第十三話 男達の戦い

 八月十四日、午後八時。


 長野県警察航空隊が二○十三年に導入した最新鋭ヘリ「やまびこ二号」は、北アルプスの山肌を掠めるように飛んでいた。

 機種はイタリア製のアグスタ・ウェストランドAW一三九。ターボシャフトエンジンを二基搭載し、十七名が搭乗可能である。

 その時は、操縦士、ホイストオペレータ、救助隊員二名の基本構成の他に、洋、隆、清、榊、馬垣、空山、そしてカニコ二号が搭乗していた。

「どうやって県警ヘリを調達したのですか?」

 榊がローター音に負けないように大声を張り上げ、洋に尋ねた。榊の膝の上には、今日一日、一緒になって松本市内を駆け巡り、姿をくらませていたカニコ二号が乗っている。

 すっかり榊に懐いており、ヘリの爆音を気にもせず目を閉じていた。

「いやあ、それがなんとも――」

 と、特に意味のない言葉を口にしながら、洋は清のほうを見た。清は涼しい顔で席に収まっている。

「神条さんは上からなんと言われているんですか?」

 らちが明かないとみた榊は、矛先を神条に向けた。同じ警察官、しかも山岳部出身であるから、榊は神条のことを当然知っていた。

「いやあ、それがなんとも。上からはただ、清さんの指示に従えとだけ言われておりまして」

 神条は苦笑するとともに、

(それにしても前回の件といい、清には県警本部によほど強い繋がりがあるらしい)

 と思った。

 でなければ、県警ヘリを具体的な案件の説明もなしに出動させることは適わないからだ。

 そして、緊急事態とは聞いているものの、指示内容は可能な限り素早く静かに、一般人六名と犬一匹を指定された場所まで送り届けることだったから、神条としては本来、認めがたい内容である。

 ヘリをタクシー代わりに使って、しかも出来る限り静かにしろと言う。無理なものは無理であるから、神条は理由の説明を求めようとしたが、

「まあ、後で事情は全部分かるから」

 という清の言葉で抑え込まれた。

 その清は黙って外の景色を眺めている。

 日没後の北アルプスを低空飛行するのは正気の沙汰ではなかったが、操縦士は、

「まあ、なんとかしますわ」

 とだけ言って、その困難な任務を引き受けた。

 その操縦士に清が告げた目的地は、何の変哲もない山間部の一角である。が、それを聞いた神条は驚いた。

「また、あそこですか。よくよく縁がありますね」

 以前、洋が救出された現場の近く、倒壊した橋の手前である。

 長野県内であるから着陸させる場所には事欠かないが、どうしてそんなところに降ろすのか理由が分からない。しかも、降ろしたらすぐに松本空港まで折り返して、そこで待機せよと言われている。

 つまりは別な客もいるということだ。


 *


 六人と一匹を降ろした「やまびこ二号」は闇の中に消えてゆく。

 遠ざかる爆音と、近づいてくる静寂。

「これは暗いですね」

 という洋ののんびりした声が聞こえてくるが、榊にはどの影がそうなのか判別がなかなかできない。

 すると隣の影が馬垣の声で言った。

「榊、お前は一般人なんだから無理をせずに残ってもよかったんだぞ」

「馬鹿いえ、俺だって警察官なんだから拉致事件を黙って見てられるかよ」

 そう、勢いよく榊は言い放つが、本音は山根のことが心配でならないということを馬垣は長い付き合いなので知っている。いくら彼女が鉄壁の防御を誇る武道家だと承知していても、だ。

