第二話 榊と馬垣

 鞠子の急な辞職から二週間が過ぎた。

 笠井班は消滅し、馬垣が班長に昇格した。

 榊にもう一人が加わった三人が馬垣班として、知能犯・経済犯の捜査を担当している。こうなるともうショコラ・デ・トレビアンの事案にこだわることはできない。

 また、辞職の理由は表向き「事件の担当を外された腹いせ」とされていたために、鞠子の無責任な行動への非難は署内でも少なからずあった。

 そして、その直属の部下であった榊と馬垣に対する風当たりも強く、事実上二人は署内で孤立していた。

 これまでの事件も、新たな事件もない。とりあえず出署して、過去の資料や新聞、ネットからの情報などをまとめてみてはいるものの、それは穴埋め作業でしかない。

 ただ、榊と馬垣はそれでも何も言わず、淡々と作業をこなし続けていた。


 新たにメンバーに加わったのは、急遽県警本部から派遣された巡査だった。

 志賀一樹しがかずきという名のその男は、榊や馬垣と比べても遜色ないほど上背があるものの、いかんせん枯れ木のように痩せていた。

 風雪に耐えて芯が固く通った痩せ方ならばよかったのだが、日当たりが悪いところで無理に育ったかのような痩せ方で、もやしのように芯がねじ曲がって見える。

 加えて、ボサボサとした蓬髪ほうはつと色素の薄い肌が、柳の下の景気の悪い幽霊を思わせた。

 その上、口が重くぼそぼそしたしゃべり方をするために、どうして警官として採用されたのか分からないほど、愛想が感じられなかった。

 異動前の噂では、二年前に採用されて所轄に配属されたものの、問題行動が多くて所轄では扱いかねたために、本部預かりとなっていたという。

 初日の挨拶でのことである。

「――俺は別に警察官になりたかった訳じゃないんです」

 のっけからこう切りだされて、榊も馬垣も言葉を失った。

「では、なぜお前はここにいるのだ」

「俺にも理由がよく分かりません」

 馬垣の問いかけにそう志賀が答える。追加の事情説明ぐらいあるのかと思えば、話はそれでお終いになってしまった。

 榊はその志賀の投げやりな態度にいきどおっていたが、馬垣は黙っていた。彼は志賀が、その外見や言葉遣いや行動その通りの人物ではなさそうだ、と推測していたのだ。

 立ち振舞のそこここに、ある種の緊張感がある。隠そうと思っても隠し切れない、雰囲気のようなものだ。

 普段の志賀ののらりくらりとした動作からは想像もつかないほどの激しさが、裏側に隠されているようにも見える。

 榊も弓道家であったから、作法にかなった立ち振舞が身についていたが、志賀のそれは礼儀作法の優雅さはなかった。むしろそれはマーシャルアーツとしての緊張感である。

 それが志賀の体を薄い皮膜のように覆っていた。

 具体的に説明すると、誰かとすれ違うときの所作だ。

 榊は相手が視界に入った時点からその間合いを読んで、余裕を持ってかわそうとする。

 志賀は寸前までは気がつかない素振りをしながらも、間合いが切れて接触する間際になると、舌打ちするような緊張感をはらんで、身を返す。

 これは自然に身についた癖のようなもので、簡単には隠せない。志賀は表に出さないようにしているらしいが、馬垣もその世界の人間であったから感じ取ることができた。

 最初のうち、鞠子の急な退職に対する嫌がらせとして、使えない人物を押し付けられたのではないかと考えていた馬垣は、途中で認識を改めた。


 それを補強する情報をもたらしたのは愛川だった。

「志賀君は本店採用らしいよ」

 本店とは全日本の警察組織の総元締めである「警察庁」を指す隠語である。

 つまり、志賀は本来、警察庁での正式採用であるということを言っている。しかし、本店採用者の地方勤務ということであればキャリア組だから、『巡査』という階級は異常である。

 警察庁のノンキャリア採用であればおかしくはないが、そうすると長野県警本部に所属していることがおかしくなる。

 愛川情報がガセである可能性が一番高いのだが、松本警察署員にはその信憑性を疑うものはいない。

 もちろん、愛川本人もその点は重々承知している。巻き毛を盛大に揺らしながら、彼女は榊に向かってこう続けた。

「それにしては階級がおかしいじゃない。それはね、彼が長野県警採用であることを偽装しているためなの。つまり、本店採用のくせに支店採用を装っていることになるのよ。どういうことかわ、か、る、か、な」

