一度も腕組みを解かなかった。

 

「まだ、やりますか?」


 激しい動きの後にもかかわらず、天帝は息を切らしていない。圧倒的な力の差に、グイネルとアイリスは言葉を失っている。

 それは彩も同じことだったが、彼女はそれでもこう言った。

「次は私が相手です」

「……これは映画ではありません。台本に従って主人公に都合が良い方向に物語が進行することはありません。強引な主人公補正もありえません。すべては現実の中で現実的に解決されますから、出来ないことは出来ないのです。それとも、貴方は実は何か得体の知れない武術の伝承者ですか? それならば問題はありませんが――」

 天帝が彩のほうを振り返る。その顔は笑っていた。


「――本当に宜しいのですね。安藤彩さん」


 彩は戦慄した。

 彼は決して威嚇したわけではない。そんな無粋なことはせず、ただ事実を淡々と述べただけである。

 それで彩は、その言葉の響きに驚愕し、恐怖した。

 ――絶対無理!

 どんな大舞台の、大観衆の前でも、事に望んで弱気になったことなぞ全く覚えのなかった彼女が、この時だけはそう心から弱音を吐いた。足の震えが止まらなくなる。

 目の前の男は化け物だった。人の姿をしているが、その内側に何か別なものが隠れている。彩が対抗できるのは「人」までだ。ぎりぎり『喰人・訶梨帝母ハアリテイ』までだ。

 雄一も戦いになると恐るべき力を発揮するが、彼は分かりやすい人間である。それを目の前の男は超えている。自分になんとか出来るわけがない。

 ――助けて!

 彩は心の中で叫んだ。呼応するように男の背中が立ち上がってくる。それを見た彩は驚いた。

 足をがくがくと震わせ、腰が引けた情けない恰好で、口から盛大に泣き言を吐き出しながら――それでも、彩の前に立って一歩も引かない男である。

 雄一よりもさらに分かりやすいその情けない男の背中を、彩はかっこいいと思った。

 足の震えが止まる。


「ふうん」


 天帝の口からそんな言葉が漏れる。

 彼は急に腕組みを解くと、両手を前に出して、それを振った。

「分かった、分かった。用件を話しますから、ちゃんと聞いて下さい」

 急に元の気さくな大学生に戻った天帝に、ずっと空中の同じ場所に浮かんでいた武装妖精――ヴィルーダカが近づいていった。

 彼女は天帝の右肩に載ると、左の掌を天帝の頬に押し当てる。天帝は彼女に優しい声で言った。

「ごめん、ヴィルーダカ。君を驚かせてしまったね」

「いえ、宜しいのです。私はこんな時の御主人様の姿を拝見するために、無理を申し上げて一緒に参ったのですから」

 そこでやっと彩は、その武装妖精の目があったと思われる場所が、一本の傷で塞がれていることに気がついた。

 彩の肩から力が抜ける。

 ――この男は確かに化け物かもしれないが、それは彼に敵対した場合に限られるのだ。

 彩はそう確信した。

「ノラ、もう出てきても良いよ」

「……はい、御主人様」

 ノラには家に入るまで胸のポケットの中にいるように指示していた。

 ところが先程、彩の足の震えが止まらなくなった時、彼女はその指示を無視して飛び出そうと身構えた。

 そのことは服の上からでも分かったし、今、ノラの身体は禁忌に抵触する寸前までいったために震えている。


 彩は、ノラを掌で優しく包んだ。


 続いて、ジェイムズの屋敷のほうを一瞥する。

 屋内に人のいる気配はなかった。いれば、ジェイムズのことだから窓辺で何か合図を送ろうとしただろう。

 彩の視線からその思考を読み取ったのか、点ていは軽く息を吐きいながら言った。

「僕がここに着いた時には、家の中にはもう誰もいなかったんだ。だから、誰かが戻ってくるのを待っていた。ここがジェイムズ・ホーガンさんの家で間違いないよね。僕が知っている人と彼が同一人物ならば、事前に察知されても不思議じゃないけど」

 そこで、アイリスが口を挟んだ。

「そんなの嘘だよ。本当は気がつかれないように接近することなんか、簡単に出来るはずだよね。それなのに、気配を表に現したままでやってきた」

 天帝はアイリスを見て、目を細める。

「ほう、良く分かったね。君はジェイムズの娘さんかい? 目元が彼に似ているような気がするけど」

「からかわないで下さい」

「そんなつもりはないよ」

 彩は、親戚の家に遊びに来た大学生のような天帝の振る舞いに、違和感を受けていた。

 あれだけの力があれば、この家を急襲して三人を無力化することは簡単に出来たはずだ。なにしろ、ジェイムズですら太刀打ちできるかどうか怪しいほどの手練れである。雄一のライナでは数のうちにすら入らない。

 そこまで考えて、彩は最前の疑問に立ち返る。

「それで、雄一君に何の御用ですか?」

「ああ、そうでしたね。用件をちゃんと説明すると約束しましたね」

 天帝は苦笑しながら頭を掻く。いちいち普通の大学生のような仕草を交える天帝に、彩は少しだけ苛立ちを覚えた。

 ――いや、そうじゃない・

 彩は内面の波を押さえ込んで、天帝を見つめる。

 ――間違いない。

 今のはただの演技で、彼の目は全然笑っていない。

「速く説明してもらえないかな。私達は長旅から帰ってきたばかりで疲れているんだけど」

 彩がわざとつっけんどんな言い方をしたので、天帝は小さく笑った。今度のは本当の苦笑だった。

「さすがは有名女優。こちらの手の内は読まれているようですね。まあ、確かにミンツから舟で戻ってきたばかりでは、かなりお疲れのことでしょう」

 天帝の言葉に、グイネルは僅かに身動ぎをした。顔に、

 ――どうしてミンツから戻ってきたことを知っている?

 という内面の動揺が現れている。

 ――なるほど、こうやって敵の情報を手に入れて、さらには思うままに操るわけね。

 彼の得意技の一つだろうと判断した彩は、

「駆け引きをするつもりなんかないよ。疲れているのは本当なんだから」

 と、切り捨てるように言った。それを聞いて、天帝は実に嬉しそうな顔をする。

「いや失敬。少々あなたのことを見くびっていたようだ。それでは端的に用件を申し上げる」

 天帝は真面目な顔になって、話を進めた。

「私は、君達が雄一と呼んでいる人物に非常に興味がある。これまでの調査によると、彼は私が知っている人物である可能性が高い。その男は『白狼』の名で呼ばれていた人物で――」

 そこで急に天帝の瞳が鋭く光る。

「――私が今までの中で唯一敗北したことのある相手だ」

 天帝の最後の言葉に、彩は驚く。

「あ、あの、だったら人違いだと思います。雄一君はそんなことが出来る人ではありませんから」

「間違いかどうかはもうすぐ分かります。だってほら――」

 天帝が僅かに首を傾げる。そして、しばらくすると彩にもその仕草の意味が分かった。


 巨大なものが接近してくる時の震動だ。

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