パパは覆面作家 第六章 ゴルディアスの結び目

阿井上夫

第六章 ゴルディアスの結び目

第一話 聡子

 夏休みが始まって二週間が過ぎた。

 聡子は毎朝五時に起きて、カニコ二号と一緒に散歩に出かけていた。

 あの日の夜、目を覚まさないカニコ二号のそばには散歩用のリードと笛の入った袋が置かれていた。聡子は散歩の時、それを必ず持って、散歩の途中で必ず笠井家に立ち寄ることにしていた。

 カニコ二号は、瞳子が姿を消した日の翌日になって目覚めた。最初のうちはなんだか動きが鈍かったが、薬で眠らされていたためではないか、と聡子は思う。

 次第に普段の動きに戻ると、以前から聡子の家で飼われていたかのように大人しく馴染なじみ、猫のペトロニウスとも仲良くやっていた。

 しかし、毎朝の見回りで瞳子の家に行った時、カニコ二号は誰も居ないことを確認するまで、決して帰ろうとはしなかった。門には鍵がかかっているので、聡子だと塀を乗り越えなければ敷地の中に入れない。

 しかし、カニコ二号ならば隙間から入ることができる。聡子が首輪からリードを外すと、彼は家の敷地の中に飛び込んで、ひとしきり人の気配を嗅ぎ回ってから戻ってくる。

「誰かの気配が少しでもあれば、カニコ二号は吠えるだろう」

 そう考えて聡子は大人しく外で待っているのだが、彼は一度も吠えなかった。

 瞳子が巻き込まれた災難が、どのような性質のものかは聡子には分からない。もしかしたら彼女の家を見回るだけでも、災難に取り込まれるかもしれない。

 それでも聡子は毎日、彼女の家を見ずにはいられなかった。

 父親の幸一と母親の澄江にはあの日の夜、カニコ二号を連れ帰った後で、瞳子からの電話の内容を包み隠さず話していた。その上で、聡子は、

「トコちゃんが帰って来るまでは、彼女の家を見守ることにしたい」

 と言った。

 巻き込まれるリスクは、幸一も澄江も最初から承知していたはずである。それでも二人は「危険だからやめなさい」とは言わなかった。

「早朝なら涼しくていいんじゃない。夏休み中でも一日のリズムが乱れないし」

「そうだね。ただ、携帯電話と防犯ベルに加えて、催涙さいるいスプレーを持っていくんだよ」

 止めるどころか、幸一と澄江はそう言ってけしかけたぐらいである。

 今までのところ、怪しげな人影や声をかけてくる大人はいなかった。

 朝、同じ時間にランニングをしている佐藤俊一に会うぐらいだろうか。

 相変わらず聡子が「おはよう」と声をかけても、彼は返事を返してこないが、ランニングのコースを変えないところをみると、会うのを嫌がっている訳ではないらしい。

 いや、それとも単なる意地っ張りなのだろうか、と聡子は頭を捻る。

 朝の散歩が終わると、午前中は勉強時間だ。

 聡子は、夏休みの宿題を片付けたり、図書館に行ったり、比較的涼しいうちに面倒な用件を済ましてしまう。これは生まれてから時間をかけて両親に習慣づけられたことだった。

「天才は凄い。しかし、その次に凄いのは毎日こつこつやる人間だ」

 というのは幸一と澄江の口癖である。

 しかし、母親のやり方を見ていると、

「誰がどの口で言っているのやら」

 と聡子は呆れることがある。

 一方で、父親は確かに『努力の人』だった。

 幸一は外見だけは『才能の人』に見えるのだが、一度何かを始めると時間をかけて着実に物事を積み重ねていく。

 澄江は「いつの間にか司法試験に受かった」というようなことを言っていたが、幸一は弁護士を目指そうと考えた時点で、数年分のタイムスケジュールを作り上げて、それに従って勉強を進めていった、と聡子は聞いていた。