 そして、馬垣も人のことは言えない。斎藤がどれほど強いと言っても、それには限度がある。彼女の場合、人を守るために無理をするタイプだからさらに心配である。

 計画の概要は既に洋から聞いており、想定されるリスクも概ね織り込み済みではあったが、それでも予想外のことは起きる。

 そして、その予想外の事態が発生した場合、間違いなく斎藤はそれに関与しているはずだ。彼女が黙って大人しくしているはずがない。

「それに、空山さんだっているじゃないか」

 榊が話を続ける。馬垣は苦笑した。確かに、割と知られた俳優である空山が、こんな危険な場にいる必然性が、榊には分らないだろう。

 馬垣には分かる。別に笠井の三人組がいれば問題はないのだが、彼らは何か別なことするつもりらしい。そうなると空山の存在は不可欠だ。

「いやあ、なんだかすいません。お邪魔しちゃって」

 と、空山は親戚の家に夕飯時にやってきた男のような言葉を口にした。

 そう、これである。これに騙されてはいけない。彼は確かに有名な俳優であるが、裏の顔は違う。

 彼は秘密兵器だ。

「こっちこそすまんなあ。息子が無理を言うもんだから」

 と、清が知り合いのような気安さで頭を下げる。

 こちらも負けてはいない。見た目と実体の乖離が激しい人物だからだ。

「ぼちぼち榊君の目も慣れてきただろうから、移動しようじゃないかね」

 と言って、清は無造作に立ち上がる。

 他の五人と一匹も腰を上げた。

 男達は木立の中を摺り抜けてゆく。

 榊以外は、ヘリを降りる前に左目を閉じ、降りてから左目と入替で右目を閉じて、片方ずつ闇に馴化させていた。榊は未だおぼろげな視界ではあったが、カニコ二号に手綱を引かれてその後に従う。

