第十二話 女達の戦い

 状況を観察している斎藤の隣で、鞠子は腕時計を確認した。

 時刻は午後七時半を回ろうとしているから、制限時間は残り一時間半となる。

 俊夫は社会科見学終了後、終業と同時に移動を開始しただろうから、署を出たが午後五時ちょうどだろう。先程の外の様子から察するに、彼は途中で陸上自衛隊松本駐屯地に立ち寄ったはずだ。

 そこから自衛隊車両を警察車両で先導したほうが、事情が分かりやすくて早いからだ.

 その彼でも、松本市内からここまで来るのに二時間半かかっている。しかもそれは、交通法規を完全無視してのことだから、一般車両ではそこまで無茶が出来ない。

 また、洋は馬垣、榊、空山も同行すると言っていたので、その回収に要する時間も必要である。

 さらに、馬垣と榊は俊夫と違って、終業のベルとともにさっさと帰る、というのは難しいだろう。署長である俊夫は馬垣と榊の足止め策も講じるであろうから、それも加わる。

 その上、俊夫が交通課経由で、彼らが通行した後の幹線道路に交通規制をかけたとする。速度超過などで捕まれば書類手続きに時間がかかるから、洋は制限速度を遵守しなければならない。

 それらが加算された結果、鞠子は「彼らがここに到着するまでにかかる時間」を四時間と想定した。その場合、彼らの到着は九時となる。

 それ以上は、奇跡でもない限り早まることはない。

 鞠子達が午後九時の制限時間まで話を引き伸ばしたとしても、彼らが間に合うかどうか分からなかったが、鞠子は動じなかった。

「パパが来ると言ったのだから、必ず来る」

 鞠子は確信していた。

 無論、今すぐ目の前に来いというのは無茶だが、物理的に最短の時間で来る。それまではなんとしても時間を稼ぐ必要がある。

 俊夫と篠山の掛け合いを無視して、柏倉は話を続けた。

「ところで午後九時という時間でございますが、それはあくまでもあるじが最大でもそのくらいであると仰った制限時間でございます。運転手であり秘書でもある私と致しましては、このような環境の悪いところに主を長時間滞在させるのは忍びないので、誠に勝手ながら制限時間を午後八時とさせて頂きました」

「な――どういうことだよ。お前に何の権限があるんだ?」

 柏倉の一方的な話に、斎藤が喰い付く。

「全件を委任されておりますから」

「交渉相手の都合は聞かないのかよ」

「伺ったところでどうにかなるものでもございません。違いますでしょうか?」

 斎藤がさらに言葉を投げかけようとした時、鞠子が右手を挙げてそれを制した。

 鞠子は柏倉を見据えて言った。

「交渉にあたり、最初に緩い条件を提示して途中で一方的にそれを破棄し、さらに厳しい条件を押し付けるというのは、相手の焦りや動揺を誘う有効な手段だ」

「お褒めに預かりまして、光栄至極です」

「褒めてはいない。いかにも下種げすのやりそうなことだと思ったまでだ。それでは決して信頼関係に基づく交渉にはならないから、所詮は決裂する運命にある」

「それは皆様次第ではございませんか?」

 柏倉はここで微妙な笑みを浮かべた。

「分かりました、降参します――さすれば一件落着でございますから、制限時間の議論すら必要ございません」

「そんなことで済むと思うのかな」

「思いません」

「では、ぎりぎりまで時間を頂こうではないか」

「そうですか、それは残念」

「君としては、私達の処分をさっさと済ませて、遅れてくる者とゆっくり勝負したいのではないか? だから、無茶な条件を押し付けて交渉を決裂させようとしている――私にはそう思えるのだが」

 処分という言葉に、瞳子はびくりと身体を震わせたが、その直後に鞠子の手が彼女の掌を柔らかく抑えた。その暖かさに瞳子は落ち着く。

 そして、鞠子が交渉を長引かせるために、わざと議論を持ちかけていることを察した。

 しかし、それは柏倉も同様である。

「その通りでございます。交渉さえ決裂いたしますれば、皆様は客人ではなく敵となりますゆえ、私も心置きなく蹂躙することが出来ます。今すぐにでもお手合わせ頂きたいくらいでございますが、やはり命が惜しいということでございますでしょうか。笠井様のお嬢様などは、ご希望とあれば苦しむことなく一瞬のうちにすべてを終わらせて頂くことも可能でございますが」