 そして、実際にそのスケジュール通りに幸一は合格したという。

 その幸一が、仕事の合間を見ながら笠井家に関連する情報を集め始めていた。

 幸一は職業柄、笠井洋の勤務先である精巧社にも、笠井鞠子の所属先である松本警察署にも、いくつかの関係先を持っている。

 最初から本丸に攻め込んで情報統制をかけられないために、幸一は外堀を埋めるように遠いほうの関係者から、噂話程度のものも含めた情報を集めていき、その集めた情報をまとめた上で澄江に見せていた。

 その中から、澄江が事実だと感じるものを抽出する。この澄江の「雑多な情報から正しいもののみ抽出する」能力は、ある意味超能力に近いのではないか、と聡子は思っていた。

 とりあえず、現時点で澄江が事実と認定していたのは、以下の点である。

 洋は、会社から海外赴任を伝えられたために精巧社に辞表を提出した。

 鞠子は、担当していた事件から外されたために松本警察署に辞表を提出した。

 いずれも、上司に朝一番で電話連絡があり、その後で辞表が郵送されてきた。

「ただ、この海外赴任や、担当を外されたことは、表向きの理由ではあっても真相ではないわね」

 と、そんな風に澄江は付け加えていたが――


 噂といえば、聡子の学校で起きた盗難事件は、生徒達のメールやSNSで囁かれ続けていた。

 瞳子の実名まではっきり書かれているものもあれば、瞳子のクラスの女子がやったということを仄めかすだけのものもある。

 そんな書き込みが、日に何件かは目についた。それで、聡子は午後一杯を家でその情報を見つけ出しては丹念に潰す作業をしていたのだが、これには鈴木真凛がかなり貢献していた。

 『女の子ネットワーク』の範囲は、真凛のほうが遥かに広い。真凛はそこに引っかかった情報を、時には嘲笑い、時には真剣に反論し、場合によっては本人を特定して直談判におよんでいた。

「別に彼女のためじゃないわよ。同じクラスの女の子が疑われるのを阻止しているだけだから」

 夏休み直前のあの日以来、聡子と真凛はたまに電話で連絡を取りあっている。頻繁に話をするようになってから気がついたが、真凛は言葉にとても敏感だった。

(なんだか変な感じがするの)

 その日、真凛は電話の向こうでそう言った。

(なんだか、誰かがわざとやっているような気がするの)

「それは真犯人がトコちゃんを陥れようとしている、ということかしら」

(うーん、そこまでではないわ。なんと言ったらいいかな。そうね、噂が消えないように少しずつ燃えるものを足しているような感じ、といえばいいかな。なんだか、積極的に燃やそうというつもりはないけど、消したくもない、という感じ)

「そんなことできるの?」

(可能だとは思うけど、やり方は私にも分からない)

「ふうん――もしかしたら、彼女がいたら大炎上させていたところが、いないのでとりあえず種火だけを残した、ということかな」

(彼女、旅行かなんかに行ってるの? 今どきメールやネットで繋がっていない子なんかいないんだから、どこにいようが炎上させたらダメージは同じじゃない?)

「そう――だよね。どこにいても見られるから同じだよね」

 真凛は瞳子の母親が警察をやめたことをさすがに知っていた。しかし、長期間に亘って家にいないことは知らない。

 とりあえず真凛には言葉を濁してごまかしたが、彼女が教えてくれたことのおかげで、聡子には少し先まで見通すことができるようになった。

 瞳子は現在失踪中で、GPSを避けるためにも携帯電話やメールやネットは使っていない。

 だから、瞳子が見ていないところで炎上させても意味はない。

 真犯人はその二点をちゃんと把握している。

 つまり、笠井家が失踪しなければいけないほどの『事情』と、この学校内盗難事件は関連しているということだ。

 聡子は、真実と嘘が幾重にも重なり解けなくなった糸のようなネットワークの中で、それまで以上に噂の流れ方に注目することにした。

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