「停止」

 清が短い指示をし、全員が動きを止めた。眼前には渓谷を跨ぐコンクリート製の橋がある。

「洋、この橋そのものには仕掛けはないんだな?」

「はい、さすがに戦後ですからね。仕掛けを施す余地はありませんでした」

 清が洋に尋ね、洋が答えた。榊は話の筋が分からなかったが、周囲を見回すことに神経を使っていたため、口を挟まなかった。

「隆、橋のこっちと向こうはどうなっている?」 

「橋のこちら側には誰もいない。向こう側にはかなりの数が控えているよ。ヘリの音が聞こえたから、かなり警戒しているようだね」

 清が隆に尋ね、隆が答えた。榊には隆が一体何を見ているのか見当もつかない。二メートル四方であればなんとなく分かるようになってきたが、それより先は闇しかなかった。

 さらに隆は続けた。

「P二二〇は見つけた。M九は端っこがちらりと見えただけだけど、たぶんそう。ハチキュウは後方支援かな。陸上自衛隊の普通科には配備済みだよね」

 彼はそんな風にさらりと言ったが、P二二〇は拳銃の、M九は機関銃の、ハチキュウは自動小銃の、陸上自衛隊における制式装備品の通称である。

 つまり、前方には陸上自衛隊が準備万端で展開しているのだ。とても丸腰の一般人相手とは思えない布陣である。

「気合い入ってるな」

 と、清は呟いた。その言葉には、草野球で相手チームの意気込みを評するほどの重さしかない。榊は驚いて言った。

「ちょ、ちょっと笠井さん。あ、ええと、ややこしいなあ――清さん。こっちは素手ですけど」

「それはそうだ。我々はれっきとした一般人だからな。拳銃なんか持ってる訳がない」

「仰る通りですが、じゃあ機関銃や自動小銃は論外じゃないですか」

「榊さんは警察官だろ。何か持ってこなかったのかね」

「勝手に持ち出せませんよ。それに、もしできても拳銃止まりですから。一応、自前の飛び道具は持ってきましたが」

 榊は持っていた一メートル強の平たい長方形のケースと筒を見せる。

「ふうん、まあ役にはたつね」

 清がそう軽く言い捨てたので、榊は脱力した。

「まあ、こうやってにらめっこしている時間がもったいないからよ。馬垣さんと榊さんと空山さんは、カニコ二号連れて先に行ってくれ。後は適当にやっとくから」

「そんなこと言われても、どうやって銃器相手にして先へ行けというんですかぁ。それに行く先、分かりませんし」

 榊が情けない声を上げる。清は直接、榊の相手はせずに、空山に尋ねた。

「空山さんは、何か持ってきた?」

「はい、こんなものですが」

 そう言って空山は背負っていたリュックの中から、長い棒を二本取り出す。

「おお、こいつは面白いや」

 そう言って清は大喜びしたが、榊は更に脱力した。

 それは到底、武器と呼べるものではなかったからだ。


 *


 陸上自衛隊第十二旅団第十三普通科連隊第四普通科中隊第五小隊所属の青山宗平あおやまそうへいは、P二二〇を頭の横で銃口を上に向けて保持しながら、待機していた。

 陸上自衛隊にはお盆休みがある。ただし、全員が一斉に休むわけにはいかないので、前半と後半の二つに分かれて取る。

 青山は前半の休暇を取得して任務に就いていたが、課業終了寸前の午後四時三十分に緊急招集を受けた。通常装備をかき集めて、一切の説明もないまま輸送車両に乗り込む。

 そして、警察車両に先導されながらここまで急行した。

 自衛隊の車両は、走破性は高いが快適性は低い。にも拘らずかなり無理をして急行したので、何人かが車酔いに陥っていた。

 青山も実は無事ではなかったが、整列、点呼の後に手渡されたものを見て、それが消し飛んでしまった。

 掌の上には実弾が置かれている。

 小隊長の指示は「速やかに配置につき、不審人物の接近を阻止せよ」という簡素なものだったが、要するに実弾を使って排除せよということだ。

 自衛隊に入隊はしたものの、まさか自分が人間相手に戦闘することになるとは思ってもいなかった。

 無論、海外派遣等が絶対にないとは言い切れなかったものの、前もって心の準備をする余裕が与えられるものと思っていた。

 それがいきなりの実戦である。青山は極度に緊張するとともに、

「いや待て、北アルプスの山中で戦闘しなければならない相手とは、一体何者だ?」

 と訝しんだ。

 これが日本海側ならば、まあ、分らないこともない。

 市街地だったら、テロ予告等が考えられるだろう。

 しかし、ここは信州の山奥である。

 他国の侵略であればもっと海寄りに防衛線を敷かなければ意味がないし、テロ予告があったのであれば好きにやらせておけばよいではないか。

 そんなことを考えながら、P二二〇に震える指先で実弾を込めていた時、青山は同じように急行してくる車両があることに気がついた。緊急招集にしては随分と遅い到着である。

 これは失態だから中隊長にどやされるぞと青山は思っていたが、車両から降りてきた人物を見て仰天した。

 同じ小隊所属で、後半に休暇を取得することになっていた隊員達である。休暇中の者にも緊急招集がかかったのだ。

 さすがに彼らは不満を顔に出してはいなかったが、それでも整列が少しだけもたついた。そして、手渡されたものを一瞥し、彼らは青山と同じく顔色を変えた。

 青山は混乱した。これは非常事態を通り越して異常事態である。

 彼は決して不真面目でも怠惰でもない。むしろ極めて訓練熱心で優秀な自衛官である。

 銃器の扱いも滑らかであり、射撃訓練も十分に積んでいた。さらには、米国で米陸軍と合同で行なわれる実動訓練にも参加することになっていた。

 その彼でも実弾装備での待機は、緊張感が半端ではない。

 P二二〇がいつもよりも重く感じられる。喉の奥に何かがくっついて息がし辛い。

 大きく口で息をする。これではまるで酸欠に陥った錦鯉だ。

 荒い呼吸を繰り返していた青山の視線の先、橋の向こう側に――


 ふいに人影が浮かび上がった。


 暗視鏡ゴーグルがあるので分かる。

 人影は一つ。

 青山はP二二〇の銃口を水平に倒して、安全装置を解除した。

 これで全員が一斉に引き金を引けば、橋の上の何者かは確実に死ぬだろう。

 ただ、発砲は確実なところまで引きつけてからにするのが鉄則なので、彼はその体勢を保持する。

 無線から「ザッ」という接続音が流れ、一斉通報が発信された。

(ゴーグル解除)