 柏倉の物言いに、鞠子の手が一瞬緊張したのを瞳子は感じる。

 しかし、鞠子が何かを言う前に、口を挟んだ者がいた。

「柏倉さん、それは客人に対する言葉とは思えません。謝罪して下さい」

 深雪が即座に立ち上がって、常の彼女にはあり得ない剣幕で柏倉に食ってかかったのだ。

「おや、深雪お嬢様。そちらにいらっしゃったのですか?」

 柏倉は初めて気がついたという顔で深雪を見つめると、顔を歪めて笑った。

「お姿がお見えにならなかったので、お爺様に怒られるのが怖くて隠れていらっしゃるのかと思いました。お嬢様が大きな声をあげられるとは珍しゅうございますね。お爺様の前ではあれほど小さなお声しかお出しにならないというのに。先日は特にはなはだしゅうございましたね。お爺様の前にお出になられて、身を縮こまらせながら、震え、涙を流し、最後には畳に頭を擦りつけて許しを乞うた方とは思えません」


 柏倉の話が進むにつれて、深雪の顔は蒼白になっていった。

 柏倉は、その深雪の表情の変化が楽しくて仕方がない。


 いつもは身分の違いから、言いたいことがあっても絶対に言ってはいけない相手である。無論、会長には先代から恩義を感じていたので、何を言われても有り難うございますとしか思わない。

 深雪には特に思い入れはなかったが、その父親と母親の人を見下した態度に日頃から腹が立っていた。

 柏倉を「会長の運転手」と呼び、決して名前で呼ばない。

 会長が自宅に戻られた後、外出予定がない場合には、平気で私用に使う。

 彼らには恩義を感じていない柏倉は、代替わりの暁には押し潰してやろうと考えていた。

 その娘には、敵に寝返ってくれたお陰で好きなことが言える。

(これは面白い。時間が必要だと言ったのは彼女達だから、ゆっくりとお嬢様をいたぶらせて頂こうか)

 柏倉の表情は更に歪んだ。だらしなく舌なめずりすると、最大の傷口を攻撃する。

「お嬢様もご立派になられたものでございますね。しかし、お嬢様。その時は、四月朔日様とそのお嬢様のことは、どうでも宜しかったのでございましょう? どうなっても、それこそ死んでも自分とは関係ないと思ったから、裏切って、密告されたのでございましょう? なぜ、その裏切ったお嬢様が裏切られた四月朔日様と一緒にいらっしゃるのか、柏倉には全く理解ができないのでございますが――」

 柏倉が楽しそうにそこまで話を進めた時、


「おい」


 という、ドスの効いた重い声が割り込んだ。

 斎藤である。

 彼女は笑っていた。

「お前、実に面白いやつだな」

「お褒め頂き――」

「褒めてないよ。どうやったらここまでどうしようもない人間になれるのか、その過程が面白いと言っただけだ。ここまで本気で叩き潰したい相手に会ったのは、久し振りだね。今すぐお相手したいから準備しろよ」

