第五話 山根と斎藤

「私には、そんなに軽率な人には見えなかったけどなあ」

 斎藤は喫茶店の華奢な椅子に窮屈そうに収まりながら、天井を仰いで言った。

「何か事情があるんだろうね」

「私もそう思うんだけど、それが何だか分からなくて。榊さんもその件に関しては何も御存知ないようだし」

「馬垣さんも何も言ってなかったなあ」

「あら、茜ちゃん」

「はい、なんでしょうか、淳子ちゃん」

「いつの間にか馬垣さんとは、すっかり仲が良くなってしまったようで」

「う――」

 貴方には言われたくない――そう思いつつも、斎藤はる。

「ふうん、茜ちゃんはガードが硬いなあと思っていたのに、そうなんだ」

「う――」

「ああいうタイプが茜ちゃんの好みだったのね」

 ああいうタイプと言われても、見た目は一緒である。山根こそ、そこまで積極的に榊を追いかけるとは斎藤も思っていなかった。

「淳子ちゃんこそ、榊さんが好みだったなんて」

「うん、自分でも最初は驚いたけどそうだった」

 駄目だ、皮肉が全然効かない。むしろ、盛大にのろけられているような気さえする。

 斎藤は最前の話に戻すことにした。

「でも、失踪するような事情を抱え込む人には見えなかったなあ」

「私もそう思う」

 二人は洋と鞠子の姿を思い浮かべた。

「女性問題ではなさそうだし」

「むしろ、お互いに深く信頼しあっているようでしたね」

「金銭問題でもないだろうし」

「特に派手な様子も、貧相な様子もなかったですしね」

「奥様の関係で、何か犯罪に巻き込まれたとか」

「ああ、鞠子さんは刑事でしたからね。それはあるかもしれませんけど――」

 山根はそこで言葉を切ると、コーヒーを一口飲み、いつも通りの穏やかな表情で続ける。

「でも、それならばあの旦那さんに処理できないはずがない」

 二人は榊と馬垣から洋に関する情報を得ていた。二人とも微塵流の存在は既に知っていたので、情報を共有することに支障はない。

「あれで馬垣さんよりも強いかもしれないとは、驚きですね」

 山根はそうあっさりと言う。その実、彼がどれほど強いのかは、斎藤よりも山根のほうが熟知していた。

 なにしろ、同じ流派の一系統を伝承しているのが山根であり、全ての系統を伝承しているかもしれないのが洋である。斎藤はその辺の事情には疎かったが、体験として知っていることがある。

 あの信濃大学の一件で、暴走寸前だった山根を止めたのは洋だった。

「馬垣さんが直接対決で、手も足も出なかったと聞いているし」

「そういえば馬垣さんは、最近いいところなしですね」

 だから、貴方がなぜその口で言う――と斎藤は思う。

 馬垣が手も足も出なかった相手は、山根も同様である。しかしながら、その馬垣に手も足も出ない斎藤には返す言葉がない。せいぜいが、

「彼だって凄いんですからね」

 と補足する程度だ。

 山根はそんな斎藤を見て微笑んだ。

「本当に、茜ちゃんは強くなったなって思う」

「どうして」

「だって、暫く前までは相手が自分より強いかもしれない、なんてことは認めなかったじゃない。自分に余裕が出てきた証拠だと思う」

 それはそうだろう。自分は魔物のような強さを持った人に戦いを挑んでいるわけだから、普通の人間に遅れを取るわけにはいかないのだ。

 その魔物が三人になったから、それだけは認めざるをえなくなっただけのことだ。

 でも――斎藤は思う。

 実際に、最近の斎藤はかなり違ってきている。あの日以来、対戦相手の動きが遅く見えるようになっていた。

 馬垣の指導のおかげもある。彼の動きを必死に追いかけているうちに、斎藤の動体視力は格段に向上していた。

「確かに、最近は負ける気がしなくなった」

「そうだよね。なんだか気力が充実しているように見える」

 そして山根は止めを刺しに来た。

「愛の力かしらね」


 暫く取り留めもない話で盛り上がっていると、真夏の太陽がだいぶん傾いていた。斎藤はそろそろ切り上げようと考える。

「淳子ちゃん、今日は泊まっていくんでしょう? 久しぶり――というか、今のマンションに泊まるのは初めてだよね」

「昔の狭いアパートなら数え切れないのにね」

 そう言って、二人は顔を見合わせて笑った。

「新居はどのくらいの広さなの」

「三LDK」

「うわ、広い」

「そんなことないよ。一つをトレーニングルームにして、もう一つをトレーニング用品の置き場にしたら、残るは一LDKだし」

「でも、吉祥寺の駅前でその間取りじゃあ、お家賃がすごいことになっているんじゃないの?」

「ああ、分譲だから家賃は関係ないよ」

「誰が買ったの」

「誰って、買ってくれる人がいる訳ないじゃない。私が自分で買ったのよ」

「えーっ、茜ちゃんってもしかしてお金持ちだったの? 稼いだお金が食事代に殆ど消えて、ピイピイじゃないかって心配していたのに」

「あの、淳子ちゃん」

「はい、何でしょう茜ちゃん」

 山根はいつもの通りにこにこと笑っている。全く悪気はない。

 斎藤は溜息をついた。

「――そんなに凄くないって。いや、凄いことは凄いけど、上には上がいるから」

「へー、これ以上に凄いことがあるの?」

「あるのよ」

 そこで斎藤は残っていたコーヒーを飲み干して、伝票を手に取りながら言った。

「最上階の五LDKを買った女性なんか、私よりも年下よ」

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