 ここでサーチライトの出番だ。

 ぐずぐずしている暇はない。

 青山は右手で銃口を保ち、左手でゴーグルを跳ね上げた。

 同時に視界が白くなる。

 明順応が追い付かない。

 青山は目の上に左手をかざし、目を細めて橋を見た。

 強い明かりが束になって、橋の向こう側を照らしている。


 そして、そこには女の顔があった。


 いや、そうではない。

 青山は更に目を細める。

 体つきは明らかに男である。

 ただ、その顔は能面――小面で覆われていた。

 両手には赤い棒を持っている。

 彼は躊躇ためらいなく橋の上を歩んでいた。

 こちらが何者か分からないのだろう。

 いい気なものだ、と青山は思った。

 彼は橋の真ん中辺りまで来ると、無造作に棒を持ち上げた。

 棒全体に赤い光が灯る。

 ただ、彼はサーチライトの中にいるので意味はない。

 彼はその光る棒を振り始めた。

 最初は両方同時に動いたように見えたが、僅かに右のほうが振りが遅いらしい。

 次第にずれが生じてゆく。

 その変化は滑らかで、思わず青山は動きにあわせて頭を振ってしまう。


 その時、サーチライトの一つが弾けて火花が散る。


 敵の銃撃かと、思わず青山の引き金の指が動く。

 しかし、相手側からの銃声はなかったと自分を制止した。

 ところが、何人かは間に合わず実際に引き金を引いてしまう。

 自陣内からぱらぱらと銃声が鳴り響いた。


 しかし、男には当たらない。


(何故だ?)

 青山はその事実に驚く。

 彼らは自衛隊員である。

 訓練は十分に積んでいたから、数人が咄嗟に撃ったからといって全員が外す訳がない。

 男が滑らかに両腕をずらしていく中、敵の銃声はなく、サーチライトが一つずつ時間差で弾けてゆく。

 次第に暗さを増してゆく視界の中で、男の赤い棒が浮き上がっていった。

 振られている棒の軌跡上に、黄色い文字が浮かび上がる。

「めんそーれ」と右腕。

「めんそーれ」と左腕。

 青山は唖然とした。

 沖縄の挨拶が暗闇にくっきりと浮かび上がっている。

(何だ、これは?)

 意味が分からない。

 そんな奴の相手をしている自分たちの任務もよく分からなくなってきた。

 小面を被って、「めんそーれ」の黄色い文字を浮かび上がらせる赤い棒をゆらゆらと振る男。

 無音で弾け飛ぶサーチライトと、飛び散る火花。

 そして、散発的に飛んでゆく弾は男に中らない。

 悪夢を見ているようだった。

 とうとう最後のサーチライトが弾け飛んで、暗闇の中に「めんそーれ」の文字だけが浮かび上がる。

 今まではそれが縦方向にのみ表示されていたが、次第に角度を変えていった。

 徐々に横倒しになって、とうとう「れーそんめ」と逆立ちする。

 いや、そうではない。

 自分の視界が逆転しているのだと気がついて、青山は慌てて頭を上げた。

 そこでやっと彼は、棒の動きによって平衡感覚が狂わされていることに気づいたが、もう遅い。

 一度狂ったものはなかなか容易に元に戻らない。

 さらに、急に棒の明かりが消えたことで暗視鏡を上げたままにしていたことにも気づく。

 慌てて暗視鏡を下ろし、橋の方を見ると――


 そこには誰もいなかった。


 棒の明かりを消した後、即座に姿を消したのだ。

 網膜に「めんそーれ」の文字をちらちらと踊らせながら、青山は周囲を見回す。

 不用意に発砲すると味方に当たるので、慎重にならざるをえない。

 近くに動きはない。

 後方、遠くを何かが走り去ってゆく音が聞こえる。

 青山は立ち上がって音がする方向へと急行しようとしたが、急に肩を叩かれて振り向いた。


 目の前には狐面の男が立っている。


「おやすみなさい」

 その言葉と同時に、青山の意識は刈り取られた。

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