 斎藤の髪の毛が産毛まで逆立っていた。山根との試合の時と同じ、斎藤の本気の姿である。

「鞠子さん、本当にすまないね。これ以上、こいつに無駄話をする時間はやりたくない」

 斎藤は鞠子のほうを見ずに言った。鞠子が駄目と言ってもやるつもりだ。

「同感だ」

 鞠子も即座に、平然と、そう言い切る。

 斎藤はにやりと笑った。

「ということだ、柏倉。たった今、交渉決裂したから、今すぐ勝負をしようじゃないか」

 そう言って斎藤は立ち上がる。柏倉は、最前の取り澄ました表情に戻っていた。

「これはこれは。事情ご賢察の上、皆様にはご協力を賜りまして、厚く御礼申し上げます」

 そう言って柏倉は深々と丁寧にお辞儀をする。

 再び顔を上げた時には――先程の下卑げひた顔になっていた。

「ということで、だ。これから先はお前ら、敵だからな。ああ、変な敬語を使わなくて済むから有り難いぜ。自分でもこんがらがってくるんで、あれは嫌なんだよ」

「そうかい。じゃあ、今すぐ拳と拳で会話しようじゃないか」

 斎藤はそう言って、一歩右足を踏み出した。

 しかし、それを柏倉が右手で制する。

「待った。あせるんじゃないよ、どうせ先は長くないんだから。それに、ちょっとこっちにも事情があってだな。向こうにいる連中と、事前に割り振りを相談しなければいけないんだよ。誰が誰をるのか、とかな。お嬢様だけは是非、俺が――」

「うるさいね。さっさと決めてきなよ!」

「へいへい、じゃあちょいと待ってくれ」

 そう言い残して柏倉はきびすを返すと、来た時とは真逆の軽々とした足取りで、俊夫と篠山のところに向かっていった。

 斎藤はその後ろ姿を腕組みしながら見つめていたが、


「……ごめんなさい」


 という背後からの小さな声に振り返る。

 深雪が両目から次々に涙を流しながら、それでも顔を上げて真っ直ぐに斎藤を見つめていた。

「何を、言われても、私は、最期まで、我慢しようと、思いました。自分の、ことならば、それで全然、いいんです、けど。でも、四月朔日さん、のことを、言われた、途端に……」

「おう、そうだろうよ。ご苦労様」

 斎藤は深雪に笑いかける。それは包み込むような温かい笑い方だった。

 あの時、崩れかけた深雪の表情を見て、斎藤は我慢がならなくなったのだ。

 時間稼ぎは確かに必要だったが、それで深雪一人が犠牲になることが耐え難かったのだ。

 斎藤は、今度は鞠子のほうを見て言った。

「後で洋さんに謝らないとな」

「私も一緒に謝る。斎藤さんが言わなくても私が言ったから」

 鞠子は憮然として柏倉を見つめていた。

 斎藤はその様子に苦笑し、それから再び深雪を見て言った。

「ちょっと待ってな。あの馬鹿、蹂躙じゅうりんしてやるから」

 しかし、深雪が、

「駄目、です――」

 と言ったので、斎藤は怪訝けげんな顔になる。

 深雪は泣きながら怒った顔になって、こう言い切った。


「駄目、です。あの、馬鹿の、とどめは、私が、さすん、ですから」

 

 それを聞いた斎藤は破顔して言った。

「そいつはいいや! よし、最後のとどめは是非お願いするわ」


 柏倉の相談は、さほど長くかからなかった。

 彼は先程と同じく軽やかな足取りでやってくると、次のように言った。

「待たせて悪かったな。相談した結果、ご指名があったのは一人だけだから、まずはそれを了解してもらいたいんだが」

「まず先に、そのご指名とやらの内容を言いなさいよ」

「まあ、それはそうだわな――」

 柏倉は戦うことができればそれでよいらしい。他のことにはあまり細かいこだわりは見せず、

「あの重装甲の中隊長様が、あんたをご指名なんだよ」

 と、あっさり言い切った。

 なんとなくそうかもしれない、と斎藤は思っていたものの、

「なんでだよ! あいつは後でもいいだろ。最初に貴様とやらせろよ、そうでないと嫌だよ!」

 と、一応拒否する。

 すると柏倉は言った。

「いや、それは俺も同じ気持ちなんだがね。しかし、時間がないもんだから一度に三人で戦うことになっちまって――」

「ああ!? 貴様、今なんて言った? 何でそんなこと勝手に決めるんだよ!」

 斎藤は激昂げっこうした。

 柏倉の身勝手さに本当に腹が立ったせいもある。

 しかし、斎藤と山根以外に戦えそうな人間がいないことへの焦りもあった。

「いいじゃないか。四人一緒だけは避けたんだから。あの警察署長様は、今は嫌なんだとさ」

「ガキのほうはいいのかよ」

「ちょうど練習相手に最適だろう、ということだった」

「何の練習だよ?」

 斎藤の問いに、柏倉は何をいまさらという顔をした。


「何って、殺しの練習に決まってるだろ。他に何があるんだよ」


 斎藤は一瞬口をぽかんと開けて、それから強く閉じた。

(そうだった。私、なに馬鹿なこと聞いているんだろう)