 最後に、一言ずつ区切って話しながら、右手の人差し指を左右に振る。

 この、変に芝居がかった痛ささえなければ、悪いやつじゃないんだけどな――と、榊は心のなかで苦笑しつつ、表向きは愛川に同調するように言った。

「そうだねえ。つまり、本店の間者かんじゃか何か?」

「もー、何よ間者って! 一体何時代の人なのよ。スパイよ。ス・パ・イ」

 またもや、人差し指ゆらゆら。

「間者って、江戸時代の幕府のスパイのことだから同じだろ」

「えー、何言ってんの? だったら教えてあげないんだから」

「ああ、ごめんごめん。それでなんだっけ、スパイがどうしたって。愛川ちゃんじゃなきゃ分からないことなんでしょう。俺、それじゃあ困るよ」

「困るの?」

「困る」

「とても?」

「とても」

「そーなんだー、じゃあどうしようかなぁ」

 内心で(ああ面倒くさい。だからこいつとからむのは嫌なんだよ)と思いながらも、持ち前の人懐こさ全開で榊は微笑んだ。

「頼むよ。こういう時頼りになるの、愛川ちゃんしかいないんだよ」

「えっと、そうなんだー」

「そうだよ、とても頼りにしているんだ」

 にこやかな表情から一転、榊は至極しごく真面目な顔をすると、そう力強く言い切る。

「あ――そこまで言うんだったら教えてあげないことも、ないことも、ないんだけどね」

 愛川は急に顔を赤らめて、ひどくもじもじし始めた。

「それがね。県警本部総務部総務課の友達が言うには――」

「言うには?」

 頭の中で、二枚目になった相当格好のいい俺、を全力再生しつつ、榊が促す。

「彼が配属された先の班は、必ず解体されるんだって。しかも、上司が辞職するか左遷させんの憂き目にあって」


「お疲れさま」

 昼休みとなり、愛川が食堂に急行するために姿を消すと、馬垣がやってきて榊の肩をたたいた。

「はあ――まったくだよ」

 榊は先刻までの『格好いい俺』モードを解除すると、椅子にへたりこんだ。

「お前、今まで廊下の向こうで様子を伺っていただろ」

「そう」

「何で助けてくれないんだよ」

「そんなことをしたら、情報が中途半端になるじゃないですか」

「う……それはそうだけど、しかし、愛川の相手をする俺の身にもなってくれよ」

「はいはい、分かりますよ」

「大体、なんで俺にしか言わないんだよ。お前と変わんないだろ」

 そう言って不貞腐ふてくされる榊を見ながら、馬垣は苦笑した。

 榊は、愛川が自分に気があることを認識していない。ここまで朴念仁ぼくねんじんな男なのに、何故か山根先生とは既に十数回一緒に出かけているという。

 その情報が愛川の耳に入るのも時間の問題であろうから、それまでに聞き出せる情報はすべて聞き出しておいたほうがよい。

「まあまあ、荒れなさんな――それで、大体は聞かせてもらったが、これからどうする?」

「どうするって言ってもな。今更、お前が左遷される方向に持っていくのも難しいんじゃないの」

「それはそうだが――」

 鞠子が退職して、急遽きゅうきょ昇格した班長である。既に一度解体しているとも言える。この上、更に何か問題を上乗せしようとしても、まだ実績がない。

 可能性としては、部下の管理不行き届きか何かだが、榊は馬垣が上司となったことにあまり拘ってはいないし、志賀がいるときはちゃんと『馬垣班長』と呼ぶ。敬語も使っている。

 志賀が何か問題を起こすことで、馬垣が管理責任を問われるという筋書きはあるかもしれないが、あの志賀がそんな安易な手段で班を解体に導くとは、馬垣には思えない。

 やるとなれば、志賀はもっと高度な戦術で、完膚かんぷなきまで潰しに来るような気がする。

 馬垣は、得体の知れない志賀の潜在能力を、相当買っていた。

 それが、自分たちに向けられたものかもしれない、としても。

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