 そう、この事件は最初から容赦ないものだった。自分の考え方の思わぬ甘さに斎藤は唇を噛む。

「そっちもさっさと対戦者を決めてくれよ」

 斎藤の沈黙に付き合うことなく、柏倉はそう言って、また軽々と戻っていった。

 さて、どうしたものか――斎藤は困った。

 篠山という自衛官は中隊長らしいから、生半可な相手ではない。ご指名だから斎藤が相手をするしかなかろう。

 柏倉もいい加減な姿に反して、腕は確かと見た。山根に任せて、斎藤が篠山を一蹴した後で一緒にやっつけるしかない。

 しかし、残った一人をどうするか。俊一は瞳子と同じ学年ということだから小学校五年生だ。それならば鞠子か、三好、沢渡、野沢のいずれかで――

 そう考えていたところで、誰かが服の裾を引っ張っていることに気づく。

 見ると、隣に瞳子が立っていた。

「斎藤さん、あのね。ここに来る前にパパから言われたんだけど」

 斎藤は驚いた。まさか洋がこんな時のために指示を託しているとは思わなかった。

「何を言われたのかな」

 ちょっとだけ安心した斎藤は、微笑みながら瞳子に尋ねた。

 瞳子はあまり要領を得ない顔で言った。

「それがね、俊一君が出てきたら私が相手をして時間稼ぎするように、って」


 なん、だ、と……


 斎藤は言葉を失った。

 よりにもよって同級生対決とは理解しがたい。これまで洋の作戦はことごとく相手を翻弄してきたが、さすがにこれは無理だろう。

 斎藤の様子を見た鞠子が寄ってきたので、斎藤は今の話を鞠子にも伝える。彼女も一瞬言葉を失ったが、直ぐに立ち直って言った。

「パパ、他にも何か言ったでしょう?」

「うん、多分、斎藤さんかママが止めるはずだから、その時はこう言いなさいと言われた――みじんりゅうばりつ、と」

 鞠子と斎藤は固まった。しかし、さすがに母親である鞠子は先に我に帰る。

「瞳子、あなた武術の修行をしたことあるの?」

「ううん、ないよ」

「そうでしょう。なのにどうして」

「ママがそう言うかもしれないって、そうしたらこう言うようにパパに言われた」


 その後の瞳子の一言を聞いて、鞠子はとうとう絶句した。


 *


「対戦相手が決まった」

 そう斎藤から言われて、柏倉は意外に思った。

 ここで時間稼ぎをするだろうと思っていたのだが、案外すんなりと決まったらしい。大学生のうちの一人が武道でもかじったことがあるのだろうか。

 そいつにとっては災難だったな――柏倉はそんなことを考えながら、篠山と俊一を連れて前に進み出る。

 斎藤達から見て、右に篠山、中央に柏倉、左に俊一となる。

 俊夫は奥の廃トラックのところまで移動し、そこでにやにやとしながら見物を始めた。

 対戦相手が前に出てきた時――柏倉は絶句した。

 篠山に対する斎藤は当然だろう。そうでなければ正気を疑うところだ。

 柏倉の相手をするのが山根というのも、まあ何か考えがあってのことに違いない。

 しかし、最後の一人を見て、柏倉は正気を疑った。

「お前ら、頭おかしいんじゃないのか?」

 俊一の前には女子小学生が立っている。当然守るべき母親ですらない。

「俺、さっき言ったよな。殺しの練習するって」

「ああ、確かに聞いたよ」

「それなのにこれかよ。まるで小学生の喧嘩――というより、そのものじゃないか」

「仕方ないじゃないか」

 斎藤はにやりと笑って言った。

「私はこの中で最弱。なにせ四天王にも及ばないんだからな」

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